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クロード・ガラナベートの恍惚

 クロード・ガラナベートは頬の緩みを抑えることができなかった。


 王立学園卒業式の夜のことだった。この輝かしい門出の式典こそが、自分たちの愛の在り処を明らかにし、()()との新たな生活のための最初の一歩を踏み出すのに相応しいと、クロードは固く信じていた。

 障害はあるだろう。しかし、それは必ず乗り越えてみせると、彼は最愛の人、シャーロット・ターナー子爵令嬢に誓っていた。固く握ったクロードの拳を彼女が優しい指で包んだことを覚えている。潤んだ瞳で「信じます」と言った彼女の声が、彼に勇気を与えてくれた。


 決意とともに会場に踏み込み、衆人環視の中で憎むべき赤毛の悪女を呼び出した。

 メアリ・ブライトウェル。あの女の澄ました顔を見た瞬間、昨日のうちに考えていた台詞はすべて頭から吹き飛んだ。腕にすがりついたシャーロットの存在だけがクロードの思考の拠り所になった。そのか細い腕が怖れに震えるのが許せず、クロードは感情のままにメアリに言葉を叩きつけた。


 自分でも信じられないほど熱い口調になっていた。何年も胸の奥で澱になっていた想いが口から止めどなく流れ出るかのようだった。

 きっとその勢いに気圧されたのだろう。クロードと対峙するメアリは最後までろくな反論もできずにいた。その事実が、クロードの背を強く押した。


「よって私はここに宣言する! メアリ・ブライトウェルとの婚約を破棄し、愛しきシャーロット・ターナーと新たな婚約を結ぶと!」


 そして、その結果がこれだ。

 メアリ・ブライトウェルはクロード・ガラナベート第一王子の宣言を受け入れ、卒業パーティの会場を去った。あの厚顔な悪女にも人並みの羞恥心はあったらしい。大ホールの大扉が外に出た彼女の姿を遮った瞬間、クロードは心の中で快哉を叫んだ。

 やってやったぞ、と。

 脳が痺れるほど気持ちが良かった。あの口煩いメアリを言い負かしたのだと、ぞわぞわと快感がこみ上げてくる。クロードは腕の中のシャーロットと目を合わせる。彼女の嬉しそうな表情を目にして自然と頬が緩んだ。


 クロードの人生は常に誰かと比較される人生だった。

 現王である実の父と。年下の弟王子たちと。政治的にあてがわれた婚約者と。

 陛下なら。弟君なら。メアリ様なら。誰も彼もがクロードを見てそうささやく。

 うんざりだった。息苦しかった。吐き気がした。逃げ出したくて、けれどどこにも逃げられなかった。

 そんなだから学園に入学したころのクロードは、表面上は王子らしく取り繕いながらも、心の内ではひどく荒んでいた。教師が、学友が、そしてなによりあれこれと口を出す婚約者が煩わしくてたまらなかった。


 けれど、一年の夏には、シャーロットと出会うことができた。

 彼女だけが本当のクロードを見てくれた。誰とも較べたりしないで、ただあるがままの自分を見てくれた。

 クロードは彼女に夢中になった。人目を避けて会い、お忍びで街に出掛け、いつしか密かに愛を囁くようになった。彼女の誕生日ともなれば必死になって考えたプレゼントを贈ったものだ。

 思えば他人へのプレゼントを自分で考えたのはそのときが初めてだったかもしれない。婚約者であるメアリへの贈り物は侍従に任せきりだった。公爵家に対する儀礼やら格式やらが面倒だったのだ。形ばかりのプレゼントだ。受け取ったメアリも形ばかりの笑顔を浮かべていた。

 あんなものが未来の夫に向ける顔だというのか。まったくもって馬鹿馬鹿しい!

