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長恭を守る策

長恭との婚儀に漕ぎつけた青蘭であったが、無理やり押し付けられた花嫁だとか、平凡な容貌で長恭には相応しくないなどの噂が、青蘭を苦しめた。そんな時、長恭の衣の袖から、長恭宛の恋文が見つかる。

紀元六世紀の中国は、後漢の滅亡の後、様々な国が興亡(こうぼう)してきた。

紀元六世紀の後半、黄河流域を支配していた東魏の実権を握ったのは高歓(こうかん)であった。高歓は東魏の宰相として皇帝をしのぐ権勢を誇っていたが、その死後配下の侯景(こうけい)が嫡子の高澄に反乱を起こしたのである。侯景の乱は高澄により平定されたが、梁に亡命を希望した。

それを安易に受け入れたのが、梁の悲劇の始まりであった。梁の弱体化を見抜いた侯景は、建康を包囲し城を焼き払った。建康落城後、各地に軍閥が割拠し長江流域は大いに乱れた。紀元五五四年には、北周(西魏)が江陵を陥落させ、十万人の士大夫と民が長安に拉致される悲劇をもたらしたのである。


長江の沿岸では、梁の復活を画策する王琳が、援軍を期し北斉の朝廷に働きかけをしていた。その話の中で娘である王青蘭の婚姻話が持ち上がった。しかし、これを知った青蘭は婚姻を嫌って滞在していた江陵を出奔してしまったのである。鄴都で学問をする中で、青蘭は斉の皇子である高長恭と出会った。


紀元五五八年、王琳は斉から帰還した天啓帝(てんけいてい)簫莊を旗頭とし、北斉の助力を得て長沙(ちょうさ)巴陵(はしゅう)を中心に梁の勢力を伸ばした。三月には江州から郢州(えいしゅう)に至り、王琳軍の雷文策(らいぶんさく)が監利郡を攻め落としていた。

この年の三月の中旬、高長恭と王青蘭は婚儀を挙げた。


これより前、紀元五五九年の三月六日、突如として、太白星(たいはくせい)(金星)が東の空に出現した。太白星は怪しく輝き、昼間でも肉眼で見ることができたという。太白神は、武事や凶事(きょうじ)を司る神である。太白星の出現は、北斉や北周の民衆に天災や凶事を予感させるのに十分であった。

そして、一番恐怖を感じたのは、北斉の皇宮で暴虐(ぼうぎゃく)の限りを尽くしていた高洋であった。

高洋は、北斉の皇帝に即位したとき、『三十年は超すことはないであろう』と占われた。高洋は、自分の治世が三十年続くと喜んでいたが、実は寿命が三十年を超えることがないとの占いであったという。

太白星の出現は、その兆候(ちょうこう)ではないかと高洋は恐怖におののき混迷(こんめい)の度を増した。


三月の下旬、一月に逝去(せいきょ)した崔暹(さいしん)に代わって、侍中であった高徳正が尚書右僕射(しょうしょうぼくや)となった。尚書右僕射は、丞相、尚書左僕射に次ぐ家臣として第三の地位である。


喬香楼(きょうこうろう)の夕闇に暮れる紅廊には、脂粉(おしろい)の香りを含んだ晩春の風が流れていた。

「徳正殿、尚書右僕射への昇進、誠にめでたい」

清河王高敬徳は、碧玉(へきぎょく)の杯に酒を満たすと、徳正に向って掲げた。

「敬徳殿、これから、一層強力を願わなければならん。よろしく頼む」

二人は玉杯を打合わせると、機嫌良く酒を干した。喬香楼の一番奥まった客房に、技女の嬌声(きょうせい)は届かない。

「このままでは、斉は長くないな」

しばらくの沈黙の後酒杯を見詰めながら、徳正が苦り切った表情で言葉を吐き出した。

「陛下は、変わってしまわれた。最初の六年は、精勤されていた。しかし、もう、あの理想に燃えた皇帝ではない」

徳正の激烈な言葉に、敬徳は思わず辺りを(うかが)った。妓楼とは言え、どこで間者が話を聞いているか分からないからである。

「なぜ、丞相の令公(れいこう)は、陛下に何も言わぬのだ。丞相の力を持ってすれば・・・」

「敬徳、漢人である令公にとって、皇帝はこれと同じだ」

徳正は、髷を留めている冠を指さした。

「斉は、漢人の国だと思っている。皇帝などいくらでも冠のように替えがきくと思っているのだ」

確かに、ここ数十年で北魏から東魏、そして北斉に王朝が代わっている。しかし、政権の実務は漢族の官吏が中心になって担って来たのだ。鮮卑族の国でありながら、漢人なしでは一日も回らないのだ。

