第六話 榧の精霊<一>
※今回の話は、今までの話を読んでいないと所々分かりにくいかと思いますが、ご了承下さい。
——ワタサナイ……。
佐久野君の告白から数週間が過ぎても、私は彼に返事が出来ないままでいた。
宣言通り返事を催促したりせず、何も言わない彼と私の間には何とも言えない、余所余所しい空気が流れているような気がして、居心地悪く感じていた。
そう感じているのは、私だけではなかったようで、「二人共どうしたの? ケンカでもした?」と、榧守先輩に言われてしまった。
この日は、前からお願いされていた「入らずの森」の調査の打ち合わせをしていた。
梛良教授は急に都合が悪くなり、榧守先輩と「ぜひ、参加したい」と申し出た佐久野君、それから私と三人での打ち合わせとなった。
ちなみに、この件に関して、両親は私に一任してくれている。
先輩の問いかけに、「いえ、いつも通りですよ」と、佐久野君は澄ました様子で答えた。
「そう? じゃあ話を戻すけど、今度の土曜ということで大丈夫だね?」
先輩は訝しそうにしながらも、最終確認とばかりに尋ねた。
私達はそれに、「はい」と頷く。
それ以上、何も話そうとしない私達に先輩の視線はもの言いたげであったが、黙殺するようにして作り笑いを浮かべ、「では、土曜日に!」と言って、その場を去った。
——土曜日になり、先輩と佐久野君が訪ねて来た。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
二人は、玄関に出た父と私に挨拶した。
「おはよう。こちらこそ、君達の研究のお役に立てるのなら、こんなに嬉しいことはないよ。怪我のないようにだけ、十分気をつけておくれ」
そう言って、父が微笑んだ。
「あの、教授の姿が見えませんが……」
二人の姿しかなかったことを疑問に思った私がそう尋ねると、「教授は、お身内にご不幸があったそうで、残念ながら、今回は来られなくなってしまいました……」と、先輩が父の前だったからか、丁寧な言葉遣いで答えてくれた。
「そう、なんですか……」
私は言葉に詰まり、それだけしか言えなかった。
「今回は事前調査ということで私達だけで。教授はまた日を改めて調査に伺わせていただきたいそうです」
先輩の言葉を受けた父が、「そうですか。うちは構いませんよ」と快諾した。
「ありがとうございます。早速、調査を始めさせていただきたいのですが……」
「ご案内します。それじゃあ、お父さん、行ってくるね」
「ああ、行ってらっしゃい」
手を振って歩き出した私に、父も笑顔で手を振り返してくれた。
「ここは変わらないな……」
少し進んだ所で、先輩の呟きが耳に入って来た。
「来たことがあるんですか?」
私がそう尋ねると、先輩の顔が少し悲しそうに歪んだ気がした。
「……覚えていないんだね」
そう言った先輩の呟きはとても小さく、蝉の声に掻き消されてしまい、私に届くことはなかった——。
「凄いね! これだけ多種多様な樹木が自生しているなんて!」
いつも落ち着いている佐久野君が、珍しく興奮気味に言った。
「ここは『入らずの森』と呼ばれていて、昔から神域のような扱いなの。森山家の当主だけが入ることを許されていて、当主以外が手を入れることは禁じられているそうよ。それに、祖父が亡くなってからは誰も立ち入らなかったから、ずっとそのままになっているの……」
「へぇー、そうなんだ……。俺たちが入っても大丈夫だったの?」
「現当主の父の許可があるし、手を入れる訳ではないから、大丈夫よ」
「それに、前に紫さんと入った時も大丈夫だったしね」と、心の中で付け加える。
少し進んだ先に渓谷があった。
前に紫さんと来た時には、通らなかった道を歩いていたようだ。
「ここは……」
渓谷を見て、先輩が呟いた。
その横顔を見て、私は何かを思い出しそうになり、頭を振った。
「森山さん?」
そんな私の様子に、佐久野君が不思議そうにする。
「ううん。初めて来た場所だったから、道に迷ったかと思って、少し心配になったの」
そう言った私の言葉を聞いた先輩の表情が悲しげに歪んだ。
「先輩?」
「道に迷ったら大変だから、森山さんが分かる所まで戻ろうか?」
さっきの顔が見間違えだったのかと思う程、優しげな顔で先輩が言った。
道を戻りながら、先程の違和感と先輩の表情が頭から離れず、私は悶々としていた。
