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強いられた婚姻

青蘭の策により、高洋の罠から逃れた長恭であったが、今上帝の酒毒は、斉の国を腐らせていくのだった。

     

木香薔薇(もっこうばら)の赤い花が屋敷の後苑に咲き、長恭と青蘭のいる四阿(あずまや)の後ろの蓮池(れんち)に睡蓮が青々とした丸い葉を伸ばしていた。

「君の助けがなかったら、今頃、私は命がなかった」

「でもそのせいで、私は鬼のような妻と言われているのよ・・・」

青蘭は、頬を膨らませて不機嫌そうに横を向いた。

「大丈夫だ。君の優しさは、私が知っている」

長恭は、青蘭の手を引くと膝に上に座らせた。上襦(じょうじゅ)浅葱色(あさぎいろ)長裙(ちょうくん)珊瑚色(さんごいろ)の夏らしい鮮やかさが、長恭の膝の上で花のように広がっている。長恭は青蘭の肩を抱くと、白い首筋に唇を当てた。


「兄上、昼間から仲のよいことで・・・」

聞き覚えのある声に驚いて、長恭と青蘭が体を離すと、四阿の側に笑顔の延宗が立っていた。

「何だ延宗、どこから入って来たのだ」

青蘭を膝の上から降ろすと、長恭は照れ隠しぎみに延宗を(にら)んだ。

「門衛に、案内はいらないと言ったら、通してくれたよ」

延宗はあっけらかんと言うと、長恭の弓を手に取った。

「兄上、話があるのです」

延宗が弓を構えたり引いたりして躊躇(ちゅうちょ)しているのを見て、長恭は青蘭に目配せをした。何か、自分に聞かせたくない事があるに違いない。

「延宗様、茶菓子をお持ちしますわ」

青蘭が立上がると、長恭はほっとしたように顔をほころばせた。足早に四阿を出て沈丁花(じんちょうげ)の木の陰に来ると、青蘭は立ち止まって振り返った。

『兄弟だけの秘密の話なの?それとも、父王琳に知られたくない情報なのかしら』

士大夫の夫婦は、それぞれの家門を代表している。秘密があっても当然だ。そうは分かっていても、青蘭には内密で話そうとする長恭の気持ちが悲しく感じられた。


「兄上、高徳正殿が昨夜亡くなりました」

延宗は、腹の底から絞り出すような声を挙げた。

「えっ、先日、尚書右僕射(しょうしょうぼくや)になったばかりの高徳正殿がか?」

高徳正は皇族ではないが、高歓、高澄、高洋に仕え、相府掾(そうふしょう)黄門侍郎(こうもんじろう)を歴任した。長らく侍中を勤め、二か月前には、尚書右僕射に抜擢(ばってき)されたばかりであった。

「なぜ、高徳正殿が亡くなったのだ」

「陛下に、殺されたのです」

虚ろな瞳で、延宗は投げつけるように呟いた。徳正の死の話は、まだ長恭の耳に入ってきていない。


無軌道(むきどう)な振る舞いを重ねていた高洋であったが、東の空に太白星(たいはくせい)(大きく輝く金星)が出て以来その躁狂(そうきょう)さを増していった。太白星が出ることは、政治が大きく動く前兆とされていたのだ。一方斉国の危機を感じた高徳正は、高洋に対してたびたび諌言(かんげん)を行った。


あるとき、宴で徳正に酒を強いる高洋に、徳正は言った。

「陛下、私は暇をいただきたい。陛下の酒毒は酷くなるばかり、これでは斉国はどうなるのでしょう。皇太后はお許しになると思いますか」

国家の存亡と母の皇太后を持ち出すことにより、反省を迫ったのである。酒毒に侵された高洋にも、母の婁皇太后は泣き所であった。しかし、このことが返って皇帝の怒りに火をつけた。

