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SALVADOR  作者: れのん
前編
8/20

第8話

人が人に近づく瞬間とは、平生を失った時だ

 屋敷ののどかな庭に春の花の匂いが香る。特に際立つ甘い匂いをさせているのはフェルカという群青色の花だ。小さくて背の低い花が、この時期にはたくさん咲き乱れる。

 オリワルハは花が好きで、この季節は特に庭で日向ぼっこをするのが日課だった。

 花冠を編むのが得意な彼女は、同い年の友達であるセリファにも、それを教えている。セリファは不器用だからなかなか編むことができていないものの、オリワルハに丁寧に教えられながら一緒に作っている。

 オリワルハと二つ年上の兄であるウィンスタードは、庭の花畑ではしゃぐ少女たちとは遊ばずに、それよりも少し離れた場所で、木陰に座って本を読んでいた。

 屋敷にはウィンスタードとオリワルハとセリファしか子どもがいなかったが、ウィンスタードはあまり彼女たちと遊んだことはない。

 仲が悪いわけではなかった。

 彼が同年代の子どもと遊ばない理由は、彼があまりにも人間との触れ合いが積極的では無いためであった。

「お前はあいつらとは遊ばないのか? まぁ女の子とはなかなか遊べないか」

 ガルナは、十歳の子どもであるというのに子どもらしく遊んだりしないウィンスタードを、両親が彼にかけるそれよりも心配していた。

 ウィンスタードはこの頃から常に無表情で、時に哀愁を感じる目付きをしていた。ガルナにはそれが自分の幼い時と重なって見えて、自分と同じような幼少期を過ごさないだろうかと焦っていた。きっとそのことを彼に直接言えば「余計なお世話だ」と言われるとわかっていたから本音を伝えることはなかったが、ガルナはウィンスタードのことを自分の娘よりも心配に思えた。


「……別に、興味がない」

ウィンスタードはただ一言そう言った。その目は遠くを見つめているようだった。

「ほう、お前が興味あるものは読書だけか」

「いや、そういうわけじゃない。でもきっと、私はお前の言うとおり……まぁ、人と関わるのは苦手だが……特に女と関わるのが苦手なだけだと思う」

 ガルナはウィンスタードの隣に座って「どうして?」と尋ねた。

 ウィンスタードはそれを答えるのに少し思い悩んだようだったが、しばらく考え込んだあと、向こうにいるオリワルハとセリファが楽しそうに遊んでいるのを眺めながら、「女は哀れだ」と、一言答えた。

 ガルナはその答えを聞いてやや驚いてしまい、言葉を失いかけた。十歳になったばかりの少年が、そんなことを言うとは思わなかったのである。

「どうして哀れだと思う。この屋敷の女は、使用人でさえ不自由なく暮らしているというのに」

「ここは特殊なんだ。違う場所に住む女はもっと、ずっと哀れだ。奴隷にされてしまう者がいる、武術も魔術も学ばせてくれる権利を持たない、それなりに裕福な家に生まれたとしても発言の力は弱い。それ故に世の女というのは、弱い存在に位置付けられてしまう。この家ではそれらの制限はないが、どうせオリワルハだって嫁に行く身だ。嫁ぎ先でいろいろと傷付いてしまうに決まっている」

 だからこそ、無邪気な彼女を見ていて哀れだと思うのだろうか。

 頷けなくもない意見ではあるが、偏りのある主張である。

「滅多なことは言うな。ランバートがそんな家に嫁がせるわけがない」

 少しだけ強い口調で言ってみせたが、ウィンスタードはいつも通りの冷静な言葉を返す。

「父様が貴族の中では特に異端であることぐらい、どうせお前の方がわかっているだろう」

「……まぁ、そうだけどよ」

 娘を纏足にもしない、自由に外出させる、学問も自由にさせる。そんなことをする貴族は、この西国の中ではランバートだけだろう。ガルナはそんな異端の行為をする貴族である彼が、他の貴族から非難を受けているのをずっと見てきた。貴族の地位や、国に保護されている身から除けようとしてくる貴族さえも見た。貴族社会をよく知らないガルナであっても、ランバートがいかに普通の貴族という位置にいないということには充分に理解できていた。

