第五話 竹の精霊
——ネガワクハ……——。
六月も終わりに近づいた頃、大学の構内を佐久野君と歩いていると、先輩に声を掛けられた。
「森山さん! この前の話、考えてくれた?」
「榧守先輩! ええ。父に聞いたら、大丈夫だと言っていました」
「そっかぁ、良かった……。ありがとう。それじゃあ、よろしく頼むよ!」
「はい」
「あっ! そうだ! 俺たちのサークルの企画で、毎年、今の時期に玄関ホールのところに七夕飾りを設置するから、良かったら短冊を書きに来てよ」
先輩にそう言われて、どうしようかと佐久野君の様子を窺うと、なぜだか不機嫌そうな顔をしていた。
私は不思議に思いながらも、先輩の誘いを断った方が良いような気がして、「すみません。このあと用事があって……」と口に出していた。
「そっかぁ、ごめんね。デートの邪魔をしてしまったみたいで……」
「えっ!?」
「別に今日じゃなくても良いから、今度、民俗研究会に遊びに来てよ! 二人とも歓迎するよ! それじゃあ、またね!」
そう言って、先輩は颯爽と去って行った。
私は呆然として、「デート……?」と呟いていた。
「森山さん」
佐久野君に名前を呼ばれて、彼の顔に目を向けると、相変わらず不機嫌そうな顔をしていた。
「佐久野君、どうしたの?」
「聞きたいのは、俺の方だよ。さっきの話はどういうこと?」
「さっきの話?」
「先輩が言っていた、『この前の話』って何?」
「ああ、その話」
先輩からの頼み事を思い出し、そう言えば彼には話していなかったと思い至った。
「森山さんにとっては、大した話じゃないんだね……」
そう言った彼は、なぜだか辛そうな顔をしていた。
「えっ? 佐久野君に話してなかったけど、梛良教授からウチの山に生息している樹木を調査させてほしいってお願いされていて、先輩がメッセンジャーをしてくれていたの」
「えっ! なんだ、そういうこと……」
彼はその場にしゃがみ込んだ。
何かを呟いていたが、聞き取ることは出来なかった。
「佐久野君?」
「ごめん。何でも無いよ。帰ろうか?」
彼の不機嫌顔は、すっかりいつも通りに戻っていた。
「森山さん。明日でも一緒に短冊書きに行く?」
「えっ!? 嫌だったんじゃないの?」
「ごめん。違うんだ。さっきは先輩にちょっと嫉妬してしまって……」
彼はばつの悪そうな表情をした。
「嫉妬?」
「いや、何でも無いよ。短冊を書くのが嫌だった訳じゃないんだ」
「そうなの?」
「うん」
「良かった。実はちょっと、興味があったんだ」
「えっ?」
「『どうして短冊を笹に飾るのかな?』って。先輩達なら知っているかと思って……」
「確かにどうしてだろう?」
「ねっ。案外、伝承そのもの、どうしてそうなったのかとかは知らなかったりするでしょう? サークルでそういうことも調べているのかと思って、気になったんだ」
「前から思ってたけど、森山さんって、好奇心旺盛だよね」
「それって、どういう意味? からかってる?」
「まさか! もちろん褒め言葉だよ」
「えー、ウソだー」
そんなふうに彼と他愛無い話をしているとあっという間に家へと辿り着いた。
——翌日、私は佐久野君と一緒に民俗研究会へと赴いた。
「よく来てくれたね! さっ、遠慮せずに座って」
榧守先輩に促されて、席に着く。
「来てくれてありがとう! 私は榧守と同じ三年で安城結梨って言うの。こっちも同じく三年の麻宮蒼生よ。よろしくね!」
そう言って、安城先輩は華のように可憐に笑った。
彼女の笑顔に見惚れていると、「『七夕』と言えば、織姫と彦星の話が有名だけど、発祥は知っている?」と、榧守先輩に尋ねられた。
「……いいえ」
私と佐久野君は顔を見合わせて、首を横に振る。
「この織姫と彦星の伝説、中国の『乞巧奠』と日本に古くからあった、水辺の小屋で供物の布を織りながら神を迎える『棚機津女』の信仰が結びついて出来たんじゃないかって言われているんだ」
「笹や竹に短冊を吊るして願い事をするようになったのは、江戸時代からなんだって」と、安城先輩が補足する。
「へぇー」
「本来はサトイモの葉に溜まった夜露を集めて墨をすり、その墨で梶の葉に和歌を書いて字や習い事などの上達を願っていたらしいよ」と、麻宮先輩。
