回顧
目がさめると、知らない場所にいた。
美しい調度品、ふわりと甘い香りの漂う室内。呆然とする私に、ふわふわの栗毛が振り返る。小動物のようなくりくりとした瞳と目があい、彼女の顔がパッと輝いた。
「よかった……目が覚めたのね!」
「え……?」
「ずっと眠られていたから、心配していたんですよ!」
ぎゅっと手を握られて、私は困惑したまま首を傾げる。
「えっと……あなた、は?」
きょとりと、栗色の瞳が瞬く。それからハッとしたように口元を押さえた。
「やだ、私ったら名乗りもせずに……!」
恥ずかしそうに笑った彼女は、見惚れるような美しい所作でスカートをつまみあげ礼をした。
「我が主人の命により、御身のお世話を仰せつかりました。——わたくしはディオネ。どうぞ、よろしくお願い致しますね」
そして彼女は、私の名を呼んだのだ。
皇帝の兵は優秀だった。
あっという間に賊を捕え、気がつけば事は終わっていた。私は傷ひとつ負わず、皇帝が言った通り危険は何一つなかったと言える。
あたりにもあっさりとしていて、正直なところ襲われたという実感はないし、これで皇帝の追っていた敵が捕まえられるのかは知らない。だけれどあとは彼の仕事だ。私の役目は終わった。
「——妃さま」
ぼんやりとしていた私が呼ばれた声に振り向けば、心配げな侍女と目があう。
「大丈夫ですか……?先程から、頁が進んでいないようですが……」
そういえば、本を読んでいたんだった。思い出したように手元を見下ろして、侍女に微笑んだ。
「暑さにやられちゃったのかしらね。……姫はどうしている?」
「……先程まで遊ばれていたのですが、今は眠られています」
「そう」
心配そうなままの侍女には気がつかないふりして、私は本を閉じると立ち上がる。姫の横で、一緒に昼寝でもしようと思った。
——あの墓参りから、二週間経った。
あれきり皇帝は来ない。あの賊関連のことで追われているようだ。もっとも、もう私は用済みで今後顔は出さないかもしれないけれど。
私はというと、ひたすら平穏な日々を貪っている。
姫のおままごとに付き合い、姫の虫談義に辟易し、姫とクッキーを焼き、姫の可愛さに癒される。
そんななんてことない、いつもの日常を送っていた。
前と変わったことと言えば、姫がふとした瞬間に「へーか」は来るかな、なんて口に出したり、姫の虫に対する知識がこの短期間で異様に増えたということくらいで。
これが日常なのだと、実感していた。
「先生、ディオネって存じています?」
もはや定例となりかけた診察で、私の言葉に珍しく老医師は目を見開いて黙り込んだ。数拍おいて、答えが返る。
「——そのディオネとは、もしや栗毛に栗色の瞳の騒がしい侍女のことですかな」
「騒がしい、というより明るくて賑やか、が相応しいと思いますけれど」
「あんなのは“騒がしい”で十分」
辛辣に言い切った老医師に思わず笑いがもれる。やっぱり、この人はあの子のことを知っていた。
「それで、どうして突然?」
「……四年前、彼女に世話になったもので」
「——……」
老医師は今度こそ黙り込んだ。
「……私は、当時のことなど何も存じあげませんぞ」
「えぇ、お聞きする気はありません。……私が知っていますから」
ディオネ。
明るくて賑やかで、優しい天使。
あの火災のあと、離宮へと引き取られた私を支えてくれた、私の恩人。
「……私に聞くつもりはないと。ならば、何故私に?」
「聞いてくれませんか」
「——……」
「私の話を、聞いてくださいませんか」
老医師はいつもの飄々とした雰囲気を消し去り、静かな瞳で私を見つめる。永遠のように感じる長い沈黙のあと、ふぅ、と息を吐く音がした。
「……よろしかろう。別に生き急ぐこともないこの身寄り。あなた様の思うように、語ればよろしい」
少し、泣きそうになった。
私はやっぱり、恵まれている。語りたいのだと言えばこうして話を聞いてくれる人がいて、泣くことを、許してくれる。
「ありがとう……ございます」
だから私はゆっくりと、過去を懐かしむようにゆっくりと、遠い記憶を遡った。
「彼女と、ディオネと初めて会ったのは、あの火災のあとで——」
彼女は底抜けに明るく、春の陽だまりのような人だった。
おっちょこちょいな彼女はいつも何かしらの失敗をする。それで怒られて、ぺこぺこ謝って、でもまた何かやらかすのだ。みんな彼女に振り回されていたけれど、同時に彼女に癒されてもいた。一生懸命な彼女はどこか憎めない、それでいて許させてしまうような人柄だったから、彼女の失敗にみんな怒るより笑ってしまうのだ。
彼女の周りはいつも笑い声で溢れていた。
彼のいない夜。
部屋の隅で一人私が泣いている時、いつも気がつくのはディオネだった。どこからともなく現れて、彼女は私の隣にただ黙って寄り添ってくれた。時には背中をさすって、大丈夫、大丈夫と。火災で安否のわからない両親の、生存の絶望的な状態に打ちひしがれる私がそれにどれだけ助けられたか。
「私は、知りませんでした。彼が皇帝だということも……彼女がどんな思いで、私のそばにいてくれたのかも」
ディオネは彼と乳姉妹なのだと語った。ディオネの母が彼の乳母で、小さな頃から一緒に育ったのだと。私は乳母という存在に驚きながらも、二人の砕けた雰囲気の理由として納得した。兄と妹、もしくは姉と弟のような、主従の関係以上の気安さのようなものが二人にはあったから。ディオネと彼の会話は側から見ると下らない、子供同士の言い合いのようなものが多くて、私はいつも二人の会話を聞いてはくすくすと笑っていた。