「……さん」
「……山さん?」
「森山さん? どうしたの?」
「えっ!?」
「何度も呼んだんだけど……」
そう言って、先輩と佐久野君が顔を見合わせた。
「すみません。考え事をしていて……」
上の空だった私の返答は、歯切れの悪いものになった。
そんな私の様子に心配そうな顔をした二人の眉が更に下がった気がした。
「大分入り口の方まで戻って来たけど、まだ戻る?」
「えっ? すみません。戻りすぎてしまいました」
「森山さん。体調が悪いのなら、帰って休んだ方が良いよ」
「ううん。大丈夫」
「でも、また今度で大丈夫だから、無理しないで」
二人の優しい言葉に、居たたまれない気持ちになりながら、「こっちです」と言って、先を案内した。
自生している樹木の種類などをメモしながら進んで行くと、前に紫さんと来た枝垂れ柳の所まで辿り着いた。
なんだかんだと忙しく、心には懸っていたけれども、あれ以来訪れることが出来ずにいた。
久しぶりに訪れることが出来て、感慨深く思っていると、佐久野君に話しかけられた。
「ここだけ妙に空間が開けている気がするんだけど、どうしてだろう?」
「それは……」
どう説明したら良いか悩み、口籠ってしまう。
開けた空間の中心に位置するように生えている若木に気付いた先輩が、吸い寄せられるようにその樹へと近づき、そっと触れた。
あの時、若芽だった柳はスクスクと育っていて、私は顔を綻ばせた。
柳に触れたまま動かない先輩に少し不安になり、思わず声をかける。
「先輩?」
すると先輩は、「この枝垂れ柳は、希望の樹なんだね。森山さんと一緒だね」と言って、労るように柳を撫でた。
「えっ?」
先輩の言ったことを理解出来ずに首を傾げる。
「ふふ、今まで黙っていたけど、実は僕も樹木の血を引いているんだよ」
「えっ!?」
驚きのあまり、佐久野君と顔を見合わせた。
「だからね、言葉が分かるんだ」
「ウソっ!?」
「ウソじゃないよ。この樹が教えてくれたんだ。森山さんのご先祖様のこと」
「そう、ですか……」
「えっ! えっ?」
一人だけ仲間外れになったみたいな佐久野君が、ただただ混乱しているようで、何だか申し訳ない気持ちになる。
そんな佐久野君にどう説明していいか悩んでいると、見かねた先輩が、「森山さんが良いなら、俺から説明しようか?」と、申し出てくれた。
少し躊躇ったが、思考が纏まらず、上手く話せる自信がなかった私は、先輩に委ねることにした。
「……お願いします」
先輩は私に優しく微笑んで、佐久野君に説明しだした。
先輩の説明はとても分かりやすくて、前に柳から話を聞いていた私も、その時のことを思い出し、感傷的な気持ちになる。
気がつくと、涙が頬を伝っていた。
「森山さん……」
一通り話が済んで、私の方に目を向けた二人が心配そうに声をかける。
「大丈夫。……私、二人に心配かけてばかりだね……」
そう言って、涙を拭いながら微笑みを浮かべようとして失敗した。
そんな私に、佐久野君がハンカチを差し出して言った。
「無理に笑わなくていいんだよ?」と。
その言葉に、涙腺が決壊し、滝のように涙が流れた。
暫く泣いて落ち着いてきた私は、子供みたいに泣いてしまったことを恥ずかしく思いながらも二人にお礼を言った。
「……二人共、ありがとう」
「やっぱり、今日はこの辺にして、帰ろうか」
ただただ労りに溢れていた先輩の提案に、佐久野君も私も頷いた。
二人に気遣われながらの帰路は、あっという間だった。
「ただいまー」
私は玄関の戸を開けて、いつものように声をかけた。
すると、父が出て来て、「お帰り。思ったよりも早かったね」と言った。
「そうかな?」
私は、何でもないように言ったつもりだった。
でも、他の二人の何とも言えない様子と、私の目が腫れていることに気付いた父の表情が一気に険しくなった。
鬼気迫る様子で私の腕を掴み、「何かあったのか?」と尋ねる父に、私は硬直してしまい、何も言えなくなる。
すると、いつの間にか様子を見ていたらしい母が、「お父さん、樹希が怯えているわよ」と言って、助け舟を出してくれた。
「ぐー」
母のお陰でホッとしたのか、私のお腹が盛大な音で鳴った。
「あらあら、お腹がすいたのね。お昼からそんなに時間が経っていないけど……」
「そう言えば、お昼、食べてない……」
「まぁ、それはお腹が空くわ。お二人も食べてないの?」
