第六話 榧の精霊<三>
病院に着くと、ロビーにいた安城先輩が目に入り、慌てて近づいた。
「先輩! 佐久野君は……?」
「今、処置をしている所よ。検査もしないといけないから、ここで待つように言われたの」
「そうですか……」
先輩の話を聞いて、少し落ち着いた私は、彼女の陰になっていた人物が目に入り、声をかけた。
「あなたは?」
私の問いかけに、彼女はビクッとして、オドオドと話し出す。
「あの……。彼、私を庇って……。もし、このまま目覚めなかったら、私……」
「縁起でもないことを言わないで下さい! 佐久野君は、目を覚まします! 絶対に死んだりしない!」
彼女の言葉に、頭に血が上り、思わず否定の語気が強くなった。
「そうね。あなたの所為じゃないから、気に病むのはやめなさい」
「でも、私なんかを庇ったりしなければ……」
「やめて! 自分のことを『なんか』って言わないで! あなたを助けた佐久野君に失礼よ!」
「ごめんなさい。私……」
「森山さん、それくらいにしてあげて。彼女も気が動転しているのよ。目の前で人が落ちて行ったのだから。しかも自分を庇ってね」
その言葉にハッとした。
「私こそ、ごめんなさい。あなたが無事で良かったです」
私の謝罪を受けて、彼女は緊張の糸が切れたのか、嗚咽し出し、手で顔を覆った。
「うっ……ひっく……うう……」
「森山さんに榧守も来てくれたし、私は彼女を送って行って帰るわね」
先輩の言葉に私達は頷く。
「うっ……、私なら、一人で大丈夫です。ひっく……」
彼女は服の裾で涙を拭いながら、そう言った。
先輩は溜め息を吐き、「大丈夫じゃないでしょう。ほらタクシーで送るから、泣いていても平気よ」と言って、ハンカチを差し出した。
「うわーん、先ぱーい……」
彼女が先輩に縋り付く。
「それじゃあ森山さん、また学校でね」
先輩は彼女を労るように優しく背を撫で、進むように促した。
「はい。有難うございました」
「そうだ、榧守。彼の容態が分かったら、連絡ちょうだい」
「ああ。分かった」
先輩は、彼女を気遣いながら、タクシー乗り場へと向かって行った。
二人の姿が見えなくなると、私達はベンチに並んで腰掛けた。
そわそわと落ち着かない様子で辺りをきょろきょろと見回していた私は、突然、手を握られたことに驚いた。
まーくんの顔に目を向けると、私の目をじっと見ながら口を開いた。
「いっちゃん。落ち着いて、大丈夫だから……」
「……うん」
心許ない思いから解放されて、少し落ち着いた頃、院長先生である佐久野君のお父さんに声を掛けられた。
「剛の友達かな?」
「はい! あの、佐久野君は?」
「心配をかけてすまなかったね。打ち身などの軽度の外傷はあるけれど、今のところ、重度の異常は見られなかったよ。脳震盪を起こしていたみたいで、今は眠っているけれど、直に目を覚ますだろう」
「そうですか。……良かった。あの、顔を見ることは出来ますか?」
「ああ。本当はずっと着いていてやりたいんだけどね。まだ診察が終わってないんだ。私の代わりと言ってはなんだけど、時間が許す限り、傍にいてやってくれると嬉しいよ」
「分かりました」
「ありがとう。一○五号室にいるから、よろしく頼むよ」
そう言って、院長は戻って行った。
病室に入ると、ベッドに横になっている佐久野君が目に入った。
近づくと、目を閉じて穏やかに呼吸していることが分かり、ほっと息が漏れた。
隣からも同じような音が聞こえて来て、まーくんも安堵したことが伝わってくる。
ベッドサイドで、立ったまま彼の寝顔を見つめていると、まーくんが椅子に座るように促した。
それに応えて座り、再び彼の寝顔に視線を向ける。
そんな私を横目に、まーくんが話し出した。
「佐久野君が無事で良かったね」
「うん」
「……さっきの話の続きだけど……」
「うん……」
「まずは昔話をするよ」