「俺が尚書右僕射になったからには、諌言(かんげん)を呈して善悪のけじめを正すつもりだ。漢族にこの斉を牛耳らせてはならぬ」

徳正は、酒を喉に流し込むと、音を立てて卓上に酒杯を置いた。


高徳正は、高洋に新たな王朝を開くことを勧めた功臣である。建国に尽力したゆえに無軌道(むきどう)(はし)る高洋を、そのままにできないのだ。今までも侍中として、たびたび今上帝高洋に苦言を呈してきたのである。

建国当時の有能な高洋を知らない敬徳にとっては、今上帝は、父を理不尽(りふじん)に斬殺した残虐(ざんぎゃく)な皇帝でしかなかった。しかし、徳正には思い入れがあるのだ。

「これからの斉は、徳正殿にかかっています。・・・今日は、存分に飲みましょう」

敬徳は、笑顔を作ると徳正の酒杯に酒を満たした。


      ★      ★    


寝殿の居房に灯る蝋燭(ろうそく)の灯に照らされた料紙を、青蘭はもう一度読み返した。両掌(りょうて)に乗るがくらいの紙片に流麗(りゅうれい)な筆跡で、小さな文字が並んでいる。明らかに恋文である。

長恭の官服を衣桁(いこう)に掛けているとき、袖の中から落ちたものである。青蘭は、物入れから朱塗りの(ひつ)を取り出すと座った。櫃を開けると小さな紙片が二つ入っている。筆跡を見ると三枚とも皆別人からのようである。


高徳正が、尚書右僕射に昇進して以来、長恭は高敬徳と共に文昌殿に昇ることが多くなった。そのために、宮女たちに遭遇することも多くなり、恋文を渡されることが頻繁(ひんぱん)になったのであろうか。

『師兄は、気づいていないのか。それとも、たくさん受け取った中の、ほんの一部なのだろうか』

長恭が宮女と情を通じるという悪い想念が駆け巡って、青蘭は長恭に訊くことができなかった。


「奥方様、・・・お嬢様」

居房に入って来た照華に声を掛けられて、青蘭は我に返った。照華は、心配げに小櫃の紙片を覗き込んだ。青蘭が、小櫃を隠そうとしたが、照華は、すでに知っていたようだ。 

「旦那様に、おっしゃいましたか?」

青蘭は、力なく肩を落とした。麗容に惹かれ恋心をいだく女人が出てくることは、ある程度予想はしていた。しかし、このように恋文の実物を見ると言葉もない。もし、問いただして想い人の存在を長恭の口から聞いたら、自分はどうしたらいいのであろう。照華は、弱気な青蘭の様子にかぶりを振った。

「奥方様、宮女に付け文をされるとは、由々しきことでございますよ。最悪の場合、旦那様は、死を賜りましょう」

照華は、東魏の後宮にいたことがある侍女である。照華の言葉に、青蘭は背筋が寒くなった。

「恋文で死罪だなんて・・・」

「お嬢様、皇宮ではすべての宮女が、陛下の女なのでございます。旦那様が宮女と情を通じれば、良くて鞭打ち、悪ければ死罪になるのです」

多くの側室を持つのが皇族の習いとは言っても、一途な長恭が、宮女と情を通じるはずがない。

「まさか、そのようなことがあるはずもない・・・」

「有るはずもない事が有るようになるのが皇宮でございます。前の清河王の冤罪(えんざい)をご存じですか」

高敬徳の父清河王高岳は、北斉建国の功臣であったが、今上帝高洋に薛嬪(せつひん)との密通を疑われて斬首されている。その発端(ほったん)は、二人の間に交わされたと言われる恋文であった。多くの女人に慕われる長恭にとて皇宮は危険な場所なのである。


「お嬢様、このままでは、旦那様は陥れられてしまいます。命が危うございます」

青蘭は、朱塗りの小櫃を卓子に置いて額を抑えた。

「どうすればいいのかしら、長恭様を見張っているわけにも・・・」

青蘭は、溜息をついた。皇族である長恭が側女を持つことを、正室の青蘭でも留めることはできない。ましてや宮女からの付け文を阻むことなどできないのである。

「私が東魏の後宮に仕えていたときに、聞いた話がございます。北魏に見目麗(みめうるわ)しい公子がいたのでございますが・・・」

青蘭は、照華が話した方策を聞いて目を丸くした。

「確かに・・・でもそのような事をしたら、私はとんだ悪妻だと言われかねないわ・・・」

「奥方様、旦那様のお命が危ういのでございますよ。覚悟をお決め下さいませ」

青蘭は、手にしていた紙片をたたんで小櫃にしまうと、長恭を説得する算段(さんだん)を考えた。


       ★         ★


四月に入り沈丁花(じんちょうげ)の薄紅色の花が、後苑の睡蓮池の周囲を彩るころ、長恭と青蘭は、李祖娥(りそが)皇后に呼ばれて後宮を訪れた。


皇城の乾寿門(かんじゅもん)を入ると、若い宦官が二人を待っていた。後宮の正殿である乾寿殿の西側偏殿の回廊を北に行くと、叔景殿(しゅくけいでん)の角を曲がって茶器をささげた三人の宮女がやってきた。

