家族
髪の一部を編み込んでおろす。そこに彼のくれた銀色の蝶を飾った私は、鏡に向かって笑ってから、階段を駆け下りて一階の店に顔を出した。小さな食堂の台所では、母が朝の仕込みをしている。
「それじゃあお母さん、夜には帰ってお店手伝うから」
「はいはーい」
よく言えば大らかで、悪く言えば適当な母は手元の鍋から視線をあげずに返事をする。癖のある茶髪をざっくりとまとめて、料理を作る母の後ろ姿は見慣れたものだ。母からは、いつも何か美味しい匂いがする。それは私にとってなによりも落ち着く香りだ。行ってきます、と声をかけると私はすぐに引っ込んで、玄関まで走った。
「もう行くのかい?」
階段の上から覗き込んでいた父が、私に向かって声をかける。綺麗な顔をした父はとても儚い人で、大雑把な母とは真逆の、中身もとても繊細な人だ。その緑色の優しい瞳が、私は小さな頃から大好きだった。私は玄関に置かれた鏡で前髪を最終確認しつつ頷く。
「夜には戻るわ。あ、でも遅くなるかもしれないからごはんは先に食べててね」
「……彼とでも約束してるのかな」
パッと、私は頰を赤らめて振りむいた。階下に降りて来た父は困ったような顔をしている。
「心配性なんだから」
「そりゃあ、大事な娘の話だからね」
彼とも度々店で顔を合わせ、気に入って話をしていた父はなんとも複雑そうな表情だ。そんな父に抱きついて、ちゅっと頰にキスをする。父は私を優しく抱きしめ返した。ただ、長い。離れない。
「ちょ、お父さん」
「あぁああ行かせたくない……」
「なに言ってるの、もうっ!」
髪が崩れる!といった私にやっと父は開放してくれる。あぁもう、折角綺麗にしたのに。むくれる私に、父は少し困ったような顔をした。
「……ねぇ」
「なぁに」
「君は、もし彼が……」
「え?」
父は首を傾げた私に言葉を切ると、誤魔化すように微笑んだ。
「いや……やっぱり、なんでもない」
聡い父は、もしかしたらこの時なにかしらを勘付いていたのかもしれない。そのうえで、きっと見守ってくれていた。
「僕の可愛いお姫様。どうか、君が、自分の幸せを見つけられますように」
「どうしたの?急に。なんだか変よ」
「はは……そうだね、少し感傷に浸っていたかもしれない」
覚えておきなさい、父はそう言って私の頭を撫でた。
「僕も、もちろんお母さんも、絶対に君の味方だからね」
楽しんでおいで。そう微笑んだ父が、私の見た最期になった。
異様な雰囲気と、普段より騒めいた空気。待ち合わせに中々こない待ち人に溜息をついていた頃、私は空に煙を見た。騒めきの間に、東から出火したらしい、火のまわりが早い、そんな声が次々と入ってくる。
——そして私は、絶望を見た。
月が窓の外に輝いている。
ぴょんぴょんと部屋の中を飛び跳ねる姫を横目に、寝台に腰掛けた私は髪を緩く一本に編んでいた。癖のある茶髪は腰ほどまで伸びていて、そろそろ切ろうかなんて考える。全部編み終わって片方の肩に流した私は、ようやく姫の方を向いた。
「姫、そろそろ落ち着きなさい」
湯あがりの姫の頰は薔薇色だ。手招きして水を飲ませ、少し落ち着かせようとするものの効果はない。
「ねぇ、ねぇ、ほんとうに?ほんとうにへーかがきてくれるの?」
「はいはい、来てくれるから。落ち着きなさい、ほら」
きゃー!と声をあげた姫を横に座らせて、私と同じように姫の髪も編む。さらさらの黒髪は癖もなくて羨ましい。ちょうど姫の髪が結い終わった時、寝室の扉が開いた。
「へーか!!」
いつもの豪奢な皇帝の服とは違う、簡素な仕立ての着崩された寝衣。軽く濡れたままの艶やかな黒い髪は結われず下したままだ。普段の威厳ある雰囲気も少し柔らかく、駆け寄った姫の頭を撫でる彼は大帝国の皇帝ではなく普通の青年のようにも見えた。
朝焼けの瞳が、私を向く。
その目元はいつもは嘲笑うばかりのくせに今日に限って優しくて、胸がぎゅっと締め付けられる。
明日、私は両親の墓参りへと行く。
あの火災の犠牲者はあまりにも多かったうえ身元のわからない遺骨が大量に出た。だからそれら全てをまとめた慰霊塔が帝都郊外にあるのだという。侍女からその話を聞いた私は、どうしても一度そこに行きたかった。火災のあとの私は正気でなくて二人の死を悼むことなんて出来なかったから、改めてきちんと弔いたかったのだ。
だから私は我儘を言った。後宮の外に出るのならば、慰霊塔に行きたいと。彼はそれに頷いてくれた。それで、だから、少し欲が出てしまったのかもしれない。仮初めとはいえ寵妃という立場にいる今なら、許されるのではないかと。
