夕焼けの森
運が悪かった。
まさか、こんなところで遭遇してしまうとは思わなかった。
オレンジ色に染まった夕焼けに包まれた森の中、息も絶え絶えに大きな戦斧を引き摺り歩く青年。左腕は二の腕からおかしな方向へ曲がり、胸には深い裂傷が刻まれ血が留まることなく滴り落ちる、彼の歩いてきた道には赤い血の痕が点々と残されていた。
不思議なことに体の痛みは無い。倒れてしまわないように、逃げられるように、おそらく脳が痛みの信号を遮断しているのだろう。
だが痛みは無くとも、血液を失うことにより遠のいていく意識だけはどうしようもなかった。霞んでいく視界と共に、立ち上がり歩く力も薄れていく。
とにかく遠くへ逃げなければならない。
遠くへ、遠くへ行けば生存率は間違いなく上がる。
ただ、この状態のまま逃げ切ったところで深い裂傷への早急な治療を施さなければ命はない。しかし向かう先は病院でもなければ、人そのものがいない樹海の奥。彼自身が持っている治療の心得はほんの応急手当程度であり、ここまでの怪我を治療する知識も道具も何も持ち合わせていなかった。
人間の天敵、アスラ。
彼はそれに出会ってしまった。
赤い肌、左右3対の計6本の腕、頭には3つの顔、明確な意識を持たずただ人間を殺し蹂躙することを是とする人型生物。
「出会ったら最後、死ぬと思え」
人はこう教えられ、恐怖の対象として認識してきた。
その天敵から、森へ身を隠し、命からがら逃げ出してきたのだ。
彼にとってアスラは倒せない敵ではない。しかしそれは自分を含め戦闘慣れした手練複数人で挑んだ場合の話である。風前の灯の命といえど、すぐ殺されずにアスラの戦闘領域から逃れることができたのはかなり上出来と言えた。
当ても無く、ただ遠くへ離れる。この命を繋ぎとめる何かが見つかるのを期待して。
だが、この深い森で何か救いが見つかるわけも無く、彼はとうとう立ち上がる力すら完全に失い、そのまま前のめりに倒れてしまった。
日も完全に暮れ、夜の帳が下りてくる。
ここまでか。
彼は傭兵だ。生きるため、常に命を危険に晒し戦う。
自らの命と力量、そして報酬を天秤にかけ、どちらも取りこぼさないよう細心の注意を払い上手くやってきたつもりだったが、今回のアスラ出現はその天秤のバランスを崩すには十分すぎるほどの不測の事態、不慮の事故だった。
だがこの仕事をすると決めた時点で、こうなることは覚悟の上だ。
最後の力で寝返りをうち仰向けに体勢を変えると、少しひらけた木々の隙間から満天の星空が眼前に広がる。
星の一つ一つが、今まで自分が関わってきた命のように感じられた。
かつての仲間。葬ってきた敵。この世から消えていったたくさんの命が、今、彼を迎え入れようとしているかのように瞬いている。
残していってしまう仲間の事が心残りだった。
今日共に戦った仲間が明日にはもういないかもしれない。常にその覚悟の上で傭兵稼業に臨んではいたのだが、やはり突然身近な人間がいなくなると多少なりとも動揺してしまう。何人もの仲間を見送ってきた自分にとって、残される側の気持ちは痛いほどによくわかる。
きっと、あいつらなら大丈夫だろう…。今の彼にはそう信じる事しかできない。
自分がいなくなっても、仕事終わりの一杯を今まで通り楽しめるように。そう心から願った。
時間だな…。
視界が段々暗くなっていき、空に見える星空が、端から次々と闇に飲まれていく。
ほどなくすべての光が消え、真っ暗な世界に一人、取り残された――――。
◇◇◇
木々の葉が風に揺れさざめく中、無骨な刀剣を構える少女は深く息を吐くと、ゆっくりと目を瞑った。
瞼の裏に、記憶に刻まれた光景を映し出す。
最愛の母の、最期の姿を。
―――――――
複数の海賊の死体がそこかしこに転がり、辺り一面血の海となっている砂浜。
その中でうつ伏せに倒れていた母は遠目に私の姿を見つけると、人差し指を私の額に向けて微笑んでくれた。
