【4・拉致】
【4・拉致】
「本当にファリーはどこに行ったのかしら?」
申し訳なさそうにナノが天を仰いでつぶやいた。
マアマア亭を出た後、2人はファリーが立ち寄りそうな場所を一通り回ってみたが、どれも空振りに終わった。さすがに疲れを感じ始めていた。
「案外たいしたことなかったのかも」
「だったら良いけど。ごめんなさい。お仕事の邪魔をして」
この日、何度目なのかも解らない言葉を口にする。
「かまいませんよ。今はどんな些細な情報でも邪険に出来ませんから」
堪えてコロラッドは微笑みを返した。成果のあるなしよりも、彼にとっては彼女と2人で過ごせたことの方が嬉しいらしい。
「他に心当たりはありませんか?」
「川を見てきます。もしかして、貝を捕っているのかも」
ファリーは時折、川で貝や小魚を捕ってくる。自分たちで食べる時もあれば、筍や茸のように売り物のタルトやキッシュに使うこともある。場合によっては自分で売りに歩くこともある。彼は結構商売っ気が多いのだ。
「私1人で大丈夫ですから、コロラッドさんはお仕事に戻ってください」
「いいんですか?」
「ええ。これで本当に貝を捕っていただけなら、申し訳なくて」
何度も頭を下げて、ナノは1人で川に続く道を行く。その後ろ姿を見ながらコロラッドは戻るかついていこうか迷っていた。
ミル川の町の下流側を静かにナノは歩いていた。川沿いに人の姿はない。いつもならば、貝や小魚を捕る人の姿が何人か見られるが、やはり脱獄囚を恐れてか、今は人の姿は見られない。
川辺に野いちごを見つけて、ひとつ口に入れる。良い具合に熟していた。
「これでタルトを作るのも良いわね」
今は実を摘んでも入れるものがない。後でまた来ようと立ち上がると
「俺を覚えているか」
ソルスが立っていた。彼女の中でその顔は記憶にある盗賊ではなく、手配書の似顔絵と一致した。
答えるよりも足が動いた。
踵を返し町に逃げようとする彼女の行く手を別の影が塞いだ。その手が動いたと思うと、煌めくものが彼女の目の前を走る。
レーレンである。
彼のナイフは彼女に触れていない。しかし、それ煌めきは逃げる気持ちを瞬時に切り裂いた。
足が止まりその場にへたり込む。その目からは、かつて乗合馬車で襲撃と遭遇した時のように光が失われていた。
「さて、どうして親父の店に目をつけたのか話してもらおうか?」
話しかけられ、気をわずかに取り戻した彼女だが、言われた意味がわからない。ただ「え……」とつぶやくだけだ。
「どれだけのことを知っている? 動いているのはお前だけか。衛士隊自体は動いているのか? 突入の準備でもしているのか?」
何を聞かれているのかも解らない。彼女の頭は思考停止状態に陥っていた。
「あの時とは違う。大声を出したり暴れたりしたら、そいつに喉をかっ切らせるぞ」
「もうひとつ、何も言わなくても切るけどね」
レーレンはむしろそうなって欲しいような口ぶりだった。
「わかったら話してもらおうか。お前達はどれぐらい親父について知っている?」
「お……お父さんって?」
何とか口を開くが、相変わらず彼女には聞かれたことの意味がわからない。
「とぼけるな。だったらどうして親父の店に衛士と一緒に来た?!」
「衛士と一緒に……」
ここでやっと彼女の頭で、マアマア亭が繋がった。
「じゃあ、ファブリックって……あなたの」
その時だった。川辺にコロラッドが現れたのは。ああは言われたものの、やはり気になって彼女の後を追ってきたのだ。
「何をしている!」
2人の男に挟まれてへたり込んでいる彼女の姿を見て、彼はたまらず駆けだした。自然とその手が腰の剣に伸びる。
振り返った2人の顔を見て、彼らが脱獄犯だと気がついたコロラッドが剣を抜いて足を速める。
