失望
朝起きると、姫が瞳をキラキラとさせて私を見下ろしていた。
「……姫?どうしたの……?」
寝ぼけ眼のまま身を起こして、小さく欠伸する。まだぼんやりとした私に、姫はとびきり素敵なことを考えたというように元気よく告げた。
「おかーさまのかみ、わたしがきれーにしてあげる!」
「……んんっ?」
小さな手が、覚束ない手つきで私の髪に触れる。後ろでハラハラと見守る乳母と同様に私もハラハラとしながら鏡に映る背後の姫を見つめた。真剣な目つきは愛らしい。それはそれは可愛いとも。ただ、なんというか、怖い。
「おかーさまのかみ、きれいねー」
「あ、ありがとうね……」
「ふわふわねー」
「そ、そうねー?」
鏡台の前に座らせられた私は姫に髪を結われている。なんでもいつも侍女たちに自分が結わいて貰うばかりなので人の髪を弄りたくなったらしい。やはり女の子なのだなと微笑ましく思いつつも、既に小一時間が経過している現状に口の端がひきつる。先に朝の支度を済ませたのは正解だった。すぐにでも取りかかろうとする姫を宥めるのには苦心したが、着替えて朝食を食べてと一連の流れを終えていて良かったと心の底から思う。リボンを持った姫は真剣に私の髪を飾ろうとしてくれているのだが、時に引っ張られ、ぐちゃりと絡み……やはり、難易度が高すぎる気がするのだ。
「ねぇ、姫?やっぱり他のにしない……?リボンは、ちょっと大変なんじゃないかしら……」
「やだー。わたし、できるのよ」
「えええ……」
「おかーさまは、わたしにまかせて!」
なんとも頼もしいではないか。とても不安だ。ただ何となく、既視感を覚えた。
「……お父様そっくりね」
「え?」
小さく呟いた私に姫がきょとりとした。
「おとーさま?」
いっけない。余計なことを口走った。
「おとーさまって、わたしのおとうさま?」
「……んんんん」
「ねぇ、おかーさま」
「んんんー……」
「おかーさまへんよ。ねーえ、おとーさまってだーれー」
押し問答に入った私たちに、侍女が言いにくそうに口を開いた。
「あの、妃さま、姫さま……陛下が」
「え!」
「えっ」
姫の声が華やぎ、私の声は地に堕ちる。いつも通り遠慮なく入ってきた皇帝は、わたしを見るなりその整った眉目を寄せた。
「……鳥の巣?」
なんでこう、間が悪いんだろう。
私が顔を歪めるのと同時に姫は不満そうに声を上げる。
「とりのすじゃないのよ。おかーさまのかみをきれーにしてるの」
「汚くしているの間違いだろう?」
「ちがいますー!」
「はいはい、落ち着きなさい姫。そうよねー綺麗にしてくれてるのよねー」
しょうもない言い争いになりそうになった二人を宥めて、私は皇帝を見上げる。
「……こういう状態なので出直しません?」
「……」
数秒の間、沈黙が落ちた。
「いや、面白そ……折角来たからこのまま見ている」
「誤魔化せてませんから!今明らかにわざとでしたよね!?」
「おかーさま、どーどー」
「姫!」
近くの椅子に腰を下ろした皇帝はニヤニヤと私を見る。
「娘に宥められているぞ」
「あなたは娘と争ってたでしょう!」
「なんのことだ」
「〜〜っ、あぁもう知りませんから!そこで見てたらいいですよ!」
姫の集中力と頑固さを思い知ればいい!私は忠告した!そして再び姫の髪結いが始まり、少しして先に根をあげたのは皇帝だった。
「……いい加減、長すぎないか」
「んー、まだよー」
姫の集中力は本当に凄い。このめげない精神。褒めるべきなのだろうが時には諦めも必要じゃないだろうか。諦めさせることを諦めた私はそんなことををつらつらと思うだけだが、皇帝は違うらしい。椅子から立ち上がって近づいてくると、姫の手元を見始める。
「そこ、もっとまとめたほうがいいんじゃないか?」
「いいの!これで」
「いや、絶対その横を入れたほうが」
「ちがーう」
髪を結う時に、もっとまとめるとか横とかどういう状態なのだろう。姫は、ひとつにまとめようとしているはずなのだが。
「……不器用すぎないか?」
「あなたも人のこと言えないでしょ」
思わず突っ込んでしまった私は悪くない。絶対悪くない。
「これほど酷くなかった」
「二時間もかけてやっとゆるゆるに髪を結んだ人が何を」
「初めてだったからだ。それにもっと難しいやつだった」
「三歳児と張り合わないで。どっちもどっちよ」
「もー、ふたりともうるさいですよー」
元凶から理不尽な怒りをくらい、私たちは黙る。無言の間のあと、ふと不思議そうに姫は顔を上げた。
「へーかも、おかーさまのかみをむすんだことがあるの?」
あ。
「……どうかしらね」
「おとーさまとおなじ?」
「お父様?」
皇帝が怪訝そうにする。姫は大きく頷くとはきはきと答えた。
「あのね、わたし、おとーさまとおなじなんですってー」
「——」
驚いたように見下ろされて、私は視線をそらす。
「わたし、へーかがおとうさまならいいなー」
沈黙が落ちる。爆弾を投げるだけ投げておきながら、姫は気にせず髪と闘い続けて放置だ。ふいに、皇帝は溜息をついた。
「……これを使うといい」
皇帝が姫の手になにかを渡すけれど、鏡越しの私は頭が遮って見えない。なにを渡したのだと訝しんで、姫の声に息を呑んだ。
「ちょうちょ!!」
——蝶々?