宦官を前に長恭と青蘭が進むと、三人の宮女は回廊の脇によけて道を譲った。長恭が前を通ったとき、宮女の一人がよろけて茶器を落としたのだ。落とした茶器が大きな音を立てて割れて、長恭の長衣に茶のしぶきがかかった。

「何をやっているのだ」

宦官の怒声(どせい)が響き、宮女が長恭の足元の床にはいつくばった。

「申し訳ありません。申し訳ありません」

茶杯を落とした宮女は、慌てて手巾で長恭の長衣の(すそ)を拭こうとした。

「大丈夫だ。・・・もうよい、もうよい。たいして濡れていない」

長恭は長衣の袖を拭こうとしたのを見て、言葉で制した。屋敷の侍女に対しても声を荒らげることはしない。青蘭は、割れた茶杯を片付けた宮女を立ち上がらせると笑顔を作った。

「最近の宮女は、茶も運べなくて・・・後に罰を与えます」

宦官は、酷薄(こくはく)そうな眼付きで言った。


皇后のいる昭陽殿(しょうようでん)は、後宮の正殿たる乾寿殿の北に位置する壮麗(そうれい)な宮殿である。朱華門を入ると前庭には、花園が造られ流れには、石橋(しゃっきょう)が掛けてある。小さな四阿(しあ)が花畑の中に造られていた。

長恭が石橋を渡った時、青蘭は小さな紙片を渡された。

「長衣の(たもと)の中から出てきた」

長恭は、青蘭の横に立ち、耳元で囁いた。先ほどの騒ぎの間に、|袂に入れられたに違いない。なんと巧妙(こうみょう)なのか。

「預かっておきます」

青蘭は、うなずくと静かに(ふところ)にしまった。


昭陽殿に入ると、正殿の堂では多くの侍女を従えた李祖娥皇后が待っていた。

李祖娥は、幼少のころからその美貌は名高く、太原公時代の高洋に望まれその夫人となった。今上帝高洋が北斉を建てたとき、立后をめぐって高徳正たち鮮卑族と楊丞相たち漢族がはげしく対立した。徳正の押す段妃を押しのけて、今上帝は寵愛する李祖娥を皇后としたのである。


「皇后様に、高長恭と鄭青蘭がご挨拶を申し上げます」

長恭に続いて青蘭も拝礼をした。

「皇后さまには、ご挨拶が遅れて申し訳ありません」

長恭は、すべての女人の心を溶かすような清澄(せいちょう)な眼差しで李祖娥に笑いかけた。

「そのようなこと、気にせずとも好い」

李皇后は、牡丹の花弁のような妖艶(ようえん)な唇をほころばせた。

「そなたは、皇太后様の秘蔵(ひぞう)っ子、どのような女子であったら気に入るのかと思っていたが、王琳将軍の娘とはな・・・」

李皇后は、長恭から青蘭に視線を移すと、(あなど)るように顔をしかめた。どれほどの美女が現れるのかと期待していたが、王青蘭は黒目がちな瞳と桃のような唇をもつ少年のような小娘であった。このような平凡な娘を押し付けられた長恭が哀れに思われた。

