第6話
無垢な心は不毛を悟る
洞窟内に響く、ゆったりとした足音でガルナは目を覚ます。
体は無駄にだるく、重かったが、咄嗟に起き上がり周囲の様子を確認した。
薄暗い牢屋の中だった。格子付近の壁にランプが灯されているが、とても小さな灯りで、洞窟内の向こうがあまりよく見えない。
自分に付いていた拘束魔法は解かれていたものの、持っていた武器や身に付けていた防具はすべて取り上げられているようで手元にはなかった。
牢屋の格子は一本一本が硬くて太く、自力で逃げられそうにもない。
どうしたらここから抜け出せるか考えていたが、急にウィンスタードのことを思い出して不安な気持ちが一気に沸き上がる。
足音はだんだんと近づいてくる。やがて人影が上の階段から降りてきた。
しばらく目を凝らしていたが、灯りのおかげでようやくここへ近づいていた者の正体がわかる。
それは我々を王都へ無理やり連れてきた尖り耳の男であった。
「貴様! ウィンをどこへやった!?」
ガルナの叫ぶ声や格子を叩く音が洞窟内に響き渡る。その反応に、付き添いに来ていた兵士は少しうろたえた様子だったが、尖り耳の男は飄々とした態度でこちらを見つめる。
「まぁそんなに慌てるな。お前の主には手荒なことはしない――最もお前次第ではあるが、な」
「汚れた国家魔術師め……ウィンに何かしたら、ただではすまさないぞ」
ガルナは格子の向こうのその男を睨み付けた。
男は怪しく微笑んだ表情のまま、ガルナの目の前に手のひらをかざした。
すると突然頭上に銀色の液体が現れ、ガルナの体にどろどろと垂れていく。
それが何なのか一瞬よくわからなかったが、次の瞬間激しい頭痛と吐き気に襲われ、倒れ込む。起き上がろうとも思ったが、胃がぐるぐると回っているような感覚を覚え、堪えられずに吐き出した。
「私は魔術師ではあるが、国王でもあるぞ。そのような頭の高い態度は好かぬ」
「国王……だと……」
口元を拭いながら、ガルナは格子向こうの男を見上げて、皮肉っぽく言って見せた。
「てめえこそ、偉そうな態度をとって、勝手に俺たちを連れ去って……おかしな国王の支配する国は、余程おかしな国なんだろうな……?」
男は冷たい笑みを浮かべて、もう一度手を振りかざす。
次は先ほどよりも胸の周りの苦しさが増し、またうなり声をあげながら倒れ込んで格子の前にひれ伏す。
地面には銀のどろどろとした液体と胃液が散乱した。
「よく喋る犬だ。内臓も吐き出したいか?」
苦しくて息が上がり、激しく咳き込む。内臓は相変わらずかき回されているような感じがあって、不快感や吐き気はまだ収まらなかったし脂汗も垂れた。視界が朦朧とするが、歯を食いしばって意識を保たせる。
尖り耳の男は、魔術に翻弄されるガルナを見下ろしながら、また高慢な口調で話し出す。
「魔術師の忠犬にはいささか不似合いだな。まるで、吠えることしか能のない狂犬のようだ」
「だから何だ……」
尖り耳の男は喉の奥を鳴らしながら、不気味に目を細める。
「いや、なに。お前の主はまるで性的なほどに、お前に執着しているようだったから、どんな人間なのか気になってね。彼は主人という立場であるのに関わらずなかなか従属的だ――いったいどんな閨の相手をしていた?」
ガルナは眉をひそめる。そして呆れるように溜め息混じりで言った。
「めちゃくちゃなことばかり言いやがって……それを聞くためにここへ来たのか」
「そんなこともない。今から特別に、お前の主と会わせてやろうと思って来たのだぞ」
その言葉にガルナは反応すると、また男は愉快そうに微笑んで格子に顔を近づけた。
「数分だけ二人きりにしてやろう。光栄に思え。そしてこれからは面会など許さぬ故、存分に語り合うがいい」
そう言い捨てて、男は怪しく微笑みながらもと来た階段の方へ消えていった。
そして次にこちらへやってきたのは、暗い顔をしたウィンスタードだった。
「ウィン……」
ウィンスタードはこちらに近付いてくると、鉄格子を掴んでいるガルナの手にそっと触れて悲しげな声で話し出した。
「すまない……本当にすまない。お前をこんな目に合わせるなんて思わなかった……」
「早く逃げよう。こんなこと……お前がつらいだけだろう」
けれどもウィンスタードは頷かない。
そして、それをするにはもう遅すぎた、と哀愁にまみれた声をこぼした。
「逃げ出したところで、私たちは彼らに追われて死ぬだろう。そして協力しようと言ってくれた国々や、故郷さえも滅ぼされるやもしれん」
「地上にあるたかが一国にそんなことを言っていたら、天界となんて戦えない。それにこの間にだって、故郷は襲われるかもしれないんだぞ」
強い口調で返すと、ウィンスタードはまたうつむいてしまう。
