第六話 榧の精霊<ニ>
——次の日、私は学校を休んだ。
もともと夏休みで講義があるわけではなかったが、毎日、自主的に学校へ行って勉強したり、付属図書館で読書をしたりしていた私は、心配性の両親に休むように言われて、素直に従った。
そんな私を見舞いに、佐久野君と先輩が訪ねて来た。
「森山さん。調子はどう?」
「大丈夫よ。過保護な両親の為に休んだだけだから、心配しないで……」
「そう……」
ホッとしたように、佐久野君が息を吐く。
「二人共、来てくれてありがとう。明日はちゃんと学校に行くから」
「うん。待っているよ。じゃあ、今日はもう帰るから、ゆっくり休んでね」
そう言って、二人は出て行こうとした。
その時、思わず私は、先輩の腕を掴んだ。
驚いた先輩が、「森山さん?」と言って、心配そうに私を見る。
「私、先輩に聞きたいことがあるんです。少しだけお時間をいただけませんか?」
「分かった。今から話す? それとも後日、時間を取ろうか?」
「良ければ、今からで」
「いいよ。佐久野君はどうする?」
「……佐久野君、申し訳ないんだけど、先輩と二人で話したいの……」
「分かった。俺は帰るから、ゆっくり話すと良いよ」
「折角来てくれたのに、追い出すみたいになってごめんね」
「気にしないで……。それじゃ、明日、学校で……」
佐久野君が出て行き、改めて先輩と向き合う形で座った。
「……先輩。ううん、まーくん、ずっと忘れていてごめんなさい。それに、あの時、守ってくれてありがとう」
「いっちゃん……。思い出したの?」
「……うん。きっと全部ではないと思うけど、大体は……」
「そう……。その、大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。まーくんの傷に比べたら私なんて……」
「いっちゃん、ごめん。俺、最低なことした。……こんなつもりじゃなかったんだ。本当にごめん」
「どうして謝るの? 何も悪いことなんて……」
「違うんだ。俺、まさかいっちゃんがあの時のことが原因で、全てを忘れているなんて思ってもいなかったんだ。だから、再会した時、名乗っても初対面のような態度だったことに腹を立てて……。離れ離れになる前に一緒にいた『入らずの森』に、もう一度一緒に行けば思い出してくれるかもって……。それで、教授を唆して、今回の調査を勧めたんだ」
「まーくん……」
「俺はずっと、いっちゃんのことを忘れたことはなかった。あの時も、いっちゃんを守ることが出来て、自分を誇らしく思った。その所為でいっちゃんが俺のことを忘れてしまうなんて……。俺は、君の精神まで守ることが出来なかったんだね……」
「そんなことない! そんなこと……」
私は、左右に強く頭を振った。
「……ここの大学を選んだのも、近くにいれば偶然でもいっちゃんに会えるかもしれないという下心もあったからなんだ。でも、本当に会えるなんて! あの時は思わず神様に感謝したよ。けど、その分、覚えていなかったことへの落胆も激しかった。再会を喜んでいるのは自分だけ。結婚の約束を覚えているのも自分だけ。いっちゃんにとっては大したことじゃなかったんだって……」
「まーくん、ごめ」
「違うそうじゃない! 謝らないで! 悪いのは俺。いっちゃんを傷つけてごめん。いっちゃんは、ちゃんと俺のことを大切に思ってくれていた。だから、忘れてしまった。そんなことにも気付けないで、本当にごめん」
何度も頭を下げ、顔を俯けた彼の手は、固く握られていた。
「まーくん、頭を上げて。私、思い出せて良かったと思ってる。だって、そのお陰でまーくんにお礼を言うことが出来たし、楽しかった思い出も思い出すことが出来た。だから、もう謝らないで」
「ありがとう……」
顔を上げて私を見た彼のあからさまにホッとした様子に、私も安堵の息を吐く。
