シャーロット・ターナーの凋落
世界は自分を中心に回っている。
シャーロット・ターナーはそう信じていた。
子爵令嬢として生を受けたシャーロットは、裕福な生家で何一つ不自由のない少女時代を過ごしてきた。幼い頃から上等なドレスに身を包み、王都で流行りの物語本を友として彼女は育った。
王都の洗練された文筆家が手掛ける物語に、幼いシャーロットはいつも夢中だった。物語に耽溺し、いつか現実でも理想の『王子様』に出会えるのだと本気で信じていた。
だから、父から田舎子爵の息子が婚約者だと聞かされて、彼女はひどくショックを受けた。
なんで、どうして、と繰り返すシャーロットはどうしても目の前の現実を受け入れることができないでいた。彼女にとっての『王子様』は、高貴で、優しくて、お金持ちで、スマートな都会のオトコなのだ。華やかな都会で素敵な旦那様と愛に満ちた生活を送ることこそが彼女の夢であり、王都から遠く離れた辺境に嫁ぐなどもってのほかだった。
涙で枕を濡らしたシャーロットは、やがて都合の悪い現実を無視すると決めた。
婚約者とやらの領地で顔合わせをしようと父が提案したときは、仮病を使ってベッドに逃げ込んだ。健康優良児であるシャーロットが寝込む事態に、娘に甘いターナー子爵は大いに困惑した。シャーロットの目論見通り、辺境行きの予定はキャンセル。彼女はひとまず婚約者という『現実』を避けることができた。
その後、どういうわけか、婚約者と顔合わせをするという話は一切上がらなくなった。どうも婚約者の実家である子爵家でなにかが起きたらしいのだが、詳しいことはわからない。知りたいとも思わなかった。
代わりに辺境から季節ごとに手紙が届くようになったが、それはすべて無視した。無視していればいつかは向こうも諦めて婚約もお流れになるのではないか、なんて期待していたから。
そうやって婚約者の存在を自分の目の届かないところに遠ざけながら、シャーロットは王立学園に入学して、やがてクロード王子と恋仲になることに成功した。その頃には遠い土地の婚約者のことなど、もはや忘却の彼方に消えていた。私はクロードと幸せになるのだ、と彼女は信じて疑わなかった。
クロードは優しいし、スマートで、イケメンだった。『理想の王子様』としてはちょっと頼りないところがあるけれど、そこは自分が引っ張ってあげればいい。彼は王子としての自分の立場に悩んでいるみたいで、その相談に乗ってあげれば、驚くほど素直にシャーロットを受け入れてくれた。
やっぱり運命なんだ、と思った。
もちろん、障害はあった。クロードの婚約者であるメアリ・ブライトウェル公爵令嬢の存在だ。
けれど、それももう卒業パーティーの夜に終わった話。難しいことはなにもなかった。シャーロットがやったことといえば、クロードに彼女との婚約を考え直してもらうよう『お願い』したことだけ。クロードはこの国の本物の王子様なのだ。彼の力を借りることさえできれば、どんな問題もあっという間に片付けることができてしまう。
例の婚約者(ええと、名前はなんていったかしら?)が出てきたときはびっくりしたけれど、それもクロードが一蹴してくれた。観衆の中心で堂々と振る舞うクロードの姿は、まさに物語の主役と呼ぶのに相応しかった。シャーロットはうっとりと目を蕩けさせてその勇姿を見つめていたものだ。
こうして、二人の仲を邪魔するものはなにもなくなった。
クロードに抱き締められてシャーロットは確信する。
