悲劇の始まりはここから。
…。
「お母様に伝えておいで。きっと今は体調が良いはずだから。」
お父様は普段、体調の悪いお母様に私を会わせようとはしません。万が一と言ってお母様も会おうとしないのです。だとしたら本当に疲労とかなのでしょう。私は頷き、食事を早めに済ませました。珍しくシェリーは私についてきませんでした。いつもは一緒に行くのに…。今日はみんな少し変です。料理だって少し豪華でしたし、屋敷もいつも綺麗だけど今日は格段に輝いています。これも全てティナ効果でしょうか。そうするとことごとく皆、ティナに甘いなと思います。私も含めて。愛しい子が他の人にも愛されているのは嬉しいことです。そんな事を考えながらお母様の部屋に向かいました。いつかのようにドアをノックし返事を待ちました。
「いらっしゃい、フィオ。」
少しか細い声が聞こえてきます。お母様、大丈夫かしら。昨日よりも声が辛そうに聞こえます。私はその言葉を受け、ドアを開けて部屋に足を踏み入れました。そしてお母様のいるベットの横に行き、口を開きました。先程、お父様たちに認めてもらった名前を言うのに何の不安もありません。早く聞いて欲しいという思いでした。
「名前が決まりました。ティナです。ティナ・マクガレッジです!」
お母様はすごく青白くなっていて本当に体調が悪そうです。私の目から見てもとても衰弱しているのが分かります。その姿を見ているととても悲しくなりました。お母様はそんな体調なのにも関わらずにこりと笑うのです。笑うのも苦痛そうだというにも関わらず。
「良い名前ですね。流石、フィオリア。私たちのようなセンスがなくて本当に良かったわ。」
聞いていられないほど弱々しく…痛々しい。お母様はゆっくりと腕を動かし、私の頭に置きました。そして静かに撫でます。いつもはそれが心地よくて嬉しいのに今は寂しく感じてしまいます。嫌な予感がモヤモヤと私の心を覆うのです。お母様がこのまま消えていってしまうような気がするのです。そんなはずないのに。お母様はいつまでも私たちのそばにいて、一緒に笑って。ティナがいる新しい生活を一緒に送るに決まっているのに。何故そんな気がするのですか。自然と目に涙が溜まりお母様の顔がぼやけてしまいます。でも困ったように眉を垂らしているのはよく分かりました。
「…フィオ、貴方は無自覚ながらに勘がいいのよね。長所であるけれど今は恨めしいわ。」
それは私の悪い予感を後押しするもので、気づいた時には目から涙が溢れていました。やめて下さい。そんなこと言わないで下さい。お母様…!
「イヤ…です。イヤです!」小さく抵抗の声を上げて、でも嗚咽でうまく喋れなくなって
ひたすらイヤイヤと頭を振ることしかできない自分が不甲斐なく感じました。
もし私にお母様を救える力があれば…。お母様がこんなにも苦しむこともありませんか?
もし私にお母様を救える能があれば…。お母様を失うこともありませんか?
神様、お母様を救ってください。助けてください。こんな無力な私をせせら笑ってくれて構いません。それでお母様が助かってくれるならば、私は何を失っても、バカにされても構いません。だから、だから、どうか…!撫でていたお母様の手が優しく涙を掬ってくれます。私はその手に自分の手を重ねて縋ります。いかないで。どこにも、いかないで。いよいよ視界が全く見えなくなった頃、「ウッ!」お母様の呻き声が鮮明に耳に届きました。それは酷くなるばかりで部屋に木霊をして私を責め立てます。
「お母様?お母様!」
ぼやけた目は一気に冴え、お母様の歪みだ顔を映し出します。こんな苦しげな顔を未だ嘗て一度も見たことがありません。怖い、怖い。見たくない、見たくない。こんなお母様は見たくないです。今にも壊れてしまうかのような様子に私は何もできず、叫ぶことしか!
「誰か、誰か!お母様が‼︎お母様が‼︎お父様、シェリー、ベス!誰か、来て!」
喉が張り裂けるくらい必死に叫んで、叫んで!喉が熱い…。干上がるように熱い。それでも誰かに助けを求めて声を上げます。必死にお母様の手を掴んで、お母様が何処かに行ってしまわぬ様にします。私なりの精一杯の力を込めて。私の願いを込めて。お母様を連れて行かないで。私を、私達を置いていかないで!まだ一緒にいたいのです。神様、いるなら助けてください。私にも…妹にもまだ、お母様が必要なのです!お母様も激痛からか涙を流しながら私を見ます。キレイな水滴が頰を伝います。辛いはずなのに、苦しいはずなのに、お母様の顔は優しく…微笑んでいました。
「泣かないで。」
絞り出すように囁かれたお母様のお願いです。それなのに私の涙は止まらなくて、目が溶けてしまうくらい熱くなって。お母様はもう自分の行方がどうなるのか理解していて、それでいてその重みを受け止めている。それなのに私はちっとも受け入れられなくて。拒絶して、目の前から見えなくして、逃げている…情けないです。でもやっぱり認められないし、少しの可能性でも手放したくはありません。よりいっそうお母様の手に込める力を強めました。雨は強さを増し,窓を強く叩きます。さらにはゴロロロロという恐ろしい雷の怒鳴り声と共に眩しい光が部屋を照らしました。あまりの大きい雷に体が跳ねた瞬間に–お母様の手が私の手からスルリと抜け、ベットに落ちました。苦しい呻き声も止まりました。お母様の顔も安らかになりました。一瞬の出来事でした。でもそれは喜ばしい結果ではなくて。私が望んでいた未来ではなくて。神様は安らかさを引き換えにお母様の胸の音を、息を奪っていきました。
人生は予測不可能。
乗り越えろ、少女。