「はい……」
「とりあえず中に入って。お弁当を食べなさい。話はそれからにしましょう」
私達は母の言葉に従って、お弁当を食べた。
コンビニのおにぎりだけだった先輩を見かねた母が、先輩だけでなく私達にも味噌汁と漬け物、卵焼きを差し出した。
お味噌汁の芳しい香りにホッとして、自然と頬が緩む。
「若いのにそれだけじゃ身体に悪いわよ。遠慮せずに食べて」
「ありがとうございます。……美味しいです」
そう言った先輩の目が潤んで、涙が零れた。
そんな彼の様子に、皆が驚く。
母が、「大袈裟ね!」と言って、テッシュを箱ごと差し出した。
「そう言えば、まだお二人の名前を聞いていなかったけど……」
話題転換とばかりに、父が言った。
「あっ! ご挨拶が遅れてすみません。私は森山さんと同じ学年で同じ学部の『佐久野剛』と言います」
「佐久野君は、高校も一緒だったのよ」
「そうか。もしかして、『佐久野病院』の息子さんかい?」
「はい」
「いやー、こんな立派な息子さんがいて、院長も安心だね。院長には色々とお世話になっているんだよ。樹希が生まれたのも、亡くなった父を診てもらったのも佐久野病院だったしね」
「そうなんですか……」
「君の名前は?」
「榧守真士です。二人と同じ学部の三年生になります」
「えっ!? 『榧守』って、もしかして『まーくん』?」
そう言って母は、じっと先輩の顔を見る。
「覚えていてくれたんですね!」
先輩は感激した様子で、母へと笑顔を向けた。
「もちろんよ!」
「えっ!?」
そんな二人の様子に、置いてけぼりをくらい困惑する。
「ほら、樹希、『まーくん』よ! 幼稚園の頃によく一緒に遊んでいたじゃない。『いっちゃんね、大きくなったらまーくんと結婚する!』って言って、金魚の糞みたいにくっついていた『まーくん』よ! 覚えていないの?」
「えっ? 『まーくん』?」
私は思い出すことが出来ず、漠然とした不安に襲われ、焦燥感に駆られる。
無意識に唇を噛んでいた私を労るように父が私の頭を優しく撫でた。
「樹希、あんなことがあったんだ。覚えていなくても仕方がないよ」
「『あんなこと』って?」
私の言葉に、父と母が顔を見合わせてから、先輩へと顔を向ける。
「……今の樹希さんは、山でのこともあって精神的にも疲弊していると思うんです。これ以上の負担を与えることは、きっと良くないと思うんです。今日はもう休ませてあげて下さい」
「先輩! 私は大丈夫です。教えて下さい!」
「でも……」
「このまま思い出せずに、ずっとモヤモヤしたままの方が辛いです。お願いします」
先輩は、一つ息を吐いてから私に向かって、労るように話し出した。
「森山さんが覚えていないのは、きっと小さかった君には辛すぎたからだと思うんだ。多分、心を守る為に忘れてしまったんだと思う。それを、思い出させようとするのが正しいことなのか、俺には分からない。もし、そのことで君の心が傷つき壊れてしまうようなことがあったら俺は……」
「真士君、あとは私が話そう。」
「お父さん……」
「真士君、私には樹希よりも君の方が疲れているように見える。これ以上、君にも傷ついて欲しくない。樹希にはちゃんと話すから、君は帰ってゆっくり休みなさい」
父の言葉にハッとした私は、先輩へと目を向ける。
悲しそうな、安堵したようなそんな複雑な先輩の表情に強い疲労の色を感じ、自分のことしか考えられなかったことが堪らなく恥ずかしくなった。
そうして、先輩と佐久野君を見送り、居間へと落ち着いた私と両親は、向き合って話をする。
「樹希、彼のことをどこまで覚えている?」
「どこまで?」
「昔、一緒に遊んだことは覚えているか?」
その質問に、私は首を横に振った。
「そうか……、全く覚えていないんだな……」
「だから、あの後、全くまーくんことを話さなくなったのね……」
「真士君は、子供の頃、近所に住んでいて、樹希と同じ幼稚園に通っていたんだ」
「まーくんの家はお父さんしかいなくてね、樹希と仲が良かったこともあって、よく預かっていたのよ」
「そう……」
「樹希、結婚の約束までするくらい仲の良かった彼のことを思い出せないのは、彼が言ったように自己防衛本能だと思うんだ。自分の記憶に蓋をして、心が壊れるのを防いでいる。……樹希、本当にパンドラの箱を開ける覚悟はあるのかい?」
