第四話 紫陽花の精霊
——キミガノゾムノナラ……——。
「森山さん! ちょっと待って!」
その日の授業が終わり、佐久野君とは別れて玄関の方へと急いでいた私は、同じ学部の先輩に呼び止められた。
「教授から伝言があるんだ……」
言付けを聞き終え、玄関へと足を動かそうとしたところで、今度は乃愛に声を掛けられた。
「樹希!」
「乃愛!」
「樹希の姿が見えたから、勝手に入って来ちゃった」
彼女は悪びれること無く、軽い調子でそう言った。
高校で同じクラスだった彼女は、別の大学の経済学部へと進学していた。
なぜ別の大学に通う彼女がいるかと言うと、この日の放課後に、学校を案内する約束をしていたからだった。
「ねぇ樹希! 今の人、誰?」
「同じ学部の先輩だよ。教授からの伝言を届けてくれたの」
「格好良くない? 今度紹介してよ!」
「えっ!? そんなに親しいわけじゃないんだけど……。それに、松本君は良いの?」
松本君と彼女は、高二の時から付き合っていて、ベストカップルとして校内では有名だった。
「良いも何も、あいつとは別れたよ」
「嘘!? なんで?」
「遠距離になってから、なんか電話でも余所余所しくってさ。段々向こうからの電話も来なくなって、怪しいとは思っていたんだ。それで、ゴールデンウィークにアポなしで会いに行ったら……」
「どうしたの?」
「あいつ、浮気していたんだ。それで、その場で速攻別れた」
「そうだったんだ……」
彼女のことが心配になり、様子を窺うと、すっかり吹っ切れて清々しいといった感じの顔をしていた。
「乃愛が辛い時に、力になれなくてごめん……」
彼女が私に心配をかけないように、黙っていたことが容易に分かって、自分の頼りなさに悔しさが込み上げてくる。
「そんな顔をしないでよ。もう終わったことなんだから。……それに、樹希と他愛ない話をするだけで十分元気付けられたんだよ、私は」
そう言った彼女の優しさに、何だか無性に泣きたくなった。
「樹希こそどうなの? 最近、佐久野君の話ばっかりしているけど」
突然の話題転換に、しんみりしていた心が動揺する。
「えっ! どうもしないよ? 私、そんなに佐久野君の話している?」
「うん。二言目には、『佐久野君が……』って言っているよ」
「嘘……」
「あれだけ話していて自覚無いとか、どれだけ鈍いのよ。まさか、何とも思って無いとか言わないよね?」
「それは……」
「はぁー。可哀想、佐久野君。……じっくり自分の気持ちと向き合いなさい。少なくとも、彼のことを好ましくは思っているわけでしょう?」
「……う、ん……」
「その気持ちがどういうものか、頑張って考えてね!」
そう彼女に言われて思考の迷路に迷い込もうとしていた時、視界の片隅に見覚えのある人物が写った。
「あっ!!」
思考は飛び去り、思わず彼女の向こう側にいるその人物を凝視してしまった。
「どしたの?」
「知り合いがいたの! ちょっとごめんね!」
「あっ! ちょっと!」
「学校案内はまた今度! 後で連絡するから!」
「樹希!」
後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえたが、そのまま紫さんと思われる人の所へと駆けて行った。
「紫さん!」
「あら、もしかして森山さん? どうしてここに?」
「四月からここの学生になったんです。紫さんは?」
「私はここの研究室の手伝いを頼まれてしまって仕方なく来たのよ。」
「そうなんですか。お会いできて嬉しいです。あの時は、連絡先を聞きそびれてしまって、残念に思っていましたから……」
私は、ずっと気になっていて、彼女に会えたら一番に聞きたかったことを尋ねた。
「あの、紫さんも精霊の血を引いているんですか?」
「いいえ。両親ともただの日本人よ」
「それなら、どうして言葉が分かるんですか?」
「話すと少し長くなるんだけど……」
「私は、大丈夫なので、紫さんのご都合が良ければ教えていただきたいです」
「そう。分かったわ。ここでは話しにくいから、外で話しましょう」
私達は、人の少ない裏庭の方へと移動した。
空いているベンチに腰掛けると、彼女は一息ついてから話し出す。
「ふぅ……。私の母親は紫陽花が大好きでね。娘の名前まで紫陽花って漢字にするんだから困ったものよね」
彼女は苦笑した。
「そういうわけで、家の庭の至る所に紫陽花が植えられていたわ。……ところが、ある年に前の年まで紫色に綺麗に咲いていた紫陽花の一つが、緑色になっていたの。……アジサイ葉化病ね」
「それじゃあ、その紫陽花は……」
「ええ、その株は根っこから掘り起こして、焼却されたわ」
「そんな……」
「他の紫陽花に移らないようにするには仕方がなかったのよ。……でも、その夜から私は奇怪な夢に悩まされるようになった―—」
——ドウシテ タスケテクレナカッタノ?
ズット タスケテッテ イッテイタノニ……
——あなたは誰なの?
