寵妃
緊迫した空気に、ごくりと唾を飲み込む。照りつける太陽の下、たらりと汗が垂れたのはきっと暑さのせいだけじゃない。じりじりと後退しながら、私は敵の説得を試みた。
「姫、いい子だからその手の中のものを置きなさい」
「やだー」
とってもいい笑顔で即座に拒否した姫がこちらににじり寄ってくる。見せつけるように、その手の中のものを誇示しながら。にやぁ、というのがぴったりなその笑みは、憎たらしいほどに愛らしい。ただ、困る。本当に困る。うにょりと、姫の手の中のものが動いた。
「ひっ!」
にたぁ、と姫の笑みが深まる。その手の中には、もぞもぞと動く巨大な芋虫。無理なのだ、本当に無理なのだ。蝶だとか蟻だとか、もっと言うなら百足なんかも大丈夫だが、こう、うにょ、っというか、むちっというか、ぶにっとしたものはぞわっと鳥肌が立つのだ。
「ど、毒があったら大変よ!痛い痛いだから、ね!?」
「これは、どくないのよ?」
舌ったらずなくせにおしゃまな口調。よく知っているねと褒めてあげたいが嘲笑うかのような表情にどこで教育を間違えたのかと悔いる。侍女も乳母も笑みを引きつらせて遠巻きにしており助けてくれる気配はないし、これは、本当に進退窮まったかもしれない。じりじりと姫と睨み合っていると、低い声が響いた。
「何をしてるんだ」
「へーか!」
パアッと顔を輝かせた姫が現れた皇帝に手の中のものを掲げる。誇らしげな表情の姫からひょいっとそれを躊躇いなく摘み上げて、皇帝は私と虫を交互に見た。状況は察したはずだ。いいからそれを捨ててほしい。そのまま虫を捨ててくれればいいのに、何故か表情を変えずに姫の手の中に返してしまう。
「なんで!!」
思わず抗議を叫んだ私に皇帝はふっと嘲笑を浮かべた。姫そっくりのその表情に、敵に回ったと知る。
(こ、の男は……!)
味方を得た姫はまさに水を得た魚だ。さらに活気付きずいずいと私に迫って来る。
「おかーさま!みて!みてください!」
「もう見たから!見たから、ね!?姫、ばいばいして!!」
「おかーさまもさわってー!」
「嫌です!」
これは駄目だ、あとで本気で説教だ。悪戯盛りの可愛い盛りとはいえこれはいけない。そんなことを決意していると、近づいた姫の手の中のものがもぞりと動いた。
「やっ」
ぞわっと鳥肌が全身を抜ける。無理。視界が歪んで、本気で泣きそう——。
「あっ!」
姫が声をあげた。閉じた瞼を恐る恐るあければ、姫の手にあった芋虫を皇帝が遠く投げ捨てていた。
「あぁ〜!!」
「あまり触り続ければ弱って死ぬぞ」
「えぇ〜……」
皇帝の話に姫が不満げな声を上げるけれど私は助かった。ほっと安堵の息を吐いて、いそいそと逃げ出しす。なんだかどっと疲れた気がする。嫌な汗をかいたと、手で熱った顔を仰いだ。
「もう随分と馴染まれましたねぇ……」
水を注いでくれる侍女の言葉が何を指しているのかは明白だ。虫談義を始めた庭先の二人をちらりと見て戻す。
「姫さま、楽しそうですねぇ」
「なんだか私、陛下への印象が変わった気がします」
侍女たちの会話は和やかで、ねぇ?と私に同意まで求めて来る。だけれど何もよくなんてない。妃たちの当たりは酷くなるばかりだし、出会い頭の嫌味だけでなくついには物理的な嫌がらせまで始まった。何やら送られてきた箱から動物の死体やら怪しげな呪いの人形やら……はじめてではないうえ特に害があるわけではないから私はいいが、侍女たちは警備に報告したり処分に手間取ったりと大変そうだ。女の園は陰湿で敵わない。そんなことだから最近は外に出るのが億劫でもっぱら引きこもり生活だ。
そしてその元凶が、皇帝である。
「人目を気にせず寵愛ぶりだと評判ですぞ」
「……面白がっていますよね」
「はははっ!」
否定をしない潔さに溜息をつく。
「日中に、せいぜい数十分ですよ。姫と遊んでいるだけなのに何が寵愛なんだか」
「ふむ、では今現在一番の寵姫は殿下ということか。それは妃たちでは逆立ちしても敵いませんな!」