レーレンの手が動いた。
研ぎ澄まされたナイフが飛び、コロラッドの右目に突き刺さる。
ナノが言葉にならない叫びをあげる中、彼は目を押さえたまま川に落ちる。
「まずいね。ここは逃げた方が良さそうだ」
新たなナイフを取り出し、ナノに向ける。
「待て。この女にはまだ聞きたいことがある」
「生きている人間ほどやっかいな荷物はないよ」
「俺が決める!」
言い切られてレーレンが意外そうに、面白そうに笑った。
マアマア亭でベルダネウスから泥まみれの旅券を見せられ、ファブリックは拳を振るわせた。
「間違いなく、2人は死んでいたんだな」
「可能性だけならば、別人が2人の旅券を持っていたということも考えられます。見つけたルーラは2人の顔を知りませんから」
ルーラが同意するように小さく頷く。
「いや、そんな希望はいらん」
髭だらけの顔からは表情は読み取りにくかったが、その目から何か強い意志をルーラたちは感じ取った。
「わざわざ知らせてくれてありがとよ。それと、もしかしたらお前に頼んでおいたこと、ちょいとばかり早まるかもしれん」
「人手がいるようならば手伝いますが」
「いや、これはわしらの問題だ。これ以上首を突っ込む必要は無い。こっちの準備が出来次第連絡する」
扉がノックされた
「誰だ?」
入ってきたのは、真っ青になったグワだった。彼はベルダネウスたちに聞こえないように、ファブリックの耳に口を当て、口元を手で隠しながら何かささやいた。
「何だと?!」
途端、ファブリックがグワよりも真っ青になった。
「ベルダネウス、すまんが帰ってくれ」
有無を言わさぬ口調に、彼らも従うしかなかった。
一階に降りると、食堂では少ない従業員がお客に頭を下げては「お代は結構ですから」と帰ってもらっている。昼食時は過ぎているのでたいした人数ではないのが救いだ。
「何があったのかしら?」
首を傾げるルーラが、通りを横切って走るファリーに気がついた。
「ザン」
彼も気がついたらしい。頷くと走り出した。
店の裏通りは、食材などを搬入するため馬車が通れるほどの幅がある。ファリーはそこを通ってマアマア亭の裏に歩いて行く。
「ファリー」
ベルダネウスに声をかけられると、彼はビクッと体を震わせて振り返る。
「なんだ、昨日のおじさんか」
「なんだじゃない。お姉さんが探していたぞ」
「姉ちゃんが?」
「君の様子がおかしい。何か妙なことをしようとしているんじゃないかと心配したんだ。それで、こんなところで何をしているんだ?」
「何をって」
彼は弾かれるように駆け出すと「おじさん、こっちこっち」と川に続く小道に2人を誘い込んだ。
「見つかるとやばいからさ」
川草に身を隠すようにしゃがみ込むと口を開く。
「あそこ、マアマア亭って飯屋あるだろ」
「あの店に何かあるのか?」
「大ありさ。あの店、塩土団のアジトなんだぜ。脱獄犯がいるんだ」
「本当か!?」
「もちろんさ。今朝方町外れの竹林で、俺、脱獄犯の2人が人を殺すのを見たんだ。そいつら、ファブリックって名前の人がやってる飯屋のことを言ってた。そこで世話になっているに決まっている。
それで調べたら、ここの飯屋の主がファブリックって名前だったんだ」
「なるほど、それでマアマア亭に目をつけたのか」
ベルダネウスは感心したように頷いて
「しかし本当だったら危ないぞ。衛士隊に教えた方が良い」
「脱獄犯が中にいるのを確かめた上でなきゃ衛士隊は信用しないし。謝礼だってショボいんだ。謝礼をはずませるには証拠も一緒でないと」
川から水の音がした。つづいてうめき声と何かが草むらに倒れ込むような音。
「誰だ!?」
ベルダネウスがファリーを背に身構える。その手にはマントの裏ポケットから取り出した愛用の鞭が握られている。ルーラも同じように精霊の槍を構えた。
