第七話 紅葉の精霊
——オイテイカナイデ……。
盛夏の季節から二ヶ月以上が経ち、近頃は冬の足音がすぐそこまで聞こえてくるように、ビュービューと冷たい風が吹いていた。
佐久野君と付き合うようになってからも特に何かが大きく変わることはなく、私達は学生の本分である学業優先の日々を送っている。
この日は、教授方の都合で一限しか講義がなかった。
佐久野君は家の用事で欠席していた為、講義が終わった私は一人で帰路につこうと、筆記用具を鞄にしまい席を立つ。
廊下を歩いていると、紫さんの姿を見つけた。
声をかけようと近づくと、別の樹木医の先生が駆けて来て、私よりも先に彼女に話しかけた。
「紫さん! 申し訳ないんだけど、一件、診察をお願いできないかな?」
そう言った彼の眉は八の字になっていた。
その切羽詰まったような様子に、彼女の顔には心配そうな表情が浮かぶ。
「別に良いけど、何かあったの?」
「実は妻から連絡があって、もうすぐ子供が生まれそうなんだ。出来れば立ち会いたくて……」
それを聞いて、彼女の表情は緩んだ。
「分かったわ。任せて」
「有難う! この埋め合わせは今度、必ず!」
彼はそう言って、診断書を渡し、風のように去って行った。
「紫さん!」
「森山さん」
「あの、今から診察ですか?」
「そうよ」
「今程のお話が聞こえて来て、立ち聞きするつもりは無かったんですけど、すみません」
「別に気にしていないわ」
「それで図々しいお願いなんですけど、診察を見学させていただくことは出来ないでしょうか?」
「私は構わないけれど、講義は終わったの?」
「はい」
「そう。それならついて来て」
タクシーに乗ってその場所へと向かいながら、彼女は診断書へと目を通していた。
私は邪魔しないように車窓へと目を向け、得も言われぬ逸る心を落ち着けようとするが、全く効果はなかった。
十数分で着いた場所は、閑静な住宅地の中に佇む落ち着いた日本家屋の平屋だった。
「ここですか?」
「そうみたいね。さあ、行くわよ」
そう言って彼女は、玄関チャイムを鳴らす。
「はーい」
中から出て来たのは、柔和な表情を浮かべた腰の曲がった老齢の男性だった。
「初めまして。こちらのお宅の紅葉を診断するように言われて来ました。樹木医の紫と申します。彼女は助手の森山です」
「こんな美人な方が二人もお越し下さるとは。有り難や有り難や」
彼はそう言って、手を合わせて拝み出した。
私達は、困った顔を互いに見合わせる。
少しして、気が済んだのか、「さあ、中に入って下され」と言って、彼は家の中へと私達を招き入れた。
客間と思われる和室へと案内され、お茶菓子が振る舞われる。
「お心遣い痛み入ります」
そう言って、彼女はお茶に口を付けた。
私も「恐れ入ります」と、感謝の言葉を述べ、乾いていた喉を潤した。
「美味しい……」
口に含んだ瞬間に思ったことが、吐息とともにそのまま口から零れ出た。
「そうかい。それは良かった」
彼の目尻の皺は先程より更に深くなり、下がり気味の眉が益々下がった。
飲み終えて、彼女の方へ目を向けると、空の湯のみを茶托に置き、庭の方をじっと見ていた。
「それで、診察する樹はそこの窓から見える樹で合っていますか?」
「はい先生。私達は去年の春にここに引っ越して来て、この紅葉が紅葉するのを楽しみにしていたんですよ。そしたら、去年は染まらずに散ってしまったんです。去年は異常気象の所為かと思っていたんですけど、今年も染まらずに散ってきたんです。どうしてですかね?」
「大抵は、乾燥していたり、気温が高くて、寒暖差がなかったり、病害虫などが原因なんですけど……。これは……」
彼女は立ち上がり、窓へと近づく。
「庭へはこちらから出たら良いですか?」
彼はぽかんとした様子で、「まあ……」とだけ言葉を発した。
それに動じることなく、「では靴を取ってきます」と言って、彼女は部屋を出て行った。
私は慌てて立ち上がり、彼女の後を追って玄関へと向かう。
私達は靴を持って、客間へと戻り、窓を開けて、庭に出た。
「中から観ていても思いましたけど、素敵なお庭ですね」
私の言葉に、彼は上機嫌で頷く。
「そうでしょう。この庭に惚れて、この家を買ったようなものですからな」
「森山さん。この樹に手を当ててみて」
彼女の言葉に?マークを頭に浮かべながら、手を当ててみる。
「こう、ですか?」
「そう」
私の手に自分の手を重ねた彼女は、紅葉に、「さあ、私達にあなたのことを教えてちょうだい」と声をかけた。
すると、夢を見ているかのように頭の中に映像が流れ出した。
——これは、この場所?