「うん」
「……ずっとずっと遥か昔のこと、ある榧の精霊がいました。彼女は実りの時期を迎え、たわわに種子をつけていました」
淡々と話す彼の声は、小さいくらいの声量なのに、なぜだか静かな病室に大きく響いた。
それが心地よく私の鼓膜を揺らし、佐久野君のことで一杯だった頭の中にすーっと入って来る。
「彼女は子供達が立派に成長するのを楽しみにしていました。ところが、まだ未熟なうちから、毎日一粒ずつ人間に採られていきました。彼女は嘆き悲しみました……」
声に変化のない彼の表情が気になって、盗み見ると、顔は佐久野君の方を向いていたが、ずっと遠くを見ているようだった。
「……そんな彼女の嘆きが呪いとなったのか、人間は九十九粒目を採ったあと、亡くなってしまいました」
「えっ!?」
「その九十九粒目の種が芽吹き成長した頃、その種よりも先に育っていた子供達が人間の手によって切り倒されていきました。彼女は益々悲しみ、人を恨むようになっていきました」
「そう、ですよね。そうなりますよね……」
「ある時、精霊へと成長した彼女の娘がよりにもよって憎むべき人間と恋に落ちました。彼女は怒り狂います……」
* * *
——ニンゲンナンカニ ムスメハ ワタサナイ!
「やめろ! そんなのは愛じゃない。ただの執着だ。本当に愛しているなら、相手にとって何が一番幸せなのかを考えられるはずだ。相手のことを尊重するのが、『愛している』ってことだ!」
——ソンナノハ キレイゴトダ。
アイテヲ シバリツケテ フタリダケノセカイヲ ツクレバ オタガイシカ ミエナクナル。
ホカノモノナド ヒツヨウナクナル。
「お前は狂っている!」
——ハハハハ。
アイニモ イロイロアルダロウ?
ワタシノ コレモ 「アイ」ナノダヨ
「お前の『愛』とか言う執念の為に、彼女を渡しはしない」
——オマエニ ナニガデキル?
コノコハ ズットワタシノソバニ イルンダ!
* * *
「……彼女は人型の精霊となっていた娘を樹木に変え、その場所へと縛り付けてしまいました。人型になることも出来ず、只の人であった青年と愛を囁き合うことも出来なくなってしまった娘は嘆き悲しみました」
「そんな……」
「青年と娘を哀れに思ったのか、母親の娘への仕打ちの非情さに激怒したのか、神とでも呼ぶべき存在が母親に鉄槌を下しました。しかし、母親の情念が凄まじかったのか、母親が消えても娘の呪いは解けませんでした。それがあまりにも不憫で、ひと月もの間、神の涙が大地を濡らし続けました」
「悲しいお話だね……」
私の言葉を聞いたまーくんが、こちらへと視線を移した。
「そうだね。ただ、この話にはまだ続きがあるんだ」
「続き?」
「そう。……樹木になってしまった娘を愛し慕っていた青年は、いつの日か呪いが解けるのを信じて彼女から離れることなく、ずっと傍にいたんだ。すると、ある日、彼女が一つの実をつけていることに気がついた。その実は日に日に大きくなってゆき、他の榧の実とは様子が違っていることを、青年は不思議に思っていた」
彼はそこで一旦言葉を区切り、息を吐いた。
「彼女が樹になって十月が経とうとしていた頃、時が満ち、彼女の実からはなんと人型の子供が生まれ出た。その赤子を青年は自分の子として大切に育てていった。……そうして、その赤子の子孫が代々『榧守』を名乗り、ずっとご先祖様を守ってきたんだ」
「そうだったんだ……」
「その血を俺も受け継いでいる」
「うん……」
「そして、この血に刻まれた呪いも代々受け継がれて来たんだ」
「えっ!?」
「母が父に打ち明けるのを悩んでいたのは、このことが原因だよ。いずれ樹木化することが分かっていたから……」
「それじゃあ……」