「ふふ、二人で謝り合って、何だかおかしいね」
「フッ、そうだね」
そう言って、少し笑った彼が、再び表情を固めて、私に縋るような眼差しを向け話し出す。
「いっちゃん、俺は今でもいっちゃんのことが好きだよ。ううん、再会して、今のいっちゃんのことを知るうちにもっともっと好きになった」
「まーくん……」
「でも、佐久野君と付き合っているのは知っているから、いっちゃんが幸せならそれでいいとも思ってる。でも、もし、彼じゃなくて俺を選んでくれるなら……」
「私と佐久野君は、付き合ってはいないの。けど、私は……」
それから先に続く言葉はなぜだか言えなかった。
「そう、なんだ。……困らせてごめん。でも、本当は君を誰にも渡したくはないんだ。だから、俺のことも考えてみて欲しい。お願いだ……」
今まで無意識に傷つけていた彼の懇願だったこともあり、無下にすることは躊躇われた。
ただ、「……分かり、ました」と言うことしか、この時の私には出来なかった。
まーくんが帰った後、私は途方に暮れていた。
「二人共、私なんかのどこが良いんだろ? 傷つけてばかりの私より、絶対、乃愛の方が魅力的だと思うんだけどなぁ……」
「樹希、『私なんか』って、言っては駄目よ。そんなことを言ったら、あなたのことを好きな私達に失礼でしょう?」
「母さん! 聞いていたの?」
独り言に駄目出しされ、少し動揺する。
「盗み聞きするつもりはなかったのよ。でも、戸が開いていたから聞こえてきたの」
母は悪びれることなく、そう言った。
「私、どうしたら良いの?」
私は藁にも縋る思いで、母に相談した。
「樹希、あなたの心はあなたにしか分からない。だから、あなたの心の思うままにしたらいいのよ」
「お母さん、……私、鈍いみたい。自分の心も分からないのよ? だから、悩んでいるの」
この問いに、さすがの母も少し戸惑った様子で、「うーん」と唸る。
「……そうね。それなら、自分の心を知る為に、まずは相手のことを知ってみたらどうかしら?」
「相手のことを知る?」
「そうよ。樹希はあんなことがあったからきっと、人一倍臆病になっているのね。好奇心旺盛なくせに、人の気持ちを知ることに酷く怯えているように感じるわ」
「そうかもしれない……」
「樹希、まーくんは無事だった。立派に成長して、素敵な男性になっていたわ。あなたが気に病むことは何もなくなったのよ。後はあなたが勇気を出して、駒を一つ進めるだけ。そうでしょう?」
母の言葉が、私に中にスッと沁み入ってくる。
「お母さん……。私、もっと二人のことを知りたい。そうしたら、活路が開ける気がする」
「そう。良い兆候だわ。『好き』の反対は『無関心』って言うくらいだから、関心があると言うことは『好き』と言うことかもしれないわね。それがどういう『好き』なのか、分かると良いわね」
「どういう『好き』か?」
「そう。親愛なのか、友愛なのか、それとも恋愛なのか。もっと色々あったりすると思うけど、あまり頭でっかちに考えるのも違う気がするから……。ほら、よく言うでしょ、『恋は落ちるものだ』って。無意識にその人のことばかり考えて、些細なことで一喜一憂してしまったり、自分では感情が制御できなくなったりする。きっと感覚的なものなのよ。」
「そうなの?」
「そうよ。そういうものよ。けど……」
「けど、何?」
「物事には『例外』というモノが存在するから、一概には言えないわね」
「何それ。お母さんはどうだったの?」
水を向けると、「私の話はまた今度ね。お腹が空いたわ。ご飯にしましょう!」と言って、話を逸らした。
その言葉に一気に空腹を実感して、私のお腹が盛大に鳴る。
少し恥ずかしくなり、「ごめん、遅くなっちゃったね」と言って、誤摩化した。
母の恋愛話を聞きたかったけれど、空腹には勝てず、それはまたの機会にしようと心に留め置く。