「サトイモの葉は神から授かった『天の川』の水を受ける傘の役目をしていたと考えられていたんだって」と、安城先輩が教えてくれる。
「なるほど」
「あと、短冊にも意味があるんだよ。『五色の短冊』の五色は、中国の陰陽五行説から来ているそうなんだ。赤は火、青は木、黄は土、白は金、黒は水を表している。……はい。この中から好きな色を選んでね」
そう言って、榧守先輩が短冊とペンを私達に渡してくれた。
「短冊だけじゃなくて、他の飾りにも一つ一つに意味があるのよ」と、安城先輩。
「そうだったんですね。全然知りませんでした……」
そう言った佐久野君が、尊敬のまなざしで先輩達を見ていた。
「あの。どうして笹や竹が使われているんですか?」
私は疑問に思っていたことを尋ねた。
すると、すかさず榧守先輩が教えてくれる。
「古くから竹は、強い生命力や中が空洞になっていることなどから、神秘的で心霊が宿っていると言われていたりして、神の依代と考えられて来たらしい」
「お正月の門松や左義長、地鎮祭の時にも四隅に竹を立てるし、色々な神事やお祭りなんかに竹が使われているでしょう?」と、安城先輩。
「そうですね」
佐久野君が頷く。
「竹って神聖なものなんですね。だから、かぐや姫も竹から生まれたのかな?」
ふと、疑問に思ったことを私は呟いた。
「そうかも知れないね」と、麻宮先輩が同意してくれる。
そこからは、かぐや姫の話で盛り上がった。
「かぐや姫は、可哀想よね。好きな人とは結ばれず、その気持ち自体も忘れてしまうんですもの」と、安城先輩。
「月でどんな罪を犯したかは分からないけれど、きっとそれが、かぐや姫の罰だったのだろうね」
そう、麻宮先輩がしみじみと言う。
「ちなみに竹の花言葉は、『節度。節操のある』なんだ。きっと真っすぐに伸びていて、節があるからそうなったのだとは思うけど、かぐや姫や帝の関係を考えると面白いよね」と、榧守先輩が楽しそうに言った。
「そうだね。他の求婚者たちの節操のなさがより浮き彫りになって面白いよね」と、麻宮先輩。
「へぇー。皆さん、博識なんですね」
佐久野君も私も感心しきりだ。
「そう言われるほどじゃないけど、気になったら何でも知りたくなってしまってね……」と、照れた様子で榧守先輩が言った。
「その気持ち、分かります!」
「森山さんなら、分かってくれると思ったよ!」
榧守先輩は興奮した様子で、私の手を取って握り込んだ。
その様子を横目で見ていた佐久野君が、ぎょっとして、「榧守先輩! 書けました」
と言いながら、私の手から先輩の手を外した。
安城先輩と麻宮先輩の方に目を向けると、二人の顔がニヤニヤしていてなんだか気持ちが悪い。
「森山さんも書けた?」
「はい」
「なんて書いたの?」
「私は『立派な樹木医になれますように』って」
「俺は『木々の立場になって考えることが出来る樹木医になれるように、もっと精進したい』って」
「二人とも真面目だねー」
そう、榧守先輩が子供を見守る親のような温かな顔で言った。
「二人は節度を守り過ぎだよ。もっとくだけた方が人生楽しいと思うけどね」と、麻宮先輩が茶化す。
「アンタはくだけ過ぎ」
そう言って、安城先輩は麻宮先輩を小突いた。
「それじゃあ、短冊を吊るしに行こうか」
榧守先輩に促されて、私達は玄関ホールへと移動する。
「わぁー」
立派な七夕飾りに、私は思わず感嘆の声を上げた。
書き上げた短冊を竹に掛けようと手を伸ばす。
その時、不意に聞こえて来た言葉に、私は思わず瞬いた。
——ネガワクハ ワガイノチガ ムダニハナラヌコトヲ……。
「今のは……」
「どうしたの?」
佐久野君が私の呟きを拾って、尋ねてくれた。
「ううん。何でも無い」
そう言って、私は首を振り、「この竹の尊い願いが叶いますように」と、目を瞑り願った……。
——その日の帰り道、佐久野君の話に私はとても驚くことになった。
「そう言えば、竹の話で思い出した。この前の休日に家族でお墓参りに行ったんだけど、近くの竹林で真竹が花を咲かせていたんだ」
「えっ!? 色々と突っ込むところがあるんだけど、まず、お墓参りって?」
「ああ、言ってなかったかな? その日が母さんの命日だったんだ」
