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ジョナサン・ノースエッジの驚愕

「メアリ・ブライトウェル! 貴様の卑劣な悪行ももはや今日までだ!」


 豪華絢爛に飾り立てられた大ホールに轟く怒声。和やかに談笑に興じていた若者たちが一斉に声の主に視線を向ける。一瞬の静寂、そしてさざ波のように広がっていくざわめき。誰も彼もが困惑の表情を浮かべている。


 しかし、騒ぎの輪から外れたテーブルに座るジョナサン・ノースエッジだけは、それらをすべて右から左へと聞き流していた。彼にとって目下の重要ごとは目の前に並べられた豪奢なディナであり、特に美しく茹で上がったシュリンプを切り分けるのに執心だったのだ。

 彼の実家であるノースエッジ子爵領は、その名の通り王国の(ノース)(エッジ)にあり、王国南岸の海からはひどく距離がある。輸送コストと鮮度維持の都合上、海の幸をふんだんに使った料理は彼の地の人間にとって滅多にお目にかかれないご馳走なのだ。


「ふんふん。白くて瑞々しくて弾力があって。はぁ、湯気の香りもたまらないなぁ……」


 指先に伝わるナイフの感触にさえご満悦。常であれば狼のように鋭い瞳を緩ませてジョナサンは相好を崩していた。

 とはいえ、ホールの天井にまで届きそうな大声が聞こえなかったわけではない。

 しかし、今ここで開催されているのは、栄誉ある王立学園の卒業パーティーなのである。大声ではあるが威厳も尊厳もなく、むしろ虚栄の響きと気取った印象を覚える叫びは、この場にはなはだ不似合いとしか感じられなかった。聞いた瞬間に「ひょっとしたらなにかの余興なのかな」と考えてしまったほどだ。卑劣な悪行、なんて言い回しはいかにも芝居がかっているではないか、と。


 もちろん、現実には余興でもなんでもなく、当事者たちは大真面目に揉め事を引き起こしているのだが……。


「マジかぁ……」と隣に座る友人のミシェルが呟いたところで、ジョナサンはようやくナイフを止めた。おや、と思って周囲を見回すと、近くに座っている友人たちを含めて、会場の誰もがホール中央の男女に注目していることがわかる。さすがに妙な雰囲気だと気づいた。どうやらのっぴきならない状況らしい。


 背筋を伸ばして騒動の中心に視線を向ける。ドーナツみたいな観衆の輪の真ん中に、男ひとりと女二人が立っていた。女の片方が男に抱き寄せられていて、もうひとりの女がそれと対峙している。つまり、2対1の構図だ。両者の間には銀嶺山脈の永久氷柱のような冷たい空気が流れている。


 三人とも、ジョナサンの知らない顔だった。


 男は輝くような金髪で、上等な仕立ての礼服を着込んでいる。最初の怒声は彼のものだろう。顔立ちは整っているが、眦が吊り上がっていて、神経質な印象がある。対峙する女に凄んでいるが、体の線が細く、いまいち迫力がない。しかし、他の面々の態度を見るに、彼がこの場でもっとも位の高い人物らしかった。


 男と向かい合った女は燃えるような赤髪。やはり上等な仕立てのドレスを纏っている。勝ち気な容貌で、扇子で口元を隠しているが、男に向ける視線は極北のブリザードのよう。この視線の冷たさに気づいていないのなら、ある意味あの男も相当な大物だ。


 最後に男に抱きかかえられた女。ゆるやかなウェーブのブロンドに、フリルをふんだんにあしらったドレス。綿菓子みたいな女だった。背が低く、怯えた表情で男にすがりついている。掴んだ腕に豊満な胸を押し付けているのは、天然か、それとも狙ってのことか。どっちにしろ面倒そうな気配がぷんぷんする。


「ねぇ、ミシェル。あの妙な三人組って何者なの?」

「妙な、って……ジョナサン、キミね……」

「いや、だって、卒業パーティーの衆人環視の中で愁嘆場とか、普通じゃないでしょ」

「否定はしないけどさぁ……」


 ジョナサンが肩を突いて尋ねると、ミシェルは頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。


「……はぁ。あの大上段に構えてる男性、彼がクロード第一王子だよ」

「第一王子? ああ、じゃあ、あの赤毛の彼女、メアリ・ブライトウェルっていうのが」

「そ。彼の婚約者。……の、はずなんだけど」


 言葉を濁したミシェルの顔は渋い。

 ジョナサンは王子と顔合わせをした経験こそないが、さすがに王家の婚姻婚約の状況くらいは聞き及んでいる。ブライトウェル公爵といえば王国東部に広大な領地を有する大貴族だ。その令嬢と第一王子の婚約は、確か10年ほど前に結ばれたものだったはず。

