第三話 杉の精霊
——ナニヲスル イタイデハナイカ……。
——ヤメヨ ユルサヌゾ……。
「森山さん。顔色悪いけど、大丈夫?」
朝、大学で会った佐久野君が、眉を八の字にして尋ねてきた。
「ええ。ちょっと夢見が悪かっただけだから……」
「本当に?」
「心配してくれてありがとう。さすがお医者様の息子ね!」
「茶化さないでよ」
彼は呆れた様子で嘆息した。
「そういえば、ずっと気になっていたんだけど、佐久野君はどうして私のことを知っていたの? クラスも違ったし、会ったのもあの時が初めてだったよね?」
「今、その話をする?」
「だってやっぱり気になって……」
私は聞いては駄目だったのかと、シュンとしてしまった。
「うっ、……その顔は卑怯だろう……」
彼が顔を覆って、何か呟いた。
何故か耳が赤くなっている。
「えっ? 何?」
「はぁー、森山さんは自覚ないみたいだけど、ものすごくモテるんだよ。なのに、高嶺の花過ぎて誰も声を掛けられないという、男子の間では有名人だったんだ。卒業式の時も、皆で牽制し合っていて誰も告白できないうちに、森山さんが帰ってしまったんだよね。その時の男たちの様子は、悲惨の一言に尽きたよ」
彼はそう言って、肩を竦めた。
「何それ? そんな事言われても困るんだけど……」
私は困惑して、思わず眉を寄せてしまった。
「まあ、森山さんは気にすることないから。今まで通りでいてね」
「えっ。聞いといてなんだけど、知ってしまってそのままっていうのは無理だよ。でも、終わってしまったことはどうしようもないから、気にしないことにするけど……」
恨みがましい思いを込めて、私はジト目で彼を見た。
「ふふっ。森山さんならそう言うんじゃないかと思ったよ」
「佐久野君って、最近ちょっと意地悪になってきたんじゃない?」
「えっ!? そうかな? …………好きな子には意地悪したくなるってやつかな……」
「うん? よく聞こえなかったんだけど、何て言ったの?」
「いや、なんでもないよ!」
「変な佐久野君」
その後、講義を受け、昼食の時間になった。
食堂で彼と食事していると、少し派手な格好をした女子が近づいて来た。
「ねえ、隣良いかな?」
彼女は彼に向かって尋ねた。
彼が、私を見て「どうする?」と言った様子で目配せしてきた。
特に断る理由もなかったので、私は肯定の意味を込めて軽く頷いた。
それを受けて、「どうぞ」と、彼が彼女に向かって言った。
「ありがとう。私は、二年の笠原英玲奈って言うの。よろしくね」
彼女は満面の笑みを湛えて、彼に向かって自己紹介をした。
その後も彼女は、私の存在を無視して彼に話し掛けた。
彼は困った顔をして、私の方を気にしながら彼女の相手をしていた。
さすがの私も彼女の意図することが分かってきて、なんだか不愉快な気分になる。
「佐久野君。次の講義の準備をしたいから、先に行くね」
そう言って、席を立った。
「あっ、森山さん待って! 俺も一緒に行くよ! 笠原先輩。それじゃあ、お先に」
「えっ! 佐久野君、待って!」
彼は彼女を振り切って、私に追いついてきた。
「良かったの?」
「もちろん。正直言って困っていたんだ」
「本当に? 満更でもなさそうだったけど?」
「もしかして、ヤキモチ焼いてくれてる?」
