ジョナサン・ノースエッジの婚約
騒ぎの夜から三ヶ月が経った。
ジョナサン・ノースエッジは野営地の陣幕で書類仕事に勤しんでいた。王都から蜻蛉返りで領地に戻ってきてからというもの、ろくに屋敷にも戻らず、領内にある複数の野営地を飛び回る生活が続いていた。
八年前、父から山岳兵の指揮を引き継いでからというもの、それがジョナサンの日常となっていた。物心もつかないうちから父に連れられて野営地を回っていたのだから、そんな環境に慣れてしまうのもあっという間のことだった。
たぶん、一番苦労をかけたのは、ジョナサンに付き従って慣れない雪国を転戦し、合間の時間に勉強を見てくれた家庭教師の男だろう。彼には感謝してもしきれない。ジョナサンが頭の上がらない相手のひとりだ。
指揮官としてのジョナサンの仕事は単純だ。
まず、銀嶺山脈の各地に置かれた小規模な偵察拠点から送られてくる情報をもとに、魔物の群れの動きを整理する。そこから推測される敵の動きに合わせて野営地を移動し、連中が人里に降りる前に有利な地点で強襲を仕掛ける。
不意をつければ、だいたいはそこで片が付く。歴戦の山岳兵はみな精強だ。魔物との戦闘にも十二分に慣れている。小規模な群れを相手に後れを取ることはそうそうない。
とはいえ、そうあっさりとケリが付くことばかりではない。最近のケースでいえば、フロストドラゴンが群れの中核として存在していたときなどがそうだ。隠形からの不意打ち、各個撃破を旨とする山岳兵とはどうにも相性が悪い。
そういう場合は、任務が殲滅から誘導へと切り替わる。被害を抑えつつ開けた平地まで敵を誘き出し、集団戦に優れる国軍へとバトンタッチするのだ。
完全武装の重装備で身を固めた彼らの打撃力は、雪上移動のための軽装が主体の山岳兵とは比べ物にならない。正式に叙勲を受けた騎士たちの技の冴えなどは、何度見ても惚れ惚れとしてしまう。
山岳兵と国軍、長所の異なる二つの軍勢の連携は、父が長い時間を掛けて試行錯誤の末に構築したものだ。ジョナサンはそれを引き継いだに過ぎない。だからこそ、後継者の名に恥じない戦果が求められている。重圧はあるが、しかし、それが誇らしくもあった。
「若様、よろしいでしょうか? 王都からお客様がいらしているのですが」
「客? わかった。通してくれ」
陣幕の外から歩哨の声が掛かり、ジョナサンは筆を置いた。
書きかけの書類を片付け、大きく伸びをする。さて、特に来客の予定はなかったはずだが。
「やっ、久しぶり、ジョナサン。元気にしてた?」
「なんだ、ミシェルか。久しぶり。見ての通りピンピンしてるよ」
「なんだとはなんだ。……なんてね」
入り口の垂れ幕をめくって、ひょいと顔を覗かせたのは、あの夜に別れたきりの友人だった。
軽い足取りで陣幕に入ってきた友に椅子を勧める。近くで見るとやはり、眩しく輝かんばかりの凛々しい容貌だった。相変わらず御令嬢たちにキャーキャー言われているのだろうか。
「今日はどうしたんだ? 前触れもなかったからびっくりしたよ」
「相変わらずの仏頂面。キミ、本当にびっくりしてるの?」
「してるよ。表情が固いのは自覚しているけど……ミシェルならわかるだろう?」
「……まぁ、付き合いが長いからね。慣れてしまえば意外とわかりやすいし」
「さすがは『愛の騎士』さま。表情を読むのはお手の物かな」
「う。その……『愛の騎士』はやめてくれないかな。そういうのは学生時代限定というか、若気の至りというか」
照れた表情のミシェルが頬を掻く。
それを見てジョナサンは微笑んだ。しかし、きっとそれもミシェルにしかわからない小さな顔の動きだったことだろう。昔からどうにも大きく表情を動かすのは苦手なのだ。
「学園を卒業して、細々とした雑務を片付けたら、ちょっと時間が空いたからね。キミの様子を見るついでに、どうせなら近況報告でもしようかなって」
「そのために、こんな遠くまで? 大変だったろう。手紙でも出してくれれば迎えくらい遣ったのに」
「いいのいいの。僕が来たかっただけなんだから。キミの方は暇じゃないんでしょ?」
「ん……そうだな。悪い、気を遣わせてしまったな」
「だからいいってば」
「ああ……。ありがとう、ミシェル」
「どういたしまして」
懐かしいやり取りを肴にして、熱いお茶で乾杯した。