「徳正は、(ちん)よりも偉いつもりらしい。いつ皇帝に説教できる身分になったのだ」

必死の思いで忠言(ちゅうげん)を呈する徳正に、高洋は皮肉な言葉を投げつけた。

その言葉に絶望した徳正は、病と称して出仕しなくなった。そして、寺に籠もって外部との連絡を絶ったのだ。身の危険を感じたのである。


しかし、漢人官吏の勢力を削ごうとしている楊宰相(ようさいしょう)にとっては、これは徳正を排除する好機であった。

「徳正の病は、詐病(さびょう)にございます。その証拠に、冀州刺史(よくしゅうしし)に任命すれば、きっと嘘のように元気になりましょう」

と、誣告(ぶこく)をしたのである。それを信じた高洋は、冀州刺史に任じる勅旨(ちょくし)を宦官に持たせて遣った。床に臥せっていた徳正は、この勅旨を受けると、直ぐに起き上がった。命の危機が去ったと思いほっとしたのである。しかし、それを間者に聞いた高洋は、激怒して直ぐに徳正を呼び出した。


「病を治すために、朕自ら針を打ってやろう」

そう言うと、高洋はヒ首(ひしゅ)を取り出し徳正を滅多差しにしたという。その後、皇帝自ら屋敷に押し入りその妻と子の高伯堅(こうはくけん)を斬った。

「徳正は、鮮卑族を除き漢人を用いるべきだと言っていた。元一族の族滅も徳正の勧めだ。元一族の敵を取ったのだ」

高洋は、徳正を殺した理由をこのように述べたが、全く酒毒による妄言(もうげん)としか言いようがない。むしろ、漢族の台頭(たいとう)を危惧し、鮮卑族の安寧(あんねい)を図ろうとして楊宰相と対立していたのだ。

そののち、高洋は酒が切れると、徳正を殺したことを悔やんだ。後に高徳正に太保と冀州刺史を追贈し、孫の高王臣に藍田県公(あいでんけんこう)の爵位を継ぐことを許したという。


「何ということだ。陛下の酒毒は、そこまで極まったか」

長恭は、椅に座ったまま頭を抱えた。

「高徳正は、功臣であろう。そんな忠臣を無残にも殺してしまったのか。この国は、何という国なのだ」

長恭は、『狂っている』と言おうとして、口をつぐんだ。例え自分の屋敷であろうと、最愛の兄弟であろうと、迂闊(うかつ)なことを言えば、無残な死が待っているかもしれないのが、この北斉の国なのである。


「でも、それだけではないのです」

いきなり、延宗が長恭の耳に唇を寄せてきた。

「もっと、恐ろしい事が起きるかも知れない。先日、陛下と彭城公(ほうじょうこう)元韶(げんしょう)が、話しているのを聞いてしまったのです」

元韶は長恭の伯母の夫であり、美男子であるが懦弱(じゅじゃく)懦弱(じゅじゃく)で臆病な性格だった。

今上帝高洋が、元韶に尋ねた。

「漢の光武帝は、なぜ漢を再興できたのであろう」

王莽(おうもう)が、劉氏を皆殺しにしなかったからでしょう」

「なるほどのう。卓見(たくけん)よのう」

高洋は、卑しい笑いを浮かべて得心したように頷いていたという。元韶は北魏の皇族であるが、高歓の娘婿であるため寵遇(ちょうぐう)されていた。皆殺しという言葉を聞いて、陰で聞いていた延宗は血の気がひいた。