 しかし、普通の貴族ではない故に、何か不都合なことがあったとしても、ガルナはランバートのことを愚かだと思うことはなかった。貴族としてではなく人間として評しているからだった。

「ガルナはどう思う。きっとセリファもどこかの家へ嫁ぐ日が来るだろう。それが心配に思わないのか」

「あぁ、セリファか……」

 あんなにおてんばで無邪気な少女もいつかは一人の女性となって、この屋敷から出ていかねばならない。

 彼女がどんなふうに育ってここから巣立っていくのだろうかという期待感と、それと同時に起こる不安感や寂しさは、彼女が生まれたときからゆっくりと感じていたことだった。

 気の早い話だと思われるかもしれないが、そのことに関してはガルナにはその時期から決めていた強い主張があった。

「……何にも縛りたくないよ。あいつが望む道を行けばいいのさ。自分の好きに生きて行けばいい」

 姓名を与えられたとしても、貴族の家に住んでいるとしても、自分の家族はただの一般家庭であるから、彼女の人生は何にも縛られずに好きにさせてやりたい。

 本当はオルストロ家と関係を結ぶことができるなら、など考えたことがある。だが、それはただの夢物語であり、身分の低い自分が思ってはならないことでもある。

 オルストロ家と関係を結ぶよりも大事なことは、恩人であるランバートの目指す世界を実現させるために彼を支えることなのだというのは、幼い頃からわかっていたことだった。

 自由をランバートに売った身の自分が彼を支えることは、義務であり宿命なのだから。

「きっとお前が恋をして、誰かと愛し合うようになれば、女を哀れに思うこともなくなるさ。お前が思っているよりもずっと、彼女たちは弱くなんかない」

「……恋、か……」

 すると、年齢よりもずっと大人びた少年は、ふと黙りこんでしまった。

 果たしてこの少年は、本にも書かれていない感情を、恋というものを知っているだろうか。

 その答えは、黙り込んでしまった様子を見て何となく察することはできる。この子は自分の知っていることにはすぐに答えを口に出すが、知らないことには何も言わなくなり黙り込む質なのだ。

――恋だけでなく、これから続く彼の人生がどんなふうになるのかも気になる。他人の子どもであるがウィンスタードにもオリワルハにも、娘へ寄せる同じような思いを感じた。

 自分の辿ったような汚れた幼少期を辿ることなく成長していった子どもにはどんな未来が待っているのだろう、と。


 ウィンスタードは読んでいた本を閉じて立ち上がり口を開いた。

 その目線はオリワルハたちでもなく、屋敷でもなく、もっと遠い場所を見ているようだった。

「私が大切なのはこの屋敷に住む皆だ、今までもこれからも、ずっと。オルストロ家やそれを支えてくれる皆が、私にとって親愛なる人々なんだ。ただ何の不自由もなく、過ごしていてほしいと思う」

 だから――とその次に続く言葉を言おうとしていたようだったが、言おうとしたところで口を閉ざして俯いていた。

 何か思い詰まることでもあるのだろうかとも思えたが、やや悲しい声で呟くように再び話を始める。

「――結局私は不器用なんだ。私は人と話すのが得意でないから、直接彼女たち、いや、誰かと接することよりも、自分のこの力で彼らを守ることこそが……この家の者たちのための恩返しになるのだと思ってならないんだ」