 クロード第一王子もメアリ公爵令嬢も王立学園の今年の卒業生だ。学園卒業の後、婚約関係から晴れて結婚へと至る予定とも聞いていたのだが……。どうやらここにきて雲行きが怪しくなってきているようだ。


「卑劣な悪行とか言ってたけど、彼女、何をしたの?」

「いや……、悪行というなら、むしろ……」


 ミシェルが言いづらそうに語尾をすぼめた。周囲の友人たちも難しい表情で頷いている。

 なんとなくだが、事情が見えてきた。王子と過剰に親密そうな綿菓子少女の様子を見れば、さすがに鈍感なジョナサンでも頭に浮かぶものがある。

 要は、彼女は王子の愛人なのだろう。いや、愛人なのか浮気相手なのか夜の関係なのかは知らないが。ともかく、綿菓子少女を原因として王子は婚約者と揉めているわけだ。

 痴情のもつれというやつだろうか。実際に見るのは初めてだ。しかし、こういうときは婚約者の方が浮気男と愛人をなじるものではないのか。目の前で繰り広げられているのはレアパターンなのかもしれない。


「ふぅん。それで、あの王子に引っ付いてる娘は?」

「……マジで言ってる?」

「なにが?」

「うわぁ、マジで言ってるっぽいなぁ……」

「だからなにが?」


 ミシェルが盛大に顔をひきつらせた。近くのテーブルの友人たちも「あちゃー」と顔を手で覆っている。……なにかおかしなことを言ってしまったのだろうか。

 もう一度、綿菓子少女の顔を見てみる。やっぱり見覚えはない。

 ジョナサンは卒業生と同級だが、王立学園の生徒ではない。同級ではなく、同い年と言ったほうが正確か。ノースエッジ子爵家の都合により、領地を離れることができず、家庭教師に頼って基礎的な学習を済ませていた。


 なので、学園の生徒とはほとんど面識がない。


 ミシェルをはじめとする周囲の友人たちは数少ない例外だ。付近のテーブルに座っているのは騎士、あるいは軍人を志望する武門の子息がほとんどで、ノースエッジ領への遠征訓練の折に顔見知りになった面々だった。遥々王都から極寒の超ド田舎にやってきたミシェルたちに、郷土料理のホットスープを振る舞ったのが馴れ初めである。


 学園の生徒でもないジョナサンがどうして卒業パーティーに出席しているのかといえば、とある筋から招待があったからであり、父であるノースエッジ子爵からも同世代の令息令嬢と繋がりを作っておけと送り出されたからである。学園に通えなかったジョナサンにとってこのパーティーは、貴族の子弟、特に中央に属する貴族の後継者と面識を作る絶好のチャンスだったわけだ。


 ……まぁ、周囲の状況を見るに、もうそれどころじゃなさそうなのだが。


 ホールの中央で繰り広げられる騒動が収まる気配はない。もっとも、ヒートアップしているのはクロード王子だけで、メアリ嬢はむしろますます感情を凍らせている様子である。綿菓子少女は王子の陰に隠れながら彼を煽っていた。女ってすごい、なんて不謹慎な感想が浮かんでくる光景だ。

 クロード王子がメアリ嬢を指差し、敢然と叫ぶ。


「メアリ! 嫉妬に狂った貴様がシャーロットを害したことはわかっているのだぞ!」

「……。……シャーロット?」


 由緒ある王立学園大ホールを駆け抜けた王子の主張に、ジョナサンは思わず目をしばたかせた。

 シャーロット。聞き覚えのある名前である。嫌な予感が背筋を這い上がってくる。スノーウルフの群れ(パック)に取り囲まれたときのことを連想した。じわじわと追い詰められ、いつの間にか逃げ道がなくなっているような……。


 クロード王子が、いかに自分とシャーロットが愛し合っているか、それに醜く嫉妬したメアリがどれほど陰湿な嫌がらせを繰り返したのか、まるで舞台俳優のように熱弁を振るっている。

「わたし、メアリ様にいじめられて、とっても怖かったんです」なんて震えてみせる綿菓子少女がどうにも白々しく見えてしまうのは、ジョナサンの思い込みだろうか。


「あのさ、ミシェル。王子と一緒にいるシャーロットって……」

「うん、シャーロット・ターナーだね」

「……ははぁん。さては同姓同名の御令嬢が学園に在籍しているわけだ?」

「残念だけど、シャーロット・ターナーは新入生から卒業生ひっくるめてもひとりだけだよ」


 愛の騎士を自称する顔の良い友人は、女生徒に大人気という美麗な眉を傾けて肩を竦めた。お手上げのジェスチャである。様になっているのにちょっぴり腹が立つ。ちなみに騎士といってもまだ叙勲されているわけではないので、正確には愛の騎士見習いなのではないか、とジョナサンは密かに思っている。