赤ちゃんを抱いた女性が、幸せそうな顔で紅葉を眺めていた。
「紅葉、綺麗ね。紅葉の手とそっくりでしょう?」
赤ちゃんも笑っている。
「あなたの名前はこの樹から来ているのよ。この紅葉みたいに大きく綺麗に育ってね……」
プツッとテレビのチャンネルが変わるように、突然、場面が切り替わった。
——えっ!?
「紅葉! 紅葉! イヤー」
ぐったりした赤ちゃんを抱きしめる母親。
真っ赤に染まった紅葉の葉が一斉に落ち、カサカサと音を鳴らす。
それから、黒い服を着た人達の泣いている姿が映し出された後、また場面が切り替わった。
「さあ、行こう」
赤ちゃんの父親だと思われる男性が、立ったまま虚ろな様子で虚空を見つめ続ける母親に声をかけた。
彼女を支えて寄り添った彼は、悲しそうな表情を浮かべて、「さようなら、紅葉」と呟き、彼女を伴い去って行く。
そして、この家には誰もいなくなった……——。
——まって! おいていかないで!
その誰にも届くことのなかった悲痛な叫びが頭に木霊したところで、映像は途切れた。
「紅葉……」
心配そうに紅葉を見つめる紫さん。
「先生?」
彼女の顔を不思議そうに見つめる家主の丸永さん。
「丸永さんは、樹木にも心があると思いますか?」
「えっ?」
「ふふ、私の頭がおかしいと思われたでしょう? 私は、私達人間に癒しをくれる樹々にも心があると思っているんです。樹々も病むことがあるんです。私は、そんな樹々を癒やしてあげたい……。この樹も心を患っています。何としても助けたいんです。どうか、お力をお貸し下さい」
「先生。お力をお借りしたいのは私達の方です。どうかこの樹を助けてあげて下さい。私達でお力になれることがあったら、何でもおっしゃって下さい」
「有難うございます。では、早速……」
そんな二人のやり取りを、私は夢の続きを見ているような感覚で、ただボーッと眺めていた。
その後、お昼をごちそうになることになり、客間へと移動した。
食事が終わり、一服していると、玄関チャイムが鳴った。
紫さんが立ち上がったので、私も立とうとしたら、「森山さんはここにいて」と言われたので、その場で待っていた。
何も聞いていなかった私は、紫さんと一緒に部屋に入って来た女性の顔を見て、「えっ!?」と驚いてしまった。
少し年を取っているけど、さっきの映像に出て来た人だ!
「本当だったんですね。この紅葉が赤くならなくなったのは……」
庭の紅葉を見ながら、悲しそうに彼女が言った。
「ええ……」
彼女の言葉に紫さんが答えた。
「正直、この場所に来るのは辛かったんです。紅葉した紅葉が儚く散っていくのは、どうしても亡くなった紅葉を思い出してしまって……。でも、不思議ですね。実際にこの樹を見たら幸せな思い出ばかりが浮かぶんです。紅葉の笑顔ばかり……。今となっては、全てが大切な思い出です」
「この樹もあなたと同じで、辛かったんです。自分の分身がいなくなったのですから」
「そう、ですね。……庭に出ても良いですか?」
「いいですよ。そこに置いてあるつっかけを使って下され」と、言った丸永さんのご好意に甘えて、彼女はそれを履き、庭に出た。
「紅葉……」
彼女は紅葉の幹を優しく撫でた。
すると、微かに梢が揺れた。
「紫さん」
私の呼び掛けに、彼女が頷く。
「あの、もっと紅葉に話しかけてあげて下さい」
「分かりました。……お願い、紅葉。もう一度、私に真っ赤な可愛いお手々を見せて」
彼女がそう言うと、梢に残っていた緑色の葉が、赤く染まり出した。
「嘘……」
その光景に、思わず目を見開く。
真っ赤に染まった紅葉が、その葉を見せつけるように梢を揺らす。
カサカサと揺れた梢から、ヒラヒラと一枚の葉が落ち、彼女の頬に張り付いた。
その葉はまるで、彼女の涙を拭う赤子の手のように見えた。
それを剥がし、眺めながら、「わぁー。綺麗ね……。有難う、紅葉」と言って、彼女は微笑んだ。
それから、旦那さんや新しく増えた家族のことなど、近況を暫く話した後、彼女は帰ることになった。
