風邪
風邪を引いた。季節の変わり目にはよくあることなのだが、それにしてもタイミングの悪い。姫に移さないよう隔離して、世話は全て乳母たちに任せる。体が重く気だるいこの感覚にはいつになっても慣れない。
ごほごほと咳をしつつ、一日中寝入る。侍女たちがこまめに飲み物や食べ物を持ってきてくれて、夕方には少し楽になっていた。気まずそうな顔をした乳母がやってきたのは、その頃である。
「姫になにかあったの?」
「えぇ……その、なんといいますか」
積み上がったクッションに背中をもたれかけるようにして私は寝台に座っていた。乳母は私を気遣った後、口ごもる。常日頃はサバサバとした乳母のはっきりしない物言いに嫌な予感がする。
「どうしたの?」
「陛下に……偶然、お会いして」
「は!?」
驚いた拍子に咳き込んでしまう。慌てた乳母に背中をさすられて、ふー、と深く息を吐いた。
「……ごめんなさい。それで?」
「姫さまが……明日も会いたいと仰られて、その、陛下も了承を……」
くらっと目眩がした。姫はなんてことをしでかしてくれたのか。それはつまり姫を明日も皇帝と会わせないといけないということじゃないか。
「わ、私もついて……」
「患った体で無茶ですわ、妃さま」
「でも姫が」
幼いあの子を一人で猛獣の前になどやれというのか。そんなの死ねというようなものだ。泣きそうになった私に、乳母が、迷うように視線をさまよわせた。そして少し言い淀んでから口を開く。
「……僭越ながら、陛下は姫さまに害となられることはなさらないように感じました。幼子相手だと、きちんと弁えられているかと」
「……あの男が?」
幼子だからと、情けをかけると?
口の端が歪む。漏れた笑いは、嘲笑か自嘲か。
「妃さま、それはどういう意味で」
そんなわけ、ないじゃないか。そんな柔な性格だったら、今頃私は——。
「……妃さま?」
熱で朦朧とした頭で、考えがまとまらない。気持ち悪さと気怠さが酷くて、頭がガンガンする。
「もう、いや……」
「妃さ……熱っ!?やだ、酷い熱だわ。妃さまっ、お気を確かに!誰か!誰か医者を呼んで!妃さまが——!」
何やら辺りがバタバタとして騒がしくなる。だけれど体は重く、段々とあたりの音も遠のいていく。そのまま、意識は闇に沈んだ。
ふわりと、スープの匂いがする。小さなキッチンには鼻歌を歌いながら鍋をかき回す壮年の女性がいた。
——あぁ、これは夢だ。
夢でしかありえない光景だとわかっているのに、縋ってしまいそうになる。これが現実なのだと錯覚してしまいたくなる。泣きそうになる私に、ふいに女性が振り向き屈託のない笑みを浮かべた。
「あら、帰ってたの?」
もう、駄目だった。
「おか——」
手を伸ばした瞬間、あたりが真っ赤に染まる。ごうごうと響く燃え盛る音。熱風。悲鳴。怒声。泣き叫ぶ、私の声。ぐにゃりと景色は歪み、真っ赤な、真っ赤な。
血しぶきが舞う。
「——っ!」
「おや、目が覚めましたか」
ハッと目が覚めれば、飄々とした小柄な老人が枕元に座っていた。
「……先生?」
「いやぁ、久しぶりですなぁ妃さま。お体の調子はいかがで?」
「え、えぇ……随分、楽に」
久しく会っていなかったが、見間違えるはずがない。姫を取り上げてくれた張本人であり、生まれてからもしばらく診てくれたベテランの宮廷医。しかし、それも姫がひとつになるまでのことだ。後宮は基本男子禁制。姫が生まれた時は例外的に許されていたがそれも昔の話である。それなのに何故この方が今ここに。困惑する私を放置して、先生は手際よく脈を図り、まぶたなどを確認していく。
「うむ、大丈夫そうだ」
「あ、ありがとうございます?」
「疲れが出たんでしょうなぁ。熱が下がっても薬はちゃんと飲むように、しばらく無理は禁物です」
さらさらと何かを書きつける先生に困惑しつつも頷く。
「あっ、あの、姫は」
「ん?殿下なら向こうで侍女殿と遊んでおりますよ。いやぁ、少し見ないうちに随分と大きくなられて」
ご機嫌な先生は何が楽しいのか豪快に笑う。その勢いに呑まれつつも、何とか口を開いた。
「あの、私はどれくらい寝て……?」
「丸一日です」
先生は、私を見下ろしながら宥めるような口調で話す。
「殿下が陛下と会われたかを気になされているのなら、会ってはおりませんよ。母君を心配された殿下は部屋を離れませんでしたし、陛下もそれを許されましたからな」
「そ、うですか」
肩の力が抜けて、ほっと息をつく。
「安心しましたか?」
どこか試すような先生の口調に、曖昧に笑う。
「どう、なのでしょうね」
安心は、した。だけれどそれが何に対してなのかは、正直、よくわからなかった。