今の季節、王都は夏真っ盛りらしい。目抜き通りに新しくオープンしたアイスクリームの店が若者の間で大人気なのだとか。ミシェルも友人を連れて何度か足を運んだという。
そうか、下界はそんな時期なのかと、少し驚いた。山地に籠もっていると、どうにも季節の感覚がズレてしまう。銀嶺山脈の季節なんて、寒いか、ひどく寒いか、死ぬほど寒いの三パターンしかないのだから、それも仕方ないのだけれど。
「……それで、さ。クロード『元』王子とシャーロット嬢がどうなったか、気になったりする?」
しばらくよもやま話に花を咲かせたところで、ふとミシェルが話題を変えた。どうも切り出すタイミングを窺っていたらしい。王都からわざわざ訪ねてきたのは、その話をするためだったのだろうか。
「陛下のつけた始末までは聞いてるけど」
「うん、だから、そのあと二人がどうなったか、ってこと」
「あんまり興味がないなぁ……」
正直な気持ちである。ジョナサンにとって、あの騒動はとっくに過去のものとなっていた。
ミシェルたちの証言と国王の采配で、ジョナサンやメアリ・ブライトウェル嬢の名誉は既に回復されている。それでいいではないか。嘘をついて他人を陥れ、しかし結果として罰を受けた者のことなど、考えても煩わしいだけだ。
けれど……それでも、たぶん、ミシェルはきちんと結末を話しておきたいのだろう。軍務大臣の血を引き、誉れ高き騎士を目指す友人は、ジョナサンよりもよっぽど信賞必罰の理を重んじているのだ。その姿勢から出た行動を余計なお世話と言わないくらいの友情はジョナサンも持っているつもりだった。
「まぁ、せっかくだしね。聞かせてくれるかな」
「わかった。といっても、大した話でもないんだ。クロード氏は予定通り、断種の手術を受けた上で王家から追放された。シャーロット嬢もターナー子爵から勘当を言い渡されている。つまり、二人揃って平民になったわけだね。二人の結婚も、今さら無かったことにはできないわけで、ほぼ強制的にだけど成立させられたって話だよ」
「それはまた、割りと穏当な結末だね」
「本人たちはそう思ってないのかもだけど。彼らの『新生活』はあんまり上手くいってないみたいでね。一応、妙なことをやらかさないようにそれとなく監視がついてるんだけどさ、毎日喧嘩が絶えないんだって。日銭を稼ごうにも、プライドが邪魔をしてるっていうか、二人とも現状に折り合いをつけられていないらしいよ」
そう言って、ミシェルは溜め息をこぼし、額に皺を寄せた。
「はっきり言って、僕はあの二人のことは嫌いだけど……なんだかなぁ、って感じ。正直、陛下の決定にはそれなりの温情があったと思うんだけど、それに縋るでもなく、かといって反省して心を入れ替えるでもなく、自分で自分の首を絞め続けてるのを見るのは……ちょっぴりやるせないね」
「そうか」
「そうか、って……それだけ?」
「ざまあみろ、とか言ったほうがよかったかな?」
軽口を叩くと、じろりと睨まれた。
蜜にも毒にもなるのが、他人の不幸というものだ。彼らの境遇を実際に聞いてみても、やっぱりジョナサンは興味を覚えることができなかった一方で、当事者でないはずのミシェルには思うところがあるらしい。その辺りは、友の持つ生来の甘さというか、優しさによるものだろう。傍から見ていて、こっちの方が心配になりそうだ。
「選択も、その結果も、彼らが背負うものだ。ミシェル、あまり深入りしない方がいい」
「……そうだね。いや、わかってはいるんだ」
ミシェルは数秒の間だけ目を瞑り、それから残っていたお茶を飲み干した。
ほぅ、と艶めかしい吐息がひとつ。
「ジョナサンの方はどうなんだい?」
「うん?」
「ほら、あの件で婚約がご破算になったわけだろう。どこかの家から次の縁談とかは来てないの?」
「いや、今のところは、どこからも」
「……そうなんだ」
ミシェルは少し考え込むような仕草をした。
「陛下が公の場で廃嫡の沙汰を下したのって、王家がノースエッジ家とこれからも連携していくことの表明でもあったと思うんだけど、それでも?」
「ああ。……結局、ウチの領地って、魔物なんていうワケの分からない生物を相手にする最前線なわけだからね。王国で一番危険な土地に嫁ぐってのは、やっぱり躊躇われるものなんだと思うよ」
実際、現状の均衡も綱渡りみたいなものだ。魔物と呼ばれる存在が、どこから来て、何を目的に活動しているのか、知っている人は誰もいない。もちろん、王国もどうにか調査を進めようとしているのだが、今のとこは空振りばかりだ。