「陛下は、酒が入ると急に、人が変わるのだ。いつか・・・元氏が皆殺しに合うのではないかと心配で・・・」

長恭は、青ざめた顔でいきなり延宗の肩を、がちっと掴んだ。

「今のこと、決して口にしてはならない。命に関わる。御祖母様にも、許嫁(いいなずけ)にも、絶対だ」

延宗は、最近李皇后の姪李氏と婚約したばかりだった。来年婚儀を挙げれば、戚里(せきり)(高官の屋敷街)に屋敷を賜り後宮を出ることになっていた。

「延宗、婚儀を早く挙げるように、皇后様にお願いしたほうがいい」

長恭は、弟の頭を乱暴に撫でると、延宗の頭に自分の頭を付けた。

「我々は、今耐えるしかない」


      ★       ★


夕暮れも迫り、長恭が正殿の奥の居房に入ると、壁際の(とう)に座って青蘭が、『荀子(じゅんし)』の書冊を開いていた。

髷を下ろし、内衣の上に珊瑚色(さんごいろ)夜着(よぎ)を着た青蘭は、蝋燭(ろうそく)の灯火を寄せて次の項をめくっていた。長恭は、声を掛けそびれ、先に卧内で待つことにした。


延宗の話が頭から離れない。『君主に仕えるは、虎に仕えるがごとし』と言われる。皇帝の身近に仕えると言うことは、常に命の危険を感じるということである。同じ鮮卑族で功臣と言える高徳正を、そのような残虐(ざんぎゃく)な手口で殺すとは、とても正気とは思えない。

昼間に延宗が来てから、青蘭の態度が妙によそよそしい気がする。これまで、青蘭とは常に兄弟弟子として、あるいは想い人として秘密を持つことなく振る舞ってきた。しかし、皇宮の内部の事情を、全て青蘭に知らせるわけにはいかない。長恭は、一人横になる孤独な榻牀を撫でた。


「何を怒っているのだ」

長恭は意を決して居房に入ると、榻に座り書冊を読んでいる青蘭の横に腰掛けた。青蘭は、書冊から目を離さない。

「特に何も・・・」

明らかに(けん)のある言い方だ。青蘭は、やがて書冊を閉じると卓子の上に置いた。

「いや、・・・何か怒っている。延宗の話だろう?」

長恭は、琅玕色(ろうかんしょく)の夜着の袖を広げて、青蘭の肩に手を置いた。

「すまない。延宗の顔色で、何かよからぬ事だと思ったのだ」

長恭は、溜息をついて青蘭の横顔を見た。伏せられた瞳に、長い睫毛が悲し気な影を作っている。青蘭の頬が、心なしか痩せたような気がした。


「高徳正殿が・・・昨夜殺されたのだ」

長恭は、青蘭に身を寄せた。いつもは清華(せいか)な光りを湛える長恭の瞳が、愁悠(しゅうゆう)の陰りを帯びて沈んでいる。

「まさか、徳正様が・・・昨夜殺された?」

青蘭は長恭の胸に頬を寄せて見上げた。温かい体温と茉莉花(まりか)の香が、長恭に自分の居場所を教えてくれる。

「陛下がそれほど残虐な所業(しょぎょう)をするなんて、そんな朝廷で(ろく)()んでいる自分が情けなくなる」

高徳正は、最近尚書右僕射になったばかりの、寵臣でしかも高敬徳の上司である。青蘭は、長恭の言葉が信じられなかった。

「陛下に、・・・殺されたのだ」

長恭は、延宗から訊いた話を、青蘭に語って聞かせた。

「陛下の所業を諫めたために、・・・惨殺されたのですか?」

青蘭は、眉を寄せてわずかに首を振った。以前は、同じことをして叔父の高演が瀕死(ひんし)の重傷を負い、こたびは、尚書右僕射の高徳正が殺された。この斉の国は、何と正しき道が通らない国なのであろうか。

長恭は、青蘭の身体を離すと、肩を落して俯いた。

「徳正殿は、忠を貫いた、しかし、私が、何もせず斉を危機に陥らせているのは、(へつら)いでしかない」

青蘭は、長恭の手を握った。  

「『暴君に事うる者は、補削(ほさく)ありて矯弼(きょうひつ)なし』と荀子も言っています」

暴君に仕える者は、ただ君主の尻ぬぐいをするのみで、補導矯正(ほどうきょうせい)することはできないと、臣道篇にある。今上帝は、暴君であるので諫言などを呈し、自分を追い詰めることをしてほしくないと言っているのである。