——ワタシハ……——
「その夢を見た後から、起きている時にも生者以外の者が見えたり話し声が聞えたりするようになったの。この時の私は、まだ十三歳の少女だったわ。とても正気でいることが出来なくなって、家に籠るようになった」
「両親は、色々な医師に往診をお願いして、診てもらったけれど原因は分からなかった。それはそうよ。こんな非科学的なこと、誰が説明できる? そんなある日、夢の中の声の主が姿を現したの―—」
——ワタシハ ハルカヲ クルシメルツモリハ ナカッタ
タダ シッテホシカッタダケ……ゴメンナサイ……
ワタシハ モウスグ キエル ダカラ モウダイジョウブ―—
「そう言って、姿が薄くなっていった。……その時に思わず私は言ってしまったの―—」
——あなたは消えたらどうなるの? もう会えないの?
「って。フフ……。私、その霊体だか精神体だかの姿に一目惚れしてしまったのよ。バカみたいでしょ?」
「そんなこと……」
「それで、紫陽花としての実体が無くなってしまった精霊が言ったのよ―—」
——キミガノゾムノナラ キミノナカデナラ イキルコトガデキル
「って」
「それはどういう……?」
「憑依するということだったわ」
「憑依!?」
「そう。私はそれを望んでしまった。……それから、私の身体はその魂の憑坐となり、同居しているの」
「身体は大丈夫なんですか?」
「大丈夫ではないわね。多分、普通の人より寿命は短いと思うわ。それでも、後悔はしていない。例えこの手で触れることが叶わなくても、いつでも存在を感じることが出来る。それだけで心が満たされて幸せなのよ。きっと分からないわよね?」
「そう、ですね。……私にはよく分かりません。でも、紫さんが幸せならそれで良いのかもしれませんね」
「フフ。ありがとう」
「こちらこそ、話して下さって有難うございました。紫さんの不思議が分かって良かったです。これからも、樹木医の先輩として色々とご指導いただけたら嬉しいです」
「ええ。あなたは、樹木医にぴったりだと思うわ。だから、勉強、頑張ってね!」
「はい!」
それから、連絡先を交換して彼女と別れた―—。
* * *
「ねぇ、あなたは幸せ?」
——ハルカガ シアワセナラ ワタシモ シアワセ
「狡いわね」
私がそう言うと、溜息をついたような気配が感じられた。
「私はあなたに感謝しているのよ。あなたの存在が、私の生きている意味だと思うから……」
——ソレハ イイスギ
ワタシハ ハルカノタメナラ イツデモ キエル
ダカラ ワタシデハナク オナジニンゲンノハンリョヲ ミツケルベキ
「残酷なことを言うのね」
——ワタシハ コノママ ハルカノジュミョウヲ ウバイツヅケルノガ ツライ
「私はあなたの存在が消えるのに耐えられないわ。だから、死ぬまでずっとあなたといるわ」
——ソウ……——
* * *
紫さんの不思議な雰囲気は、紫陽花の精霊が憑依している所為だったのね……。
「森山さん!」
「えっ!? 佐久野君? どうしたの? もう帰ったと思ってた……」
「少し心配で待っていたんだ。花木さんも心配していたよ」
「乃愛に会ったんだ!?」
「うん。花木さんは用事があって先に帰ったから、良かったら一緒に帰ろう?」
「うん」
「ねえ、佐久野君。樹木と会話が出来る力が手に入るとしたら、欲しいと思う?」
「どうしたの? 突然……」
「さっきね、紫さんて人に会ったんだけど、彼女は樹木医の先輩でね……」
「うん」
「私と同じで樹木と会話が出来るのよ。でも、その方法が自分の寿命を縮めているの」
「俺は、寿命を縮めてまでは欲しくないかな。だって、会話が出来なくても心を通わせることは出来ると思うし、その反対で言葉は通じても心が通わないこともあるだろう?」
「そうね。……佐久野君は私のことを気味が悪いとか、嘘つきだとは思わないのね」
「そんなこと思わないよ。もちろん不思議な力があるのは嘘ではないって分かっているし、スゴいとは思っても気味が悪いだなんて……」
「フフ。ありがとう。佐久野君は優しいね」
「えっ!? いや、そんなことないけど……」
そう言って、耳を赤くし、照れた様子の彼を少しだけ可愛いと思った。
「ねぇねぇ、紫陽花の花言葉を知っている?」
「ごめん。知らないよ」
「『乙女の愛』、『辛抱強い愛』、『一家団欒』、『移り気』、『浮気』、『冷酷』、『無情』。百八十度も違う意味があるのよ。面白いと思わない?」
「そうだね」
「一体、本当の紫陽花の姿はどれなのかな?」
そう言いながら、脳裏には先程の紫さんの姿を思い浮かべていた……―—。
お読み下さり、有難うございます。
<登場人物紹介>
森山樹希……主人公。大学一年生。柳の精霊の血を引く。樹木医を目指している。
花木乃愛……大学一年生。樹希の友人。樹希とは別の大学の経済学部に通っている。
佐久野剛……大学一年生。樹希と同じ高校出身で大学は同じ農学部。佐久野病院長の次男。
紫陽花……樹木医。樹希と同じ大学の卒業生。
紫陽花の精霊……今は精神体だけが存在し、紫陽花に取り憑いている。性別は無い。