「佐久野君のお母さんって、亡くなってたんだ……」
「うん。三歳の時に病気でね……。俺は小さかったからよく覚えていないんだけど、その時の父さんの塞ぎようはすごかったそうだ。『自分の大切な人も救えなくて、何が医者だ!』って」
「そう……」
「まあ、俺や兄さんがいたから直ぐに自暴自棄からは立ち直ったらしいけどね……」
そう言って、彼は息を吐いた。
「あの、佐久野君。その真竹の花って、私でも見に行けるかな?」
「えっ!? もちろん大丈夫だけど、やっぱり興味ある?」
「うん。だって、開花するのは百二十年に一度とかって言われているでしょう? その後一斉に枯死してしまうし、次に見られる機会があるか分からないじゃない……。そう考えたらとても貴重でしょう?」
「そうだね。幸いこの前見た時が咲き始めだったみたいだし、今度の休日に行ったら見頃になっているかもしれない……」
——休日になり、駅で待ち合わせていた佐久野君と一緒に竹林へ向かう。
電車内はいつも乗っている路線とは違うからか、それとも休日の所為か通学時とは違い、ガラガラだった。
「聞いても良い?」
私は、向かいの席に座ってぼんやりと車窓を眺めている彼に声をかけた。
「うん?」
「佐久野君のお母さんって、どんな方だったの?」
「そうだね……。俺も三歳だったからあまりよく覚えてないんだけど、父や兄の話だと、見た目は儚げで華奢な感じだけど、中身は竹を割ったような性格で芯がしっかりとした人だったらしいよ」
「へぇー」
「そうだ! 今から向かうところは、母の墓所だけど、育った所でもあるんだ」
「どういうこと?」
「母は捨て子だったらしい」
「えっ!?」
「今から向かう竹林で泣いているのを近くのお寺で住職をしていた俺の祖父母に拾われて、養子として育てられたんだ」
「なんだか、かぐや姫みたいな話ね」
「そうだね。実際、そう呼ばれていたらしいよ。ただ、母はその呼び名が嫌だったみたいで、『私はかぐや姫みたいに絶世の美女ではないし、月の住人じゃなくて人間なのに』って。『帰る場所なんて、ここ以外どこにも無い』と祖父母に言っていたそうだよ」
「そう……」
「祖母は母が高校生の時、祖父は二年前に亡くなっていて、今は祖父母の甥がお寺の管理をしているから、当時のことを詳しく知る人がいないんだ。……それで、森山さんさえ良ければ、母が捨てられた時のことを竹に聞いてみてもらえないかな?」
「いいけど、やっぱり気になる?」
「うん。祖父達も警察に届けたりして母の身元を調べていたんだけど、結局、分からなかったそうなんだ。そのこともあって、余計に『かぐや姫』じゃないかって話になったらしい……」
彼のお母さんやご家族の話を聞いていると、あっという間に目的地へと辿り着いた。
「すごい! 本当に花が咲いてる!」
滅多に見られない光景に、私の心はふわふわとして夢心地となった。
口からは感嘆の溜め息がこぼれる。
「それにしても竹林の規模もスゴいね……」
「ここら一帯の竹林は、お寺の敷地なんだって」
「へぇー。花が咲いている真竹だけじゃなくて、黒竹に布袋竹まで生えているのね! あっ! こっちには、淡竹も!」
「どうやら母はこの辺りの淡竹の側で泣いていたそうだ」
「そうなの? 一説にはかぐや姫がいた竹は淡竹ではないかって言われているから、益々『かぐや姫』みたいだね」
私は息を吸って、少し大きな声で竹へと話しかけた。
「あの! どなたか五十年程前にここにいた赤ちゃんのことを知りませんか?」
その途端、カサカサと葉が揺れ、皆で囁き合っているかのような音が聞こえて来た。
「うん? 赤子と似た気配を感じる」
「分かるんですか!」
一番近くの淡竹の言葉に、私は思わず聞き返す。
「ああ。お前達は、あの赤子と同じ清廉で高潔な氣に包まれている」
「スゴい! 俺にも言葉が分かる!」
「えっ!! ウソ! 佐久野君にも竹の言葉が分かるの?」
「うん。どうしてだろう?」
「それは、我が聞こえるように話しているからだ。あの赤子の血縁と直接話したかったから力を使った。この力は滅多には使わぬ」
「そうですか……。ありがとうございます」
彼は、何とも言えない複雑な表情でお礼を言った。