母は、眉を下げて、「樹希、親にまで遠慮しなくていいの。こういう時は『ありがとう』って言ってくれれば、それで良いのよ」と、言ってくれた。
私は素直に感謝の気持ちを言葉にする。
「お母さん、ありがとう」
「どういたしまして。なんだか無理矢理言わせたみたいで嫌だわ」
そう言って、母は笑った。
——翌日、昼過ぎになってから学校へ行った私は、ほとんど知らないまーくんのことを聞く為に、とりあえず民俗研究会へと赴いた。
中を覗くと、安城先輩一人のようで、窓辺に佇み静かに資料を読んでいた。
その様子があまりにも綺麗でそれを崩すのが躊躇われたが、意を決して声を掛けた。
「あの、まー……じゃなかった、榧守先輩いますか?」
「森山さん!」
こちらにキラキラとした顔を向けた先輩に、垂れた耳と全力で振られた尻尾の幻影が見えた気がして、思わず目を擦る。
そんな私の様子に、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの? 榧守なら、梛良教授の所よ」
「そうですか……」
「この前の調査の話だと思うから、研究室の方に行ってみたら?」
「分かりました。研究室の方に行ってみます。ありがとうございます」
「また、いつでも遊びに来てね!」
明るく弾んだ彼女の声に、こちらまで元気になる。
「はい!」と、私も彼女の好意に精一杯の笑顔で応えた。。
研究室に辿り着き、扉をノックしようとしたところ、隙間が空いていたようで、中から二人の会話が漏れ聞こえてきた。
その内容に思わず手が止まる。
「木々から面白い話は聞けたのかい?」
「はい」
「どんな話だい?」
「その前に……、森山さん、そんな所にいないで中に入って」
「おや」
私に気付いた、まーくんに声をかけられ、ばつが悪くなり縮こまった。
「すみません。立ち聞きするつもりは無かったんです」
「気にしなくて良いよ」
二人に気を悪くした様子は、全く見られず、ホッとして肩の力が抜ける。
「あの。教授も知っているんですか? その……」
「俺の力のことも素性も、教授は知っているよ。教授は父の恩師でもあるから、昔から付き合いがあったんだよ」
「そうなんですか!」
「森山さん。先日は、調査に参加出来なくてすまなかったね。今度、改めて再調査させてもらえると有り難いのだけどね」
教授に詫びられ、恐縮する。
「はい。それは、ぜひ」
「それで、森山さんの用件は何だったのかな?」
「あっ! えっと、その……」
口籠って、まーくんの方へ視線を向ける。
すると、意を察した彼が、「教授じゃなくて、俺に用事があったのかな?」と言った。
その言葉に私は頷く。
「……はい」
「教授。話の続きは明日でもいいですか?」
「あの! 急ぎの用事ではないので、今度で大丈夫です」
「そうか……。なら、こうしよう。森山さんの時間が大丈夫だったら、一緒に話を聞こう。それが終わってから二人で話をしなさい」と、教授が提案する。
それに、私達は頷いた。
「はい。ありがとうございます」
「森山さん、枝垂れ柳の話を教授にしても良いかな?」
「えっ!?」
「教授は、俺達みたいに樹木の精霊の血は流れていないけれど、梛の精霊の加護を受けていて、梛の言葉は分かるんだ。だから、俺達に偏見はなくて、良き理解者なんだよ」
「そうだったんですか!?」
「ああ。君達のことは誰にも話さないから、安心しておくれ」
教授は、私の目をじっと見つめて、そう言った。
「分かりました。その言葉を信じます。それに、私は榧守先輩のことを信頼しているので、先輩が信用している教授なら大丈夫です」
「いっちゃん……」
「ハハハ……、仲が良くて羨ましいよ」
教授にからかわれた気がして、私の頬が熱を持った。
それを隠すように両手で覆う。