これまでも、そしてこれからも、なにもかもが上手くいくのだ、と。
……確かにそのときは、そう思ったのだ。
◆
「話はわかった」
隠しきれない老いと疲れの滲んだ声が降ってきた。
卒業パーティーから三日が経っている。シャーロットは王宮の謁見の間で跪いていた。信じられないほど磨き上げられた床に自分の顔が映っている。すぐ隣にはパーティーでの出来事をついさっき語り終えたクロードが同じように跪いていた。
冷たい沈黙が謁見の間を覆っていた。背中にはたくさんの視線を感じる。この場に集められた貴族たちのものだ。偉そうなオジサンが文武百官と言っていたが、さすがに大げさだとシャーロットは思っている。いくら謁見の間が広くたって、百人もいたらいっぱいになっちゃうんじゃないかしら。
「双方、面を上げよ」
しばらくして再び頭の上から声が降ってきた。
シャーロットは顔を持ち上げ、立ち上がり、クロードが跪いたままと気づいて慌てて元の姿勢に戻った。
周囲からざわめきと失笑が聞こえた。ちょっと間違えただけなのに……。
玉座には国王様が座っている。クロードのお父様だ。けれど、父親を通り越してお祖父さんに見える。それくらい国王様の容貌は年老いたものだった。なんだか目つきも怖い。クロードとは似てないと思う。これって不敬になっちゃうのかな。
「……いいだろう。王の名において、クロード・ガラナベートとシャーロット・ターナーの婚姻を認めよう」
ドキドキしたが、国王様はシャーロットの望む言葉を口にしてくれた。
思わず隣に顔を向けると、同じようにこちらを向いたクロードと目が合った。溢れんばかりの喜びの表情を浮かべている。最高の笑顔だった。背後に色とりどりの花さえ見えるようだ。
シャーロットも頬をほころばせた。クロードの笑顔を見て実感が湧いたのだ。ああ、わたしは彼と結婚してお妃様になるんだ、夢にまで見た憧れの未来がついに実現したんだ、と……。
「同時に。クロードの立太子は取り止めとする。それに伴い、クロードの王位継承権は剥奪。王籍から除外することとする」
「……え……?」
だというのに。
クロードの笑顔は国王様の次の言葉で凍りついてしまった。
シャーロットは理解が追いつかなかった。国王様がなにを言っているのかわからない。ただ、なにかまずいことが起きているのだけはわかった。
「血を残すことは許さん。断種の上での廃嫡だ。後のことは……はぁ……自分の妻とよく話し合うように」
「お、お待ち下さい、父上!」
ダンシュ? ハイチャク?
シャーロットを置き去りにして場面は進んでいく。慌てた様子でクロードが立ち上がると、それとほぼ同時に、横から騎士が飛び出してきて彼を床に押さえつけた。そうなることがあらかじめわかっていたような滑らかさだった。冷たい床に拘束されたクロードが呻く。シャーロットはそれを呆然と見つめることしかできない。
「ッ、なぜですか! なぜ、そんな決定を……」
「王命を軽んじる者に王の責務を渡すことはできん」
「メアリとの婚約を破棄したことですか? ですが、あれは正義のために必要なことでした!」
「正義? 稚拙な虚言に踊らされることが、お前の正義か」
「虚言ですって! 父上はシャーロットが嘘をついていたとでも言うのですか!」
クロードの叫び声が鼓膜を叩いた。
考えがまとまらないまま、反射的に口が動く。
「わ、わたし、嘘なんて……」
喉がひきつる。周りからの視線が鉛みたいに重い。
なんで。どうしてそんな目でわたしを見るの?