「いずれ俺も樹木化すると思う。ただ、人の血が混じって来たことで、樹木化する年月が随分遅くなったみたいなんだ。曾祖母が樹木化したのは、母が成人してからだし、祖母はまだ人型でいる。けど、男の人型が生まれたのは俺が初めてらしいから、それがどう影響するかは分からない」
「そんな……」
「今後どうなるかは分からないけれど、父と母は、教授の助言もあって、結局は結ばれたんだ」
「その呪いは解けないの?」
「父も俺も解呪の方法をずっと探しているけれど、今のところ見つかっていないよ。……ただ、こうして人と交わっていくうちに、いつかは人の血が濃くなって、樹木化することはなくなるんじゃないかと思っているんだ」
「そう……なんだ……」
「まぁ、今後も俺達のことを理解してくれる人間が見つかるかは分からないけどね」
そう言ったまーくんが、あまりにも儚げに微笑むから、私は掛けるべき言葉を見つけることが出来なかった。
そんな私の心を見透かしたように、彼は繋いでいた手をそっと離した。
その様子をぼんやりと見ていた私は、彼の手が重なっていたところに着いていた血に驚き、慌てて彼の手を掴んだ。
「まーくん! この手、どうしたの?」
「これは……」
彼は、きまりが悪そうに顔を俯けた。
「……きっと、どんなに努力をしても、例えば深草少将のように百夜通いをしたとしても、君は振り向いてはくれないだろうね……」
「えっ!? それはどういう……?」
「君の中は彼のことで一杯で、他が入り込む余地なんて無いんじゃないかな?」
「そんなこと……」
「……彼が嫌な奴だったら良かったのに……」
「えっ!?」
「そしたら、君のことを無理にでも彼から引き離したよ。でも、君が惹かれるのが分かってしまうくらいに、彼がいい奴だから……。……俺は諦めるしか無いじゃないか……」
「まーくん……」
「いっちゃん、俺は君にはずっと幸せでいてほしいって心から思っているんだよ。だから、後悔しないように逃げずに自分の気持ちと向き合って欲しい」
「それは……」
「俺はいっちゃんの為なら喜んで捨て駒になるから。それを忘れないで」
「捨て駒だなんて……。まーくんは私にとって、とても大切な人よ。まーくんと同じように、私もまーくんの幸せを願っているんだから、そんなことを言わないで……」
「いっちゃん……。ありがとう」
そう言った彼は、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「……ん? 森山さん?」
「佐久野くん!」
目を覚ました彼の声に歓喜して、思わず抱きついてしまった。
「イタッ」
「ごめん!」
顔を歪めた彼に謝り、慌てて離れた。
そんな私の顔を見て、彼が言った。
「泣いているの?」
「えっ……」
自分の頬が濡れていることに驚いて、まーくんを見る。
さっきまで泣きそうだったまーくんの顔には、儚げな微笑みが浮かんだ。
「森山さん。金将が目覚めて良かったね。金になれなかった歩兵は去るとするよ。……佐久野君、お大事にね」
「はい……。ありがとうございます」
私達に背を向けたまーくんは、振り返ることなく、病室をあとにした。
その後ろ姿があまりに小さく感じられて、このまま消えてしまうんじゃないかと不安にかられる。
「森山さん……」
佐久野君に呼ばれた私は、そちらへと意識が向く。
なんと声を書けたら良いか躊躇い、口から零れ出てきた言葉はあまりにも頼りなく病室に響いた。
「……佐久野君。……私、不安で、凄く怖かったの……。」
「えっ?」
「佐久野君になにかあったらって……。そう思うと……」
「心配かけてごめん」
「ううん。無事で良かった……。本当に良かった……」
「うん……」
「それに私、ずっと怖かったの。誰かを好きになるのが……。ううん。好きだと認めるのが……きっと……」
「そう……」
「うん。……だけど、乃愛や母、それに榧守先輩に言われて気付いたの。自分が傷つくのを恐れて相手の気持ちから逃げることが、相手を傷つけてしまうんだって。……それに、大切な人に気持ちを伝えないと絶対後悔するって。」