「師兄、あまり自分を責めないでください」

青蘭が耳元に唇を寄せると、長恭は乱暴に頭を抱きしめた。


★         ★


斉の朝廷が混迷を極めているとき、長江の中流域では、梁・北斉と陳とのつばぜり合いが繰り広げられ、青蘭の父王琳将軍は、長沙から郢州(えいしゅう)、江州一帯にしだいに大きく勢力を広げていた。

五月には、王琳は周文育に攻められた孝励(こうれい)を助けるべく曹慶(そうけい)に二千の兵を与えて、陳の水軍を大破させている。しかし、六月に入ると陳の鎮西将軍(ちんせいしょうぐん)侯安都(こうあんと)が大鑑をあやつり、王琳将軍の武将周炅(しゅうか)余孝猷(よこうゆう)の軍を撃破し捕虜とした。また、このころ、多くの梁の旧臣が、陳に降っている。これは、一旦王琳に味方した武将でも、陳に降った後には、それぞれ能力に応じて厚遇されたたためである。


五月に日食があった。当時、太陽が(かげ)る日食などの天変地異(てんぺんちい)は、王朝交代の予兆(よちょう)と考えられており、帝位にある者達の(きも)を寒くさせた。


六月の初め、日食を自分への戒めと考えた北周の明帝は、百官に忌憚(きたん)のない意見を言うように詔を出した。これに応えて左光禄大夫(こうろくだいぶ)楽遜(がくそん)は、十四条に渡る意見書を提出している。それに対して、北周の明帝は、楽遜から提出された政治五条を(むね)として、華美を戒め、賢人を(たっと)んだ(まつりごと)を行い国内の引き締めを行っていた。

一方、陳の武帝(陳霸先)がにわかに病を得て崩御(ほうぎょ)した。この時、嫡子の陳昌(ちんしょう)は、北周の長安に拘束(こうそく)させられていたため、喪は()せられた。しかし、陳昌の帰還を待つことができない臣下達は、臨川王陳蒨(ちんせい)に即位を迫り、この時即位したのが文帝である。文帝(陳蒨)は、生母を差し置いて、前皇太子の母である章氏を嫡母として皇太后に据えることにより、臣下の信頼を得て着々と政治体制を固めていた。


このように北周、陳が政を引き締め内政を固めていたのに対して、これまで隆盛を誇って来た北斉は、昏迷の度を深めて行った、皇帝の乱倫(らんりん)に伴って鮮卑族と漢族の対立が激しくなっていた。


      ★       ★


毎年七月十五日の盂蘭盆会では、皇太后の施餓鬼の一環として、民への粥の炊き出しが行われるのが常であった。例年、文襄帝の皇子の妃達もその手伝いに駆けつけていた。今年長恭の妻になった青蘭も宣訓宮に呼ばれた。

宣訓宮の正殿、皇太后府の堂には、玉簪花(たまかんざし)の鉢や素朴な桔梗(ききょう)の切り花が飾られているだけである。皇宮の他の宮殿に比べると質素な設えである。


青蘭が案内されて堂には入ると、既に他の王妃達が席に着いている。青蘭は緊張しながら、三人の兄嫁である王妃に挨拶した。

「河南王妃、広寧王妃、河間王妃方に、王青蘭が御挨拶致します」

三人の王妃は、入って来た青蘭に冷たい眼差しを向けると、苦々しく顔を逸らした。


長恭の許婚である王青蘭について、宮中では様々な噂が飛び交っていた。

婚儀の前、長恭が見初めたのは王将軍の令嬢で絶世の美女であるという噂が流布していた。しかし同時に、許嫁は酷い醜女で皇太后が王将軍を斉につなぎ止めるために、侍女になっていた令嬢をむりやり長恭に娶らせたのだという噂も流れていた。

