08.言い伝え
キクレー邸に泊まらせてもらった翌朝、エミリアーヌとディオンはお礼を言って家を出た。
どうやらディオンはセヴェリと夜遅くまで話し合っていたようで、少し寝不足のようだ。
けれども「有意義な時間を過ごせた」とディオンは満足顔で、エミリアーヌも嬉しくなった。
町の外で待っているはずの馬車と護衛騎士のところへ向かう途中で、例の月見草畑の前を通りかかった。
人だかりは昨日ほどではないが、それでもたくさんの観光客が花を愛でている。
月見草畑の道を進み、幸せそうなカップルが一組、真ん中でキスしていた。エミリアーヌはついその様子をじっと見てしまう。
「いいわね……」
心の声が、ふと漏れた。
人を好きになれること。その好きな人と、こうして幸せな時間を過ごしていること。
ここでキスした二人は永遠に結ばれるという言い伝えを信じ、そして皆、それを実行しようとしている。
人を羨むばかりではいけないとはわかっているが、それでも憧れだけはどうしようもない。
「お嬢様さえ良ければ……していきますか?」
予想外の提案をされ、エミリアーヌは目を広げながらディオンを見た。
「いいの?」
「私は構いません」
「ヘタれない?」
「ぐっ……大丈夫、です」
やはり申し訳ないなと思いつつも、好奇心の方がまさってしまう。
ディオンに手を繋がれ、エミリアーヌは月見草中の道を歩いた。
心地のいい陽だまりの中で、さわさわと優しい風が吹き抜ける。揺れ動くたくさんの昼咲き月見草が、エミリアーヌ達を歓迎してくれているようにさえ感じた。
「ここが、中央のようですね」
ちょうど月見草畑の中央が、石で円に敷き詰められている。
キスポイントはここだろう。エミリアーヌはドキドキしながらディオンを見上げた。するとディオンは、少し緊張した面持ちでエミリアーヌの瞳を覗いている。
「あら、あなたでも緊張なんてするのね」
「そりゃしますよ。私のような者が、お嬢様とキスするんですから」
「ただのおばさんよ?」
エミリアーヌが苦笑するも、ディオンの真剣な瞳は変わらない。
「お嬢様はお綺麗です。お嬢様に会った男は、全員恋に落ちてしまうのではないかと思うほどに」
「言い過ぎよ……誰にも相手にされなったから、私は今こうして一人なのだから」
言いながら切なくなった。
誰も、自分のことなど目に入ってなどいないという事実が、つらくて寂しくて。
「お嬢様」
グイッと体を引き寄せられた。
ドクンと胸が波打つ。
「私は、お嬢様を見ていますから。この先も、ずっと」
「ディオ……」
彼の名を全て紡ぐ前に、唇が塞がれた。
強く、しかし優しく押し当てられたそれは、エミリアーヌに喜びを与えてくれる。
おそらく、たった数秒のくちづけだっただろう。
なのに、永遠を漂うかと思うほどの浮遊感だった。
近すぎて見えなかったディオンの顔が、徐々に視界に入ってくる。
しかしその顔は、喜びよりも苦しみの方がまさっているように、エミリアーヌには感じた。
「……ごめんなさいね、こんなことをさせてしまって」
そうだ、ディオンは別にエミリアーヌのことが好きなわけではないのだ。
それを突如として思い出し、申し訳なくて身を竦める。
「いいえ、私の意思でしたいと思ってやりましたので」
「優しいわね、ディオンは」
ディオンの優しさが、胸に刺さった。
当然だ。彼は、エミリアーヌを惚れさせる行動をとっているに過ぎないのだから。
「お父様には内緒よ?」
「わかっております、私もその方が助かります」
家令という立場の人間が、仕える家の娘に手を出したとしれたら、どう転ぶかわからない。ディオンの好きなこの仕事を、彼から奪うわけにはいかないのだ。
「あなたは、私を好きになってはダメよ?」
だというのに、エミリアーヌは試すような言葉を掛けてしまった。
「承知しています。私のような身分で、そのような大それたことは考えておりません」
その返事を聞いて、エミリアーヌはクスリと笑ってしまった。
なんと言ってほしかったというのだろう。
好きになってしまったと、仕事なんていくらでも捨てられると、そんな言葉を望んでいたとでもいうのだろうか。
そこまでは嘘をつけない人物なのだなと、エミリアーヌの瞳からはぽろりと涙がこぼれ落ちる。
「お嬢……様?」
「あらやだ、泣いているわ。あなたと初めてキスできて、嬉しかったみたい」
そういうと、エミリアーヌはもう一度引き寄せられて、熱いキスをされた。