小柄な老医師は何が面白いのか豪快に笑う。人の不幸は蜜の味、まさに他人事ということだろう。ひとしきり笑った後、老医師は改めて私を見上げた。
「それでまぁ、何か気になることはありますかな」
「いえ……こちらでは特に。違和感などもありませんし」
あの毒殺未遂からひと月近くたった。今日はその予後観察として、こうして老医師が来てくれたわけだ。姫はお昼寝中で、侍女たちもそっちに付いている。私は応接室で老医師と二人、対面していた。私の言葉に老医師はあっさりと頷く。
「でしょうな。処置も早かったし回復も早かった。特に問題は見当たらん」
改めてお墨付きをもらいほっとする。
「他には何かありますかな?」
「そうですね……強いて言うなら周りがうるさいとかそれくらいで」
思わず毒づいた私に、一拍置いて大笑いが響いた。この人は本当によく笑う。
「はははは!そうか、うるさいか!いやぁ、難儀なことですなぁ!」
「割と切迫しているんですけど……」
「はははははは!!」
ひーひー言いながら滲んだ涙を拭った老医師は、ぷるぷる小刻みに笑いながらも口を開く。
「まぁ、そんなこといっても姫をお産みになった妃さまは他の妃とは訳が違う。敵対視されるのは仕方なかろう」
「……放置されているような名ばかり妃でも?」
「末端妃だと言うことは否定しませんがね、あなた様は特殊過ぎる。殿下をお産みになっこともそうだが、その経緯が経緯だ」
軽くそういった老医師は、猫のように目を細めた。
「——なにせ皇帝自ら、周囲の反対も押し切って強引に後宮に入れられたんですからなぁ」
知らない。
そんなの、知ったこっちゃない。
「……どうせ、気まぐれに責任をとろうとでもしただけです」
「ほぉ、責任とな?」
思わず漏らしてしまった呟きに喰えない好々爺が喰らい付いた。ハッとするも、既に遅い。
「妃さまからそんな話が聞けるとは!いやいやこの爺光栄ですなぁ!」
「いや、そんな話って」
「陛下も妃さまも秘密主義ですからなぁ。突然後宮に入れるなんて言われた時も驚きましたが子がいると聞いて仰天しましたよ。さぞかし仲睦まじいのかと思ったら陛下も妃さまも黙りでお会いにもならないし、当時は何があったのかと大騒ぎでしたからなぁ!一時期は殿下が本当に陛下の子なのかなんて話もあがっていたくらいで——」
「姫はあの人の子です!」
反射的に叫んで立ち上がってしまいハッとする。固まった私に、老医師は優しい目をしていた。
「疑ってなどおりませんよ。殿下はどこからどうみても陛下の子だ。幼少期のあの方そっくりです。なんなら当時の肖像画でも引っ張り出してきましょうか」
老医師は飄々と笑うとそう告げた。力が抜けて、すとんと椅子に腰を下ろす。
「……すみません、取り乱しました。あと肖像画は見てみたいです」
「いいんですよ。私こそ意地の悪い言い方をしました。あなたさまが殿下をどれだけ大切にしているかは分かっているつもりだ。あとそれについては陛下に直接強請ってください」
「え、先生それは反則です!」
「ははははは」
愉快そうに笑った老医師は、瞳を細める。
「ただねぇ、やはりみな気にはなっているのですよ。陛下が怖いから言いませんけどね、陛下とあなた様が、どこでどうしてこんな状況になったのか、私たちは何も知らない。分からなければ人は想像する、得体の知れないあなたを恐れる。妃たちは尚更だ」
「……そんな大層なものじゃないです」
「知らなくてはそんなこともわからない」
ひたりと見据えられ、言葉に詰まる。
「妃さまは不思議ですなぁ。陛下を避けるような言動をされているが、それは他の者のような恐れからでも嫌悪からでもないようだ」
「……なにを」
「首を切られるとも、手首を打ち落とされるとも、不敬を咎められることすら考えもしない。あれだけ厭むのに、あなたは“血濡れの皇帝”を恐れない」
不思議ですなぁ。老医師は笑う。
「恐れもしない、嫌いもしない。ではあなたは、一体何に怯えていらっしゃる?」
——赤い。赤い火の粉が舞う。悲鳴と怒声が遠くに聞こえる。
私は、なにも答えられなかった。