「来年もまた見せてちょうだいね」と紅葉に声を掛け、笑顔で帰って行く彼女に、紫さんと私は庭から手を振る。
丸永さんは、玄関先まで彼女を送って行った。
「良かったわね、紅葉ちゃん。お母さんが来てくれて」
紫さんがそう声を掛けた時、紅葉の樹に重なって、微笑んだ赤子が見えた気がして、私は思わず目を擦った。
「無事に成仏したようね。……有難う、紅葉。あの子が悪霊にならないように守ってくれて」
「どういたしまして」
「来年は、もうあの子がいないって知ったら、彼女は悲しむかしら? それとも、成仏したことを喜ぶかしら?」
「どうだろう……。私はあの子がいなくなってしまって、半身を亡くしてしまった喪失感で一杯だ……。けど、悪霊にならずに成仏してくれたことは嬉しく思う。……どちらにしても、君達が話さない限り、彼女が知ることは永遠にない」
「そうね……」
私は二人の会話について行くことが出来ずに、ただただ立ち尽くしていた。
「ねえ、紅葉。今はまだ辛いと思うけど、あなたにはあなたのことを心配して医者まで呼んでくれる優しい家族が出来たのだし、これ以上、私の治療は必要ないわよね? 丸永さん達がいれば大丈夫よね?」
「そうだな……。彼らが喜んでくれるなら、来年はもっと綺麗に色づくことが出来るかもしれないな……」
そう言った紅葉が嬉しそうに梢を揺らした気がした。
「ふふ、そうよ、その意気よ! 『病は気から』って言うからね! 樹だけに」
「紫さん……」
最後の一言を聞いてしまった私は、思わず、残念な子を見るような目を彼女に向けてしまった。
「森山さん? なんでそんな目で私を見るのよ?」
「えっ? 私、どんな目をしていました?」
そう言って、とぼけてみた。
「もう……」
彼女は呆れたように、吐息を漏らし、「それじゃあ、帰りましょうか」と言った。
私達は、紅葉と丸永さんに別れを告げて、帰路へとついた。
タクシーで家まで送ってくれた彼女に私は、お礼を言う。
「紫さん。今日は本当にありがとうございました。色々と勉強になりました」
「こちらこそ、ありがとう。今日の診察は、通常の樹木医の診察とは違ったから、参考になるかは分からないけれど……。私は一番大切なのは心だと思うのよ」
「心ですか?」
「そう。樹木の言葉が聞こえる私達は彼らの言葉を聞いて、心を守ってあげることが表面的な治療よりも大切だと私は思っているのよ。それは、私達にしか出来ないことだと思わない?」
「そうかもしれないですね……」
「ふふ。とは言え、あなたはあなたの思う樹木医を目指すべきよ。私の言葉に惑わされることなく、ね?」
そう言って、彼女は鼓舞するように私の肩をポンポンと叩いた。
「それじゃあ、森山さん、またね!」
彼女は手を挙げて別れを告げ、タクシーへと戻って行った。
「はい! また!」
私は手を振り、彼女の姿が見えなくなるまで見送った。
「私の目指す樹木医、か……」
* * *
ーーハルカ
「何?」
——ヤハリ オナジヒトノハンリョヲ ミツケタホウガイイ
「どうして?」
——ハルカハ ジブンノチヲウケツグモノガ ホシクハナイノカ?
「子供ってこと?」
——ソウダ
サキホドノハルカハ ジアイニミチテイタ
キット ヨキハハオヤトナルコトダロウ……
「……あなたに生殖能力があったら良かったのに……」
——ハルカ……
「バカなことを言ったわ。忘れて……」
タクシーの中で紫陽花の精霊と会話している自分の姿が、運転手には独り言を言っているおかしな人に見えるだろうと思い至り、先程、口から出た言葉のこともあって、思わず「フッ」と、自嘲の笑みが零れた。
「お客さん? どうかしましたか?」
「いいえ。何でもないので、気にしないで下さいね」
「はあ……」と、気の抜けた返事をした運転手へ、バックミラー越しに私は困ったような笑みを向ける。
それから、窓の外へと視線を移し、家に着くまでずっと、暗くなった街に灯る家々の温かな灯火をぼんやりと眺め続けていた……——。
お読み下さり、有難うございます。
紫陽花の精霊については、第四話をお読み下さい。