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皇帝


——目を開けて、耳を澄ませて。沢山のことを見聞きしなさい。“知っている”ということは、いつかあなたの力になるから。



遠い記憶の母の言葉。今になって、やっと意味がわかるような気がする。


老医師の言葉に従ってまずは基本的なことから始めようと、私は乳母に教えを請うた。博識な彼女は快く引き受けてくれて、分かりやすく丁寧に話してくれた。

帝国のこと、王宮のこと、後宮のこと、皇帝のこと。

色々な話しを聞いて、改めて自分の無知を思い知らされる。生まれ育った国のことなのに私は本当に何も知らない。いや、ここにきてからいくらでも知る機会があったのに知ろうともしなかった。


今の帝国は大きく括って皇帝派と反皇帝派に分けられるのだという。主流は皇帝派だがひとまとめに皇帝派といっても一枚岩ではなく色々といて、それは反皇帝派も変わらない。後宮でもそれは同じで少しでも自分たちに有利になるものをと長らく空いたままの皇后の座を巡り派閥関係なく熾烈な争いが行われていて、それは即位10周年という節目を前に激化している。だからもし姫を狙うものがいるとすればそれは皇后になるため私が邪魔だと考える人間か、皇帝に怨みのある反皇帝派の人間。詳しく話せば延々と続くが、大まかにはこういうことだった。


こうして改めて整理して見て、この王宮には本当に色々な思惑が渦巻いているのだと圧倒される。きっと私なんかでは知りようもない駆け引きも日々行われているのだろう。恐ろしい世界に来てしまったと、恐怖すら感じる。


だけれどこれが、姫の生きる世界だ。

私には知りようもなかった、知らなくてはいけない世界。


「でも意外でしたわ。妃さまがこんなことを仰られるなんて」


パタンと本を閉じた乳母の声に私は顔をあげた。乳母は少し言い淀んでから、淡く苦笑する。


「その……あまり、このような事には触れたくないようでしたので」

「……そうね」


否定せずに頷いて、瞳を伏せる。妃だなんだ言われても私はただの街娘だ。本来なら一生縁のなかったこの世界について知ることは、もう後戻りはできないのだと、あれはもう過去のことなのだと受け入れることのような気がして、どうしても受け入れ難かった。だけれど姫を守るべき今、もうそんな甘ったれたことなんて言っていられない。


「おかーさま、おべんきょーおわり?」


私の横に座っていた姫が、お絵描きしていた紙から顔をあげて首をかしげる。私はにこっと微笑んで、ふわふわの頰を撫でた。


「えぇ、終わりよ。待たせてごめんねさいね、姫」

「だいじょーぶよ!」


にこにこの姫をうりうりと撫でて、額をこつんと合わせる。姫にはあまりこういった話しを触れさせたくなかったが、私が倒れたことがよっぽど不安だったのだろう。少しでも私が見えなくなると途端に泣き出してしまうので、こうして常にそばに置いている。話している間はいい子でお絵描きしていてくれたので問題なかったし、本当にいい子だと思う。時計を見上げれば、少し早いがおやつの時間だ。頭を使った後だし甘いものが欲しい。おやつにしようと口を開きかけて、止まった。


「……クッキー、一緒に焼きましょうか」

「やくっ!!」


間をおいてそう告げた私に即座に姫が頷く。乳母が怪訝な顔をしてたが、それに気がつかないふりして侍女を探す。手を繋いで飛び跳ねる姫を見下ろしながら、嫌な音を立てる心臓に冷や汗がたれた。




生地を練って伸ばして型どる。もう何度も繰り返した工程は頭に刻み付けられていてレシピを見ずとも手は動く。生地を薄く伸ばし、あとは型抜きするだけの状態までお膳立てして姫を呼び寄せた。目を輝かせた姫に型抜きを持たせれば、一生懸命やり始める。ぎこちない手つきが可愛くて、微笑ましくて。焼きあがったクッキーは少し不恰好だったけれど、上出来だ。


「あちっ」


焼けたてを食べようとした姫が苦い顔をする。そんなのもおかしくて侍女たちとくすくす笑ってしまう。


「少し冷ましてからにしましょうね」

「んんー……わかった」


不満そうにしつつも素直に頷いた姫は私に手を伸ばして抱っこをせがむ。笑いながら抱き上げようとした時だった。


「き、妃さまっ!!」


顔色を変えた乳母がキッチンに飛び込んでくる。きょとりと目を瞬けば真っ青な乳母は、焦った様子で口を開く。


「あの……!」

「——あぁ、こんなところにいたのか」


ひょいと、乳母の後ろから顔を出した存在に息を飲んだ。酷薄そうな朝焼けの瞳。何を考えているのか分からない表情でキッチンの入り口を見下ろしたその男に、姫が歓声をあげる。


