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月夜

後宮に入れられた時の記憶が私にはない。ただ、腹に皇帝の子がいるのだと告げられたことだけは覚えている。意味が分からなくて、だけれど日々腹のなかで育っているのだという新しい命を蔑ろにできなくて、頭の中がぐちゃぐちゃなまま、ひたすらえずいて吐き続けていた。今思えば、あれが悪阻だったのだろう。

あの日々の記憶は本当に酷くぼんやりとしていて、吐いて、泣いて、また吐いてといったような記憶しかない。なんとなく、日々大きくなっていく腹を撫でていたような気もするけれど、それすらも明瞭ではない。


気がつけば私は、小さな小さな、ふにゃふにゃとした赤ん坊を産み落として、この腕に抱いていた。




「妃さまの流行り(マイブーム)は倒れることなんですかな?」


笑っているのに目が笑っていない老医師の開口一番の言葉はそれだった。クッションにもたれかかるようにして上体を起こした私は激しく感じる既視感に苦笑いしかできない。


「度々ご迷惑を……」

「すぐに気がついて吐き出したから良かったものの……。全く、下手すれば死んでいましたよ」

「……私だって倒れたくて倒れたわけじゃないです」

「当たり前です」


脈なんかをとられつつ、小さく抗議すればあっさりと切り捨てられる。一通りの診察を終えて苦々しい顔をした先生は眉根を寄せて、私の膝元を見た。そこには縋り付くように私の服を固く握りしめて小さく丸まった姫が眠っている。すぅすぅと寝息を立てている様は愛らしいことこのうえないが、赤く腫れぼったい瞼と頰に残った泣き跡は痛々しく、私はそっと指で撫でる。


私はやはり、毒を盛られたらしい。

あのまま倒れた私に、姫が即座に侍女を呼んでくれたおかげで発見も早く、処置を迅速に行えたのだという。姫は私が眠っている間ずっとそばにいてくれたらしく、わたしが目を覚ますと糸が切れたように大泣きした。わんわんと凄い勢いで、そのまま泣き疲れて眠ってしまった。乳母は移動させようかといってくれたが断った。これ以上、姫を不安にさせるようなことはしたくなかった。

姫の頰を撫でていれば、どっかりと先生が枕元の椅子に腰を下ろす。


「それでは、毒を飲んだ時の状況を聞かせてもらえますかな」

「……はい」


記録用紙を片手に片眉をあげる先生に小さく頷いて、気持ち姿勢を正す。少し緊張しつつも、口を開いた。


「あの時は姫と二人で——」


その先を言おうとして言葉が止まる。

あの時、たまたま、あの杯しかなかったから新しく取ってくることを面倒くさがった私はあれを飲んだ。あの杯に毒が入っていたことは間違いないし、この老医師も確認していることだろう。だけれど、そもそも、あれは。


考えもしなかった恐ろしい可能性に、ざっと血の気が引いた。青ざめて言葉を失った私に先生が怪訝な顔をする。


「妃さま?」

「……先生」


きっと私は、今とても酷い顔をしている。


「——姫のなんです」


か細く震えた声に、老医師がぴくりと眉をあげる。


「あの杯は、姫のだったんです」


お絵かきしていた机の横。すぐに手の届く場所に、幼い子供の好みそうな甘い味付けで置かれた毒杯。それの示すことはひとつ。



標的は、姫だ。



老医師の顔が一気に険しくなる。私は真っ青になって恐ろしい可能性に震えた。小さな体には少量の毒でも致命的だ。大人の私が少し口にしただけで倒れてしまうような毒を幼い姫がもし口にしたら。あの子は違和感を覚えて吐き出すなんてこと知らないから、きっとそのまま全て飲み込んでしまうだろう。それはつまり、姫の死を意味する。


「せ、んせ……。わ、私、私……」

「落ち着きなさい。まだ決まったわけではおりません。取り乱しては敵の思う壺だ」

「で、でも、姫が」


唇が戦慄いて、恐怖に身がすくむ。毒を盛られたのは初めてじゃない。妊娠中、出産後だって何度もあった。だけれどそれは私が名ばかり妃と知られるにつれて収まって、最近ではめっきり無くなっていて。それが、突然、それも私でなくて姫が狙われるだなんて、初めてで。


「よく聞きなさい」


先生が私の肩を掴み、真っ直ぐと瞳を見据えてくる。


「侍女も乳母も三人ともあの杯のことは知らなかった。警備のものがあの少し前の時間帯に見慣れぬ者を見かけたと証言しております。たまたま用事で通りかかったのかと思ったと言っておりましたが……何者かが入り込んでいたのは間違いないでしょう」

「や、っぱり」

「思考を停止されるな。殿下はただお一人の姫君。今まで何事もなかったのが幸運だったのです、こうして妃さまが動揺されていては守れるものも守れませぬ」

「っ」


強く言い聞かせられて、動揺していた頭が少し冷静さを取り戻す。そうだ、怯えている場合じゃない。姫を守るためには何をするべきなのか、きちんと見極めなくちゃ。


深く息を吸って、吐く。

目の前にいるこの人は、魔窟である宮廷を長らく渡ってきた先人である。皇帝にも近しく、世情に詳しい。

なにより、毒にも薬にも長けた医師である。だとすれば、今私が最初にすべきことは自然と決まる。


「教えてください。——姫を守るにはどうするべきか、先生が知ること、全て」




老医師が立ち去って、私は寝台の上で姫の背を撫でながら窓を見上げていた。窓の外の雲はきれいに晴れていてぼんやりと光る月は空高く、外は静まり返っている。時計の針はとっくに深夜を指していた。