「メアリ・ブライトウェル嬢から陰湿な嫌がらせを受けている……だったか。その件について王立学園の生徒から反論が挙がっている。嫌がらせの事実は存在せず、メアリ嬢のやったことといえば、シャーロット・ターナーの礼節を欠く振る舞いに対して常識的な範囲で注意を行ったくらいだ、とな」
「そ、そんなもの、公爵派閥が自身の家の利益のためにメアリを庇っているだけで……」
地に伏せられたクロードの言葉を、国王様が鼻で笑った。
「派閥もなにもあるものか。公爵から男爵、さらには平民に至るまで、在籍する学生のおよそ半数がそういった趣旨の証言を王宮に提出しているのだぞ」
「ですから、それこそ公爵家の陰謀で」
「逆に、だ。シャーロット・ターナーの主張を裏付ける証言や証拠はなに一つとして見つかっていない。良いか? なに一つとして、だぞ。その娘の言っていることが真実だとして、そんなことがありえると本気で信じているのか」
「……ですが、彼女が嘘をつくはずが……」
クロードの語調が弱々しくなる。縋るような視線がシャーロットを見上げてきた。
どうすればいいのだろう……。なにもわからず、ただ彼の瞳を見つめ返すことしかできない。
「それから、ノースエッジ子爵令息の手紙の件があったな。そちらにも反論が届けられている」
「え……?」
シャーロットは耳を疑った。
そうだ、確かに、あれは咄嗟の言い訳だった。けれど、封も開けずにゴミ箱に放り込んだ手紙の内容を、一体誰が知っているというのか。
「トラヴァース軍務大臣の嫡男を中心とした十数人の連名による意見書だ。曰く、彼らはジョナサン・ノースエッジから相談を受け、シャーロット・ターナー宛の手紙の作成に協力したことがあるとのことだ。その際に過去の手紙の写しも確認したが、シャーロット・ターナーが主張するような不穏な内容は一切存在しなかったと彼らは証言している」
なんで、と叫びそうになった。
意味がわからない。辺境に引き籠もってる田舎者にどうして大臣の息子なんかが味方をするのか。
「そ、そんなの、聞いてない……」
「彼らの協力があった場合には、手紙の冒頭にその旨が必ず明記されたという。内容に僅かでも目を通しているのであれば、それを知らぬはずはないのだがな」
「……」
言葉に詰まり、俯いて、両手で胸を押さえた。
こうしていれば、近くにいる誰かが心配して、勝手に問題を解決してくれる。困ったことに直面したとき、シャーロットはずっとそうやって切り抜けてきた。
けれど、どうしてだろう。今日は誰も助けてくれない。ただただ重苦しい沈黙が積もっていくばかりだ。
「理解したか? お前たちは斯様な嘘と言い掛かりを以て、儂の招待した賓客を式から追い出したわけだ」
「は……? それは、誰のことを」
「ジョナサン・ノースエッジ子爵令息に決まっているだろう」
「なっ」
「生徒でもない者が卒業生に交じってテーブルに着くなど、特例に決まっているだろうに。『王立』学園なのだから、当然、そこに儂の許可があることはわかるはずだ」
あの田舎者が、最初から卒業生に交じっていた? そんなこと、全然思い出せない。ふっと出てきて、ふっといなくなった。シャーロットの頭の中にはそんな印象しか残っていなかった。
だって、そうでしょう? 卒業生全員の顔を覚えてなんかいないのだから、知らない人がひとりくらい交じっていたって、気づくほうが難しいわ。
クロードも同じように混乱しているようだった。彼の整った顔を汗の玉が流れていくのが見えた。
……ひょっとして、国王様の招待客を勝手に追い出したりしたら、それは国王様の顔に泥を塗るようなことになる、のかしら……。
「なぜ……、なぜ、たかが子爵の令息ごときを父上が招待するというのですか」
「たかが? お前はなにを言っているのだ。まさかノースエッジ領のことを知らぬわけがあるまい」
「あ……いえ、その……」
「呆れたものだな」
長い……本当に長い溜め息が、謁見の間にこぼれ落ちた。
クロードがばつが悪そうに身じろぎをしたが、騎士に押さえつけられて、それさえ満足にできないようだった。ふと、シャーロットの横にも別の騎士が控えていることに気がついた。まだ手は出されていないが、直立姿勢でこちらの動きをじっと見張っている。それが、怖かった。
「……ノースエッジ子爵は王国の北端、銀嶺山脈に面した土地を領有している。王国の地理はわかっているか? 山脈を挟んで共和国と隣接する位置だぞ」
「も、もちろんです」
「では、三十年前、その地でなにがあった?」