「確かに、梁と斉の同盟は、重要だ。王琳の娘であるそなたは、多いに働いてくれておる」

皇后は、この婚姻があくまでも政治的な政略結婚であると強調したいのだ。

「王青蘭、そなたに婚儀の贈物がある」

李皇后は、螺鈿(らでん)を施した櫃を持ってこさせた。中には翡翠(ひすい)を飾った豪華な簪が一対入っていた。

「そなたの黒髪に、良く似合うであろう」

青蘭は二歩進みでて簪の入った櫃を押し頂いた。

「皇后様の、御厚意に感謝いたします」

翡翠の簪は、李皇后のような成熟した女人にこそ相応しく、年若い青蘭には不似合いである。長恭には、この簪が似合うような美女こそ相応しいと言いたいのである。


青蘭が皇后の意図を図りかねていると、その時、今上帝高洋が宦官を引き連れて現れた。酒の匂いをさせている。長恭と青蘭は、皇帝に拝礼した。

高洋は、顔を上げた長恭を見て目を見張った。

『兄上に似ている』

母の婁氏に付いてきた幼少の長恭を見たことはあった。しかし、朝議に出席しない長恭であってみれば、大人になったその麗容を間近で見るのは初めてであった。

『その目、その唇、兄上によく似ている。なんで、それに気づかなかった』

高洋は、唇を噛んだ。文武に秀で容姿端麗(ようしたんれい)な長兄の高澄は、高洋にとって羨望(せんぼう)の的であった。その花顔を見るたびに、劣等感に打ちひしがれたのだ。


「長恭、そなたが宮女から付け文を受けたという醜聞(しゅうぶん)が耳に入ってな」

高洋は、尊大で皮肉な笑みを浮かべた。

「付け文など、何のことかわかりません」

立ち上がった長恭は、首を(かし)げた。

「衣の中に持っておろう。出すのだ」

高洋の言葉には、嗜虐的(しぎゃくてき)なすごみがある。仕方がなく、長恭は袂を探る真似をしたが、出てくるはずもない。


「これではないでしょうか?・・・回廊で拾いましたが、何かわからなくて持っておりました」

青蘭が、折りたたんだ紙片を指先に挟んで示した。宦官が取り付いて皇帝に渡した。高洋は、紙片の文字を読むと不機嫌に卓子に叩きつけた。

「こたびは、なかったようだ。しかし、長恭、そなたは、今まで付け文をもらったことがないと言うのか?」

高洋は、執念深く恋文にこだわっている。長恭は、高洋の粘りつくような敵意を感じて身を固くした。

『陛下は、私を清河王のように陥れるつもりなのか』


その時、青蘭の声が響いた。

「陛下、実は夫の長恭は、以前付け文を何通かもらったことがあります。しかし、そのときは速やかにわたくしに渡してくれることになっているのです」

「ほう、付け文を・・・みんな持っていると?」

高洋は、青蘭の出そうとする助け舟を許さないぞというように鋭く青蘭の言葉を(さえぎ)った。

「いいえ、付け文は許せぬことですので、夫立会いの元、直ぐに燃やします。そして、憎い燃え(から)は私が保管しています。陛下、御安心ください」

青蘭の言葉は、(くら)さに満ちた高洋の中に明るく響いた。

「長恭、誠か?」

「恐れながら、誠にございます。陛下」

「長恭、そなたは父に似ず。恐妻家よのう。・・・なさけないわ」

「恐れ入ります。どうも妻には一生勝てぬようです」

兄に似た容貌を持ちながら器の小さい奴だと、高洋は舌打ちをしながら長恭を見下ろした。


       ★        ★


皇宮の横街の東の端、建春門を出て馬車に乗り込むと、長恭は青蘭の肩を笑顔で抱き寄せた。

「危うかった。・・・君が付け文を見付けたら直ぐに、渡すように言われていなかったら、どうなっていたか」


昨夜、付け文をめぐって珍しく(いさか)いがあったのだ。

長恭が読書をしていると、いきなり入って来た青蘭が三つの紙片を見せた。

「師兄、これは何かしら」

青蘭はいぶかしむ長恭に、紙片を渡した。長恭が紙片を開いて読むと、宛名(あてな)はないが長恭への恋文であることは明らかである。長恭は、几案(きあん)に三枚の恋文を置いた。

「師兄の衣をたたんでいたら、袖や帯の間から出てきたのよ」

青蘭は唇をきゅっと結んで正面から長恭を見詰めた。


「知らぬ。・・・身に覚えがない。誰かが勝手に袖に入れて来たのだ。・・・信じてくれ」

長恭は、持っていた書冊を置くと青蘭の手を握ろうとする。青蘭は、唇を尖らせると顔を背けた。

「知らぬうちに、袂に入っていたなんて信じられない。師兄は、今までも私の知らないうちに恋文をやり取りして、私を裏切っていたのね」

青蘭が、嫉妬の感情を露わにするのは珍しい。青蘭は長恭に背を向けると、肩を落とした。

「誤解だ、恋文のやり取りなど。・・・君と付き合う前は渡されることもあったが、全て読まずに破って捨てていた。君と婚儀を挙げてからは、全部突き返している。なぜ、衣に入っていたか分からない」