 その言葉にはもっと別の意味が隠されているのだろうと思ったが、ガルナはあまり深く考えなかった。

 ただウィンスタードが王都へ学びに行くこともせずにこの家にいる理由について、ガルナにはこの時何となく伝わったようなものだった。

 この子はきっと、家族と共にいたいのだろう。

 家族や友人を心の底から大切に思っているのだろう。

 どんなに人と接することが少ない少年でも、彼は自分の周囲にいる人々を愛しているのだ。

 そこらの子どもよりも大人びた雰囲気の子。

 他の誰よりも愁いの瞳をする少年。

 しかしながらその心は、向こうで遊んでいる少女たちと同じような、清らかで真っ直ぐな色に見えた。


 ** ** **


 あれから一睡もできておらず、ただ不安と罪悪感と焦りが入り交じった不快な気分で朝を迎える。

 悪夢を見ていないというのに、悪夢を見た時と同じような体の息苦しさのまま、ウィンスタードは寝具から起き上がった。

 窓の方を見れば、みぞれ混じりの雨が降っているようで、硝子に雫が垂れている。やけに静かな雨音だった。それでいて不気味な雨だった。

 夕べから何故か無駄に、妹のことが頭に思い浮かんでしまう。

 ハドレニアの妹ではない。

 自分の妹のことだ。

 ただ家族をふと思い出すことなら毎日のようにあるけれど、この時は特にオリワルハのことが頭から離れずにいた。

 それがいつも家族を思う時とは違って、どこか違和感があった。そして余計に胸の奥が苦しくなるのを感じた。


 とにかくいつもの時間通りに飯を食い、書庫へ行くべきだろう。

 そして冷静な心を保って出なければならない。

 支度をして部屋から出ようとすると、廊下の向こうで何人もの慌ただしい足音が聞こえてきた。鎧の重なる音がするから、どうやらほとんどが兵士だろう。

 その喧騒を聞いた時点で、更なる罪悪感が押し寄せてきたが、部屋に留まりたくなるのをどうにか抑えてドアを開け、いつも通り食堂へ向かおうとした。

 だが、行き交う兵士がとても多かった。目の前で緊急のことが起こっているだろうというのに、理由を聞かずにただ歩いているのではかえって不自然に見られるはずだと思ったウィンスタードは、すれ違った適当な兵士に尋ねた。

「何をそんなに慌てている?」

 引き留められた兵士は息を切らせながら深刻な表情で答えた。

「王女が……フィルノレア王女が何者かに暗殺された」

 そう答えられると、ウィンスタードは目を丸くする。

 無論、この驚く行為も演技の内である。内心では、ひとまず計画が予想通りに進んだことから、ほっとした気持ちが広がり、肩の荷が一部軽くなったような気分になった。

「何だと……? まともに歩けぬ彼女が、一体なぜ」

「まだわかっていない、捜査中なのだ。ただ、森林側の整備途中の庭で王女が胸を突かれて殺されているのを、庭師が発見したらしい。……ちょうど良いところにいた。賢者よ、どうか捜査に協力してはくれないだろうか」

 何も知らないその兵士はうやうやしく頭を下げて頼んできた。

 彼女の様子を一度見に行くためにも、ウィンスタードはその頼みに迷いなく承諾した。


 フィルノレアが殺害された現場へと向かうと早速、残酷な光景を見た。雨と血の匂いが混じった異臭が鼻につく。

 現場は二十人ほどの兵士や官吏が囲んでいて、その中には倒れ臥したフィルノレア王女と、その骸の前に座り慟哭をあげるハドレニアの姿があった。

 その痛ましい光景を見て、ウィンスタードは自分が旅に出るきっかけとなった日のことを思い出した。そして前にいるハドレニアが何となく自分と重なって見えた。彼のことは今までずっと嫌悪していたが、この時はさすがに同情の念を抱いた。

 現場は、耐えがたいほどの重い空気に包まれていた。ハドレニアの泣き声以外にも、すすり泣く兵士や官吏の声が雨の音と混じって聞こえてくる。美しい顔立ちをしていたフィルノレア王女は、不安そうな顔のままに硬くなって横たわっている。彼女の無惨の姿を見ることで、自分の所為でこんな事態になってしまったことを痛感した。

 ウィンスタードはしばらくその重い空気に浸かってしまい、放心状態となった。顔から滴り落ちていく冷たい雨の雫が全く気にもならないほど、ぼんやりとした感覚に陥ってしまっていた。

 ハドレニアが段々と泣くのを止めて落ち着きを取り戻してくると、恐ろしく低く冷たい声で近くの兵士に尋ねる。

「……何故、この子は殺されなければならなかった。まだわからないのか」

 その声の調子は、これまでに聞いたこともないぐらいに不気味だった。怒りも憎しみも悲しみも、全てが凝縮されているように感じる。

 ハドレニアのその問いに、兵士は慌てて答える。

「はっ、現在も捜査中にございます。今しばらくお待ちを……」

「遅い! 早くしろ!! フィルノレアを、私のフィルノレアを殺した者を……そいつを私の手で八つ裂きにしてやる……!!」

 ハドレニアは怒号を撒き散らすと、まだ誰だかわからぬ真犯人を求めて兵士たちを掻き分ける。しかし兵士たちがそこでおぼつかない歩みをさせるハドレニアを止めるのは当然のことだった。

