10.恋心は思った以上に
エミリアーヌは、じい〜っとディオンの瞳を見つめる。
仕事の休憩時間にディオンを誘い出し、メルシエ邸の庭を散策しながら彼を見上げ続けるのだ。
パメラに見つめるのが有効だと言われたので、それを早速実践しているというわけである。
「あの……私の顔に、なにかついていますでしょうか」
「目と鼻と、口くらいかしら。あ、眉毛もあるわね」
「そんなに見る必要がございますかね……」
ディオンは少し困惑気味の声を出した。
おかしい。これで落とせるというのは、嘘の情報だったのだろうかと首を傾げる。
その瞬間、かつんと足元が石に取られた。
「あっ」
「お嬢様!」
こけそうになったエミリアーヌをスッと支えてくれるディオン。細身なのにたくましい腕に包まれた。
「上ばかり見ているからですよ。お気をつけください」
「わ、わかっているわ。ありがとう」
「足は、怪我をされていませんか?」
心配そうに足元に目を落としてくれるディオン。特に挫いてもいないようで、どこも痛くはない。
「大丈夫だけど……もし挫いていたら、どうしたの?」
「そりゃ……僭越ながら抱き上げて、部屋までお連れするしかないかと」
「まぁ、お姫様抱っこというものね? してほしいわ!」
「ええ?! 足は挫いてらっしゃらないんですよね?!」
「そうだけど……ダメかしら」
しょぼんと肩を落とすと、ディオンは周りをキョロッと確認し、そして息を吐いた。
「部屋まではちょっと……そこのベンチまででもよろしいでしょうか」
「ありがとう、十分よ」
エミリアーヌがそう告げた瞬間、ふわりと体が浮いた。
恋した相手に抱き上げられ、自分から望んだことだというのに顔が熱くなる。
重くはないだろうかと気になるも、ディオンは平然とした顔でスタスタと歩いていた。ベンチにそっと降ろされ、ディオンもその隣に座っている。
初めてされたお姫様抱っこ。ほんの少しの距離ではあったというのに、まだドキドキが収まらない。
「お嬢様、具合でも悪いのでは?」
「え? どうして?」
「顔が赤くていらっしゃるので、熱でもあるのかと」
「ないわ、大丈夫よ。これは、あなたにお姫様抱っこをしてもらったからなの」
正直に告げると、ディオンはクスリと笑った。
「それは嬉しいですね。少しは私に恋心を抱いてくれましたか?」
「……どうかしら」
もう好きになっている、とは言えずに、曖昧に誤魔化す。ディオンが残念そうに笑うので、胸が痛い。
「あなたはどうなの? 私に恋心は抱いていないの?」
「私は……いいえ、そのような感情をお嬢様に持つわけにはいきませんので」
ずきん、と心がさらに痛む。
きっと、どんなことをしても、ディオンは振り向いてくれない。そんな気がして。
「あなたは昔、私のことを好きだったと、ある人から聞いたわ」
たまらずそのことを口に出すと、「パメラのやつ……」とディオンは歯ぎしりしている。
そして観念したようフッと息を出して口を開いた。
「申し訳ございません。若気の至りでした。今は当時と違い、分をわきまえておりますのでご安心ください」
キッパリと淀みなく宣言されてしまった。
胸が痛い。苦しい。ディオンはもう、エミリアーヌを好きになってはくれないのだと思うと。
知らぬ人の元へ、後妻に入らなければならないのかと思うと。
恋をしても、自分には幸せな気持ちは訪れないのだと悟り、勝手に目から熱いものが流れ落ちる。
「……お嬢様?!」
ディオンが慌てた声を上げた。
いきなり泣かれて、きっとわけがわからないに違いない。
泣き止もうと思っても、悔しくて悲しくて、あとからあとから涙がこぼれ落ちる。
ディオンを手に入れるためなら、なんだってしてやりたい気分だ。
エミリアーヌは、自分にこんな黒い感情があるなんて、思ってもいなかった。元夫のフランドルの気持ちが少しわかってしまった気がする。
自分に力があったなら、きっと権力だって武力だって構わず行使しているに違いない。恋はこんなにも人を狂わせる力を持っているのだと、エミリアーヌは初めて理解した。
こんな自分が恐ろしいと思いつつも、止められなかった。
腕をディオンの後頭部に回すと、その頭を自分に引き寄せる。
「お嬢さ……っ」
ディオンのくちびるを、無理やりに奪ってやった。
月見草畑の中でして以来、一度もなかったキスを。
この敷地内では誰かに見られる可能性だってあるというのに、自制が効かない。
ちゅ、と音を立てて離れると、ディオンの顔は赤くなりながらも驚きの方が色濃かった。
こんなこと、今までのエミリアーヌでは考えられない行動だろう。エミリアーヌ自身、自分が信じられなかった。
「お、お嬢様……いきなりなにを……」
冷静なディオンも、さすがに混乱しているようだ。
この人のすべてが欲しい。そしてすべてを捧げたい。
ディオン以外の人との結婚なんて、絶対に絶対にいやだ。
エミリアーヌはそのままギュッとディオンを抱きしめる。誰にも渡すまいとだだをこねる、小さな子どものように。
「まさかお嬢様……私に、恋を……?」
ディオンの口から発せられる言葉に、エミリアーヌはハッとして彼から離れた。
バレて、しまった。
ディオンに恋をしたら、誰かの後妻に入ると約束してしまっているというのに。でももう、気持ちは止められない。
「そうよ……私、ディオンに恋したのよ……っ」
「本当ですか……」
「恋がこんなに苦しいなんて、知らなかったのよ!」
普段は荒げることのない声を上げ、エミリアーヌはベンチから立ち上がった。
もう終わりだと思うと、やはり涙は滝のように流れ落ちる。
恋を知れば、ずっと幸せな気分でいられるのだと思っていた。その思いを知れば、誰と結婚しても幸せな気分を思い出して、生きていけると思った。
けど、実際は違う。
恋はこんなにも苦しく、自分を醜くさせるものだとは、思いもしていなかったのだ。
「ディオン、私と駆け落ちして! 私、あなた以外の人と一緒になるなんて、嫌よ!」
「お嬢様、それは……っ、少し落ち着いてください!」
ディオンも立ち上がったが、彼はとても冷静でいるように見えた。
わけがわからなくなって、思わず駆け落ちなどと言ってしまったが、そもそも駆け落ちとは好き合った男女がするものだ。ディオンにその気がないのに、駆け落ちなんてできるわけがない。
上り詰めた家令兼執事という職を捨てて、好きでもない女と駆け落ちなんて、できるはずがないのだ。
「ふふ……ああ、私は、もう……」
己のみっともない振る舞いに嫌気がさす。
恋とはなんと苦しくて悲しくて、醜くてやるせない感情を呼び起こすものなのだろうか。
こんな感情、知らなければ良かった。
そうすれば、なにも考えることなく次の人のところへ行けたというのに。
「ごめ、なさい……ディオン……」
「お嬢様……」
「大丈夫よ……忘れて。私はちゃんと、約束を守るわ……」
エミリアーヌは、最後の理性を振り絞るようにして、そう伝えた。
最後くらいは、ディオンに〝いい女〟として映っていることを願って。