目を見張って固まった私に気づかず、皇帝は姫の頭をくしゃりと撫でる。
「今日はそれにして、髪を結うのはまたにしておけ」
「んー、わかった。いいよ」
「どこまでも上から目線だな……」
盛大なブーメランだ。そう言いたいのに声にならない。姫の様子に苦笑いした皇帝は、私に声もかけずに部屋を出て行く。やはり、忙しいのだろうか。私がもだもだしているうちに皇帝は去り、姫ができた!と声をあげた。
「まぁ、綺麗な……」
近寄ってきた侍女が声を漏らす。私にはそれが見えないけれど、侍女が何を見てそう言っているのか、わかる、気がする。侍女は姫にバレないよう、さっと手早く私の髪を整えた。それから、手鏡を使って髪飾りのついた後頭部を映し出してくれる。
——銀色の、蝶々。
今にも動き出しそうな、無駄に精巧な蝶々。
「ようございましたねぇ、妃さま」
「ほんと、妃さまの雰囲気にぴったりな繊細な銀細工ですわ」
侍女も乳母もそんなことを言うけれど、よく見たら口ごもるに決まってる。あまりにも精巧なこれは、本物に似せすぎたがゆえに、些か不気味なところまで再現されているのだ。でもそんなこと、知るわけない。
どうして。なんで。そんな言葉が次々と浮かんでは消えていく。
だってこれは。
「……初めてくれたものなの」
「え?」
「あの人が、はじめて……」
ただただ言葉に詰まる私に、乳母たちは驚いたように黙り込む。でもそんなことも気にならなくて、私は顔を伏せる。あぁ駄目だ。私は姫を守らなくちゃ。守らなきゃいけないのに、視界が滲みそうになる。こんなんじゃ駄目だ。駄目だけど、抑えきれない。しんとした空気の中、姫がにっこりと花のように屈託のない笑みを浮かべた。
「おかーさま、きれいよ」
視界が滲んだのは、目にゴミが入ったからだ。
夜、姫を寝かしつけた私は灯りを消そうと寝台を抜け出した。月明かりが差し込んでいて、ぼんやりと室内を照らし出す。蝶々の髪飾りは、寝台の横の机に置かれて仄かに輝いていた。
ふと姫の図鑑を見つけて、怖いもの見たさで手に取った。ところどころに芋虫が現れるが、図鑑としての出来は最高だろう。髪飾りの蝶々を探そうとして、結局見分けがつかなくて諦める。……あの人に聞いたら、分かるだろうか。何となくの流れで、動物、植物のものも手に取ってみる。
犬、狼、獅子、虎、兎、狐、狸……。描かれた動物たちを眺めつつ、ちらりと寝ている姫を見下ろす。姫を例えるとしたら、なんの動物だろう。
(子犬かしら)
つぶらな瞳に素直な性格だとか、思わず撫で回したくなる愛らしさだとかはぴったりな気がする。ぱっちりおめめの黒い子犬だ。それじゃあ、その父親は?黒い犬と言われてもあまりしっくりこない。そういえば若獅子なんて呼ばれているんだったか。たしかに獅子は近いかもしれない。そんなことを思いつつ図鑑をめくって見つけてしまった。載っていたのは、澄まし顔をした猫だ。
血統書付きの偉そうな猫。
絶対これだ。気まぐれで気ままで自分勝手なところだとか、やけに偉そうなところだとか、これほどぴったりくるものはない。笑いを堪えて小刻みに震えつつ、動物の図鑑は閉じて次は植物のものを開く。
「わ……」
虫よりも動物よりも、目を奪われた。初日にパラパラと目を通してはいたが、改めて見るとやはり素晴らしい。見惚れるような花々に特徴的な形をした木、奇妙で華やかな草花、身の回りにある草木。素描だけでなく、特徴や生態、成分なんてものまで丁寧に説明されていて、延々と読んでいられそうだ。月明かりの下で無心に読み進めていると、ふと手が止まった。それは南方にあるという植物で、土から養分を取るだけでなくなんと虫を捕食するのだという。甘い匂いで虫を誘い込んで、ぱくりと飲み込んでしまうのだとか。
「……」
書かれた説明を指でなぞる。蝶々が視界の端に映り、何か、引っかかった気がした。
虫を誘い込む、甘い匂い。
それは魚を餌で釣るように、それは動物を罠にかけるように。ともすれば、それは邪魔な人間を——。
「っ」
——平民の妃。たったひとりの皇女。突然の人目を憚らぬ寵愛、妃たちの妬み。増えた警備、増した危険。
私は、皇帝を迷惑だと言った。それは、皇帝の存在により私たちが過剰に危険にさらされるからだ。先生も言っていたじゃないか。姫は皇帝を妬むものにとって最高の標的だと。でも逆に、それはこうも言えるのではないか。
——私たちの周りに、不穏分子は募る。
もしそれが、皇帝の狙いだとしたら。
大きな節目である祝賀会を前にして活発化しているという敵対勢力を、この植物のように甘い匂いで誘い込んでぱくりと飲み込んでしまうつもりなら。
ぽすんと寝台に身を投げて、深く息を吐く。
どっと体が重くなり、だけれど頭は酷く冴え渡っていた。
だってほら、やっと全てが繋がった。