「離せ!! 私が殺す、私が裁く……! この世のどんな苦痛よりも耐えがたい苦痛を味わわせてやる!!」

 乱心するハドレニアであったが、数人の兵士たちに止められる。抑えようとしてくる兵士を払い除けようともしていたが、そのまま地面に崩れ落ちて再び泣き叫び始めた。

 その様子を見たウィンスタードは、心の中で更なる安堵を感じた。

 ハドレニアのことはあまり手強い人間だと感じてはいなかったが、彼の冷静に物事を対処する部分は警戒せざるを得ない部分だと気付いていた。


 だが、こうして理性を失いかけている彼を見て、この大国の主とはこんなにも恐れるに足らない存在だっただろうかという余裕と軽蔑した気持ちが心の中でふつふつと沸き上がってきた。


 自分も同じように単純な人間であれど、こんなにも乱心することはなかった。もっと落ち着いた気持ちで天界に対抗する力を付けようと決心できた。

 だからこそ、ハドレニアよりも自分の方が上手であることはこの時点で確信していた。

 これこそが人間の差なのだ。

 単純な人間同士でも、誰が勝って負けるかが己の能力と幸運で決まる。


「申し上げます。先ほど宮殿を調べていましたところ、このようなものが発見されました」

 兵士たちの後ろの方から若い官吏がやってきて強ばった口調で言った。手には淡く白く輝く大きめの羽がある。

 ハドレニアはすぐさま奪うように羽を取り、震える手でそれを眺めた。

 普通の鳥の羽よりも多くの魔力を放っているその羽を見たとたん、ハドレニアはその羽の持ち主の正体に気づいたようで、小さな声で呟いた。

「天使、か……?」

 そしてウィンスタードの方に振り向いて、その羽を差し出した。

「この羽は天使のものだな?」

 彼のその眼差しや口調は、こちらに助けを求めてすがり付いてくるように悲痛なものだった。その哀れな姿に驚きうろたえて思わずウィンスタードはすぐに答えることはできなかった。

 今この国王は一人の女の死によって今までに受けたこともない絶望を感じているのだ。今にも吐いてしまいたくなるほどの、気が狂いそうになるほどの境遇に見舞われている。

 ウィンスタードはハドレニアのその問いに静かに頷くと、ハドレニアは持っている羽を握り締め、次には怒りの表情をあらわにした。

「おのれ……おのれ、天使め……! よくも私のフィルノレアを! この怒り、殺さずには収まらぬ……総員、天使の行方を追うのだ!!」

 若い兵士や官吏たちはその無茶な指令に一瞬驚き戸惑うものの、早速行動に出始めて現場から離れていく。

 その場の兵士たちからは天使と戦い慣れていない様子が明らかに伝わった。天使の対処に手慣れているウィンスタードは、彼らに天使との戦い方を告げなければならないと思い、ハドレニアにその指導の許可を尋ねる。

 しかし気の立っているハドレニアはさらに激昂して文句を叫ぶ。

「うるさい!! 私に口答えをするな、貴様に何か言われる筋合いはない」

「待て、その羽には〈穢れ〉が混じっている。つまり〈穢れ〉に狂った天使の犯行なのだ。通常の天使よりもずっと厄介だぞ、人間に対しての戦法で相手をすれば更なる犠牲を被るだけだ」

 一瞬こちらを睨んで反論しようとしていたようだったが、ハドレニアは手に持っている天使の羽を見て、その魔力の中にかすかな〈穢れ〉の魔力を感じ取った。それで納得したのか、眉間にしわを寄せて唇を噛み、悔しそうな声色で返答をする。