 さて、しかし、問題はシャーロット・ターナーである。

 実のところ、彼女に面会することもジョナサンが珍しく領地から出てきた目的のひとつだった。顔も知らない相手なのでミシェルあたりに紹介してもらおうかと考えていたのも事実である。

 よって、表面的にはジョナサンのプラン通りにシャーロット嬢の特定に成功したといえる。言うまでもなく、現実としては当初のプランなど木端微塵の粉微塵になっているわけだが。この現実をポジティブに捉えるには、ちょっとばかり状況が複雑骨折しすぎている。


 クロード王子の糾弾はいよいよクライマックスが近づいているらしい。酷薄で心無い言葉をメアリ嬢に投げつけながら際限なくボルテージを上げている。しかもそれは、表情を変えもしないメアリ嬢の態度に腹を立てているというよりは、高圧的で嗜虐的な自分自身の言葉に酔いしれているためのようだった。

 対面のメアリ嬢さえ置き去りにして、王子とシャーロットは二人きりの世界を形成しているのだ。多分、彼らに注視する数多の令息令嬢の視線も王子の意識からはさっぱり消えていることだろう。


「よって私はここに宣言する! メアリ・ブライトウェルとの婚約を破棄し、愛しきシャーロット・ターナーと新たな婚約を結ぶと!」


 第一王子の決定的な宣言に誰もが息を呑んだ。気の弱い御令嬢の小さな悲鳴もそこかしこから聞こえてくる。

 ガラスのような割れ物の静寂の中で、ジョナサンは小さなため息の音を聞いた。赤毛のメアリ嬢が呆れと諦念の色に染まった瞳を伏せて、恭しく、しかし淡々とクロード王子に頭を下げるのを見た。


「では、そのように。殿下のご采配、しかと承りましたわ」

「ふん。殊勝な態度を見せれば私が意見を変えるとでも思ったか? 小賢しい! お前の顔など見るに堪えんわ! 疾くこの場を去るがいい!」


 王子の暴言にジョナサンは思わず顔をしかめた。テーブルの友人たちも眉をひそめている。

 けれども、当のメアリ嬢はどこ吹く風。くるりと王子に背を向け、同門の学友たちに優雅に一礼、堂々たる足取りでホールから去っていった。開け放たれた大扉の向こうの夜の闇に彼女の赤髪が炎のように映えたのが印象的だった。


 ホールの扉が閉まる。外界の夜が隔離され、華やかなシャンデリアが煌々と影を追い払う。しかし、その輝きをもってしても場内の白けた空気を払拭することはできなかった。

 その中で唯一、クロード王子とシャーロット嬢の二人だけが、砂糖菓子みたいな甘ったるい希望と幸福の空気を振りまいている。これはこれで大物なのでは、などといつものジョナサンなら思ったかもしれないが、今回ばかりはそうもいかなかった。このあとの展開を想像すると、ホワイトベアの足跡みたいに気持ちが深く沈んでいく。


「皆、騒がせて済まなかった」

 第一王子が爽やかに言う。聞いてる側は全然爽やかな気分になれない、奇跡のような台詞だった。

「聞いての通りだ。私はシャーロットと共に王国の未来を築いていく。我らの真実の愛が王国を照らすのだ! この愛を以て、王国のさらなる繁栄と発展を諸君らに約束しよう!」


 いっそ清々しいほどの大言壮語である。会場からは拍手の音さえ聞こえてこない。

 有頂天王子は満足そうに会場を見渡して頷いている。御高尚な愛の宣言に誰もが声を失っているとでも考えているのだろうか。彼の腕に引っ付くシャーロット嬢はうっとりとした表情で王子を見つめている。多分、こちらは何も考えていない。


「……無論、諸君らに異議などなかろうな?」


 たっぷりと間を置いて、最後に、王子はそう言った。

 それは質問ではなく、確認だった。発言を求める者など誰もいないだろうと、王子の口調は既にそう決めつけていた。会場に臨席する学生たちも(少なくとも、今、この場では)王子に異を唱えようとは思っていないはずだ。


「僭越ながら……」


 しかし、だ。

 ジョナサン・ノースエッジは席を立ち、王子に一歩近づいてから跪いた。そうしなくてはならない理由があった。

 頭を下げる直前、王子が露骨に不機嫌そうに表情を歪めるのが見えた。衝動的にステップインからの右ストレートを繰り出さなかった自分を褒めてやりたい、とジョナサンは心の中で皮肉る。

 なんだ意外にも余裕があるではないか。殴り飛ばされた王子が宙に吹っ飛ぶ愉快な光景をひっそりと想像しつつ、ジョナサンは極めてフラットな調子でこう言った。


「シャーロット・ターナー嬢は私の婚約者なれば。私どもの婚約関係については如何したものでしょうか?」

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