ところが、婚姻後の挨拶に来た青蘭は、黒目がちな瞳と愛らしい唇が印象的なだけの、少年のような平凡な小娘であった。

そして、その後驚くべき噂が広がた。嫉妬にかられた青蘭が、長恭に届いた恋文を取り上げ燃やしているというのである。美貌の皇子である高長恭に思いを寄せている女人は多い。正室を迎えた後でさえ、側女になりたいと思う女子は多かったのだ。恋文さえ許そうとしない青蘭に対して、恐妻という評判が立ったのは当然のことである。


長子の河南王高孝瑜(こうこうゆ)の妃である廬氏(ろし)は、名門廬氏の娘である。

薄藍色に鮮やかな牡丹の刺繡を施した外衣が似合う大柄な女人であった。廬氏は、河南王府に挨拶に来た長恭と青蘭の仲睦まじい様子に好意を抱いたが、恋文の話を聞いて(ねた)ましさを禁じえなかった。

「長恭様と青蘭殿は本当に仲が良い。・・・届いた恋文をすべて渡されるとか」

廬氏は、端華(たんか)な微笑を浮かべながら、皮肉っぽく青蘭を見遣った。皇帝に語ったことがすでに河南王府に伝わっているのかと、青蘭は顔を赤くした。

「婚姻の時、太皇太后様から、女訓をお教えいただきました。女子の嫉妬心は忌むべきものですわ」

廬氏は青蘭の行いが嫉妬心からであると皮肉ると、河間王高琬の妃である崔氏に目を向けた。


「私も、皇太后様には浪費や嫉妬などをするなと、きつく教えを受けました。それを常に心にとめて生活しております」

崔氏は名門の令嬢としての誇りを胸に、面長で切れ長の目で青蘭を見遣った。崔氏は石榴色(ざくりいろ)の絹地に花海棠(はなかいどう)の刺繡を華やかに施した外衣をまとっている。三兄の孝琬は、東魏の馮翊公主(ふうよくこうしゅ)を母にもち、正嫡としての誇りを守っていた。ゆえに、妃の崔氏には兄弟で第一の妃であるとの傲り立ち居振る舞いに感じさせられた。

「王殿は、顔之推に教えを受けたのにもかかわらず、恋文を取り上げるとは・・・」

崔氏は、向かいに座る青蘭の方を向いて皮肉っぽく笑いかけた。


「嫉妬からではありませんわ」

青蘭は、思いを説明しようとした。

「そうよね。王殿は、皇太后様の侍女をしていたとか。皇太后様のお考えをよくご存じでしょう。嫉妬ではないわね」

廬氏は、侍女勤めをしていた過去を揶揄(やゆ)するように言った。

「まあ、皇太后様は、よく侍女との婚姻をお許しになったわ」

崔氏は、驚いたように扇子で口を被った。

「あら、長恭様は、皇太后様の命により無理やり、王将軍の娘を娶らされたとの噂も聞きましたわ。そうでなければ、こんな・・・」

士大夫の婚姻は、ほとんど政治的な思惑で結ばれるのである。廬氏は、長恭が青蘭を押しつけられ仕方がなく結婚したと言いたいのである。

「皇太后様の懿旨(いし)をお願いしたのは、長恭様ですわ。無理矢理だなんて」

青蘭が、誤解を解こうとすると、廬氏と崔氏は、信じられぬと言うようにあざけりの笑い声を挙げた。

兄弟の夫人たちで集まる度に、このような侮りを受けなければならないのだろうか。青蘭の瞳に涙がにじんだ。


「皇太后様の、お成り」

宦官の先触れの声がして、質素な装束の皇太后が登場した。四人の孫嫁達は、一斉に立上がった。


        ★         ★


宣訓宮から戻った青蘭は、居房に入ると榻に身体を投げ出した。

『平凡な小娘、長恭に相応しくない。無理矢理押しつけられた妻、嫉妬深い』

宣訓宮で投げかけられた言葉が、青蘭の頭を巡っている。

恋文を燃やすことは、嫉妬深いと非難を受けることは覚悟していた。しかし、容姿について面と向かって非難され、むりやり娶らされた嫁と侮られると悲しかった。

青蘭は、長沙にいたときから、自分の容姿や服装については無頓着であった。鄴城に来て学問に励んでいるときは男装をしていたので、動き易い服装になれてしまったのだ。そのため、髷も低く飾る簪も簡素なものであり、化粧も薄く紅を刺す程度にいていた。むしろ、化粧などにこだわる女人にはなるまいと思っていたのである。