姫と三人、一緒に眠ることが出来たら、なんて。
幼い日の父と母に挟まれて眠った幸せな思い出を姫にも与えてあげられたらなんて、あまりにも身の程知らずなことを願ってしまった。それなのに彼は、そんな私の我儘まで、叶えてくれた。
「へーか、こっち!こっちね!!」
甘えている。私は口では避けるようなことを言いながら、あまりにもこの人に甘え過ぎている。
「わたしがまんなかで、へーかはこっちよ。それでおかーさまはこっち!」
「わかったから落ち着け」
「ふふふふふー!あのねっ、しってる?ねるまえはね、おかーさまにえほんをよんでもらうのよ!」
わかっているのにそれでも甘える私は、この人と同じくらい狡い。
「おかーさま、えほんはー?」
姫の声に私は苦笑いした。
「ほら、今日は陛下もいるから……」
「読めばいいだろ」
「え」
姫と並んで寝台に寝転び頬杖をついた彼は憮然とした様子で私を見る。
「なんだ?俺には聞かせられないようなものを読んでいるのか?」
「いや、そういうわけでは……ない、ですけど」
考えてもいなかった。それに、その、人前で読むとなると急に恥ずかしくなってきたから出来れば遠慮したい。
「ほら、そんな凄いものでも……」
「下手でも気にしないから読め」
「よんでー!!」
「……」
綺麗な朝焼け色の瞳が四つ、それぞれの色を宿して私を見つめる。結局、私は折れることとなった。
大きな寝台は三人で寝るのにも十分すぎるほどの広さで、それなのにわざわざ固まるようにして並んで真ん中の姫の前に絵本を広げる。大はしゃぎだった姫は真剣に話に聞き入り、絵本が読み終わる頃にはうとうとと微睡み始めていた。
「うふふ」
それぞれの手に私たちの手を握って、挟まれた姫は嬉しそうな笑みを浮かべる。こないだ見つけた虫の話。美味しかったおやつの話。侍女がやってしまった失敗なんて話まで、眠いまなこをこすりながら、一生懸命お喋りしていく。それを私が微笑んで聞いて、彼は時々おかしなところを指摘なんてしたりして、和やかな空気の中、姫は、静かに眠りついた。
「眠ったか……?」
しんとした空間に、少し抑えた低い声で彼が呟いた。私も小さく潜めた声で頷く。
「ずっとはしゃいでたから疲れてたみたい……」
「……あぁ、確かに機嫌が良かった」
少し身を起こして姫の毛布をかけ直せば、じっとこちらを見る朝焼けの瞳と目があった。
「……満足か?」
一瞬、言葉に詰まる。でもすぐに微笑んで頷いた。
「……はい。私の我儘を、わざわざありがとうございます」
「……」
もぞ、っと再び毛布の中に潜り込んで、眠る姫を眺める。小さな体は規則的に上下して、すやすやと微かな寝息が聞こえた。ごろんと、姫の向こう側で彼が仰向けになる。
「……お前はこうして両親と眠っていたのか……?」
静かな声に、私もまた静かに返す。
「……そうですね……いつもというわけじゃなかったけど……怖い夢を見た時とか、何か嬉しいことがあった時とか、両親に挟まれて、よく眠りました」
ぽつり、ぽつりと、思い出は零れる。
「父なんかは、よく即興でお話を作って聞かせてくれて……存外面白かったんですよ。母は私より真剣に聞き入って……つまらなかった時の素っ気なさは酷かったけど……それも、楽しくて」
「あぁ……あの人達らしいな」
柔らかな声音で寄せられた同意にふいに涙腺が緩む。この後宮で、姫ですらも、私以外に私の両親のことを知る人はいないのに、この人は覚えてくれている。懐かしんで、くれている。
「……きっと殴られるな」
「え?」
「おまえは、愛されて育ってきたから……」
彼は、ぽつりと零した。
「俺の親とは、大違いだ」
「——……」
彼の、両親。帝位を彼によって剥奪されて処刑された先帝と先皇后。今も禁忌とされるその話を、私はよく知らない。
「母親は、皇帝の気を引くのに必死で……皇帝に至ってはまともに話したことすらない……」
先帝にもまた、多くの妃がいたのだという。彼の母は皇后であられたけれど、寵妃ではなかった。
「酷い人だった……世間知らずで、傲慢で、人を突き落とすことを躊躇いもしない」
「……」
「きっと、その血が流れているからなんだろうな……」
彼は一体、どんな過去を抱えているのだろう。思えば私は彼の表面的なことしか知らない。どんな風に育ってきたのか、何を思って帝位についたのか、——何がそこまで彼を“血濡れの皇帝”として突き動かすのか。私は何も知らない。知らないことだらけだ。
静かな夜は、更けていく。