なぜか彼の目がキラキラと輝いているように見える。
「そっ、そ、そんなわけないでしょ!」
顔に一気に熱が集まるのを感じた私は、狼狽えてしまった。
その後、何とか気持ちを落ち着けて、午後の講義を受け、家路についた。
私は、その夜も夢を見た―—。
——ナニヲスル イタイデハナイカ……。
——ヤメヨ ユルサヌゾ……。
ワタシ ハ イツキ。
アナタ ヲ タスケタイ……ダカラ イバショ ヲ オシエテ。
——ワレハ……————
目覚めた私は、カーテンの隙間から朝日が差す窓の方へと目を向ける。
「はぁー、良かった。あそこだったのね……」
私はその日、学校が終わってからその場所へと急いだ。
「ここの神社であっていると思うんだけど……。どの樹かな?」
「もっと山の方だよ」
「えっ!?」
私は驚いて辺りを見渡した。
「もしかしてあなたが教えてくれたの?」
「うん」
それは、まだ数年ほどしか経っていない杉の若木だった。
「僕のご先祖様が苦しんでいるんだ。助けて……」
「分かったわ」
私は若木に向かって微笑んだ。
「ありがとう」
そう言った若木も、微笑んだような気がした。
「よし!」
私は気合を入れて、山道を登る。
暫く歩いて行くと声が聞こえてきた。
「うう、痛い……」
「えっ!? まさか……」
「助けてくれ……」
「なんて罰当たりな! 御神木にこんな事をするなんて!」
すぐに止めさせないと……。
でも、待ち伏せするにしても参拝時間外の深夜にこの神社の敷地に入るのは不法侵入になってしまうし、どうしたらいいのかしら……。
「そこな娘。氣を分けてくれ」
「あっ、はい。分かりました」
私は畏れ多く思いながら、さくのさんの時と同じ要領で御神木に触れ氣を送った。
えっ!?
御神木に氣を送った瞬間、頭の中に映像が流れ込んできた。
「嘘!? 笠原先輩?」
彼女が一心不乱に藁人形と御神木に太い釘を打ち付けている。
その表情が鬼気迫っており、私は恐怖し御神木から手を離そうとした。
だが、その瞬間に頭の中に彼女の呪詛の言霊が流れ込み、愕然とし身体が固まってしまった。
——森山樹希、死ね! 死んでしまえ! 消えろ! いなくなってしまえ……——
どうして?
私、何か恨まれるようなことをしてしまったの?
「柳の精霊の血を引く娘。そなたは何も悪く無い。助けてくれて感謝する。もう少しで穢れきって闇へと堕ちるところであった」
「そうですか……。お助けすることが出来て良かったです」
「そなたが少し穢れてしまったようだ。すまない。この裏手に、穢れを払う聖なる泉がある。そこの水を口に含むと良い」
「分かりました。今日はこれで失礼します」
泉を目指しその場を後にする。
疲弊しきっていた私は、彼女の行為を止める方法を考えることは後回しにした。
「わー、綺麗……」
泉に辿り着いた私は、引き寄せられるように澄んだ泉の水を掬い、口に含んだ。
「美味しい……」
その水はとても甘露で、擦り切れていた心が一気に潤った感覚を味わった。
私はその場で伸びをして、清浄な空気を胸一杯に吸い込み、さらに自分を落ち着ける。
どうして笠原先輩が私に死んで欲しいのかは分からないけれど、何とかしないと……。
このままだと、この清浄な場所が穢されてしまう……。
それに、彼女もずっと穢れたままだと、病んでしまうんじゃないかな?
