高一族の危機
皇帝高洋の死後、高演は葬儀を主宰するも、高一族は執政権を失ってしまう。婁太皇太后を後ろ盾とする高長恭は、明るい未来を感じることができなかった。
宰相で尚書令の楊愔に執政権を奪われ、晋陽宮の東館を離れた高演は、半ば禁足状態で他の廷臣との面会を断っていた。
そんな中で高演の元を訪れていたのが、王友と言える王晞であった。
王晞は、字は叔朗といい名文家の王元景の弟である。五十歳だが、風韻漂う美男子であり二十六歳の常山王高演にとっては信頼のおける伯父のような存在であった。
「常山王、鳥の王の鷲であっても一旦巣を離れれば、卵を奪われる危険が生じる。しかるに、新帝の叔父であるそなたが、皇宮を離れていいのであろうか」
書房にこもり、几案に座って書冊を開いている高演の前に立ち、王晞は熱弁をふるった。
「東館を出よとは新帝の命だ。私は従うしかない」
高演は、八方ふさがりの状態に肩を落とし溜息をついた。
「陛下の叔父であり録尚書事である常山王は、皇宮で天子を輔佐するべきでありましょう。臣下の思いは一致しておるのです。そなたが皇宮の外に出て、執政権を失うなどあってはならぬことだ」
高演は、王晞の言葉をありがたく聞いたが、頷くことはなかった。その後、陽休之が訪ねてきても会うことはなかった。勅旨に反して謀反人の汚名をきることを恐れたのである。
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これより先、六月には、陳では武帝陳霸先が崩御した。武帝の嫡子は、長安に留め置かれていたので、帝位の空白を恐れた陳の朝廷では、苦渋の選択として七月に庶子の陳蒨を文帝として即位させたのである。文帝は章皇太后の実子ではなかったため、陳の朝廷に波風が立った。
梁の丞相の王琳は、陳の朝廷の波乱を突いた。十月になると天啓帝簫莊を伴い、長江の中流にある汾城から陳を撃つべく東に向って出撃したのである。王琳の梁軍は、汾城の東北にある大雷を攻めた。続いて、王琳軍の堤霊洗は、南陵を撃破した。王琳軍は、かつて支配していた濡須口に到り、北斉の慕容儼は、長江北岸に軍を展開しこれを助けた。また、巴陵太守の任忠が、汾城を急襲した呉明徹を追い払った。
父王琳の軍は、北斉との同盟に力を得て、長江沿岸の梁の勢力を維持していたのである。
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太皇太后が晋陽で住まう仙居殿は、雪が消え残り、後苑の臘梅の花が屋根の甍に美しく映えた。
青蘭は、恒例の年末の炊き出しのために、仙居殿を訪れていた。正殿の居房では、花器に生けられた臘梅の花が黄色い透明な花弁を広げていた。
青蘭が婁氏を見ると、先帝の葬儀の後、婁氏の頬が心なしかやつれたように見える。
「太皇太后様、お食事は召し上がっていらっしゃいますか?菓子を作って参りました」
青蘭は挨拶をすると、食盒に入れた菓子を秀児に渡した。
「そなたの健康の菓子か、なつかしいのう」
青蘭が、宣訓宮にいたときは、婁氏の体調に合わせて菓子を作ったものだった。
婁氏は、青蘭に椅を勧めた。
「粛は、漁陵王のこと何か言っておるか」
婁氏は、青蘭に茶杯を勧めながら訊いてきた。新帝の即位に関わる叙爵により、兄の長恭が爵位を持ってないのに拘わらず、六弟の高紹信が漁陵王に封じられたのである。
「いいえ、何もおっしゃいません」
「やはり、気にしておるのだな。粛は本当に気にしていることは決して喋らぬ」
温かい茶杯から、白い湯気がゆらっと立ち昇った。やはり長恭は、気にしているのだ。
「新帝の即位後、楊愔と高家は、微妙な関係にある。そこに粛を巻き込みたくなかったのだ。今は耐えよと伝えてほしい」
「承知いたしました。・・・今後、何かがあると?」
青蘭は、探るように婁氏の顔を窺った。
「もうすぐ鄴都に戻ることになる。そうしたらすべてが動くであろう。粛の力を借りる時が来るやもしれん」
婁氏は、青蘭に笑いかけた後、杯を傾けるとゆっくりと茶をすすった。
青蘭は正殿を退出すると、御膳房へ行きかつての朋輩を探し、婁氏の健康や廷臣の訪問について聞きだすのを習慣としていた。
