決壊
出会いは、16の時。
母の食堂に朝焼けの瞳をした、やけに顔の綺麗な青年がやってきたのが全ての始まり。
気まぐれで気ままで、そこはかとなく偉そうな彼は私と少ししか歳が変わらないのに妙な落ち着きがあって、常連の親父さんたちと笑い話を交わし、時に対等に討論なんかもしたりして、あっという間に店に馴染んでいった。いつのまにか不定期な常連となっていた彼と私は会うたびに言葉を交わすようになる。しっかりしてるのに少しずれていて、偉そうなのに優しくて、そんな彼にいつのまにか、私は惹かれるようになって、そして彼も、同じ気持ちを返してくれた。
あまり頻繁に会ったりなんてことは出来なかったけれど、幸せな、幸せだった、私の初恋。
はじめからこうすれば良かったのだ。うじうじと考えてなんていないで、直接問いかければ良かった。
その返答が望んだものであれ望んだものでなかったであれ、一人で悩むよりよっぽど有意義だ。
皇帝は思ったよりもあっさりと私の言葉に頷いた。その日はあまり時間がないからと、近く日を改めての訪れを約束される。いつも訪れが突然だった皇帝を、私ははじめてきちんと出迎えた。酷薄な朝焼けの瞳に、ゆるりと微笑む。
「……姫は乳母に任せています。どうぞ、こちらに」
応接室には二人きりだ。扉をしめて、私は深く息を吐く。わからないことばかりだ。でも一つだけ確かなことがある。私は、姫を守らなければいけないということ。
「——単刀直入に聞きます」
だから、互いに対面する形に座って早々に切り出した。
「私たちを餌にしようとしていますね」
しんとした空間に、私の心臓の音だけが響く。永遠に感じるほど長い時間。数秒だったのかもしれないし、数分だったかとしれない。とにかくそれだけの間を開けて、皇帝はゆっくりと口を開いた。
「なんだ。そんなことか」
拍子抜けしたような声だった。一大決心をして告げた私はぽかんとしてしまう。
「え、そんなことって」
「別に数多く撒いているうちのひとつだ。お前たちの身辺は厳重に警護しているし心配しなくてもいい」
「——……」
皇帝は淡々と語るけれど、私は、言葉が出ない。それは、つまり、やっぱり。
「……私たちは餌なのね……?」
「喰わせるつもりはない」
「でも、危険があることに変わりはないのでしょう。幼い姫を危険に晒してまで、私たちは巻き込まれなきゃいけない……?」
皇帝は瞳を眇めた。
「あれは、帝国の膿だ。先王の残した負の遺産だ。腐った部分は全て取り除かないとまたそこから腐り始める」
「そのために手段は選ばない、と……」
どっと、体が重くなったような気がする。一気に力が抜けて、落ち着かせるように私は深く息を吐く。大した価値もない平民の妃を失ったところで痛くも痒くもない。餌となるなら迷わず使うべきなのだろう。治世者として、この人はきっと正しい。でも、胸が痛い。痛いと感じてしまう自分に、嫌気がさす。
姫を可愛いがってくれて、嬉しかった。少しの間でも一緒に過ごして、愛情を抱いてくれたと思った。でもやっぱり、この人にとってはその程度だったのだ。国のためならば、駒にすることを躊躇わない。
「せめて、姫を少しでも安全に守る方法はない……?」
「だから厳重に警備していると言っているだろう」
「でもそれだって完璧じゃないのでしょう」
言い募る私に、皇帝は深く溜息をついた。聞き分けのない子供に言い聞かせるかのように淡々と告げる。
「あれが皇女である限り、命の危険がなくなることなんてないんだ。一生のことだ、慣れろ」
強い口調で言い切った皇帝に、私は表情が消えるのを感じた。
「……慣れろ?」
「だからそう——」
「ふざけないで」
自分のものだと信じられないくらい冷え冷えとした声が口をついて出る。
「私は、あの子を、殺されるために産んだんじゃない」
「殺すなんて一言も言っていない」
「ほぼ同義よ、あなたの行動は姫の危険を高めている」
「将来的に考えて、今奴らを根絶やしにしないと危険は延々と続くぞ」
「だからって姫を巻き込む理由があるの?他にも餌は巻いているのでしょう」
「可能性があるのならそれを大きくする方が効率的だろう」
「効率?あなたはそんなもののために姫を危険にさらすっていうの!?」