ディオネはよく、私に語った。
彼は寂しい人なのだと、優しい人なのだと。それで、最後は必ずこう言うのだ。だからあなたが側にいてあげてね、と。
「私いつもよく分からないまま頷いていました。彼女がどんな思いだったのか、どうしてそんなことを言うのか、何も、分かっていなかったのに」
「……」
「だから、私……」
離宮を、賊が襲った時。皇帝が“嗅ぎつかれた”と称したあの時。
私は彼と共にいて、異様な騒めきにふと窓の外を覗いたのだ。
そこは、地獄だった。
彼は咄嗟に私の視界を覆って、窓の外から引き剥がした。でも焼きついた景色は、ありありと浮かび上がって。
そこに、数人の騎士と共にディオネが飛び込んで来た。
よく分からない、緊迫した難しい会話を交わした彼は私を連れて部屋を出た。どうなっているの、と聞いた私に大丈夫だとだけ言って、縋るようにディオネを見ればディオネも笑った。
——大丈夫、あなたは絶対に守るから。
……もし今、私があの時に戻れるとしたら。あの彼女の言葉を、私は全力で撤回させるだろう。彼女にあんなことを言ってもらう価値なんて、私には無いと、言えるのに。
「……ディオネは、私を庇って斬られました」
赤い、赤い血が舞った。
場違いなほどに美しく、鮮やかな赤が。
「私は、彼女に、駆け寄ろうとして、でも、彼にそれを止められて」
泣き叫ぶ私を無理やり彼は引きずって、倒れたディオネを放置したまま、その場を去った。いやだ、いやだとどれだけ叫んだだろう。でも誰もそんなこと聞いてくれず、見えなくなった彼女に私はひたすら泣き叫んだ。
まだ、助けられるかもしれないのに。まだ、生きていたのに。あの時、斬られた彼女は、私に、微笑んだのに。
ひとり、ふたりと、周りにいた騎士もいつのまにかその数を減らした。私は慣れ親しんだ彼らがその姿を消すたび、また、泣き叫んで。
いつのまにか騒ぎは収まり、ひとりの騎士が両手を縛られ前に引きずり出されていた。
その騎士は、よくディオネとも笑って話していたひょうきんな人だった。私も何度か話した。気さくで、楽しい人。味方であるはずのその人が、何故か他の騎士たちに刃を向けられ、縛られていた。分からなかった。何故、その騎士がそんな風になっているのか。何故、その騎士がそんな、どろりとした憎しみを宿した目で彼を見ているのか。
騎士は彼を、皇帝と呼んだ。
皇帝によって家族を失ったのだと、幼い弟妹までもが処刑され、一族の者全てが殺されたと。その時からずっと、復讐だけを胸に抱いて生きて来たと、恐ろしいような、憎悪のこもった声で。
私はただ、感じたこともないような恐ろしいほどの憎悪に訳がわからないまま彼の影に隠れて、騎士を見ていた。そんな私を見て、歪んだ笑みを浮かべた騎士は消えない呪いを吐いたのだ。
『——あんた知ってるか?火事は、皇帝の仕業だってこと』
赤い、赤い血が舞った。
彼が——皇帝が騎士の首を刎ねたのだと分かったのは、見たこともない酷薄な色をした朝焼けの瞳が振り返った時。
『うそ……よね?』
震えた私の声に、彼は答えなかった。ただ、どれだけ私が嘘だと泣き叫んでも、彼は頷かなかった。
どうして?なんで?どういうこと?ディオネは。騎士たちは。——父は、母は。
『全部——あなたのせいだったの?』
それからの記憶は、今まで覚えていた通りだ。私は妊娠を告げられ——後宮へと、入れられた。
「……思い出したのはこれが全部です」
「……」
老医師は手を組んだ。
「……まぁ、私が聞いていることと大差はありませんな。間違いなかろう」
「やっぱり……」
「それで?妃さまは、その裏切り者の言葉を信じたと?」
老医師の淡々とした声に、私は瞳を伏せる。
「……私、あの火災の時、西にいたんですよ」
ぎゅっと、片腕を握りしめた。
「陛下に、呼び出されて……西にいたんです」
あの日、暴徒の制圧を指揮していた皇帝が来るはずなんてないのに、なんでわざわざ、私を東から遠ざけるようなことをしたのか。——まるで、火事が起きるって知っていたみたい。
「ディオネは、彼を優しい人だと言いました……私だって、そう思ってた。そう思いたかった……」
彼は兄弟同然に育ったディオネを、あっさり見捨てた。次々と倒れていく自分を守ってくれた騎士達に、目もくれなかった。あの状況でそんな余裕なかったのは分かってる。でも、あまりにも彼に迷いはなくて、私は。
「……あぁこの人は、“血濡れの皇帝”なんだって、納得してしまったんです」
残酷無慈悲な簒奪帝。彼は、人を切り捨てる事を躊躇わない。どんなに心を許した人だって、きっと、私のことだって……姫のことだって、邪魔になれば、あっさり捨て去る。
「……先生、私のことを怯えているって言いましたよね」
「……」
「その通りです……私は、いつ、あの人に切り捨てられるのか……ずっと、怯えてる」
あの、酷薄な朝焼けの瞳が自分に向けられることを、なによりも恐れている。
「本当に……あなた方は面倒なつくりをしとりますなぁ」
老医師はまるで出来の悪い子供にでも向けるかのように、ふぅと溜息をつくと微かに笑った。
「え……?」
「私に言えるのは一つだけだ。——悩みなさい、気が済むまで。あなたはきっとその先に答えを見つけられるであろうから」