「……勝手にするがよい。私は、あの子の無念を晴らすことができればそれでいい」

 そう言って、彼は無気力の体をフィルノレアの骸に向けてそばへと寄った。額に彼女の手を当てて、再度涙をこぼし始める。

 先程の威勢はどこへ行ったのか、自分で天使を殺すと言っていたはずなのに、既にハドレニアには戦意喪失しているようにしか見えない。

 きっと心の中では天使を殺したい気持ちと、大切な人の骸のそばで別れを惜しみたい気持ちが入り交じっているのだろう。そして、後者の感情が強く出てしまって、天使のことは誰かに任せたくなっているのではないか。

 ウィンスタードにとってハドレニアがこれ程までに人間臭く思えた時はなかった。

 その痛々しい様子により、彼のことがもっと小さな存在のように思えてくる。

 ウィンスタードはますます、この国の軍をこんな愚かな男に預けていることに嫌悪感を抱いた。


 凶暴な天使が周辺にいるという警戒状態に入ってから、ウィンスタードは兵士たちを天使の気配の濃い方角の森に置いてから、天使の殺し方について伝授し始めた。

 天使は気の狂っていない天使と、狂っている天使のどちらかが存在していて、まず〈穢れ〉によって狂ってしまった天使は、予測の難しい動きをするために、戦いにくいということ。天使の弱点は背中や耳、足に付いている翼であり、翼を損傷すると天使の周りに貼られてある結界のようなものが解かれ、飛ぶこともできなくなるなど天使の能力が極端に下がるということ。天使は攻撃も移動も素早いが、相手が一人であれば比較的倒しやすい相手だということ。

 今まで天使たちと戦ってきた経験と自分なりの助言を一通り告げた。

 話終わった後で気付いたのだが、兵士たちは皆真剣にこの説明を聞いていてくれた。そして口々に言う。

「まさか翼を損傷することが、天使を弱体化させる手段だったとは……」

「こんなに重大なことを何故、上は知ろうとしないのだろう。教えないだけだろうか?」

「去年俺の息子は天使に殺されたんだ。あんな危険な連中を殺すことができる方法があるなら、絶対に世間に広めるべきだ」

 彼らのその文句は今この状況で語ることでもないことが多かったが、なぜかウィンスタードは動揺を隠しきれなかった。

 今までずっと、天使を討伐するという作戦を全く行おうとしないこの軍には、天使を恨んでいる念を持つ者が一人もいないのだとウィンスタードは思っていた。

 しかし、そんなことはなかった。天使に対する恨みの念が皆無であるはずがなかった。実際のところ、民衆は天使に襲撃を受けているのだ。それにより、天使に対して恨みを持つ者、天使とは危険な存在だと察する者がいないわけがない。

 大きな結界で守られてぬくぬくと過ごしている宮殿にはけしてわからない感情である。「天使とは下の者が抗える存在ではない」という意見を主張してきた国王に逆らえる者は、どこにもいないのだから、今この国王がいない場所でそんな文句を口々に喋りだす兵士がいても、何も不思議なことではない。

「賢者よ。ここにいる兵士たちの中には、家族や大切な人を天使によって奪われた者が多いのです。何卒、此度の天使討伐へご協力をお願いできれば、これ以上に嬉しいことはありません」

 兵士たちは皆敬礼をして、こちらに願い出た。

 その兵士たちの引き締まった表情を見て、何故だかこの場にいる全員の心がひとつになったように感じた。

――天使を討ちたい。

 そんな思いが彼らの目を見るに伝わってくる。

 幽閉されている立場として張り詰めた毎日を送っていたウィンスタードだったが、この日ほど心が軽くなった日は無かった。

「こちらこそ、気の晴れる思いだ。喜んで支援しよう」

 ウィンスタードは十数名の兵士と共に、近くにいるはずの天使を求めて進軍を始めた。

 それから僅か二時間で一人の〈穢れ〉に狂った天使が森の奥深くで発見され、戦闘が始まった。

 狂った天使は相変わらず、動きの素早く、何度攻撃を当てても怯まない厄介な相手だったが、兵士たちが誘導させている内、ウィンスタードの放つ浮遊魔法が何とか天使の頭部に命中し、さすがの天使も息絶えた。