「へーかだぁ!!わたしとあそびにきてくれたの!?」


きゃー!と悲鳴をあげた姫はパタパタと皇帝に駆け寄って抱きつく。


「あのねあのねっ!くっきーやいたのよ!へーかもたべる?」

「クッキー?……あぁ、この匂いはそれか」

「わたしもおてつだいしたの!!おかーさまのくっきー、おいしいのよ!!わたしもつくったの!!」


姫はぴょんぴょん飛び跳ねて、精一杯に自分の功績を主張する。皇帝はなされるがままで、姫にぐいぐい手を引かれている。そんな見ようによってはほのぼのとした、だけれど実態は恐ろしい光景に理解が追いつかない。まって、まって。どうしてここに皇帝がいる。昨日の夜、私は放っておいてと言ったじゃないか。昨日の今日でどうして姿をあらわす。まさか聞いていなかった?もしかして意味が伝わっていなかったとか?いやでも、あの状態でそれはないだろう。それよりこの男の性格だと聞いていた上で無視したと考えるのが一番しっくり……しっくりというかそれしかない。絶対そうだ。気に入らないから無視した。これに違いない。昨日の私の態度が気に入らなかったための嫌がらせだとかも充分ありえる。間違いない、そうに違いない。この男ならやりかねない!


「あ、あの妃さま……」


侍女の声にハッと正気に引き戻される。気まずそうな顔に現実を思い出した。そうだ、立ち呆けている場合じゃない。私が動かなくては乳母も侍女も動けない。取り敢えず、皇帝を動かさなくては。キッチンを侍女に託して、引きつりそうになる頰に気合いを入れる。


「……居間までご案内します。姫、陛下を居間までご案内するから、一緒に行きましょうね」

「はーい!!」


それはそれはいいお返事をした姫は、私が先行するよりも先に皇帝の手を引っ張って歩き出した。




「これとねー、あ!これもねー!わたしがつくったのよ!!」


いそいそと籠の中のクッキーから自分の型抜きしたものを選別していく姫にハラハラとしてしまう。なんとも気まずい空気の中で、姫だけはいつも通りだった。


何故か、本当に何故か、常の卓には皇帝がいて、何故か共にお茶をすることになっている。本当に何故だ。皇帝の後ろには連れてきていた護衛の騎士様方までいて、うちの宮は一気に物々しい雰囲気となっていた。そもそも侍女や乳母、姫以外の人間がこの宮にいるというのに違和感を感じるのに、こうも一気に人が増えると違和感というより別の場所みたいだ。


「はい!どーぞ」


姫が手ずから差し出したクッキーに乳母たちは顔面蒼白である。無言の騎士様方の顔色も悪いような気もする。確かに姫の普段の緩い日常でなら微笑ましい行動も皇帝相手となれば躾のなっていない無礼にとられかねない。それも皇帝の口に入るものだから尚更。一瞬緊迫感に満ちた中で、だけれど本人たちは緩かった。


「あぁ、ありがとう」


さらっと受け取り姫の頭を撫でた皇帝に騎士様方は目を剥く。私も、少し肩の力が抜けた。姫が満足そうに笑ったのを確認してから、さりげなく取り寄せた皿に姫の選別したものを乗せておく。


「おいしーねぇ!」


にこにこの姫がクッキーを食べる横で、皇帝も少しつまむ。姫は楽しそうにお喋りしていて、そのご機嫌顔にほっとした。昨日あんなことがあったから、元気そうな姿をみるとやはり安心してしまう。途中、お茶を飲もうとしてやめる。代わりにクッキーを一枚口にした。失敗していないとはわかっていたが、よかった。改めて味見して、いつもの味だと確認する。


姫がクッキーを口にして、会話が途切れたところで皇帝がふいに私を見た。自然と、身を強張らせて姿勢を正してしまう。そんな私に皇帝は淡々と告げた。


「お前たちの近辺の警備を増やす。あとで責任者に説明させにいくから不都合があればその時にいえ」


パチリと目を瞬いた。警備。そういえば、そんな話をした気もする。もしかして、わざわざそれを言いに来てくれたの?

驚いたまま、半ば無意識に頷く。


「え、えぇ……ありがとうございます」

「ほかに要望はあるか」


また、目を瞬いてしまう。


「い、え……特には……」

「そうか。何かあったらすぐに言え。対応させる」

「……はい」


これは一体、どういう風の吹きまわしだ。パチパチと目を瞬かせる私を皇帝はよくわからない表情で見たあと、立ち上がった。


「戻る。突然悪かったな」


気遣いの言葉が出て来たことが意外で、要望なんて聞かれたことも意外で、呆気に取られたまま頷く。皇帝の動きは素早く、呆然としている間にあっさりと出て行った。見送りに行く暇もないほどあっという間だ。呆然として、同じく驚いた様子の乳母たちと目を見合わせる。


嵐の去った後のような静けさに、姫のあくびの声が響いた。

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