うめき声が聞こえてくる。ルーラが槍を構えながらそちらの方に行くと
「ザン、衛視が倒れている!」
ずぶ濡れのコロラッドだった。右目を押さえる手は川から上がったにもかかわらず血で真っ赤になっていた。
「大丈夫ですか。ナノさんはどうしたんです。一緒だったんじゃないんですか?」
それを聞いてファリーが真っ青になった。
「姉ちゃんはどうしたんだ。まさか、あいつらにやられたのか?」
ルーラが川辺を走る。草むらや川の中に彼女がナノがいないか確かめながら。
「彼女は、あいつらに襲われて、何とかしようとしたけれど……」
「衛士隊にいろいろ話したから、それで」
「馬鹿な。目撃者を消すのはそれを誰かに話す前でなければ意味が無い。一年以上前のことのためで」
「見せしめだよ。俺達のことを話す奴はこうなるんだって」
胸の内でベルダネウスはその言葉を否定した。
いきなり駆けだしたファリーの腕をルーラが取る。
「どこに行くの?」
「あの店だ。姉ちゃんはあそこにいるに決まっている」
「落ち着きなさい。あなたが行ったところで返り討ちにあうだけよ。それに、もしも間違っていたらどうするの?」
「他にどこにいるって言うんだよ。あそこにいるに決まっている!」
「決まっているなら尚更行くな」
ファリーの前に立ったベルダネウスが彼の両肩をしっかとつかみ
「彼女を生かしたまま連れて行ったのなら、少なくともすぐには殺さない。焦って突っ込んだら却って彼女の命が危ない」
「じゃあどうするって言うんだよ」
「君は衛士隊に行ってこのことを告げるんだ。突入と救出は彼らにやってもらう」
「おいらの言うこと聞いてくれるかな」
「コロラッドさん、あなたの衛士証をお借りします。それを見せれば、衛士隊も彼の言葉を信じるでしょう」
彼は力なく頷くと、胸の内ポケットに手を伸ばすのを
「失礼します」
止めたベルダネウスが代わりに内ポケットから衛士証を取り出す。
「急げ。衛士隊が突入要員を揃えたら、彼らを案内するんだ」
ファリーは衛士証を受け取ると、大きく頷いて駆けだした。
安心したのか、コロラッドはそのままぐったりと手足を伸ばすと目を閉じた。
彼が気を失っただけなのを確認すると、ベルダネウスとルーラは頷き合い、彼を残してマアマア亭に走り出した。
衛士隊が来るまでに終わらせなればならない。
マアマア亭では、ファブリックが2階の個室でソルス達と対峙していた。
部屋の中央では気を失っているナノをレーレンが縛り上げている。
「お前ら、どういうつもりだ!?」
「ここを探っていた女を捕まえたんだ。覚えているだろう。俺を売った女だ」
「売った? この女がお前のことをしゃべって似顔絵作りに協力したことか?」
「そうだよ」
「儂らは盗賊だぞ。そんなことをいちいち根に持ってたらキリが無い。それに、お前、この娘を捕まえてこれからどうする気だ?」
「決まっている。衛士隊がどれだけ俺達のことを嗅ぎつけたか白状させる。親父だって、こいつが衛士と一緒に親父の名前を出したのは知っているだろう」
「お前は衛士隊を馬鹿にしすぎだ。怪しいのにわざわざ儂の名前を出して聞き込みをするか。名前を出したことこそ、連中が儂を怪しんでいないという証拠だ。
何で儂の名前を出したかはわからん。が、たいした理由じゃないのは解る。下手にちょっかいを出すと逆効果だ。
……もう遅いがな」
苦々しくナノを見て舌打ちする父の姿がソルスの神経に障った。
「馬鹿なのは俺の方か。そんなに親父は俺が嫌いか」
「何を言っている。自分の子供を嫌う親がいるか」
「だったらなんで俺を助けなかった。監獄に入ってからも何の連絡も、差し入れもない」
