第一話 柳の精霊
——タスケテ……。
アナタ ハ ダレ……?
夜毎見る夢の中で、誰かが私に助けを求める。
目覚めた後、私はなぜだか裏山にある「入らずの森」のことがいつも気になってしまう。
私の生家は昔、この辺一帯を管理している大地主だった。
昔より土地は減ったが、「入らずの森」がある裏山一帯は、未だに我が家の所有地だ。
「入らずの森」には、精霊が棲むと代々語り継がれている――。
高校二年生のある日、学校からの帰り道に、この辺では見かけない美人に道を尋ねられた。
「あの、すみません。あの山の持ち主の森山さんにお会いしたいのですが、ご存じですか?」
「はい。あの、どういった御用でしょうか?」
私は思わず、聞き返した。
「あなたは?」
「私は、森山の娘です」
「ああ。娘さんでしたか。すみません。私は、紫陽花と申します。樹木医をしています」
「樹木医ですか?」
「はい。実は、あの山の樹木のことがどうしても気になって訪ねて来たんです」
「えっ!? 父が頼んだんですか?」
「いえ。そういうわけではないのですが……」
言葉を濁した彼女の様子がとても慈悲深いものに見え、気付いたら、「あの、私で良かったらご案内します」と、口に出していた。
「良いんですか?」
彼女の魔力のようなものに飲まれ、私は操られるように案内していた。
森の入口まで来た時に、我に返った私は、「あの、もうすぐ日が沈みます。暗くなってから森に入るのは危険です!」と、彼女に向かって言った。
「そうですね。彼女の様子だけでも知りたかったのですが、明日の朝にしましょう」
「彼女?」
不思議に思った私は、聞き返したが、笑顔ではぐらかされた。
「あの、今晩なんですけど泊めていただくことは出来ませんか? 近くに宿屋もないみたいですし、申し訳ないとは思うのですが……」
「分かりました。多分大丈夫だと思います」
そう言って、彼女を自宅へと連れて行った。
私は玄関の戸を開け、おそらく台所で夕飯の用意をしていると思われる母に向かって、大きめの声で「ただいま」を言う。
「お帰りなさい。遅かったわね」
「お母さん。お客様連れて来たから、泊めてあげて」
「お客様?」
そう言って、母が玄関まで出て来た。
彼女の方に目を向けた瞬間に、母は瞠目したようだった。
「まあまあ、随分と綺麗な方ね」
「初めまして。紫陽花と申します。よろしくお願いします」
「どうぞ入って。大したおもてなしも出来ませんが、部屋は沢山ありますから、ゆっくりしていって下さいね」
「有難うございます。お世話になります」
父も仕事から戻り、その日の夕飯は細やかな晩餐となった。
「そうですか。紫さんは、各地を転々として樹木の診察と治療をしておられるのですか。素晴らしいですね」
彼女の話を聞き、父が感嘆した様子で相槌を打つ。
「そんなに感心されるようなことではないですよ。自分に出来ることをしているだけですから」
彼女は、少し照れた様子で言った。
「どうして樹木医になろうと思ったんですか?」
進路を迷っていた私は、興味津々で尋ねた。
「そうですね……。こんなことを言うと頭がオカシイと思われるかもしれませんが、私には樹々の声が聞えるんですよ」
「えっ!?」
私達は、驚いて顔を見合わせる。
父と母は、口をぽかんと開けていた。
「ふふ。それで、声の聞こえる私が彼らを救わなければって、使命感にかられて樹木医になったんです」
「すごいですね……」
「そんなことはないですよ。実際は、私が診た時にはすでに手遅れだったり、手をつくしても結局、人間の勝手で切り倒されてしまったりして。そういったことで自分の無力さに歯噛みし、何度も挫けそうになりました」
そう言いながら、彼女は顔を歪める。
「それでも、『助けて』って声が聞こえてくる限り、辞められないんですよ」
「あの、もしかして入らずの森からも声が聞こえてきたんですか?」
「入らずの森?」
「ああ、先程の森のことです。精霊が棲み、神隠しにあうから入ってはいけないって言われています」
そう彼女に説明した。
「へえ、そうなんですか。そうですね。声はその森の方から聞こえてきました」
「そうですか……」
「紫さん。訪ねて下さって有難うございます。お恥ずかしい話ですが、私は樹木のことはさっぱり分からなくて……。この家を継いでからも、仕事仕事で山の管理は後回しで、父が亡くなってからは誰も手入れしていないんですよ」
父が申し訳無さそうに言った。
「そうですか。……明日、山の方に入らせてもらっても大丈夫ですか?」
「良いんですか? でも、もし神隠しにあったら……」
「大丈夫ですよ。それはきっと森に入って欲しくない人が言い出した迷信ですよ」
「そうおっしゃっていただけるのでしたら、ぜひお願いします」
「そうしていただけたら、本当に有難いです」
「よろしくお願いします」
私達は、彼女の申し出に喜色満面に頼み込んだ。
彼女も笑顔でこたえてくれる。
「分かりました。樹木の様子を診させていただきます」
こうして、話がまとまった晩餐の後、順番に入浴を済ませ寝床に就く。