長恭は、誤解を解きたくて几案を回り込むと、横から青蘭を抱きしめた。

「恋文をやり取りしていたなんて、ひどい誤解だ。何者かが・・・」


青蘭は、振り向くと長恭の両手をにぎった。

「師兄を、信じます。・・・だから、約束して。恋文に気づいたらすぐに私に渡すと」

青蘭は、いつになく真剣な眼差しで見詰めた。

十五歳で加冠して、皇宮に出入りするようになって以来、長恭に思いを寄せて恋文を渡そうとする宮女や令嬢は後を絶たなかった。長恭は、妻妾の悪意に満ちた嫉妬に苦しむ母の荀翠蓉を見てきた経験から、女人からの恋心にはむしろ冷淡であった。ゆえに手巾が落ちていても、恋文を渡されても無関心を装い、女人を側に寄せ付けないようにしてきたのだ。

恋文は、邪魔以外の何物でもない。

「分かった。気づいたらすぐに君に渡す。しかし、そのような物を見たら不愉快ではないか?何なら私が処分しよう」

長恭の返答を聞いて、青蘭は破顔した。

「いいのです。私が処分いたします」

長恭は、いつになく恋文にこだわる青蘭に疑問を持ちながらも、笑顔の頬に唇を寄せた。


         ★      ★


皇宮の横街の東の端、建春門を出て馬車に乗り込むと、長恭は青蘭の肩を抱き寄せた。

「危うかった。君の言葉が無かったら、どうなっていたか」

『この前の約束は、このことを予想してのことであったのか』


長恭は、青蘭に頭を寄せた。

「青蘭、何があったのだ教えてくれ。この前の約束もただの嫉妬心ではないだろう?」

青蘭は、うなずくと長恭への恋文を見付けてからのことを話した。

「師兄、清河王の冤罪を考えると、恋文は、皇宮では危険なの。そこで、北魏の時代の書物にあったという策を考えたの。中を開けずに私が燃やせば、だれも傷つかないわ。陛下も納得なさった」

青蘭が突然恋文にこだわり、直ぐに渡すように言ってきた謎が解けた。全て自分を守るためであったのか。そして、青蘭の耳元に唇を寄せて囁いた。

「いろいろ考えてくれたのだな。・・・礼を言う」

青蘭は顔を上げると、黒目勝ちの瞳で長恭を見詰めうなずいた。

「でも、それでは君が悪く言われる。・・・君が悪く言われるのは我慢ならない」

「私が悪く言われることなどどうでもいいの。師兄の危険がなくなるのであれば。でも、・・・そうすると妻に敵わない情けない男子と言われまうでしょう?それが心配なの」

「陛下に、あのようなはったりを言える妻には、だれも叶わないさ」

長恭は、あきれ顔で額を抑えた。


「あら、師兄。はったりではないの。私、見付けた恋文を照華と一緒に燃やしましたの」

青蘭は、すました顔で言った。

「えっ?あれは本当だったのか。・・・道理で陛下も信じたわけだ」

長恭は、苦笑しながらかぶりを振った。


       ★       ★


木香薔薇の赤い花が後苑に咲き、長恭の住む開国公府の蓮池に睡蓮が青々とした丸い葉を伸ばしていた。

百日紅の下に据えられた的の僅か上に、鋭い音を立てて矢が当たった。続けて射られた四射の矢が、赤い的の中心を捉えた。

長恭の優雅な眉目が緊張を解いて、温顔に変わった。

「最近、鍛錬を怠っている。・・・腕が少しなまってしまったか」

長恭は、溜息をつきながら傍らの青蘭を見ると、矢を抜きに行った。二人が四阿に入ると、侍女が茶杯を運んできた。

「敬徳に聞いたのだ。例の恋文は、何者かの罠だったのだ。あの宮女はわざと茶をこぼし、拭くふりをしながら袂に付け文を入れてのだそうだ」

長恭は、茶杯を口に運びながら青蘭を見た。

「君の助けがなかったら、私は今頃、命がなかった」

「でもそのせいで、私は鬼のような妻と言われているのよ・・・」

青蘭は、頬を膨らませて不機嫌そうに横を向いた。

「大丈夫だ。君の優しさは、私が知っている」

長恭は、青蘭の手を引くと膝に上に座らせた。上襦の浅葱色(もえぎいろ)と長裙の珊瑚色(さんご)の鮮やかさが、長恭の膝の上で初夏の涼風にそよいでいる。青蘭が首に腕を回すと、青蘭の白い首筋に長恭が優しく唇を当てた。首筋のもっと下には、青蘭も知らない桜色の印が隠れている。長恭は宝の在処を守るように、優しく青蘭を抱きしめた。



侍女の照華の知恵により、皇帝高洋の罠を逃れた長恭と青蘭であったが、斉の朝廷の混乱は深まっていくのだった。

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