「何度も言わせるな。へたにお前につなぎをつけて、そこからわしらに手が回ったら元も子もない。だからこそ、お前が刑期を終えるまではいかなるつなぎもつけないと」
「そうして俺を遠ざけて、その間に」
荒ぶる声は、ナノのうめき声に途絶えた。
「気がついたか」
うっすらと目を開けた彼女が身をよじろうとするが、縛られた状態では動けない。それか彼女の意識を一気に覚醒させた。
「おっと静かに」
レーレンにナイフを突きつけられ、開きかけた彼女の口が固まった。
「お嬢ちゃん、とんだ目にあわせて済まなかったな」
ファブリックが彼女の前に片膝をつき
「すぐにでも帰してやりたいところだが、ちと面倒なことになっちまった。すまないが、もう少しだけそうしてもらうよ。大丈夫、命を取ることだけは絶対にしないしさせない。盗賊の一線は守る」
「盗賊の一線ですか」
イルトが鼻で笑い
「そんなものを守っても1ディルにもならない。あなたはもっと現実を見るべきだ」
「お前さんの方こそ現実を見るんだな。儂らが一線を守るのは盗賊だからだ。一線を踏み越えたら、儂らは盗賊でなくなっちまう」
「盗賊世界じゃ、綺麗事は金にならない。それをあなたは知るべきだ。いや、知っていてわざと目を背けているのかな。
格好つけるのは勝手ですけどね、それに付き合わされる方はたまらない。ソルスは、そのために監獄に放り込まれたんだ。くだらない一線のためにね。
あなたは一線よりも仲間を守るべきだったんだ」
その言葉にソルスが大きく頷いた。それにファブリックはなるほどと言いたげに薄ら笑いを浮かべ
「なるほど、イルトとか言ったな。お前さんの言うことも一理ある。
だが儂らは盗賊だ。悪党さ。だが悪党にもいろいろある。盗賊とそれ以外の悪党を分けるものは何だ? 儂は盗賊以外の悪党になる気はないのさ」
「自分の息子を見捨ててまでも守るほどではない」
「儂は守る。それが気に入らないというなら、塩土団をくれてやるつもりはねえ」
その言葉はソルスに向けられていた。
「ここにいる以上は、みんなこの一線を守ってもらう」
彼は改めてナノに向き直り
「こうなった以上、儂らもここに居続けるわけにはいかねえ。荷物をまとめて逃げ出すことにする。逃げる時に、衛士隊の詰所にでも手紙を放り込んで、お前さんがここにいることを知らせておく。
それまで我慢してくれや」
彼女の目から恐怖が消えた。信じられないものを見たような目だ。
レーレンのナイフがナノからファブリックに向きを変えた。
「ほぉ。刃物を向けるのは儂らもやるが、儂らが切るのは抵抗する気持ちだけだ。お前さんは何を切るんだ?」
「そんな難しいことは知らないなぁ。僕は切りたいものを切るだけさ」
ファブリックが目を細め
「ほぉ。お前さん、塵ほどでも盗賊の誇りはあるのかと思っていたが、それすら無かったか」
「盗賊の一線なんて格好つけて粋がっている爺さんよりもマシだよ。盗賊なら損得で考えたら」
「損得で考えるから一線を守るのさ。やはりお前さんは盗賊じゃない」
レーレンのナイフが煌めき、ファブリックの喉を狙う。が、高い音と共にそれは弾かれた。
意外そうにレーレンがナイフを構えたまま下がる。
ファブリックの手には、黒光りする鉄製の文鎮が握られていた。
「舐めるなよ、若造」
睨み合う父とレーレンの間でソルトが戸惑いを見せた。どちらにつくべきか迷っているようだ。
「人も殺せない奴の盗賊ごっこに付き合う気はないよ」
レーレンの口元が笑みに緩むその時だった。
「何が盗賊ごっこよ!」
震える声でナノが割り込んだのだ。
縛られたまま、顔を震わせながらレーレンをきっと睨み付け
「あ、あんたなんか盗賊ごっこですらないじゃない。刃物チラつかせなきゃ粋がれないただのガキじゃない!」