 怪我をする者も少なからずいたが、ウィンスタードはその怪我の大小を問わず一人一人に治療魔法を施してやった。

 天使に勝利をした兵士たちは勝どきをあげた。人数の少ない故、小さな凱歌であったものの、その声には人間と人間が戦う戦場では聞くことのできないぐらいに喜びの調子が詰まっている。

 その光景を見たウィンスタードも、今まで天使と戦ってきた中では到底味わえなかった喜びを感じた。天使と戦ったことのない兵士たちの喜び様は、こちらもほっとして思わず顔が綻ぶほどに純粋に見える。

 ガルナと共に天使と戦っていた時はいつもギリギリの状況ばかりで、勝利に喜べる暇も無かった。

 けれど大勢と勝利の喜びを分かち合うという感情を目の前にすると、例え天使と戦い慣れているウィンスタードでも新鮮に感じずにはいられない。


 そしてふと、この感情を、ガルナと共に分かち合ってみたくなった。

 いつか共に戦場に立ち、同胞たちと勝利の喜びというものを共有することができたのなら、今回の小さな勝利よりもさらに歓喜に湧き上がるはずに違いない。

 そしてそんな日は、それほど遠くはないということを、ウィンスタードは何となく実感していたのである。


 ** ** **


 王女を殺した天使の討伐から帰還後、宮殿では気の立っているハドレニアが王座に居座っていた。

 硬い表情をした兵士たちが脇に並べられ、場は張り詰めた空気になっている。

 その異様な空気にややうろたえていたものの、天使を殺したという報告を伝えなければいけないため、気まずい空気に耐えながらもウィンスタードは冷静に結果の報告を述べ始めた。

「天使の討伐に成功した。周囲をしばらく警戒していたが、今日この地域にいたのはあの一人の天使だけだったようだ」

「そうか……」

 ハドレニアは冷たい声で返答をする。

 彼は一体何に向けて苛立っているのか?

 妹が死んでしまったことか、妹を殺した天使のことか、――それとも、まさかこちらに向けた苛立ちなのか?

 もう真犯人は暴かれていて、これから裁いてやろうという態度なのか?

 ハドレニアから見える苛立ちの種は、何とも探りにくく、不安を仰がせてこの心臓の動きを早くさせる。

 ありとあらゆる証拠は消したものの、もしかすれば何か不備があって、もう感づかれているのかも知れない。

――落ち着け。

 自分は焦っているのだ。

 この時ウィンスタードは、自分は今良くない顔色をしているのだろうと自覚していた。それではまずい。本格的に怪しまれてしまう。

 だからこそ、緊張のしすぎで意識が遠退いていくようなぼんやりとした状態から咄嗟に抜け出そうとした。しかし、我に戻ることができたものの顔を上げることはできず、俯かざるを得なくなった。

 ハドレニアは静かな声で淡々と話をし始めた。それはウィンスタードにも、その場にいる兵士たちにも伝えようとする内容のものだった。

「……私はこれまで、天界とは争い合う存在ではないと主張し続けていた。我々人間を創造した天界は我々にとって親のような存在である。その尊き親に、誰が抗えようか。どんな理由、精神をもって戦おうとすればいいのだ、と。しかし今回、天使は私の婚約者を連れさらい……無惨にも殺した……これは、私の常日頃の主張さえも覆す出来事であった」

 ウィンスタードは、はっと彼を見上げた。

 ハドレニアは立ち上がり、先程よりも強い口調で話を続ける。


「天使の脅威、そして残忍さを改めて知った機会でもあった。――しかし私は許せぬ。あんなにも野蛮で、汚い悪魔を殺さずには私の心は晴れぬ。私は、今ここに天界と戦うということを誓おう。世界を侵略せんとする者共を、我らが駆逐しようではないか。同胞よ、異議はないか」

 ハドレニアのその言葉に、兵士たちは一斉に歓声をあげた。

 やっと、この国はやっと戦うべき相手と戦えるようになる。

 殺すべき憎い敵に、この国の軍隊の力を思う存分振るうことができる。

 そんな気持ちが溢れるばかりに表れている張りのある声だった。

 皆が歓声をあげる中、ウィンスタードはいまいち納得の行かない気持ちを心の中で抱いていた。

 これでこの国の軍隊は、天使と戦うための戦力の一部となった。

 だがそれは完全と言えるだろうか?