——結局、その夜もいつもの夢を見た……。
「どうしたら彼女を止めることが出来るのかな……」
私は重い頭を起こして、何とか支度し、学校へと向かった。
「森山さん。昨日よりさらに顔色が悪いみたいだけど、大丈夫なの?」
「佐久野君……」
頭が働かず、手詰まりを感じていた私は、彼に昨日のことを全て話した。
「森山さん。なんて無茶をするんだ! 無事でよかったよ」
「どうしたら彼女を止めることが出来ると思う?」
「俺に任せて。森山さんは、休んだ方がいいよ」
「えっ、でも……」
「彼女のしていることは、森山さんに心的ストレスを与えて傷つけた脅迫罪に問える、人として最低な行為だからね。それに深夜の参拝時間外に神社に居ることは不法侵入、樹を傷つけるのは器物損壊罪で訴えることが出来ると思う。警察に任せたらどうかな?」
「そうかもしれないけど、さすがにそれは可哀想かなって……」
「はぁー、森山さんは優しいを通り越して甘いよ。俺は彼女の行為は許せない。一度痛い目に合えばいいと思うよ」
「それでも、やっぱり理由も気になるし、改心させることが出来るかもしれないから、現場を押さえたらどうかと思ったんだけど……」
「森山さん……。はぁー、分かったよ。俺も付き合うから一人で行ったりしないで」
「分かった」
「神社の方には僕から連絡しておくから、森山さんは夜まで休んで、体調を万全に整えて」
「うん。ありがとう」
講義の終わる時間まで、医務室で休んでいたお陰でだいぶ回復した。
佐久野君がわざわざ医務室まで来てくれた。
「森山さん。気分はどう?」
「大分良くなったよ」
「そう。確かにさっきより顔色は良くなっているよ」
そう言って、彼は微笑んだ。
「じゃあ、腹ごしらえをして神社に行こうか?」
「うん」
神社につくと、神主さんが社務所に案内してくれた。
「昔から丑の刻参りがあって、困っていたんだ。警察もたまに巡回してくれるんだけど、中々犯人が捕まらなくてね。防犯カメラの設置も検討していたんだけど、うちの御神木があるは結構山の方だからね。見つけて駆けつけても間に合わないだろう?」
「そうですね……」
「君たちみたいな若者が、巡回を買って出てくれて助かるよ」
「いいえ」
「だけど気をつけてくれよ。人を呪うような奴だ。何をするか分からないからな。危なくなったら直ぐに逃げてくれ」
「はい」
「今晩は私もここに泊まるから、何かあったら声を掛けて。それから、これを持って行きなさい。風邪を引かないようにね」
神主さんは、そう言って毛布と敷物に懐中電灯、犯人を縛るためのロープを貸してくれた。
私と彼は、それを受け取り御神木へと向かった。
「この辺りで、待ってようか?」
「うん」
敷物を敷いて座った。
「まだ時間があるから、森山さんは寝ていていいよ。まだ本調子じゃないでしょ?」
「ありがとう。……そうだ! 佐久野君。この先に泉があるんだけど、そこの水を飲んだら回復するかも」
「本当?」
彼が疑わし気な目を私に向ける。
「本当よ。この前はそれで回復したもの」
「そう? なら飲みに行こうか」
そう言って、立ち上がった。
泉に着いた私達は、水を掬って飲み込んだ。
「本当だ。すごい! 山登りの疲れが一気に取れた」
彼の目が精気に満ち、輝いた。
「でしょ? 私もすっかり良くなったわ。二晩だって徹夜できそうよ」
「それは言い過ぎでしょう……。でも、元気になって良かったよ」
「ふふ」
彼の優しさに、思わず笑みが込み上げてきた。
彼が目を見開いて、唾を飲み込んだ。
「森山さん。あのさ……、こんな時に言うことじゃないとは思うんだけど、俺……」
——オオーン
その時、獣の鳴き声が山に響き渡った。
「えっ!? 何? 狼?」
「……ニホンオオカミって絶滅したんじゃ……。取り敢えず御神木のところまで戻ろうか?」
「うん」
私は、無意識に彼の裾を掴んだ。
「大丈夫だよ。俺が守るから」
彼はそう言って、裾を掴んでいた私の手を取り、ギュッと握って歩き出した。
私は自分の鼓動の速さが恐怖や緊張からなのか、それとも別の理由から来ているのか分からなくなっていた。