一同が意外そうに彼女を見つめた。
「人間ってのはね。今までやらかした罪で一番重いもので呼ばれるのよ。他にいろいろなことをしていても、人を殺せば人殺しって呼ばれるのよ。
あたしは盗人の肩を持つ気はないけど、この人の言う盗賊の一線って言うのは、盗賊であり続けるためには盗みより悪いことは絶対にしないって誓いみたいなものでしょ。その一線を越えたら、もう盗賊でなくなるっていう。
あんたは何よ。何人人を殺したの。さっきだってコロラッドさんを殺したじゃない。それでよく盗賊を名乗れるわね。あんたなんて盗賊じゃないわ。ただの人殺しよ!」
きょとんとして聞いていた一同の中、ファブリックがいきなり笑い出した。
「こりゃあいい。お嬢ちゃん。儂はあんたが気に入った。出来ることなら儂らの仲間に引き入れたいぐらいだ」
にじり寄ると、彼女は身を悶えて逃げようとする。
「安心しな。そいつは無理な相談だって事ぐらいわかる」
イルト達の方を向き直り
「ここでいつまで睨み合いを続けるわけにはいかんだろう。お前ら、いくらいる?」
「金で解決ですか?」
イルトが鼻で笑う。
「ここに居続けるのも危ねえってことぐらいわかるだろう。よその国に逃げるのに必要な金ぐらいなら出してやる。それでさっさと逃げた方がお前らも良いだろう。
それとも、ここでやらなきゃならねえことでもあるのかい」
髭でわかりにくいが、ファブリックの口元から歯が見えた。
「親父、何を言っているんだ?」
「ロットとブブカは知っているな。今朝方、こいつらに殺されたよ」
「な?!」
「こいつら、妙なことを企んでいやがる。こいつらだけの考えとは思えねえ。後ろに誰かいるな」
「まさか……ゲドか?!」
ソルスの呟きにイルトが舌打ちをした。
「ゲドか。なるほど、倅を助けた理由が見えたぜ」
「しかし、2人とももう縁が切れたって」
「馬鹿野郎。ゲドって奴は盗賊じゃねえ。ただの外道だ」
文鎮を構える。
退治する両者を戸惑いの顔で見比べるソルス。
イルトとレーレンに浮かぶ薄ら笑い。
「やっぱり、上手くいかないものだね。ゲドの頭に叱られるな」
「俺たちも甘かった。こんな坊やが動くまで待っていたんだからな。やはり、大事なことほど自分が動くべきだ」
ナイフと魔玉の杖を構える2人。その瞬間、ソルスは自分が利用されただけなのを知った。
「まだ外は明るいし下には人もいる。さっさと済ませる」
「わかりきったことをいちいち言わない方が良いよ。馬鹿だと思われる」
レーレンの言葉にイルトの頬が微かに引きつった。
その時
『全員動くな。衛士隊だ!』
階下で声がした。続いて椅子やテーブルの倒れる音。
『衛士隊が何のようですか!?』
グワの不自然なまでに大きな声が聞こえてきた。明らかに階上の彼らに聞かせるためのものだ。
『上だ。気をつけろ! 抵抗しそうなら遠慮するな』
『待ってください。主人にお話を』
『どけぃ!』
グワの抵抗は怒声に遮られ、皿の割れる音がした。
それを聞いて、イルトとレーレンはためらうことなく部屋を飛び出し、屋上への階段を駆け上がる。
「親父、僕たちも逃げないと」
焦る息子を見ながら、ファブリックは笑みを浮かべながら文鎮をテーブルに置いた。逃げる気配はない。
「親父、何をしている。俺達も逃げないと」
「逃げるさ。だが、今すぐってわけじゃねえ」
「衛士達は店に踏み込んできたんだぞ」
「本当にそう思うか?」
ファブリックは落ち着き払っている。グワと言い争っていた衛士らしき声に聞き覚えがあったからだ。
(まったく、お節介な自由商人だ……)
彼が手も触れないのに、部屋のドアが閉まった。つづいて廊下を走り、階段を駆け上がる音。だが、その足音は1人のものだけだった。
(つづく)