「先帝が崩御されてから、食欲が細くおなりです。冬の晋陽は寒すぎるわ」
「そう言えば、最近は段韶様の他に常山王や長広王がよくいらっしゃいます」
高演、高湛の息子たちと太皇太后は、新年に向けて何か画策しているのであろうかと考える青蘭であった。
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新帝高殷は、十二月の下旬に晋陽から、鄴都に戻ることになった。新年の諸行事を鄴都で行い新帝としての体裁を整えるためであった。
正殿の堂では、長恭の叔父に当たる常山王高演と長広王高湛が、母である太皇太后の元を訪れていた。
「兄上、どうして今上帝の供をして鄴都に行くのです」
堂に通された高湛は、兄の高演をなじるように溜息をついた。
晋陽は副都であり北方の守りの要である。父の高歓が幕府を開いたこともあり、政務を執らない高演が、北方の守りにつくのは自然な事であった。しかし、こたびは高湛を残して高演を伴って帰京するという。晋陽は、高一族の本拠地である。
「私が、晋陽で勢力を蓄えるのを警戒しているのであろう」
長広王高湛は、口を歪めて右にいる常山王高演に目を遣った。端整な面立ちを、鋭い目付きが裏切って、どことなく酷薄な印象を受ける皇子である。
「ふん、楊愔何する者ぞ。鮮卑族の力を見せてやる」
「政務では、楊愔にやられたが、力では負けはせぬ」
高演は、憤懣やる方ないと言うように、秀でた眉目を歪めて歯がみした。
「まったくです。楊韻と高帰彦のやつ。・・・高帰彦のやつ、皇族でありながら・・・」
高湛は、拳を己が掌に強く当てた。
ほどなく、太皇太后が現われた。文宣帝の崩御以来、心なしかやつれたような面差しである。
「母上に、御挨拶を」
二人は、正面に座った婁氏に、礼に従って拝礼した。
「演よ、執政を大変であったな」
二人を座らせた婁氏は、まず高演をねぎらった。
「母上、ご期待戴きましたが、せっかくの執政に機会を、わずか一か月で失うとは、慚愧に耐えません」
高演は、申し訳なげに下をむいた。
「よい、まだ機が熟していなかったのだ。何事を行うにも、天の時、地の利、人の和が大切だ。こたびは、まだ、その時ではなかったのであろう」
高演を慰めるように、婁氏は笑顔を作ると、二人に茶を勧めた。
「李皇后と結びついた楊愔と高帰彦は、皇宮で大きな力を握っている。それを排除しなければ、我々高一族は手も足も出ない」
婁氏は、激する高湛を落ち着かせるように手で制した。
「今は、楊愔や高帰彦の動向を掴むことが重要だ」
婁氏は、一番信頼している高演を見た。
「楊愔や高帰彦の屋敷にも、密偵を放っている。不穏な動きがあれば、直ぐに対応できるようにせねばならぬ。二人だけでなく、従兄の段韶にも助力を求めよ。必ずよい策を出すであろう」
段韶はこの時司徒であり、三公として位は高いが実権のない官職に追い遣られていた。権力に汲々としない大人の風格を持つ段韶であったが、忸怩たる思いであろう事は想像に難くないのである。
「とにかく、迂闊な振る舞いで、足元を掬われてはならぬ。十分自重することだ」
高演は、時に激しやすい高湛に言い聞かせるように目を向けた。
『四人いた息子は、二人になってしまった。ここに長子の澄が居てくれたら、このような事にはならなかったであろうに』
今更ながら、最愛の息子高澄の死が悔やまれるのであった。
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晋陽の北に位置する蓬莱閣が、静かな暁闇の中で眠っている。蓬莱閣は、汾水の辺に立つ道灌(道教の寺院)である。
長恭と青蘭は、暗闇の中で馬車を引き出すと西へ向かった。薄暗い喬木の林を下ると、目の前に汾水につながる平原が現れる。平原は凍てつき、枯れ草には白い霜が降りている。蒼穹は限りなく透明で、星をちりばめた藍色がどこまでも続いている。
長恭と青蘭は馬車を降りると、思わぬ寒さに被風の包を被った。南東に広がるの汾水の川下を見ると薄藍色の空の下に氷霧が漂っている。
長恭は、被風を広げると青蘭を包むように後から抱き締めた。昨夜強かった風が、ほぼ止まっている。
