《黒鉄庵の姫君》 その一
来栖は、小さな国だ。
低い山と太い河に囲まれた盆地の中に農村がいくつかあって、かろうじて石高が一万石を超える程度。中心地にあたる城下町ですら、あまり活気があるとは言い難い。
「なんだか、寂れたところだね」
城下町の茶屋で、茶と団子を待っていると、そんな呟きが漏れてしまうくらいに。
来栖国までは、江戸から徒歩七日の旅程だった。当たり前と言えば当たり前の話だが、江戸から離れれば離れるほどに、ひと気がどんどん減っていく。京や越後なら、また違うのだろうけれど。
「てきとうにお勤めを終わらせて、こんな辛気臭いところ、さっさとおさらばしようよ。そうだ、帰りは京を回って遠回り……、なんて、どうだろう。土産もいろいろ買えるしさ」
横に座るお供に、そう語り掛ける。彼女はじっとりと自分を睨みつけた。
「いけません、御曹司。江戸に帰り大目付様にご報告するまでがお勤めでございます。それを、てきとうに終わらせるだの、さっさとおさらばだの、遠回りだの……、ああ、嘆かわしい。御曹司のひとり立ちは、まだまだ先なようでございますね」
地味な鼠色の小袖に、髪は一本に結んで丸めた素っ気ない玉結び。華やかさはないが、整った顔立ち。切れ長の目は涼し気だ。自分のお供にして護衛の隠密、あおばである。
あおばはわざとらしく溜息を吐いた。
「やつがれは、いつになれば御曹司のことを御曹司以外の呼び名で呼べるようになるのでございましょうか。もしや、三十を過ぎても御曹司と呼んでいるのではないかと、不安で仕方がありません」
「……拙者は別に、このままでいいけどねぇ。食うに困ってないし」
あおばの表情が、冬の朝霜のごとく冷ややかなものになった。
「なんと情けない。ああ、情けのうございます。算術の名家と名高い直参旗本、榊原家の子息が、ここまで言われて働こうとしないとは。これでは素浪人と変わりがありません。武士の一分はどこへ行ってしまったのでございましょう」
護衛――兼、ひとつ年上の幼馴染が滔々と嘆く。
「将軍様の元で、世のため人のために尽力すること、それが武士の勤めでございます。御曹司には武士の誇り、譲れない一分というものがないのでございますか」
「うーん、誇りとか一分とか言われてもなー」
自分は頬を掻く。
「だってほら、拙者、十一男だし。勘定所には、もう十人も兄貴がいるもんだからさ。拙者の入る隙間がないっていうか」
幕府の経理を担当する部署、勘定所。我が榊原家は代々、勘定方でそろばんを弾く仕事に就くのが習わしだった。……自分が生まれるまでは。
「棒振りにかまけて、算術の鍛錬を怠るからでございます。頭を使うお勤めがお嫌なら、体を使う番方に志願するのはどうかと、何度も申しておりますのに」
「算術の榊原が番方に入ると、良い顔をしない家もあるだろうって、拙者も何度も申しているじゃないか。たまに道場の出稽古で稼ぐくらいが、拙者にはちょうどいいんだよ」
番方は、ようは体を張った武官の役職。そちらはそちらで、派閥がある。そろばんの榊原には難しい場所だ。
「ですが、道場の出稽古にしても、『浮気刀の十一郎』でございますから、評判が良いとは言い難いではありませんか」
「そこを突かれると痛いなぁ」
実際、評判は悪い。目をかけてくれる師範が何人かいるけれど、門弟からは目の敵にされていたりするし。若い娘や嫁のいるところからは、特に嫌われる。『浮気刀』なんてあだ名が付けられているから、拙者が若い女性をたぶらかすと思っているのだ。
「……あとさ、お役目の嫌なところといえば、ほら。ちょっと働いてみると、すぐ父上が嫁を取らせようとしてくるだろう。あれも嫌なんだ、拙者は。見たこともない相手と、いきなり祝言だなんて。お互い、よく知ってからがよいと思わないかい?」
「たわけたことをおっしゃらないでくださいませ。武家の嫁取りとは、そういうものでございます」
たわけて。
「あのね、あおば。仮にも主に向かって、たわけとはなんたる暴言だい。昔はあんなに優しかったのに……。拙者、泣いちゃうよ?」