「皇族に生まれた以上、普通のことだ。お前も仮にも妃なら理解しろ」
一瞬、思考が止まった。
「——あなたが、それを言うのね」
歪んだ口元に、皇帝がハッと顔色を悪くする。この人がこんな風に焦るなんて珍しい。でも、そんなのを笑う気にも今はなれない。ただ、冷え切った怒りが私を満たす。
「放置していたくせに何が妃よ。名ばかり妃、末端妃、そんな名前を知らないとは言わせないわ」
そもそも、だ。
「黙ってたのは、誰」
「——」
「私、知らなかったわ。あなたが皇帝だなんて、かけらも思わなかった。全部全部黙って、隠して、後戻りできないところで突然手のひらを返したのは誰!!あなたがいつもいけないんじゃない!私が悪いの!?じゃあどうすればよかったの!?お腹の姫を、堕ろせば良かったとでも言うの!?結局殺すんじゃない!!私に選ぶ余地なんて一つも残してくれなかったじゃない!」
溜め込んでいた思いは悲鳴となって溢れ出す。
「あなたは、いつも自分の都合ばかりじゃない!私にはなにも話さないで、勝手に判断して、勝手に決めて……!」
「落ち着け、お前はまた——」
「私、知らない!何も知らなかった!覚悟なんてあるわけないじゃない、あなたはいつも後出しばかり!!」
決壊した涙腺からボロボロと涙が溢れて、止まらない。
「突然皇帝の子を孕んでいるなんて言われた気持ちがわかる!?命を狙われる気持ちがわかる!?そんなこと知るわけないじゃない!知ってたら、私、こんなことにならなかった!!」
「おい……」
「勝手に入れて、閉じ込めて、挙げ句の果てに放置して!!どういうつもりなのよ!ずっと見向きもしなかったくせに、突然顔を出したりなんて!!説明もなくこんなところに放り込まれて、私がどんな気持ちだったと思う!?蔑まれて馬鹿にされて、理不尽な八つ当たりばっかり言われ続けて私がどんな気持ちだったと思う!?さぞかし高尚な理由でもあるんでしょうね!でも、そんなの、私は知らない……!」
キッと、私は目の前の人を睨みつける。この人は狡い。ずるくて、酷くて、自分勝手だ。
「私はただ、平穏に暮らせればそれで、良かったのに……っ」
視界が滲んで、ぼやけた。
顔を伏せて両手で覆えば、弱々しい嗚咽が漏れ出る。
「どうして、私を後宮なんかに入れたの……」
どうして。どうして。どうして私が——。
「……あの、火災のあと」
静かな、落ち着いた声が聞こえた。
「錯乱したお前を保護して、離宮に置いた」
「り、きゅう……?」
「郊外にある俺個人のものだ。比較的規模も小さいから、隠しておくにはちょうど良かった」
私は、ゆっくりと伏せていた顔をあげる。
「落ち着くまでと住まわせていたら、どこから嗅ぎつけたのか、奴らにお前の存在を知られた」
「え……?」
「そのうえ、腹に子がいることまで分かって……きちんと警護を置いて守ろうとするのなら、隠した状態では無理がある。その点、後宮なら警護は問題ないし有事があれば人もすぐに動かせる。都合が良かったんだ」
信じられない気持ちで目の前の人を見て、私は震える唇を開く。
「それが、侍女の言っていた、ひと月……?」
「……そうなるな」
「なら、どうして私は、忘れて……」
「あんな火事のあとだ。記憶が混乱してもおかしくない」
ざらりと、砂を舐めたような違和感。でも、その違和感の正体がつかめない。
「……ねぇ、そういえばあの日、あなたは何をしていたの?」
「——」
「暴徒の制圧よね、そうだわ、だって、記録にもそう残っていた」
侍女も調べてくれたじゃないか。
「私は、あの日、出かけていた」
母の食堂も手伝わず、いつもの東にいるわけでもなく、その日の私は人に呼び出されて、わざわざ前もって届けられた手紙に指定された、西の地区で、この人を待っていた。
皇帝としての職務のあるこの人が来れるわけないのに、まるで、東から遠ざけるかのように、あの日、私は、来ない皇帝をずっと。
血が舞う。
赤い赤い血が、視界を染め上げる。
躊躇いもなく首を刎ねたその人の朝焼けの瞳は、大好きなその瞳は、私の知らない、とても冷酷な色をしている。
「——思い出さないでいい、忘れていていいんだ」
どこか縋るような声が、悲鳴の中にかき消されていく。
泣いているのは、泣き叫んでいるのは。
——私。