その夜、珍しく私はいつもの夢を見なかった。
だから、夢の中の声の主が紫さんの夢に現れて話していたことを私は知らない――。
——私はもう助からない。でも、最期に会いたい。私とあの人の血を継ぐものに……。
「そう。分かったわ」
――翌朝、森に向かう紫さんから懇願されたこともあり、私も一緒に行くことになった。
森は、二人を待っていたかのように迎え入れてくれた。
「皆が、歓迎してくれているわ」
「えっ!?」
「ほら、声が聞こえてこない?」
「ずっと待っていたよ!」
「早く、診てあげて!」
「助けてあげて!」
「お願い!」
「あっちだよ!」
次から次へと声が聞こえ、私は困惑した。
「紫さん、誰かいるんでしょうか?」
「この森の樹々の声が聞えるのよ。あなたも、精霊の血を引いているみたいだから」
「精霊の血?」
「そう。その話は後にして、兎に角急ぎましょう。彼女が待っているわ!」
そう言って、紫さんが駆け出した。
私の頭は、著しく混乱をきたしていたが、取り敢えず彼女の後を追いかけた。
枝垂れ柳の近くまで行くと、何年も手入れされていなかったのがよく理解るほど荒れていた。
「これは酷いわ。本当に遅かったのね……」
紫さんが診察しながら零した。
柳は、病にかかっていたそうだ。
「あの、治らないんですか?」
「可哀想だけど、手遅れだわ。随分と我慢していたのでしょうね」
「そうですか……。ごめんなさい。私が、ずっと気づかなかったから……」
私の目に涙の膜が張り、目の前がぼやける。
すると、労うように優しい声が、頭の中に響いてきた。
「あなた達は何も悪く無いわ。私の話を聞いてくれるかしら?」
その言った声は、夢の中と同じ声音でこの柳のものなのだと分かった。
「はい」
私は、零れそうになった涙を拭って頷いた。
——昔々、入らずの森が出来る前、柳の近くに私のご先祖様が住んでいたそうだ。
柳はそこに立ち、ただ生きているだけだった。
ところがある日、そこに住む青年が病気になった。
その治療の為に枝を折られ、彼の身体に取り込まれてから、その彼と心の中で話せるようになったらしい。
だが、彼の病は重く死ぬ前に柳を一目見ようと、庭に出てその側でそのまま息を引き取ってしまった。
柳はいつの間にか彼に心を寄せていたそうだ。
そして、彼を抱くように自分の中に取り込んだ。
彼の父親は、彼のことを必死に探していた。
いくら探しても彼は見つからない。
ある日、柳の根本に赤子がいるのに気が付いた。
父親はその子を彼の生まれ変わりだと思い、拾って育てることにしたという。
その子は、生まれ変わりではなく柳と彼の子供だったらしい。
その子が成長して、亡くなる頃には柳を大切にしてくれる人がいなくなり、柳を切ろうとする者が出てきた。
柳は毎日泣いていたそうだ。
その声を気味悪がった人々は柳に近付かなくなっていった。
そして、長い年月が経ち、柳の周りに木々が生い茂り、「入らずの森」と呼ばれるようになったという――。
「話を聞いてくれて有難う。こうして最期に、彼と私の子孫に会うことが出来て幸せよ」
そして、語り終えた柳は、満足そうに最後の力を振り絞って満開の花を咲かせた。
「綺麗……」
その生命力に満ち溢れキラキラと光り輝く姿は、黄金の羽衣を纏った天女のように見えた。
柳は結実し、微かな風に揺られて柳絮が宙を漂う。
綿雪が舞っているかのような季節外れの様子に、別世界に迷い込んだ心地がした。
夢の様な時間は長くは続かず、力尽きた柳はみるみるうちに枯れていく。
気付かぬうちに私の頬を涙が伝う。
「……さようなら…………」
そうして私は、その場で身動きも出来ずに、ただ静かに佇んでいた。
「ねぇ、見て」
紫さんの言葉で、我に返り、指し示された先に目を向ける。
枯れ木の根本を見た私は、彼女と顔を見合わせて笑った。
一陣の暖かい風が、優しく新芽を撫でる。
そして、枝垂れ柳の大樹がなくなり、あいた空を見上げると茜色に染まり始めていた。
彼女が、新芽の方を見て言った。
「日本には、男性の枝垂れ柳しか居ないと思っていたのだけれど、彼女はいつ来たのかしら? 不思議ね」
私には、あなたも同じくらい不思議です。と、思わず心の中で呟いてしまった。
――山を降りた後、彼女は、「また、何かあったら呼んで頂戴」と言って、颯爽と去っていった。
「えっ!? ちょっと待って! ……行っちゃった。連絡先も知らないのに、どうやって呼ぶんですか……」
私の声は風に掻き消され、彼女に届くことはなかった。
「私にも、なれるかな?……樹木を救うことが出来る人に……」
樹々の囁きが聞こえてきた。
「きっと、なれるよ」と。
お読み下さり、有難うございます。
この物語は、フィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
※ 3/17(土)加筆&下の二文を追記しました。
「柳は結実し、微かな風に揺られて柳絮が宙を漂う。
綿雪が舞っているかのような季節外れの様子に、別世界に迷い込んだ心地がした。」