東の空が薄藍色から、青磁色に変わり浅紅色になった頃、太陽の片鱗が見えた。
太陽の光が鬱金色になった時、氷霧が月白色になった陽光を受けて輝きだした。それは、青蘭が見たことのない金剛石の細かい粒であった。細氷は霜に覆われた草の間を、長恭と青蘭の前を、輝きながら漂いながら流れて行く。
「輝いている。きれいだわ」
青蘭が、長恭にもたれ掛かると、柔らかい体温が感じられる。青蘭の被風の白狐の縁取りが、朝日を受けて明るい輝映を見せている。
「君にこれを見せたかった」
長恭は、細氷の眩しさに目を細めた。青蘭と見る細氷は、美しい輝きを見せていた。長恭は、包を下ろして青蘭の冷たい頬に唇を寄せると、熱い吐息を吹きかけた。
青蘭が長恭の肩に頭を預けて溜息をついている間に太陽の光が強まり、細氷は最後の大きな輝きを放って消えていった。
すでに辺りの氷霧は消え去り、白い霜が地面を輝かせている。細氷は、凍り付くような朝のほんの一時に現れる輝きなのだ。
「師兄、きれいだけれど、本当に寒い」
青蘭は、指先の凍えを感じて長恭の被風の中に腕を差し入れると抱き付いた。二人の沈香と茉莉花の香りと体温が溶け合って、二人の心を温めた。
ほどなく二人は、馬車に戻り込むと北に向かって走り出した。
肆州の近く大行山脈の麓、浄居寺の近くに長恭の母荀翠蓉の陵があった。素朴な石碑と小さな丸い小山だけの簡単な墓である。長恭と青蘭は、涙を堪えながら、墓石の汚れを掃った。そして、持参した供物を奉げ酒を大地に注いだ。長恭と青蘭は荀氏の墓に礼拝すると夜には蓬莱閣に戻った。
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これより前、十一月十八日、文宣帝の棺が多くの臣下に守られて晋陽より鄴都に戻った。陵墓への埋葬のためである。
晋陽では、高殷を輔佐する楊愔や高帰彦が、高演を政務の場から追い遣り、新しい政治の流れに期待をかけていた鮮卑族の勲貴派の人々を落胆させた。そればかりでなく王晞や陽休之など漢族の士大夫たちからも、高演の執政を望む声が上がって来ていた。
新帝高殷が鄴都への帰還が迫った。
楊愔や高帰彦の憂慮は、高演が晋陽で力を蓄えて兵権を握り、高殷に対して反旗を翻すことであった。そこで長広王高湛を晋陽に残し、高演を鄴都に同行させることにより、互いに連携することを阻もうとしたのであった。しかし、高湛にも不安を感じた楊愔や高帰彦は、高演と高湛を共に鄴都に同行させ、王晞だけを幷州長史として晋陽に残すことにしたのである。
高演が鄴都に戻るとき、親しい王晞は、晋陽の郊外まで見送りに出た。
二人はそれぞれの馬車を降りると、峠の鄙びた四阿に入った。
「王晞よ、晋陽は北方の守りの要だ。幷州長史として、しっかり幷州の守備を固めてくれ」
鄴都に行けば、楊愔の監視下に置かれ、高演は命の危険もありえるのだ。高演は、これが今生の別れかもしれないという悲壮な想いを込めて王晞を見た。
「大丈夫だ。晋陽には幷州の守備隊がおるのです。それに近衛軍も五千駐屯しているので・・・」
近衛軍は、皇帝と首都を守る軍である。新帝高殷が鄴都に戻るのに、五千もの近衛軍が、晋陽に駐屯していることがおかしい。晋陽の幷州軍を警戒してなのか、それとも、楊愔と高帰彦の間に齟齬が生じたのか。高演は、首をひねった。
「王晞よ、私は楊愔に睨まれている。見送りに来たことが知られれば、そなたに災いが及ばないか心配だ。早く戻ってくれ」
高演は、王晞の手を取りながら言った。
「何を言っている。私より延安(高演の字)の方が心配だ。鄴都に戻れば、命も危ういのだ」
「鄴都には、高湛も戻ることになったので大丈夫だ。そなたこそ、監視されていると思わなければならぬ。一挙一動に気を付けるのだ」
そう言うと高演は悲壮な覚悟で馬に鞭を当てて鄴都に向かった。
先帝高洋の死後、高演は、一時手にした執政権を失ってしまう。新帝高殷の鄴都での帰還にともない、高演と高湛の兄弟は、動向を命じられ楊愔の監視下に置かれてしまう。楊愔と高一族の対立は、場所を鄴都にうつして舞うます激しさを増すのであった。