「森山さん……」
「私ね、佐久野君のことが好き。友達じゃ嫌。……佐久野君と恋人になりたい」
「えっ!? ……本当に!? 俺、まだ夢を見ているのかな?」
「ううん。夢じゃないよ。……やっぱり今更、駄目かな?」
「駄目じゃない! 全然、駄目じゃないよ! イテテ……」
「大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ。……ふふ、嬉しいな……。嬉しすぎて、何だかふわふわする」
「えっ!? まだ寝てた方が良いんじゃない?」
「今寝てしまったら、夢になりそうな気がするから、このまま幸せを噛み締めさせて」
「佐久野君……」
「これからは俺のことは、『剛』って呼んでよ、樹希」
その甘い声に、赤面する。
それでも、彼の思いに答えたくて、照れながら呼んだ。
「剛君、私のことを好きになってくれて、ありがとう……」
「樹希。俺の方こそ、好きになってくれて、ありがとう。不束者ですが末永くよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「……何だか照れるね」
「うん。……幸せすぎて夢を見ているみたい……」
「フフッ、樹希もそう思うんだ」
「だって……」
「夢じゃないから……」
そう言って、彼は私を抱き締めた。
彼の温もりと早鐘を打つ鼓動が、これが夢ではないことを私に教えてくれていた……——。
※ここからは、真士視点のおまけです。
糖分の後に、苦み成分が欲しいという方だけお読み下さい。
——病院を後にした俺は、安城に電話をかけた。
「もしもし、榧守?」
「もしもし……。佐久野君は脳震盪と打ち身だけだったみたいで、さっき目覚めたよ」
「そう。良かった」
「それじゃあ、また学校で……」
「ちょっと待って。……榧守、泣いているの?」
「……安城……。俺は、俺は……どうすれば良かったんだ。どうすれば振り向いてもらえた? 何を間違えたんだ?」
「榧守……あんた、振られたの?」
「ああ……」
「そう。あんたは何も間違えてはいないと思うよ。ただ少し後手に回ってしまっただけなんじゃないかしら? あとは、詰めが甘かったのかもしれないわね」
「そうか……」
「あんたは十分頑張ったわよ。沢山努力していたことは、私も蒼生も知っているから……。今は少しだけ休むと良いわ。私達はあんたのことを親友だと思っているんだからね。遠慮なんかしないで、もっと弱音でも、愚痴でも溜め込まずに吐き出してしまいなさい」
「……神は残酷だな」
彼女の慰めに、思わず弱音が零れ出た。
「何言っているの。残酷なのはあんたにだけじゃないでしょ。失恋の一つや二つ乗り越えなさいよ。そうやって、試練を乗り越えて成長して行くのよ。私だって、蒼生と付き合うまでに色々あったんだからね」
彼女らしい言葉に、口元に少しだけ笑みが浮かぶ。
「ありがとう。ちょっと元気でた」
「そう?」
「うん。俺だけじゃないんだよな」
「そうよ。上手くいく人がいれば、上手くいかない人もいる。そういうものでしょう?」
「そうだな。そういうものだよな」
「月並みな慰めになるけど、頑張っているあんたには、そのうちいい人が現れるわよ。だから、今は何も考えずに休みなさい」
「うん。ありがとう」
「それじゃあ、お休み」
「うん。また学校で……」
電話を切った俺は、ぼやけた視界が晴れるようにと顔を上向ける。
目に入った夜空には、満天の星が瞬いていた。
暫くその光景を眺めていると、星々が流れだした。
この時の俺は、空から星が溢れて行く様子に自分を重ねて慰めることしか出来ず、願い事を言えば良かったと思ったのは、翌日、夕立に降られた時のことだった……——。
お読み下さり、有難うございます。