青蘭は、鏡台の前に座った。

『平凡な容姿、長恭に相応しくない』

青蘭は、鏡に映る自分の顔を見詰めた。

斉一番の美女と言ったら、李皇后である。婁皇太后のお供で正月の宴に行ったときに、目にした李皇后は、陛下が熱望して妃に迎えたのがうなずける美貌であった。それに比べたら、自分は何と平凡な容貌であろう。

切れ長な目を上品とする人には、黒目がちの瞳は大きすぎて子供っぽく感じられる。鼻梁は高くむしろ男性的でさえある。剣術や射術の稽古によって日に焼けた肌は、色白を最上の物と考える人にとっては、それだけで美女の資格を失ってしまったのだ。僅かにぽってりと美しい唇と、豊かな髪だけが美しさを添えているのだ。

青蘭は、鏡台に肘を突いて頭を抱えた。

『こんな私が、化粧を濃くして、派手な簪を刺したとて、何になろう』

長恭が、むりやり醜女を娶らされたという噂もあながち嘘ではない気がしてきた。身を正し、慈悲深き心を持って生きるのが美しいのだと思って来た。しかし、斉では通用しないらしい。


「青蘭・・・何している?」

居房に入って来た長恭が、いきなり青蘭の背中から抱きしめてきた。驚いた青蘭は、振り向くことができなかった。

「私が入ってきたことに気付かず、何をしていたのだ?」

長恭は、覆いの取られた鏡を後ろから覗いた。鏡越しに見えた長恭の花顔は、化粧をしてないにもかかわらず普通の女人よりはるかに美しい。青蘭は手で顔をおおった。

「どうしたのだ。・・・顔を見せてくれ」

長恭は、後ろから青蘭の顔を覗き込んだ。

「いや」

顔を背けて長恭を見ようともしない。長恭が回り込んで青蘭を見ようとすると、眉を寄せて苦しげに横を向いた。

「どうしたのだ、御祖母様の所で何かあったのか?」

昼間に盂蘭盆会の施しのために兄弟の妃達が集められたことは、長恭も知っていた。兄達の妃は南朝の将軍の娘である青蘭に、必ずしもいい感情は持っていないのである。また、王妃の位を持っていないのは、青蘭だけであった。

「義姉達と何かあったのか?」

青蘭は答えずに、鏡台の前を離れると榻に座った。 

「長恭様は、気の毒だわ。皇太后様に醜い女を押しつけられて」

「そんな、根も葉もない噂、気にするでない」

長恭は、側に座ると身体を背ける青蘭の手を取って、後ろから抱き寄せた。

「美しくない私は、長恭様には相応しくない」

青蘭の肩を自分の方に向かせると、長恭は瞳を潤ませた青蘭を腕の中に抱きしめた。

「私の好きな物は、君も好きだろう?・・・君は私に相応しい」

長恭は、青蘭の桃花のような唇を軽く吸うと、笑みを浮かべた。

「私が嫉妬から、恋文を燃やしていると思われているのよ」

「それは(ひど)い、私の安寧(あんねい)を考えてくれているのに、・・・本当は嫉妬心から?」

長恭がおどけたように微笑むと、青蘭は温かい胸に拳を当てた。沈香に埃っぽい香が混ざっている。

「君の瞳が一番美しいことを、私が知っている。・・・だから、他の者達の言うことを気にするな」

長恭は、少年のような細身の青蘭の腰を抱きしめると、榻に横たえ静かに口づけをした。


兄弟の妃たちに、長恭と釣り合わない平凡な容姿であると言われた青蘭は、自分の存在に自信を失ってしまうのであった。

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