 そのうちクロードはメアリと距離を置くようになっていた。今までも口煩い彼女を避けがちだったが、もっと露骨に彼女を遠ざけるようになった。そうして空いた時間を、シャーロットのために使った。


 幸せな時間は流れて、二年目の秋。

 シャーロットが涙を流していた。

 なにがあったのかと問えば、メアリにいじめられたのだと言う。

 なにをされたのかと問えば、彼女の語る陰湿な仕打ちにクロードは絶句した。

 シャーロットの震える肩を抱き止めて、クロードは決意した。

 いつの日か必ず、メアリ・ブライトウェルとの婚約を破棄する、と。


 そして今日、その決意はついに現実となった。

 これを喜ばずしていつ喜ぶというのか。式典に出席している卒業生と在校生の視線を一身に集めたクロードは得意げな顔を隠すことができなかった。

 クロードは正義を成したのだ。権力を振りかざして目下の者をいたぶる悪女に罰を与え、真に愛する者との絆を証明したのだ。まさしく王位継承者に相応しい業績ではないか。


「……無論、諸君らに異議などなかろうな?」


 だから、それは質問ではなくて確認、あるいは示威のための言葉だった。

 会場にいる者は皆、"元"婚約者の公爵令嬢が為す術もなく会場を追われた姿を見ているのだ。第一王子が成した正義の行いに首を振る者などいるはずもない。クロードはそう確信していた。


「僭越ながら……」


 だというのに。

 離れた位置のテーブルから聞こえた声に、クロードは隠すこともなく顔を顰めた。気分の良いところに水を差された形だ。沸騰する怒りに似た感情さえ覚える。

 視線を向ける。礼服を着た若い男が立ち上がり、こちらに近づいてきた。見覚えのない顔だった。級友ではない……と思う。クロードとてクラスメイト全員の顔をしっかり覚えているわけではない。

 男はすぐに跪き、頭を下げた。表情が見えなくなる。もう顔の造りの細かいところは思い出せない。ただ、目つきの鋭さだけが印象に残っていた。

 頭を下げた男は、まるで「明日の朝食は何にしましょうか」くらいの平坦さで、こう言った。


「シャーロット・ターナー嬢は私の婚約者なれば。私どもの婚約関係については如何したものでしょうか?」

「……婚約、だと?」


 寝耳に水だった。咄嗟にシャーロットの顔を見る。彼女は星の散りばめられた瞳を大きく見開いていた。心あたりがあるのか。疑念がクロードの脳裏をよぎる。

 この場で問いただすべきか。逡巡したクロードが口を開くより、彼の腕をシャーロットがぎゅっと掴む方が早かった。


「違うの!」と愛しき人が叫ぶ。

「クロード、信じて!」

「シャーロット、落ち着いて」

「勝手に決められた婚約なの! 私はずっと嫌だった! あなた以外と結婚だなんて、私……!」

「大丈夫。大丈夫だから……」


 クロードの腕の中でシャーロットがいやいやと何度も首を振る。

「顔を見たこともないのよ……」とか細い声。

 愛おしさに塗り潰されて、刹那の疑念はとっくに消えていた。クロードにとってなにより重要なのは、シャーロットが涙を流して悲しんでいる。その一点だけだった。

 シャーロットの背を撫でてあやしながら、彼は跪いた男を睨みつける。


「貴様は」

「ご挨拶が遅れました。ジョナサン・ノースエッジと申します」

「聞かぬ名だ」

「北方の国境地帯に領地を預かるノースエッジ子爵家の者です」

「田舎の木っ端貴族か」


 わざと嘲るように言った。シャーロットを泣かせた男に殺意さえ覚えてしまう。だが、男は顔を伏せたままでぴくりとも動かない。つまらん、とクロードは鼻を鳴らした。


「シャーロットは貴様の顔も見たことがないと言っているぞ」

「これまで顔を合わせる機会がありませんでした」

「学園でもか?」

「学園には通っておりません。王都を訪れるのも今晩が初めてです」

「ハッ、筋金入りの田舎者だったか」


 王国の貴族であっても王立学園に入れない者は少なくない。経済的に余裕がない小貴族の次男三男などがその典型だ。目の前の男もその類だろう。同じ子爵でも王都近郊に領地を持ち隣国との交易で名を馳せるシャーロットの生家との差は歴然だ。