ふと私は寝台をおりて、窓を開け放つ。暑くなってきたとはいえ、夜の風は涼しく肌の熱をさらった。ゆっくりと窓枠に腰掛けて、暗い庭を見下ろす。


「なにしにきたの」


窓の外の人に問う声は驚くほど滑らかに出た。しんと静まり返った庭から、数拍遅れて声が返る。


「……通りがかっただけだ」

「嘘つき」


こんな外れの宮に皇帝が通りかかることがあるものか。そもそもここは私の宮の敷地内である。寝室に続く場所にある庭なんて奥まった場所にあるところ、偶然入り込んでしまうなんてどんなに酷い方向音痴でもありえない。現に三年以上の間、そんなことは一度もなかった。


「……体は」


静かな問いが意外で、窓の外の庭に立つ皇帝を見下ろす。闇に溶けるかのような黒髪は月の光を浴びて仄かに光っているかのようだ。吸血鬼みたい。そんなことを思って、勝手に笑いが漏れる。血濡れの皇帝なんて恐れられている人にこんな態度、首がはねられても文句は言えない。だけれど、この時の私は何か枷が外れていた。夜に妖しく輝く月の光に毒されていたのかもしれないし、斬られないと確信があったからかもしれない。でもこの状況だと、死にかけて気が狂った線が濃厚だろうか。とにかくこの時は常日頃の怯えをどこかにやってしまっていた。


「どこか不備があるように見えますか?」


嫌味っぽく首を傾げて、口の端を歪める。私は一体何様なのだろう。だけれど口から溢れた言葉は止まらない。


「放っておいてよ」


どうせなら最後まで強気を貫き通せばいいのに、漏れた声は情けないくらい弱々しかった。


「どうして放っておいてくれないの。私は、ただ、静かに暮らしたいだけなのに」

「……」


何も死にかけたのは今回だけじゃない。毒が食事に混ぜられていたこともあるし、暗殺者がしかけられたこともある。侍女たちや警備のもののおかげで何とか事なきを得てきたけれど、あの恐怖は刻み付けられている。安心して子育てもできない、ただ生きているだけで疎まれる、沢山の悪意にさらされてこんな世界は嫌だと何度泣いただろう。


産まれた子が姫だと分かって、皇帝の無関心が知れ渡って、名ばかり妃と呼ばれるようになって危険は随分と減ったけれど未だに嫌がらせは絶えない。他の妃に鉢合わせれば嫌味を聞くことは避けられないし、害される可能性だって皆無じゃない。三年間で何とか無難に過ごす方法は身につけた。出来るだけ目立たないよう、息を潜めて、姫と二人だけで。平穏に、穏便に、それだけを心がけて。


それなのに、今度は姫が狙われた。


出て行けるものなら、とっくに出ている。目障りだというのなら話しかけてくれるな。身の程を知れというけれど、私は望んでここにいるんじゃない。ずっといないものとしてきたくせに、どうして今になって現れる。嘘をついて、隠して、勝手をして、人を振り回してきたのは全部全部。積もり積もった不満は既に溢れる寸前で、ふつふつと私に限界を訴える。

もしこれで、姫にまで何かあったら。私はきっと、今後こそ本当に壊れてしまう。


「……私は、あの子がなにより大切なの」


片膝を立てて、抱き寄せる。力を抜くようにとんと窓枠に頭をもたれて、小さく呟く。

老医師は、去り際に冷静に視野を広く持てと忠告した。


秋に皇帝の即位10周年記念祝賀会が控えている。ひとつの大きな節目を前にして、良くも悪くも少し宮廷内の空気は浮ついているのだという。為政者が全く怨まれないということは不可能だが、それにしてもかなり強引な手段をとってきた皇帝には敵も多い。やっと治世が落ち着いてきたとはいえ、10年の間に積もり積もった怨みは燻っていて今も食らいつく隙を虎視眈々と狙っている。そんな者たちにとって、姫は絶好の的なのだという。血濡れの皇帝の唯一の皇女。その名前は、私が考える以上に重かった。


暫く落ち着くまで気を抜かないようにと先生は告げた。少なくとも、そう、秋の祝賀会が終わるくらいまではあたりが騒つくだろうからと。警備を増やして、口にするものには十分気を使い、目を離さないようにと。まだ夏にもなっていないのに随分気の長い話だ。月に視線をやったまま、私は静かに口を開く。


「私は、後宮を出られますか?」

「……無理だな」


駄目元の問いかけは予想通りだった。黙る私に皇帝は淡々と告げる。


「一人でも子を産んだ妃は後宮を出られない決まりだ」


知ってる。知ってた。つまりは、そういうことだ。私も姫も、逃れる術はない。血濡れの皇帝の後宮で、名ばかり妃と唯一の皇女として生きていくしか道はないのだ。


「——警備と、望むならば人手も増やす。こちらで身元もきちんと精査するからそこは心配しないでいい。今回のことはこちらの不手際だ。怖い思いをさせた」


本当に、どんな風の吹き回しだろう。今まで姿すら見せなかった人がこんなことをわざわざ告げに来るなんて。まさか本当に姫の可愛さに頭でもやられたとでも言うのだろうか。


「……今更だわ」


毒気が抜かれたように呟く。寝台に眠る姫に視線をやって、顔を歪める。


「人の命は、死んだらやり直しなんて出来ないのよ」


どんなに泣き叫ぼうがどんなに悔もうが、なくした命は帰らない。だから私は、絶対に姫を守らなくてはいけない。

窓枠から降り立って、私はパタンと窓を閉めた。

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