その動作が子供みたいだと思い、益々羞恥に悶えた。
そうしている間に、彼が教授に枝垂れ柳の話をし始めた。
今回は泣くことはなかったが、やはり感傷的な気分になった。
「そうか……。樹木と人の間に子が宿るのが未だに信じられないのだが、真士君だけでなく、こうして血を受け継ぐ者が他にも存在しているのだから、疑いようがないな。……それにしても、世の中には理屈では片付けられない不思議なことが満ち溢れているものだ」
そう言って、教授はひとりごちた。
「森山さんは君が精霊の血を引いていることは知っているみたいだが、両親のことは話したのかい?」
「いえ。話そうとは思っていたのですが、中々タイミングが合わなくて……」
「なら、今ここで話すと良い。私が二人を引き合わせてしまったようなものだからね」
「えっ!?」
「俺の両親は教授のお陰で出会ったんだ。だから、教授は二人のキューピットなんだよ」
「そうなんですか!?」
「そんな可愛いものではないよ。ただのお節介おじさんさ」
そう言って、教授は肩を竦めた。
「二人が初めて出会ったのは、私の調査の助手を彼がしてくれて、その調査先でのことなんだ。驚いたよ。人とは思えない美しい女性が一人、榧の古木の傍に佇んでいたんだ。彼も私も見惚れて、暫くポーッとしてしまったよ」
その時の情景を思い浮かべているのか、教授は遠い目をする。
私達に視線を戻した教授は、「年甲斐もなく恥ずかしいがね」と言って、苦笑した。
「それから、私達に気付いた彼女に声を掛けられて、話をしたんだ。彼女は、そこの村に住んでいて、そこの榧の木を守る『榧守』なのだと。榧は『山の宝石』とも言われているからね。私達は、最初、榧の木を取りに来た泥棒と勘違いされそうになったよ」
「そうなんですか……」
「疑いが晴れてからは、彼女のご好意で、暫く研究の為に彼女の家に滞在させてもらえることになった。それからは、二人が互いに惹かれ合っていくのが端から見ていても分かったのだが……。彼女には秘密があって、一歩を踏み出せずにいたんだよ」
「秘密ですか?」
「ああ。私は若い二人に幸せになってもらいたくて、お節介にも何かを抱えている彼女の背中を押したのだよ。『彼は器の大きな男だ。きっと君の秘密ごと受け止めてくれるから、自分の気持ちに正直になりなさい』とね。それから、彼女は私達に打ち明けてくれたよ。『榧守』の真実をね」
「それは一体……」
——ピーポーピーポー……。
「……救急車の音ですね。何かあったんですかね?」
静かに教授の話を聞いていたまーくんが、心配そうに言葉を発した。
——ブルルブルル……。
その時、彼の携帯電話が震え、着信を告げる。
「ちょっとすみません」
そう言って、彼は通話ボタンを押した。
「えっ!?……分かった。すぐに行く」
電話を切った彼が、切羽詰まった様子で私に言った。
「いっちゃん。佐久野君が階段から落ちて、意識がないらしい。今、救急車で運ばれて行ったって……」
彼の言葉が耳を通り抜け、現実味を感じることが出来ない。
私の口からは、ただ、「嘘……」という言葉だけが零れ出て来た。
「佐久野病院に運ばれたみたいだから、今から行こう!」
「それなら、私が送ろう」
そう教授が申し出てくれた。
気がつくと、私は車に揺られていた。
車に乗るまでの記憶が曖昧だ。
「……佐久野君……」
病院に近づいて行くうちに、現実味が増し、不安で胸が押し潰されそうになる。
神様! どうか佐久野君を助けて……お願い……——
病院へと向かう車の中で、私はただただ彼の無事を祈り続けていた……。
——そんな私を見て、まーくんが白くなるまで自らの手を握りしめ、何かに耐えている様子だったことに、この時の私は気付くことはなかった……——。
お読み下さり、有難うございます。
第六話 榧の精霊<三>へ続きます。