大好きだったその綺麗な人差し指も、顔も、服も、血塗れで。
『くくく、なんだァ? この程度かよォ! ハハハハ!!』
倒れている彼女の傍ら、血がべったりと付着した無骨な刀剣をもてあそび、下卑た高笑いをあげる眼帯を巻いた隻眼の海賊が一人。
―――――――
瞑った目をあけ、正面を見据えた。
今、目の前には母を殺した隻眼の男がいる。
言葉では言い表せないほどの、憎き敵が、いる。
少女の大切な人を、少女の唯一無二の肉親を、少女にとって全てだったただ一人の母を、その命を、奴はあっけなく奪い去っていった。
許せない。決して許してなるものか。母が受けた痛みを、私が受けた苦しみを、何倍にもして返してやる。
考えうる限りに凄惨に、残酷に、今、私のこの剣で。
体を屈め強く地面を蹴り、一気に間合いを詰める。それと同時、目にもとまらぬ速さで相手の右腕へと剣先を突き刺し、そのまま切り上げた。豪快に抉り取られた腕の力は抜け、その衝撃で得物として持っていた刀剣を取りこぼす。少女は間髪入れず身を翻し最小限の動きで背後に回ると同時、剣を太腿へ突き刺し、そのまま水平に力任せに薙ぎ払い両脚共に切り飛ばした。バランスを崩し仰向けに倒れ込んだ敵の肩口を、骨が砕け潰れるほどの勢いで踏みつけ、自らの剣と、そしていつの間にか拾っていた敵が取りこぼした刀剣、その二振りの剣で敵を地面へ磔にするかのごとく、胸へ勢いよく突き立てる。突き立てる。突き立てる。何度も。何度も。
「うあああぁぁぁーーー!!!」
殺した。念願の復讐が今、達成されたのだった。
「だめ…実際の敵は動くんだから、こんなの通用しないっ…」
もう限界を感じていた。こんな動かない、木人相手のトレーニングでは。
乱れた息を整え立ち上がり、斬りつけ穴だらけになった木人を拾い肩に担ぎ上げた。そして少し離れた場所にある、夥しい数の無残な惨殺体となっている木人の山の中へ新たに放り込む。
「やっぱり外に、森から出て修行しないとね」
生まれてこの方、少女は森の外に出たことがなかった。
狩りや、近場の海岸や川での釣りによる食料の確保、生活空間になっているゲル、母が外から持ち込んだらしい複数の衣服や本、ずっとこの場所で生きてきた少女にとって、ここの生活は特に不自由に感じることがない。
興味本位で出てみたいと思ったこともあったが、森の外に出ることは母が禁じていたため、次第にその興味も薄れていく、外の世界に出なければならない理由は一つとしてなかったからだ。
母を亡くしてから5年間、ひたすら復讐を胸に訓練を重ね、人を殺すのには遜色ないほどの『力だけ』はここで身に付けることができた
だがこのままでは、対人戦の経験と技術を磨くことができないことに気づいてしまった。
母が生きていたころ、だいぶわがままを言ってその剣技を無理に見せてもらったことがあった。
急ごしらえの木人を相手に、流れるような剣筋で斬り、払い、突き、小さな傷を刻んでゆく。当時はなんとも思わなかったその動き、もっと派手なものを期待していた少女は少しがっかりしたのを覚えている。
だが、今ならわかる。それはすべて急所を狙った必殺の一撃だった。
あの砂浜で見た光景、隻眼の男が現れるまで、海賊たちを血の海に沈めていたのはその母の剣技だったのだから。
母にも及ばないであろう自分に、あの隻眼の男を倒せるとは到底思えない。森の外で経験を積まなければ、復讐を果たすどころか返り討ちにされ殺されるだけだ。
母のあの剣技は、いったいどこで身に付けたものなのだろうか。
森で生きることに何も疑問を抱かなかった少女に、外の世界へ出るための明確な理由が生まれつつあった。
強くなるため。
母のことを知るため。
復讐を果たすため。
日も傾いてきた。今日の訓練はおしまいにして、帰ろう。
オレンジ色に染まった夕焼けに包まれた森の中、少女は帰路へとつく。
その胸の中には旅立ちの決意が強く芽生えていた。