敷物のところまで戻った私達は、手を握ったままお互いに無言でその場に座った。
この世界に二人だけになった感覚に陥っていた私の耳には、樹々のざわめきも鳥や獣の鳴き声も届いてはこない。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
そんな何とも言えない静寂を、「ポキッ」という枝を踏む音が破った。
「来た」
彼が小さく囁いた。
私は彼の方を見て頷いた。
私達はそっと立ち上がり、様子を窺う。
笠原先輩は藁人形と五寸釘、金槌を出し御神木に打ち付けようとした。
その手を慌てて近寄った彼が掴む。
「誰!? 何するのよ!」
彼女は怒声を発しながら、振り返った。
「佐久野君!? どうして?」
「笠原先輩。こんなことは止めるんだ」
「なんで!? どうして……」
彼女は錯乱した様子で、呟く。
「笠原先輩。どうしてこんなことをするの?」
「!!」
彼女は初めて私の存在に気付いた様子で、目を見開いた。
「森山樹希! お前さえいなければ!」
私のことをすごい形相で睨みつけた彼女を、彼が押さえつけてロープで縛った。
「佐久野君……。どうして……?」
彼に縛られ、身動きできなくなった彼女は、悲しそうに彼を見る。
「笠原先輩。あなたのしていることは犯罪だよ。それに人として許されることじゃない。それを分かっているの?」
彼の言葉に、彼女は苦虫を噛み潰したような顔をした。
その顔を見て、私は黙っていられなくなり、口を出す。
「杉は生命力が強くて、寿命も五千年とかって言われているけど、傷つけられれば痛いし、切り倒されたら精霊は変質してしまうか、消滅してしまいます。あなたのしたことは、私への脅迫だけではなく、この杉への傷害もなんですよ」
「何言っているの? 傷害じゃなくて、器物損壊でしょ?」
「……そうですね。あなたには杉の痛みや苦しみは分からないでしょうね」
私を馬鹿にしたような彼女の顔を見て、説得することを諦めた。
「森山さん。彼女はこのまま神主さんに引き渡そう」
「そうね……」
私はやるせない気持ちになり、半ば投げやりに答えた。
彼はそんな私を痛ましげに見遣り、「行こう」と言った。
私達は社務所にいた神主さんに事情を説明し、彼女を引き渡した。
それから、荷物を取りにもう一度御神木のところに戻った。
私は御神木に話し掛ける。
「もう彼女は来ないと思います。……でも、この忌まわしい呪法を試みようとする愚か者はまた現れるかもしれない……」
「そうだな。我に釘を差して人の不幸を願うなど、愚か者のすること。自らを穢して幸せになれるはずなどなかろうに……」
私の心に御神木の嘆きが木霊する。
「本当に。人間はどうしてこんな愚かなことをするのかな……」
「森山さん……」
「あっ。ごめん。佐久野君は違うよ。そうよね。全ての人間がそうではないわよね。そう思ってもいいのかな?」
「俺はそう思っているよ」
「我はそなたに助けられた。我を神と崇め奉り、慈しむ人間たちも居る。一概に言えることではない」
「……そうですね。ありがとうございます」
その後、彼女は警察に引き渡された。
このことが翌日には学内の人々の耳に入って噂が広がり、居づらくなった彼女は退学してしまったようだった。
「これで良かったのかな? 何だか後味が悪いわ……」
「因果応報。自業自得。人を呪わば穴二つだよ。だから、森山さんが気に病む必要は全く無いからね」
「うん……」
あれから私は、杉の御神木の夢を見ることはなくなった。
だが、心にはいつまでも御神木の言葉が木霊していた―———。
お読み下さり、有難うございます。
<登場人物紹介>
森山樹希……主人公。大学一年生。柳の精霊の血を引く。樹木医を目指している。
佐久野剛……大学一年生。樹希と同じ高校出身で大学は同じ農学部。佐久野病院長の次男。
笠原英玲奈……二人と同じ大学の二年生。佐久野剛に好意を寄せている。
神社の神主さん……丑の刻参りに迷惑している。五十代の男性。
杉の御神木……樹齢千年を超える大樹の精霊。
杉の若木……御神木の血を受け継ぐ若い精霊。