「お父、さん……」
「はぁー。樹希、駄目だよ。覚悟がないのに話すことは出来ない。私達には、大事なお前の心を壊すようなことは出来ないんだよ」
「……お父さん、ありがとう。お母さんも……。お父さん、私、『大丈夫』とは言えない。正直、知るのが怖い……」
「なら……」
「でも! でもね、さっきの先輩の顔を見て思ったの。私より辛そうだって。きっと先輩は私より辛い想いをしているのよね」
「そうね。あのことだけじゃなくて、樹希が覚えていないこともショックだっただろうから……」
「人に忘れられるのは辛い。それが大切な人だったなら尚更ね」
「そうだよね……。だから、私、思い出したいの。きっと私にとっても大切だった人のことを……」
「樹希……」
「分かった。話すよ。でも、樹希、これだけは忘れないで欲しい。私達は、何よりも樹希が大切だ。何を敵に回しても絶対に樹希の味方だ。だから、一人で抱え込もうとしないで欲しい。樹希が辛いと私達も辛い。私達はずっと樹希の親だ。もっと頼って、甘えて良いんだよ」
「……うん」
両親の優しさが胸に沁み、目が滲む。
そんな私を母が包み込み、背中を摩ってくれる。
父は私の頭をひと撫でして、話し出した。
「いつものように真士君を預かっていたある日のことだ。母さんがちょっと目を離した隙に、樹希と真士君がいなくなった。慌てた母さんが、近所を探しても見つからない。連絡を受けて急いで帰って来た私と親父は「入らずの森」に入った。その直後に、森に雷が落ちたんだ。私達は慌てて、その場所へと行った」
淡々と話していた父が、そこでひと呼吸つく。
「……すると、そこには雷に撃たれて、動かなくなった男と意識を失った樹希、そして傷だらけの真士君がいた」
「えっ! ……うっ……」
「樹希!」
「大丈夫……。それで?」
「男はお袋の遠縁の者だった。会社の経営が上手く行かず、お金に困っていたそうだ。樹希を誘拐して、身代金を要求するつもりだったらしい。怪我を負った真士君は入院して、退院後はお父さんの仕事の都合で引っ越した。樹希は……、意識が戻ってからは真士君のことを一切話さなかった」
「お医者様に事件のことは話さない方が良いと言われていたから、そのことに繋がるまーくんの話も私達からはあなたには話さないようにしていたの。聞かれたら答えるつもりで……」
「そう……」
「何も聞かないから、おかしいとは思っていたんだよ。でも、全てを忘れているとは思わなかったんだ……」
「……話してくれてありがとう。少し思い出したの……。怖い顔のおじさんに追い掛けられてそれで……くっ……」
「樹希! 無理に思い出さなくていいのよ!」
「樹希、もう休みなさい」
「……うん」
父の言葉に、私は頷いて部屋へと向かった。
ベッドへと沈み込むように横になった私は、すぐに睡魔に襲われた——。
——……ああ、懐かしい……
母に内緒で、「入らずの森」へと入った私とまーくん。
「まーくん! まーくん! いっちゃんね、おおきくなったらまーくんとけっこんする!」
小さな冒険に心を踊らせ、手を繋ぎ、一緒にスキップするまーくんにそう告げた。
「うん! おおきくなったらけっこんしようね!」
私の言葉に満面の笑みで答えてくれたまーくん。
大好きなまーくん。
「ずっといっしょにいる!」
そう思っていたのに……。
「森山の子供だな。一緒に来い!」
高飛車な様子の男に声をかけられた私達は、身の危険を感じ、一目散に駆け出した。
怖い顔の男に追い掛けられ、必死に逃げる私達。
子供の脚ではそう遠くへと逃げることも出来ず、迫ってくる男に崖へと追い詰められた。
窮地に追い込まれ、「もうダメだ!」
そう思っていたら、「いっちゃんはわたさない!」と叫んだまーくんが、男へと立ち向かって行った。
「まーくん!」
私の所為で、大切なまーくんが!
「イヤー!! やめてー! まーくんをころさないでー!」
——ピカッ! ドーン……——
————ハッ!
今の夢は……。
飛び起きるようにして上半身を起こした私の意識は、夢と現実を彷徨っているかのように揺れる。
「まーくん……」
なぜだか、胸が締め付けられるように痛んで、目から零れ出る雫が頬を伝い落ち、シーツを濡らしていく。
その様子を、ただ、ぼんやりと眺めていた……——。
お読み下さり、有難うございます。
第六話 榧の精霊<二>へ続きます。