「三十年前……あ」
シャーロットにはピンと来なかったが、クロードはなにか思い当たったらしい。
国王様に顎でしゃくられて、彼はぼそぼそと声を出した。
「三十年前……銀嶺山脈に『魔物』なる獣が現れたとは、聞いたことがあります」
「そうだ。世界中の既知の生物とは隔絶した能力と獰猛性を持つ異形の獣たちだ。奴らは天嶮の果てより現れ、すべての自然の生物を殺戮し、人の世を侵さんと押し寄せてきた。……山向こうの共和国などはその勢いを押し止めることができず、領土の三分の一を奴らに支配されたという」
もうわかっただろう、と言わんばかりに国王様が目を細めた。その視線の冷たさに、思わずぶるりと震えてしまう。
「そうだ。ノースエッジ子爵とその兵により、奴らの侵攻は水際で防がれたのだ。彼らの奮戦のおかげで王国の被害は最小限で済んだ。護国の英雄と呼ぶに相応しい働きだ。その立役者を『たかが』子爵などと呼べるはずもあるまい」
「っ、ですが……! そんなの、三十年も昔のことじゃないですか!」
その瞬間。
国王様が王笏の石突を床に叩きつけた。硬く、怒りを孕んだ音が反響する。磨き抜かれた床が砕かれ、細かい破片がシャーロットの目の前まで飛んできた。
沈黙。貴族たちのざわめきさえ消え失せている。心臓がばくばくと悲鳴をあげている。喉がからからに乾いていた。呼吸すら粘つくようだ。
「どうやら、お前はまだ勘違いしているようだな」
「……」
「発端は確かに三十年前だ。だが、事態は未だ解決していない。魔物の群れは銀嶺山脈から尽きることなく湧き続けている。王国の平和はノースエッジの山岳兵と派遣された国軍とが必死に繋ぎ止めているものだ。なぜ、王立学園で学んだはずのお前が、そのことすら理解していないのだ」
「ぅ……」
クロードがぱくぱくと口を動かしていたが、結局、意味のある言葉は出てこなかった。
国王様は当たり前のように言っているけれど、そんなの、シャーロットだって知らなかった。だって、シャーロットの周囲はずっと平和だったのだから。よその土地の戦争だなんて、自分に関係ないのだから、全然気にもしてなかった。もしかしたら授業で習ったのかもしれないけれど、そんなことは軍人さんが考えればいいことなのだから、それですっかり忘れちゃったに違いない。
だから、知らなくたって、わたしは悪くない。
そう思おうとしたけれど、身体の震えは止まらなかった。
押し黙るクロードに見切りをつけて、国王様がシャーロットに視線を移した。逃げ出したい。けれど、すぐ近くに立つ屈強な騎士がそれを許してくれない。斜め後ろに立つその男が、シャーロットの逃げ道を完全に塞いでいる。
「八年前、ノースエッジ子爵が魔物との戦いで負傷した。片足を失う大きな怪我だった」
知らない。わからない。聞きたくない。
「それ以来、子爵は一線を退き、山岳兵の指揮を息子に任せるようになった」
いやいや、と子供のように首を振る。
「極寒の冷気と薄い空気が支配する銀嶺山脈で戦えるのは、生まれた時からその環境に慣れ親しんだ高地人だけだ。いかに平地で無双を誇る王国騎士であっても、その責務を代わってやることはできん。それゆえ、ジョナサン・ノースエッジは常に戦地に縛られ続けていた」
「……そんなの、知らない……」
小さな呟きが、自分でも信じられないくらい大きく聞こえた。
自分が今、立っているのか、跪いているのか、それとも倒れているのか。シャーロットはもう、そんなこともわからなかった。
「知らぬ、か。ターナー子爵家といえば、ノースエッジ子爵家との婚約関係により、討伐された魔物から採れる素材を優先的に融通してもらうことで自領の交易を成り立たせていたはずなのだがな」
「だって……わたしは、わたしの王子様のお嫁さんになるんだから……どうせ出ていく家のことなんて……」
自分はなにを言っているのだろう?
泥のような思考のぬかるみに浸かりながら、シャーロットはぼんやりとそんなことを考えていた。目は開いているのに、なにも見えていない。意味のない色彩の羅列が、ぼんやりと瞳に映っているだけだ。
誰かに腕を掴まれた気がした。そのままどこかに引きずられていく。……そんな気がする。
「シャーロット……きみは……」
近くから、震える声。それは、誰のものだったろうか。
どうしてこんなことになったのだろう。
世界の中心はわたしで、他の人はみんな脇役で、踏み台なのに。
わたしは、幸せになれるはずなのに。
シャーロットは、ずっと、それだけを考えていた。