 ハドレニアは本当に天使と戦うための采配を振るうのか?

 今まで侵略を重ね続けた侵略主義国家が、他の国々と協力して戦争をすることができるのだろうか?

 そもそも我々を解放してくれる時はあるのだろうか――いや、これについてはいくらでも機会を"作れる"のであるものの、やはりその機会を"作る"のに適した時期は今までに無かった。

 だが今になってようやく、その時期が訪れたのだということを何となく気付かされた。

 もはやこの国を乗っとることなどわけもない。

 この国王など落とせるところまで落としてしまえばいい。

 ウィンスタードは次の計画へと移っていった。


 ** ** **


 ハドレニアは妹が死んだことで床に伏すことが多くなっていった。それ故に侵略を謀ることはなくなっていき、政務は大臣に任せきりで、以前のような余裕に満ちた威勢は跡形もなく消えている。

 しかし、天使と戦うための準備は続けて行っているので、重かった税がさらに過酷なものとなり、民衆は厳しい生活を余儀なくされた。

 ウィンスタードはこのような時が来ることは予め予想がついてあった。


 ハドレニアが天界と戦うということを決意したすぐ後だったが、ウィンスタードは以前から続けて勤しんでいた〈天界之書〉の象形文字のすべての解読が完了していた。

 その内容には非常に驚くべき事柄が書かれていて、他の学者やハドレニアにはその文を解読したものを見せるのはやめておいた。下手にこのことを明かせば不吉なことが起こりかねないと判断したためであった。そう判断せざるをえないほどの重大な新事実がそこに書かれていたのだ。

 わざわざ天界が象形文字に記すまでして著したその文章には、天界の弱点――すなわち破壊に追い詰めることのできる手段が記されていたのである。


〈これは地上界を創造した後にわかったことであるが、天界は唯一黒の魔力に弱い。人間よりも黒の魔力の免疫の力が弱く、一粒の黒の魔力が天使の体、天界の情緒をゆっくりと蝕み、狂わせてしまうのだという。黒の魔力とは地上界ができた後に生まれたものであるため、黒の魔力の抵抗力のない天界が人間よりも早くに侵されてしまうのは明らかなのである〉


ここで言う黒の魔力とは〈穢れ〉のことだと考えられる。暗い感情から生成され、暗い場所に集まりやすい魔力である〈穢れ〉を、彼らは黒の魔力と呼んでいた。〈穢れ〉の発祥とは地上界が作られた時であるため、〈穢れ〉への免疫を天使が持っているはずがなかった。だからこそ、天使は人間よりも〈穢れ〉による汚染が早い。

 天界の技術のことだからきっと浄化魔法は持っているだろうが、多くの天使が人間界を行き来することのできるこの時世で、領域内に〈穢れ〉を持ち込んでしまうことが有り得る。

 それは天界の滅亡の始まりを意味する。天界の滅亡とは地上界の滅亡である。地上界の秩序を守っている天界が死ねば、地上界も死ぬ。死んだ地上界の生き物の魂は天界へ行くのだが、その天界が〈穢れ〉に侵食され、崩壊した世界になっていたとすれば、地上界で死んだ魂は近寄ることもできず、死してなお死の苦しみを永遠に味わうこととなるのだ。

 生きていても地獄、死んでも地獄といった世界が天界にも地上界にも訪れるだろう。


 この部分は要約するとそんな意味になる文章だが、象形文字の部分は当然これだけではなかった。

 説明文の次には魔法の式が記されていたのである。

 その詠唱は長いうえに読みづらく、解読に苦労したものだったが、その読みづらい仕様にしなければならない理由に気付いた時にはふと納得してしまっていた。

 そこに書かれていた魔法は、この世界で最も恐ろしい魔法になるからだった。

 もしも天界が〈穢れ〉に侵食されて、天界も地上界も痛みと絶望の世界になってしまう前に使えば、苦しみから逃れられる、究極の魔法だったからだ。


 その魔法の名はサルヴァドール。

 この世界と天界を苦しみから回避することのできる、最後の救済の一手だった。


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