遭遇
後宮とは、本当にすることがない。他の妃たちは茶会だ演奏会だと色々とやってはいるらしいのだが、末端の私には縁のないことだ。庭園と宮、それからたまに書庫。限られた場所を往復して、日々の変化といえば姫の成長くらい。夏に差し掛かったその日も変わりばえなく、姫を乳母とともに先に庭園に行かせて、私は書庫によってから合流することになっていた。姫が遊んでいる横で読んでいられるような適当な本を選んで、侍女と姫の元に向かう。
日差しは随分強くなって、日傘なしでは歩けなくなった。庭園は今日も変わりなく整っていて、少しずつ夏の花が姿を見せ始めている。そのうち、幼子特有のケタケタと鈴のような笑い声が聞こえてくる。
「あら、姫さまご機嫌ですね」
「本当に。何しているのかしら」
侍女とくすくすと笑いながら、驚かせてみようかなんて、気配を潜めてみたりする。生垣のひらけた所まででて、私はピタリと足を止めた。
「妃さま?どうされ——」
不思議そうにした侍女が私の視線を辿り、ひゅっと息を飲んだ。
姫がいた。
身振り手振りを交えながら一生懸命におしゃべりをしている。その表情は何を話しているのか真剣そのもので、活き活きと楽しげだ。でも、姫がおしゃべりしているのは乳母でも侍女でもなかった。一本にまとめられた肩上ほどの長さの黒髪。冷え冷えとした氷を思わせる整った顔。姫を膝に乗せて、聞いているのか聞いていないのかよくわからないような表情で相槌を打っいる。二人で芝に座り込んで、姫は時折笑い声をあげ、そんな姫の頭を無造作に撫で、流れる空気は穏やかそのもの。
皇帝が、姫と共にいた。
「おかーさま!」
立ち竦んだままだった私に気がついた姫が声を上げる。それにつられて、美しい朝焼け色の瞳が私を見つける。驚いたような表情。その視線から逃げるように、私は勢いよく頭を下げて礼をとった。ばくばくと心臓が嫌な音をたてる。深く頭を下げたまま視線を動かせない。頭を満たすのは疑問と焦燥だけだ。なんで。なんでここに皇帝がいる。三年間、後宮で鉢合わせることなんて一度もなかったのに。なんで今。
「おかーさま!」
笑顔で駆け寄ってきた姫に、ぎこちなく顔をあげる。心配そうになった表情を安心させるように何とか微笑んだ。
「おかーさま、こっち、こっちきて!」
手を掴まれ、抗えずに姫に手を引かれていく。
「あのね、あのね!すごいのよ!」
皇帝のもとまで、姫は私を連れて行こうとする。紅潮した頰は、私にも喜びを共有しようと興奮しているかのようだ。可愛い。愛おしい。思いは溢れるのに体は強張って言葉が出ない。そうこうしているうちに姫は私をあっさりと芝の上に座る皇帝の前に引き出した。
「あのね、わたしのおかーさまよ!」
自慢するような姫の口調に、この子が私を皇帝に紹介しようとしていたのだと悟って少し目を丸くする。そうか、そういえばこの子にとって私たちは互いに知らない者同士なのだ。
「おかーさますわって!」
言葉を失っていれば姫に手を引かれて、その勢いで私はすとんと芝のうえに座ってしまう。皇帝をこうも間近で見るのはいつぶりだろう。無言のままの皇帝は何を考えているのかわからない。しんとした何とも息苦しい空気に居心地の悪さを感じていると、姫がハッとしたように口元を押さえて叫んだ。
「あっ!!いっけない!ちょっとまっててね!」
「え?」
おませな口調そう言い残した姫は乳母のもとへパタパタと駆けていく。困惑していれば、同じく困惑した様子の乳母から玩具の籠を受け取って駆け戻ってきた。
「おかーさまはおじょうさまね、わたしがおひめさま、へーかはおーじさまよ」
「は?」
「おじょーさまはいじわるなのね、わたしとおーじさまをじゃまするのよ」
私と皇帝の間に座り込んだ姫は、ティーカップなどのおままごと道具を広げ始める。これはもしかして、こないだ読んだ絵本を言っているのだろうか。いじわるな令嬢に邪魔されつつもお姫様と王子様が結ばれる恋物語の。
「ま、まって、姫」
「なぁに?おじょーさま」
「陛下はお忙しいのだから、駄目よ」
「別にこれくらい問題ない」
姫が不満を述べるより先に告げられた思いがけないところからの反論にポカンとする。皇帝は無表情だ。何を考えているのか分からないが、たしかにこの人の声だった。
「え、いや、え……?」
この皇帝は、広大な帝国を治める天上人である。政務が多く積み重なりその身が多忙を極めることくらい私でも知っている常識だ。それにこの人はただの皇帝じゃない。情け容赦なく人の首を刎ねる冷酷無慈悲な血濡れの皇帝。私はそれが事実だと知っている。知っている、のだが。困惑する私を置いて、姫はおままごとをはじめる。言葉少ななうえに似合わないうえ違和感がこのうえないが皇帝は文句も言わずに姫のなされるがままになっていた。私も姫にティーカップを渡されて、無理やり劇中に引き入れられる。
わけのわからないおままごとは、皇帝が去るまでそのまま数十分続いた。