「あの。母は、赤ちゃんは祖父が見つけるまで、この辺で泣いていたと聞きました。誰がここに連れて来たか、そして置いて行ったか分かりませんか?」
「誰かは分からぬが、お前達よりも年を取った女だった」
「もっと、何か特徴とか分かりませんか?」
「そう言われてもな、すぐに姿が消えてしまったし、何十年も前のことだからなぁ……」
「『消えた』ってどういうことですか?」
「赤子を抱えた女が赤子を置くと、スッと姿が消えたのさ」
「失踪したとかではなくて、存在そのものが消えてしまったということ?」
「ああ。そこで気配が消えてしまったからね。だが、あの者は赤子の母親ではない」
「えっ? どういうこと?」
「二人から血の繋がりが全く感じられなかった。おそらくだが、あの者は母親から赤子を奪ってここに置いていったのだろう」
「なんてことを……」
「そもそも、あの者からは人の気配が感じられなかった。強い憎悪、嫉妬、後悔と揺らぎが感じられたから、怨霊とかそう言った類いのモノだったのかもしれない……。殺さずに置いていっただけ、良かったと思うしかない」
「そんな……」
「元々、殺す気までは無かったのかもしれないな。我ら竹には浄化の力がある。自分の醜さを持て余して、自分ではどうすることも出来ずに、一縷の望みをかけてここに辿り着いたのかもしれない。そして、怨恨、怨嗟の塊は我らの力で浄化され、消えてしまった」
「そんなことってあるのか?」
彼は、「とても信じられない」というような様子で呟いた。
「まるでおとぎ話のようね……」
「まあ、こうして竹と話せていること自体がおとぎ話みたいだけどね……」
「確かに……」
「『願わくは、哀れな赤子に祝福を与え賜え……』と、我らはずっと祈願し、あの赤子を見守っていた。だが、寿命はどうにもならなかったようだな。短い一生が幸福であったなら、そして我らの近くで安らかに眠ってくれていれば良いのだが……」
「そう、ですね……」
私は、彼の顔を窺いながらそう言った。
彼は、ぼんやりと何かを考え込んでいるようで、その後、何も話さなくなってしまった。
結局、彼の母親の出自に繋がる情報を得ることは叶わないまま、帰る時間となった。
帰り道、彼に何と言って声をかけたら良いか分からず、彼からも声を掛けられることはなく、私達の間には沈黙が漂っていた。
それでも、彼は私を家まで送ってくれた。
私は沈黙を破るのに、やっとの思いで声を発する。
「今日はありがとう。また学校でね」
手を振ろうと上げかけると、彼が私の腕を掴み、真剣な顔をして、私の目をじっと見つめてくる。
その彼の行動に困惑し、心臓が跳ねる。
次の彼の言葉に私の混乱は益々深まった。
「俺、森山さんのことが好きだ」
「えっ!?」
「ごめん。森山さんが、俺のことを友達として見ているのは分かっているんだ。でも、伝えずに後悔したくなくて……。森山さんを困らせるつもりは無いんだ。どうしても、友達にしか見られないなら今まで通り友達として接してほしい。……でも、恋愛対象として見てくれるなら付き合ってほしい」
「佐久野君……」
「今すぐに返事が欲しいとは言わないから、少し考えてみて」
「……うん。分かった」
その言葉を聞いた彼が安堵した様子で、息を吐いた。
「じゃあ、また明日、学校で!」
彼はそう言って、名残惜しそうに私の手を離し去って行った。
「佐久野君が私のことを好き?……そう言ったの?」
私は、去って行く彼の後ろ姿を呆然と眺めていた。
そうして立ち尽くしていると、「お帰りなさい。そんなところで、ボーっとしてどうしたの?」と、後ろから声を掛けられた。
驚いて、無意識に肩が跳ね上がる。
「お母さん! 何でも無いの!」
私は慌てて家の中に入った。
後ろからは、「変な子」と言う母の呟きが聞こえて来た。
慌てて部屋まで走ったからか、扉を閉めて立ち止まると急に動悸が激しくなる。
「私、どうしちゃったの?」
この胸のドキドキが走ったからや動揺からだけではないことは何となく分かる。
それでも、他に何を意味しているのか考えるのが怖くなり、その場に蹲った。
この時の私は、なぜだか、まだこの気持ちに名前を付けたくはなかった……——。
お読み下さり、有難うございます。