約束
私はチェロを弾きながら旅をしている。
その日はちょうど、廃墟になった村へときていた。その村は廃墟になって数年が経つそうだが、石造りの家は丈夫らしい。
枯れた噴水の側で今日の演奏をしようかと思うと、既にそこには先客がいた。
「こんにちは。貴女も旅を?」
「こんにちは。いいえ、私は隣町に住んでいるんです。ここへは……そう、約束が果たされる時を、待ちに来ているんです」
麦わら帽子を被った若い女性は、はにかみながらそう答えた。私はチェロを置き、良ければその理由を聞かせてくれないかと頼むと女性は快く了承した。
「私の母は、碌でも無い女でした。私は主に父に育てられ、母が帰ってくるのはお金が無くなった時だけ。2人はいつも喧嘩ばかりしていました。でも、私は2人と仲が良かった。
気が向いたのか罪悪感でもあったのか、母は月に一度、私と出掛けてくれました。私も思春期で、どうも素直な態度を取れなかったけど…その時間が好きだった。
ある日、母とレストランに行ったんですけれど、向かいにあるパン屋さんがとても美味しそうだったんです。羨む私に母は言うんです。『今度、一緒に食べに来よう』って……それから色々あって、その後母と出掛ける事はありませんでしたが……」
女性はわざとらしく笑ってみせる。
「馬鹿ですよね。あの頃の約束を、今でも大切に覚えてる……パンの勉強もしたんです。種類も覚えて、いつか自慢出来たらって……ああ、本当に無駄だとわかっているんです…待っていてもあの人は来ないし、こんな約束覚えてすらいないって……」
いつの間にか、女性の肩は震えていた。
私はチェロを持ち、気付けば弾いていた。きっと、この女性になんと声をかければいいのかわからなかったから。
「……私、あの日から約束をするのが嫌だった。期待させて置いていかれるのが嫌だったんです。もしも、なんて考える自分が可哀想で仕方なかった。
でも、もうここに来ることもないでしょう。素敵な演奏をありがとう。どうか良い旅を。気が向けば私の村にも来てくださいね」
女性は自分のお腹を撫でながらそう言うと、麦わら帽子を被り直して立ち上がった。
貴女の村には何かありますか、と聞くと女性は照れたように笑って答える。
「美味しいパンがありますよ」