時計
また妃が一人、後宮から消えたのだという。新しく入ってくるものもいるから後宮内の人数が大きく変わることはないが、やはり出入りは激しいと思う。私には他の妃との交流はないので、こういう情報を仕入れてくるのは侍女の一人だ。噂好きの彼女は明るく可愛いらしく、地獄耳だ。
「此間はあわや乱闘になるところだったんですって!恐ろしいですよねぇ」
「乱闘って……妃として恥ずかしくないのかしら」
「そんな常識があったら乱闘なんて起こさないわよ!まぁ、高位の方が窘められて収まったみたいだけれど、謹慎になったみたい」
侍女達はポンポンと言葉を交わす。姫は乳母に連れられてお散歩中だから、普段なら教育上口をつぐむことも言いたい放題だ。話題は二転三転して、いつのまにか理想の結婚相手なんてものになっている。
「妃さまはどう思います!?」
「夢より堅実ですよね!?」
「絶対夢を追うべきよ!!」
この子たちも本来は良いところのお嬢様で、私より身分は上といってもいい。だけれど初めから感じよく仕事の腕もいい本当に出来た侍女達だ。一番長い付き合いなのは姫の乳母だけれど、この子達ももう優に三年の付き合いになる。
「そうねぇ、どうかしら」
繕わないあけすけな様子に笑みを含んで紅茶を飲む。
「どちらにせよ、地に足の着いていない男性は絶対に無理だわ」
「そんなことわかってるけどぉ……素敵な恋はしたいじゃない」
不満そうな声に我慢しきれずくすくすと笑い声がもれた。
「もう!笑い事じゃないです!!」
「ごめんなさい、ふふっ。でも大丈夫よ。あなたは可愛らしいから、きっといいお相手が見つかるわ」
「やった!」
「えぇー……そうですかねぇ」
「なによぉ」
侍女たちが小競り合いをしていると、パタパタと騒々しい足音が廊下から響いた。
「姫さまでしょうか」
「あぁっ!もうこんな時間!」
侍女達はバタバタと動き出す。私も笑いの余韻を引きずりつつ、扉まで歩いていく。
(恋、ね)
姫もいつかあんな風に恋を夢見るのだろうか。だとしたら、私はそれが叶うように願うしか出来ない。生まれがなんであろうと、あの子が帝国のたった一人の皇女であることに変わりはないのだから。
「姫、おかえりなさい」
「おかーさま!」
いつになく興奮して頰を紅潮させた姫を抱き上げれば、ぎゅっとしがみついてくる。柔らかくて温かな体。日向の匂いに、ふと他の匂いが混じる。違和感を覚えた。
「……その首にかかっているものはなぁに?」
後から入ってきた乳母が、びくりと動揺した。その空気に眉根をひそめる。
「姫?」
首にかかっていたのは、銀色の懐中時計だ。いかにも高価そうな、鏡のように艶やかに磨かれたもので宝石まであしらわれている。こんなもの、持ってはいなかった。
「あのね、あのね」
高揚したように頰を染めて、耳打ちするように姫が私に小さく潜めた声で話し出す。
「へーかがくれたの」
「っ!?」
懐中時計を投げ捨てないでいられたのは咄嗟に理性が抑えつけたからだ。姫の首にかかったものを放り投げれば姫の肌が傷つく。良かった、衝動に身を任せなくて。不自然に見えないように小さく深呼吸して、引攣らないようにいつもどおりを心がけて微笑みを浮かべた。
「……陛下?皇帝陛下にいただいたの?」
「うん!」
つまり、後宮に来ていたのか。こんな真昼間から。幸い姫はいつにない私の様子に気づくことはなく、にこにこと笑みを浮かべて大切な宝物を触るように懐中時計を開いて見せてくれる。繊細な作りをした、美しいものだ。——あの人らしい。
「きれーね」
姫はご機嫌で、怯えや恐れというものは見えない。乳母たちの様子がおかしかった訳は分かったが、姫に何が害があるというわけではなさそうだった。
安堵に身のこわばりがとけて、ぎゅっと姫を抱きしめる。
ふわふわと暖かくて、お日様の香りがする。きっと、目一杯遊んで来たのだろう。おままごとをして、かけっこをして、ボールでも遊んで。……それで、会ってしまった。
ふぁ、とあくびをした姫を撫でて、微笑む。
「疲れちゃったのね、お昼寝しましょうね」
「んん……」
大事そうに握りしめた懐中時計は手放す様子はない。なんの気まぐれかは知らないが姫がもらったものだ。取り上げるのは、やはり酷か。
姫を心配そうな侍女に託し、乳母に話を聞く。
要約すると、姫と庭園で遊んでいたところたまたま皇帝と鉢合わせた。そこで姫の投げたボールが皇帝に当たったと。
姫は一体どんな豪速球を投げたというのか。幼児の投げるボールなど程度が知れているのに、それに当たるとは随分間抜けな。偶然姫のいった庭園で偶然居合わせた皇帝が偶然姫のボールに当たるとは、嫌な偶然もあったものだ。ふー、と溜息をついて額を抑える。
「わかりました。大変だったわね。……偶然ではあるでしょうけれど、しばらくあの辺りに近づかないようにしましょう。……わざわざ蛇がいると分かっている藪を突くことはないもの」
「は、はい……!」
とにかく、姫が何事もなくて良かった。機嫌をそこねた妃が後宮から姿を消すことは本当によくある話なのだ。実子である姫とて、例外とは限らない。
争いの種には、関わらないに限る。
穏便に、穏便に行くのだ。