要するに、得体が知れない。もしかしたら、明日にでも今までの十倍の軍勢が王国になだれ込んでくるかもしれない。その可能性を否定する材料をジョナサンは持っていなかった。
英雄と呼ばれた父でさえ、ほんの小さなきっかけで重傷を負ってしまったのだ。
自分はいつまで命を失わず、五体満足のまま領地を守ることができるのやら。悲観するつもりはないが、楽観もできないのが正直なところである。
「でも、ずっと結婚せずに独り身を続けるわけじゃないんだろう?」
「そりゃあ、これでも一応、子爵家の跡取りだからね。いつかは解決しないといけない問題だよ」
「うん……。そう、だよね」
空っぽになった茶碗を机に置いたミシェルが、歯切れ悪く言って俯いた。
じわりとした沈黙が陣幕の内側に張り詰める。
おや、とジョナサンが思ったときには、既にミシェルの顔が至近にあった。
両手を机に置いて身を乗り出した友人の透き通った瞳が、ほんの数センチ先からジョナサンを見つめていた。
「だ、だったらさ……僕……なんて、どうかな?」
ぱちくりと、まばたき。
まじまじと、ミシェルの顔を見つめ返す。
一拍遅れて、言葉の意味を理解した。
無意識に呼吸が止まっていた。
目の前の友人を、足の先から頭のてっぺんまで確認する。今さらになって、彼女の装いが普段と違うことに気づいた。見慣れたいつもの、飾り気のない鎧姿ではない。防寒用の外套を纏っているが、その内側は、女性的なシルエットの裾の広いスカート姿だった。手甲を嵌めていないから、色白の指までよく見える。
同性からも人気のある端正な顔が、頬を赤く染めながら、小さく震えていた。初めて見る表情だった。ちょっと、いや、かなり衝撃的である。
深呼吸。
氷河の上の革靴みたいな動揺は棚に上げて、マトモな思考をフル回転させる。
「ええと、御家族はなんて?」
「お父様に話したら、好きにしろって。トラヴァースの家はお兄様が継ぐから、僕は割りと自由にさせてもらえてるんだ。元々、卒業後に僕が騎士叙勲を受けられるかどうかで、婚約相手の選定を調整するつもりだったみたいだし……」
「そうなんだ」
「ノースエッジ領が魔物との最前線でも、僕は全然構わないよ。むしろ望むところ、って感じ。この休みが終わって王都に戻れば、正式に騎士として任命される予定なんだ。キミだって、僕の剣の腕は知ってるだろう?」
「ああ。頼もしいと思うよ」
「ジョナサンは、僕のこと嫌い?」
ミシェルがぐいと机に乗り出す。顔が近づき、思わずのけぞると、のけぞった分だけ彼女はもっと距離を詰めてくる。仰角三十度。椅子から転げ落ちそうだ。
「友人としては、むしろ好きだよ。でも、異性として意識したことは、あんまり無い」
「どうして?」
「会ったときには、おれにはもう婚約者がいたから」
「今はいないじゃん」
「……それもそうだね」
いつの間にかミシェルの掌がジョナサンの肩に置かれていた。ほとんどのしかかるような体勢だった。意外と胸が大きいんだな、とほんの一瞬現実逃避。いつもは鋼の胸甲に隠されてるのだから、もしかしたらそれを知っているのは自分だけなのかも、とちょっぴり優越感。
良い話だと思う。
ミシェルが好ましい人物だということはわかっているし、子爵家としても軍務大臣の家と繋がりを持てるのは間違いなくプラスになるだろう。恋愛感情はいまのところ薄めだが、たぶん、付き合い始めたら坂道を転がる雪玉の如くだ。そんな予感を抱くくらいには、友人としてのフィルタを外して見たミシェルは魅力的だった。
さしあたり、ジョナサンが気になることは、たったのひとつ。
「ミシェルは、えー、おれのどこが気に入ったわけ?」
「僕は、僕より強い男が好きなんだ」
「……戦士だなぁ」
「お似合いでしょ?」
「かもね」
平地で正々堂々なら、きっと勝てない。
不意打ちありなら、負けるはずもない。
きっと、お互いそんな認識。
椅子から転げ落ちないように踏ん張っていた足の力を緩めた。
屋敷に戻って、父に報告しないと。
そんなことを考えながら、ジョナサンはミシェルを抱き止め、もつれるように床へとダイブした。
全五話、これにて完結となります。
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