回禄
「なんだか、嫌な雰囲気ですねぇ……」
侍女が曇った表情でぽつりと呟く。私はちらりと一瞬本から顔をあげるものの何も言わずに視線を戻した。
ここのところ、何となく城内が騒がしい。警備の空気もピリピリしているし、後宮の使用人達も気持ち張り詰めているような気がする。なにより顕著な変化は、あれだけ毎日顔を出していた皇帝の訪れがせいぜい三日に一度くらいになったことである。喜ばしいことだ。だけれど事情が事情ゆえに諸手を挙げて喜べない。
各地で暴動が頻発している。東で、西で、こないだは交通の要所である比較的大きな街でもあったらしい。ひとつひとつは小さく、それだけなら脅威でも何でもないがこうして短期間に起きているのが問題だ。こうも暴動が続けば民の不安は煽られるし、物流などにも影響が出る。後宮という閉じられた箱庭では実感なんてわきやしないが、皇帝ともなれば忙殺されているのだろう。
どれだけの血が、流れているのか。
そんなことが頭をよぎる。暴動で一番傷つくのは、皇帝でも貴族でもなく、罪のない一般市民である。それを暴徒は分かっているのだろうか。……分かっていないのだろうな。分かっていれば、こんなことは起きない。とはいえ、末端の妃である私が国の情勢を憂いたところで何が出来るわけでもない。ただ、いつも通りに過ごすだけだった。
姫は広げた例の虫の図鑑を何かぶつぶつ呟きながら眺めている。もう何度も何度も読み返しているけれど飽きないらしい。
「おかーさま」
「なぁに?」
ふいに声をかけて来た姫に、微笑んで首をかしげる。
「おかーさまは、あかとあおならどっちがすきですか」
「えー?……赤かしら」
「あかかぁ……んー……」
何やら悩んでいるらしい。真剣な表情で、えー、でもなぁ…なんて呟いている様子がたまらなく可愛い。くすくす笑ってから、また手元の本に視線を戻した。
(……駄目だ。難しい)
溜息をついて、本を閉じる。なんとか頑張って最後まで読み切りはしたものの、理解出来たのは精々半分といったところか。実質はもっと少ない気もする。政治学と書かれた表紙を撫でて、また溜息をつく。少しでも知識を深めなければと努力しているところだが、なかなか成果は出ていない。
人質。
後宮の妃を、皇帝はそう称した。子を産ませるつもりはないと、彼女たちは人質だと。だけれど人質といったってあくまでそれは権力を持つ高位貴族の妃の話で下位貴族の妃なら関係ないはずだ。子が必要なら、いくらでも作る機会はあったはず。それなのに産ませていないということは、結論はひとつ。皇帝は、子を欲していなかった。
——それなら私は、何故後宮に入れられた?
いくら予定外に私が孕んでしまったといっても堕ろさせることは可能だっただろう。ただの街娘だ。私ごと消すことだって容易い。それなのにそうはせず、反対を押し切ってまで私を後宮にいれて、姫を産ませたのは。
いくら考えてみても貴族でないがゆえに派閥の問題や実家による介入がないということ以外に利点が思い浮かばない。しかしそれも他の欠点により相殺どころか大幅な減点されるのではないだろうか。平民の、大して価値もない娘に、必要でない子供を産ませた理由。
愛情、そんなことを考えてすぐに捨てた。愛なんてあるのだとしたら放置の3年間はなんだったのだ。何かしらの愛着があったとしても、それは精々同情だろう。ただの小娘が子供を抱えて衣食住に困らず暮らせているのは、何だかんだ言っても彼のおかげであることに変わりはない。でもそれじゃあ、ここのところ突然訪れるようになった理由は?姫を可愛がるのは?
どうしても全てを納得できる理由が見つからない。手掛かりがあるとすれば後宮に入れられた時。あの欠けた記憶を思い出せば、何かわかるのだろうか。
(無理ね)
記憶もなく皇帝自身に聞けない以上、いくら考えたところでそれは予測の範疇を越えない。袋小路だ。本を机に置いて、椅子の背もたれに行儀悪くもたれかかる。
「……ねぇ、四年前の火事のことを覚えてる?」
「え?火事、ですか?」
気まぐれだ。本当に気まぐれ。突然私に話を振られた侍女は目を瞬かせたあと、憂いを浮かべつつも頷いた。
「あの、暴徒による大火災ですね。私は王宮にいたので遠目に見ただけですが……よく、覚えています。帝都が真っ赤に燃えて……夜になっても空が明るくて」
「……そう。ご家族は?」
「幸い、家族も屋敷も被害はありませんでした。だけれど使用人の中には家族を失った者もいて……悲しい、事件でした」
「……」
その顔に含みはない。当然だろう、彼女はただ純粋に、過去の悲劇を悲しんでいる。しんみりした空気の中で、侍女はふと口を開いた。
「そういえばあの後、おかしな噂が流れましたね」
「おかしな噂?」
「火災の犯人は陛下で、暴徒の仕業に見せかけた自演だと。あんなに復興に心を砕かれて支援もされていたのに、不敬な話ですよ!もっとも、すぐに収まりましたけど……あれも陛下を妬んだ暴徒の仕業だったんでしょうね」
「……ふぅん」
憤る侍女を傍目に、水を一口口に含む。
皇帝の評価はその悪名に反して高い。
腐敗した政治に鉈をふるい、荒れた国をまとめあげた。この10年で帝国は格段に豊かになった。その功績は誰もが認めることで、だからこそ血濡れの皇帝と恐れられながらも皆が敬う。どれほど多くの血が流れても、それ以上に救われた者がいる。
……だけれど流れた血は、犠牲になった人たちは、永遠に帰ることはないのだ。
「妃さまは、あの時はどうされて?」
「実家が燃えたわ」
「えっ」
ぎょっとした侍女が目を剥く。
「お、お怪我は……」
「私は別の地区にいたから」
明らかにほっとしたように肩の力を抜いてから、慌てたように労りの言葉をかけてくれる侍女は、優しい。
「あの……差し支えなければお聞きしたいのですけど、そのあとご実家は……」
「……さぁ。そのあと後宮に入れられたから、知らない」
小さく息を飲む音がした。あぁ、何を話しているのだろう。適当にはぐらかせばよかったのに。こんな、聞くだけで重くなる話、されても困るだけだろうに。
「ごめんなさい、突然こんな話を振って。……忘れてちょうだい」
誤魔化すように微笑んで、私は立ち上がった。
泣き声がする。
嗚咽を堪えるような、身が引き裂かれるような、痛々しい泣き声。
ひきつけを起こしかけて苦しい呼吸に、背中がゆっくりとさすられる。根気よく、優しく、包み込むように。
大丈夫、大丈夫と落ち着いた声が、苦しい胸の内をほんの少し和らげる。
こわいの。
泣き声の混じった、子供のように甘えた声音に、大丈夫だよと、優しい声が返る。
かなしいの。
少し落ち着きを取り戻した声が、そうだね、と大らかな声に包み込まれる。
怖いのにほっとして、悲しいのに癒されて、嗚咽の混じった声は段々と小さくなっていく。
そのうち泣き声は収まって、穏やかな寝息だけになっていた。
赤い、血が舞う。
命が散る。
泣いているのは、泣き叫んでいるのは、誰?