暗雲
もやもやと落としどころのない気分のまま、歩き慣れた回廊を早足で歩く。昨日の晴天に反して今日の天気はどんよりしていて、まるで私の気分を表しているかのようだ。後ろでこちらを伺うように侍女がパタパタと追ってくるせれど、今日は気遣う気になれなかった。どっと疲れたような、現実感のないような、昨日の嫌に地に足のつかない感覚が未だに抜けない。
皇帝は姫のおままごとに淡々と付き合ったあと、時間になったのかあっさりと戻って行った。あまりにもあっさりとしていて拍子抜けするくらい本当にただおままごとしただけだった。あのあとの出来事を、私はつらつらと思い返す。
皇帝を見送って、しんとした空気の中で私が思い出していたのは蝶々だった。鱗粉がついたのだと、姫が話してくれた蝶々。
「……姫」
姫は無垢な表情で私を見上げる。証拠も何もないのに、おかしな確信があった。
「陛下が、蝶々を捕まえてくれたのね?」
その時の乳母と侍女の、私に向けられた蒼白な顔色が忘れられない。そして姫は、屈託のない満面の笑みを浮かべた。
「ばったもね、つかまえてくれたのよ!」
「……そう」
「ぴょーん!てすごいの!」
「そうだったの」
姫は屈託のない笑顔で、どんなにバッタがよく跳ねたのかを教えてくれる。そんな姫に相槌を打ちつつ、やけに心のうちは冷静だった。
要するに、私が皇帝と姫が会うことに乗り気でないと気がついた乳母たちは姫を皇帝には会わせないのではなく私に報告しないという方を選択したというわけだ。いつから、どれくらいの頻度でなのかは知らない。けれど姫の様子からして決して少なくはなかったのだと思う。
おかしいと思ったのだ。いくら日々成長している姫とはいえ、まだ小さなこの子がひらひらと宙を舞う蝶を突然捕まえられるようになるなんて。乳母も侍女も決して虫が好きな人種ではないから、捕まえるとしたらそれは姫一人でのことになる。そんなこと、出来っこないのに。
なんで、気がつかなかったのか。乳母たちを責める気はない。皇帝が噛んでいるとなると逆らうことは出来ないし不穏な空気を醸し出して言いづらくした私も悪い。だけれど、頭ではそう思っても何とも飲み込みづらいもやもやとした気持ち悪さはなくならない。皇帝も皇帝だ。三年も放置していたくせに突然どんな風の吹き回しだろう。姫の可愛さにでも打ちのめされたか?そんなことを考えて嘲笑がもれる。そんな苛立った空気でいたからなのか、嫌なことは重なる。
「陛下とお会いしたそうね?」
苛々とした感情の詰まった瞳に睨まれて、出そうになった溜息を呑み込んだ。この後宮ではどこにいても誰が見ているかしれない。どんなに隠そうとしても、いつのまにか風の噂は広まっているものなのだ。本当に、どこからそんな話が伝わっていくのかと呆れてしまうけれど後宮はそういう場所だから仕方ない。
分かっていたはずなのに失念していた。耳聡い妃たちが昨日のことを嗅ぎつけないわけもなく、顔を合わせれば絡まれないわけがない。いくら頭を冷やしたかったからといって、昨日の今日で外に出るのは軽率だった。
「……偶然、お会い致しまして。殿下のお相手をしていただきました」
ぴくりと妃の眉がつり上がった。
あぁ、これは失敗だったかもしれない。私に会いにきたのではないのだと強調しようとしただけなのだが、逆に姫のことを引き合いにしたことで嫌味に取られた可能性が高い。
「まさかとは思うけれど陛下のご温情を勘違いしたりしていないでしょうね?」
冷え冷えとした口調は明らかに私を見下していて、悪意がたっぷりとこもっている。いちいち傷つくとはもう言わない。だけれどこういう言葉を聞くたびにどっと何かが削られていく気がする。
「今は大切な時期なのよ。あなたは身の程を知って今まで通り静かにしていればいいの」
あぁもう、全部全部奴のせいだ。あの人が気まぐれなんて起こすからこんなことになる。
「わかったわね!?」
「……はい」
苛々とした気持ちと心の靄を全部皇帝のせいにして、出そうになった溜息を押さえつけた。
曇り空に影響されたかのように後宮の空気はどんよりとしている。いつもよりピリピリしている気さえして、なんだかもう嫌になる。
いつまでこんな日々は続くのだろう。ぐらぐらと不安定な足場の上で、周りの様子を伺って、こそこそと隠れるようにして。いっそ、姫を連れて後宮を出られれば楽になれるのだろうか。
出来っこないことを考えて、乾いた笑いが漏れる。
「姫」
「なぁにー?」
机の上に紙をひろげてぐりぐりとお絵かきしていた姫が、私の声に返事をする。だけれど視線は絵に向かったままで、一生懸命手を動かしていた。
夕暮れ時の宮には人がいなくて、この部屋には私と姫だけ。不思議な静けさに、湿った空気。
「……何を描いているの?」
「んーとね、へーかよ」
「……」
姫はうんうん悩みながらも、楽しそうに絵を描いていく。姫は、桃色が好きだ。女の子らしく橙や黄色、赤なんかも好む。だけれど今日の姫は、黒を使って楽しそうに絵を描いていた。
「姫は、陛下が好き?」
ぽつりとした呟きは、小さすぎて姫には届かなかった。
口に出してからハッとして、何を考えていたのかと泣きそうになる。この幼い子が無邪気に父親を慕っていることなんて、昨日の一件で明らかだったじゃないか。もらった銀の懐中時計も大切に持って、あんな真っ直ぐな笑みを浮かべて。
だけれど、私は怖気付いてしまうのだ。あの人と姫を関わらせることにどうしても恐れを抱いてしまう。でも、私の勝手な思いで父親を遠ざけてきたけれど、もしかしたら、この子は、私なんかより。
——身の程を知りなさい。
あの妃の言葉が、頭の中をよぎる。真に受けるのも馬鹿らしいと聞き流していたはずなのに、脳裏に刻みついて離れない。
(あぁもうっ)
もやもやとした思いを振り払うように机の上に置いてあった杯を手に取る。姫のために用意してくれていたんであろうけれど、あとでまた用意してもらえばいい。
勢いよくあおれば、あまり馴染みのない味がした。甘い。甘くて、気持ち悪い。
「——」
がしゃん!と杯が床に砕け落ちる。口の中のものを吐き出した私はよろけた足で座り込んだ。椅子に座ったまま目を見開いて固まった姫が私を見下ろしている。あぁ、幼い子にこんなところ見せたくないのに。
ぐにゃりと、視界が歪む。
遠のく意識の向こうで、姫の泣き声が聞こえた気がした。