「今まで彼女を放置していた男がノコノコと現れて婚約者を名乗るか。なんと厚顔な。田舎者は恥を知らぬのか」

「放置、という点は訂正させていただきます。私も手紙での挨拶は続けておりました」

「手紙?」

「もっとも、シャーロット・ターナー嬢からは最後まで返事をいただくことは叶いませんでしたが」


「だって!」

 クロードの腕にすがりながらシャーロットが叫んだ。

「怖かったのよ! 送られてくる手紙は変な内容ばっかりだったから……!」

「シャーロット、変な内容というのは?」

「そ、それは……」

 落ち着くように背中を撫でると、彼女は考え込むように顎を手に当てて俯いた。よほど辛い思い出なのだろう。なかなか言葉が出てこなくて苦心している様子だった。その姿を見ているだけでも心が痛む。


「その……乱暴で脅すような言葉遣いだったり、私の家のことを馬鹿にしてたり……あとは、ええと、婚約してやったのだから感謝しろよ、とか……」

「そのような手紙は書いた記憶がありませんが」


 一生懸命に口を動かすシャーロットを、男の温度のない声が断ち切った。

 びくりと縮こまった彼女の震えを腕に感じ、クロードは咄嗟に彼女を背中に庇い立てる。


「貴様、シャーロットが嘘をついているとでも言うのか」

「事実を申し上げたまでです」

「フン、どうだかな! 貴様のような下郎とシャーロットでは、どちらが信頼できるかなど比べるまでもあるまい! いや、そもそもの話、野蛮な田舎者にはまともな品性も期待できぬか。さては貴様、乙女を怯えさせるようなおぞましい手紙をそうとも知らず何度も送りつけていたのではないか!」


 このひらめきは天啓だった。自身の華麗な口上を褒めてやりたい。

 男は頭を下げたまま沈黙している。聴衆たちのざわめきが聞こえるが、しかし、反論する者は誰もいない。

 快感だった。自分の言葉が今この瞬間の世界を作り上げているかのようだ。いつもなら口を挟んでくるメアリもここにはいない。己の意見を自由に表明することの、なんたる解放感か!


「殿下のお考えはよくわかりました。では、話は戻りますが、当家とターナー子爵家との婚約は如何に致しましょう」


 男の平坦な声が耳に入る。

 クロードは忌々しく舌打ちする。こいつ、また水を差すようなタイミングで。


「ここまで言ってもわからぬか。まったく、これだから学園にも通えぬ田舎者は……」

「恐れながら、殿下から明言をいただきたく存じます」

「よかろう! ならば王家の名において命ず! 貴様とシャーロットの婚約は白紙無効とせよ! いいか、金輪際シャーロットの前にその顔を出すな!」

「……では、そのように。ご下命、確かに承りました」


 跪いていた男が立ち上がり、静かにもう一度頭を下げた。

 一瞬だけ見えた男の瞳に怒りの色はなく、クロードには何の感情も見て取ることはできなかった。拍子抜けだ。やはりこのような腑抜けた男はシャーロットに相応しくない。

 一礼した男はくるりと背を向けて、急ぐでもなくそのまま会場を去っていった。男の姿がホールの大扉の向こうに消えると同時に、シャーロットが嬉しそうにクロードに抱きついてきた。豊満な胸の感触に思わず頬が緩む。


 なにもかもが上手くいっている。

 これから先もきっと上手くやっていける。

 クロードは自身の人生の絶頂を感じていた。

 愛する人との洋々たる前途を、彼は信じて疑わなかった。


 クロードの瞳にはシャーロットの純真な笑顔だけが映っている。

 ついさっき対面したはずの男の顔も名前も、もはや記憶の彼方に消えていた。

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[一言] アホと呼ぶにはアホに失礼かと思うほどの愚か者。 救いようねえなあ。
[一言] アホと呼ぶにはアホに失礼かと思うほどの愚か者。 救いようねえなあ。
[一言] 王で無いのに王命とか言っちゃうと反逆じゃないかい、王子様よ
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