09.恋するエミリアーヌ
屋敷に帰ってきてからも、ディオンはエミリアーヌに優しくしてくれた。
ただその優しさは、エミリアーヌが頼んだことによるものだと思うと、胸が悲鳴をあげているかのように苦しくなった。
ディオンは心の底からエミリアーヌを好いてくれているわけではない……ただ願いに逆らえないだけだ。
「はぁ……」
「どうなさったんですの? お嬢様に溜め息なんて、似合いませんわ」
パメラがいつものようにドレスを着付けてくれている。
そう言われても、エミリアーヌには溜め息しか出てこなかった。
「私ね、おかしいの」
「なにがでしょう?」
「ディオンは私が恋させてと言ったから、優しくしてくれてるってことはわかっているわ。なのにそれが……悲しくて、つらいの」
「お、お嬢様……それって……!」
パメラの顔が明るくなり、なぜこんな嬉しそうな顔をするのかと首を傾げる。
「ほ、他にはどんなお気持ちがございますか?!」
「他にはって……そうね、ディオンが忙しくてあまり話せなかった時は寂しいし、嬉しそうにしていると私も嬉しいわ。あの色気のある瞳で見られると、心臓が締め付けられるようになって……ああ、私病気かしら」
「まさしく、病ですわ、お嬢様!」
パメラに断言され、ガクリとエミリアーヌは肩を落とす。
幸せを知らぬままに、病に罹って命を落とすのかと思うと、さすがのエミリアーヌも自分の不幸を嘆いた。
「そう……私、いつ死ぬのかしら」
「違いますわ、お嬢様! それは病でも、恋の病ですのよ!」
「恋の……病……これが?」
「はい!」
こっくりと自信満々に頷いているパメラ。エミリアーヌは信じられずにきょとんと彼女を見た。
「だって、苦しいのよ?」
「はい!」
「ディオンが私のことを思っていないと思うと、悲しくて」
「はい!」
「恋とは、幸せで、わくわくして、ふわふわとして、常に笑顔になれるものではないの?」
「それもありますが、つらく苦しいのもまた、恋なのですわ!」
「まぁ……」
これが、どうやら恋だったらしい。
こんなに苦しいものだとは、思ってもいなかった。ディオンの顔を見ると嬉しくはなるが、これでは苦しみの方がまさっているではないかとエミリアーヌはショックを受ける。
「恋とは……こんな気持ちになるものだったのね……」
「お嬢様の初恋、でございますわね! おめでとうございます!」
「ありがとう……と言っていいのかしら」
「さすがディオン様ですわ! エミリアーヌ様に恋の気持ちを教えて差し上げられるなんて! 私、ディオン様にこのことを伝えて参りますわね!」
「ま、待って!」
今にも部屋を出ていきそうなパメラを慌てて止めた。
自分の気持ちを告げられるのが恥ずかしいのもある。だがそれよりも。
「言わないで、パメラ! 恋の気持ちを知ることができたら、お父様の言う人の後妻に入ると約束してしまっているの!」
ピタッとパメラの動きが止まる。そして振り向いた彼女の顔は、青ざめていた。
「お嬢様〜〜?! どうしてそんな約束をしてしまうんですのーー!!」
「恋の気持ちを知れたら、その幸せな気持ちだけでなにがあっても平気だと思っていたのよ……」
今度はパメラの方が溜め息を吐いた。
彼女の方が年下だが、まるでお姉さんのようにパメラの両手を握ってくる。
「お嬢様……その約束をしたのは、旦那様ではありませんわよね?」
「ええ、約束したのはディオンよ。恋させてとお願いしたのを知っているのは、あなただけだし」
「それを聞いて安心いたしましたわ。ディオン様には、お嬢様が恋をしたことは内緒にしておきましょう」
「ええ」
コクリ、とエミリアーヌは頷く。こんな想いを抱いて他の人と結婚なんて、考えられるわけもない。
いずれは父親のいう人と結婚しなければいけないのはわかっているが、一秒でも先延ばしにしたかった。
「そして当初の予定通り、お嬢様がディオン様を惚れさせるんですわ! 恋は相思相愛でないと、困難を乗り越えられませんもの!!」
握り拳を作りながらキラキラと熱く語るパメラ。
あのディオンを、自分に惚れさせる。今は演技をしているだけの彼を、本気に変える。
「……自信がないわ……」
「簡単ですわよ。ディオン様は昔、お嬢様に惚れていたんですのよ?」
「え?」
予想外の言葉を聞いて、エミリアーヌはパッと顔を上げる。そこには少し意地悪く笑っているパメラの姿があった。
「それは、本当……?」
「はい。お嬢様がご結婚されてこの屋敷を出ていった日のこと、私はよおっく覚えていますわ。あの日の夜、私はやけ酒を飲んでいましたの」
「やけ酒? あなたが?」
「そうですわ」
コクリ、とパメラが頷く。
「どうして侍女として私を連れていってもらえなかったのかと思うと、悔しいやらお嬢様に申し訳ないやらで、自分の至らなさに嫌気がさしたのですわ」
「あれは……」
「わかっております、ディオン様にあらかたの事情は伺いましたから」
エミリアーヌの言葉を堰き止め、パメラはそのまま続けた。
「そうして近くの店で飲んでいると、ディオン様もやってこられたのです。二人でやけ酒ですわよ」
「ディオンも? どうして?」
「私も最初はわかりませんでしたわ。けれど、潰れる寸前、ポツリとこぼしたのです。『私はお嬢様が、好きだった』と」
ポカンとパメラを見る。パメラはこれ以上ない『どうだ!』という顔をしていて、エミリアーヌは少し笑った。
「それ、本当の話?」
「本当ですわ! 私、お嬢様に嘘などついたりいたしません!」
「ディオンが、私のことを……」
あの日の、ディオンが言った『お嬢様、どうぞお幸せに』という言葉。
あれをディオンはどんな気持ちで言ったのだろう。
恋がどれだけ苦しい気持ちなのかというのは、今のエミリアーヌならわかる。
その気持ちを抱えて、相手の幸せを願いながらお別れをする。想像するだけで、胸が苦しい。
「まぁ、ディオン様は他の女性と付き合っていたりもしましたし、今、お嬢様にどういう思いを抱いているのか、私にはわかりかねますが……」
そこまで言って、パメラは胸の前でグッと握り拳を作った。
「きっと、大丈夫ですわ! お嬢様にはあの頃のような……いいえ、あの時以上の魅力がありますもの!」
「ありがとうパメラ……」
パメラの気持ちが嬉しくて、ふんわりと彼女を包む。
そんなエミリアーヌを、パメラは『よしよし』というように頭を撫でてくれた。
「お嬢様、今度こそ幸せになるのですわ!」
ゆっくりと離れると、パメラはやはりキラキラしたまま応援してくれる。
「けど、ディオンが私を好きになってくれたとして、結婚なんてできるわけが……」
「そこは愛する二人のパワーで、乗り越えられると相場が決まっているのですわ! お嬢様はお気になさらず、ディオン様をたぶらかすのに全力を尽くせばよろしいのでございます!」
「た、たぶら……ふふっ」
なんだか悪女にされた気分になり、おかしくて声が勝手に上がった。
「うふふ、そうね。ディオンをたぶらかしてしまいましょうか」
「その意気ですわ、お嬢様!」
背中を押されたエミリアーヌの心は決まった。
パメラの言う通り、今は他になにも考えず、ディオンの心を奪ってしまおう。
それが、エミリアーヌの望みだったから。