「お言葉でございますが、やつがれの主は御曹司の御父上、朝時殿にございます。加えて、朝時殿から『十一郎は、なんでもかんでも言い訳を付けて動かんやつだから、多少罵ってでもお勤めを全うするよう監視しろ』とのお言葉も賜っております」
「父上め」
京に寄っても、父への土産は買って帰らないぞ、と心に誓う。
「というか、こんなけったいなお勤めを命じられたのも、父上のせいだよな」
華やかな紅色の小袖を着た茶屋の娘が、湯飲みと団子を持ってきた。「かたじけない」と受け取って銭を渡す。
「謎時なんて名前を付けやがって。力原様からの命を持ってきたのも、父上だったし」
大目付、力原野心様は、元は勘定奉行を務めていたお方。勘定方を勤める父、榊原朝時が力原野心様に「謎時という息子がいる」と話したことがあるのは、間違いなかった。
「いかにも、謎解きがお得意である、と喧伝するようなお名前でございますからね」
「だからって、よりにもよって……、殺しの調査だなんて」
殺しの、から少し声を潜めて言い、溜息を吐く。周囲にほかに客はおらず、茶屋の娘くらいしかいないけれど、それでも殺しの話だ。大きな声でするものではない。
「来栖国を治める黒葛黒勝様が殺されて、しかも下手人が不明なんてのは、どう考えても大事件だろう? 小国といえど、拙者が担当するような事件じゃないよ」
懐から力原様の書簡を取り出し、嘆息しつつ眺める。要約すると『大名が殺されたけど下手人が謎だから調べてまいれ』という内容だ。
文書の末尾には力原様の花押、羽ばたく蝶のような形に崩された『野』の文字が記されている。花押型を使えば墨を塗ってぽんと押すだけでいいのに、力原様の花押は手書きだと見受けられた。偉い人の花押は、どっしり大きくて見ごたえがある。
「……やつがれも確かに『名前が謎時だから』という理由だけで大名殺害の調査を命じられるのは、少々不可解だと愚考いたしましたが」
あおばは「しかし」と言葉を繋いだ。
「発端がどうであれ、光栄なことではございませんか。力原様のお眼鏡にかなう活躍ができれば、これを機にお城勤めも夢ではないかと」
「お城勤めかぁ。嫌だなー」
「御曹司、嫌だなー、ではございません。そのような態度が――」
と、口うるさい幼馴染が言葉を重ねようとしたところで、茶屋の娘が戻ってきた。おそるおそる、こちらを伺っている。
「……どうなさいました? もしや、御曹司の渡した銭が足りませんでしたか。申し訳ございません、至らぬ御曹司で」
堂々と拙者を至らぬとか言うな。
「ああ、いえ、お代金はしっかりと。そうじゃなくて、あの……、もしかして、お殿様の件で、江戸から参られたお侍様なのかしら、と思って」
声を潜めていたつもりが、しっかり聞かれていたようだ。あおばが居住まいを正して「その通りでございます」と答える。
「こちらにおわすは榊原の十一郎様にございます。やつがれは従者のあおばと申すもの」
「あら、そうなの。ええと、あたしはおみつよ。よろしくね、十一郎様、あおば様」
よろしくお願いします、と挨拶を返す。
「やつがれはただの供回りゆえ、様付けはけっこうでございます。して、おみつ様。お殿様の件とは、黒葛黒勝様暗殺事件のことでございますね?」
少しでも情報を集めよう、という魂胆か。あおばがやる気に満ちているなら、もちろん拙者は、黙ってお任せするだけだ。全部やってくれ。
「もちろん、暗殺事件の話よ。お殿様が殺されたんだもの、最近はみんな、その話で大盛り上がりでね。下手人も不明っていうから、みんな好き勝手に噂しているの」
このひと気のない町のどこで盛り上がっているのか気になったが、さておく。
「城下に住んでいる皆様も、下手人に心当たりがないのでございますか」
「逆よ。お殿様は来栖で一番の嫌われ者だったから、誰が下手人でもおかしくなくってね。みんながみんな、好き勝手に『だれそれが犯人だ』なんて言いふらすものだから、盛り上がっているの。……でも、真相は違うわ。あたしは真実を知っているの」
おみつさんは、どんと胸を張った。華やかな小袖の裾が揺れる。
「お殿様はね、呪いに殺されたのよ!」