「そうだ、故郷だけでなく大陸全土が、今この瞬間も危険にさらされている。……それでも、ガルナ。わかってほしい。力を伴わなければ、どんな大軍で対抗しようとも無駄なのだ。どんなに豪華で広い城を持っていたとしても、砂城であればいとも簡単に落とされてしまう。今のこの実力で故郷に戻ったとしても、成果を上げられる気はしない。今のあなたを、こういう形でしか守れない私に、大勢を守れる力などいまだ無いに等しい」
ガルナは一瞬言葉を失いかける。
「だ……だからといって、こんな危ないところにいれるのか。生きて出られる保証もないだろう」
この子は自分の知らないところで、自ら捕虜という危険にさらされる身となって、学問に勤しもうというのか。
ガルナにとって彼がそばから離れることなどけして許せなかった。毎日どんなに予知を感じていても、彼の存在がそばにあったことで不安を紛らわすことができていたというのに、これ以降会わずにお互い離れて暮らして、彼の安否をこの目で確認できないなんて考えられなかった。
一日の中の数十回、そして今のこの瞬間にも、彼の死の予知を意味する映像が伝わってくるというのに――。
「……あなたの優しさは、まるで麻薬のようだな」
ウィンスタードは寂しげに、それでも穏やかな表情で呟いた。
最後の方だけかすかに声が震えていたように聞こえたが、彼は言葉を続ける。
「強くて、優しくて……私が何か誤った道へ行こうとすれば、すぐにそれを正してくれる。心の弱い私はあなたという麻薬に甘えてしまって、すっかりこの身に刷り込まれて依存しているのだ。……私はここで力をつける。私があなたにちゃんと胸を張ってまた会いに行けるその日を、どうか待っていてほしい」
ウィンスタードはそう言うと後ろを振り返り、階段の方へ戻っていった。ガルナは格子を叩き、彼の名前を叫ぶ。しかしどんなに呼び掛けたとしても、ウィンスタードは振り返りもせずに、そのまま向こうの暗闇に消えていくばかりであった。
その潔い態度を見て、彼には覚悟があることを感じた。捕虜の身となったとしても強くなりたいという強い意志があった。
ガルナには覚悟などない。
もし彼と離れてしまえば、誰が彼の死の運命から守るというのだ。
いつも感じる予知が実際に起きてしまうことを何となく確信してしまって、ガルナは絶望に感じた。
だんだんぼんやりとしてしまっていて、鉄格子に掴んでいた手を地面に落とす。先ほど尖り耳の男に魔術をかけられた時と似たような気分の悪さが胸の辺りを這う。
死の予知だけでなく、誰がどんなことをして、これからどうなっていくのかを鮮明に知れたらいいのに。死だけでなく、もっと純粋に未来を見られたらいいのに。
今までどれだけ、この誰にも持っていない不思議な能力を呪ったかわからない。人の死の運命を知ることができても、助けようとしても助けられぬこの絶望だけの能力が、ただただ疎ましかった。
** ** **
地下牢から地上にあがった階段の出入り口にはハドレニアが立っていた。兵士たちと軽快な話をしていたようで、階段を登る足音がしても、気付くことはなかったが、ちょうど上がりきったところでこちらに気付き振り向いた。
「もっと話をしてくるかと思ったが、短いものであったな?」
彼の皮肉に答えることもなく、軽く睨み付けながら、先導をする兵士に着いていった。
本当は、もっとガルナと話をしたかった。
会えなくなってしまうなんて嫌だ、本当は一緒に逃げ出して故郷に帰ってしまいたい。
鉄格子をへし折ってでも彼にすがりたかった。
それでも、ガルナの安全を優先するために、迷わず自分の心に背いた。
むしろこう思おう。
彼が驚いてくれるような、そして世話を焼かないですむような強い人間になってやろう。
きっとそんな人間になれたなら、この国にも殺されない。天界にも殺されない。
** ** **
ガルナが牢屋から解放されたのは、その数時間後だった。
もうその時には気力もなくなっていて兵士に連れ出されたとしても抵抗することはなくなっていた。
連れてこられた先は、宮殿から東側にある兵士の寮だった。どんな仕打ちを受けるのかと思っていたが、案内されたのは少し狭いが居住をするには申し分ない至って普通の一人部屋だった。どうやら余りの部屋を貸し出されたようだった。
相変わらず武器や防具は取り上げられているものの、部屋にはちゃんとした寝具もあるし机もある。窓も付いていて外の様子が見渡せる。もっと汚れた環境に押し込まれるのかと思っていたが、それほど悪くない環境でいられるようだった。
しかし少し考えてみれば、これは紛れもなく人質を軟禁している状態に過ぎない。結局ウィンスタードもガルナも捕虜の身、ただ幽閉されているというのが現実であった。
部屋が与えられてもその階だけしか行動してはいけないことになっていた。さらには用を足すこと、風呂に入ることしか部屋からの出入りを許されなかった。食事は一日に二食が部屋に届けられるようだったが、その量も少なく、食材の余った部分をそのまま適当に調理して作ったような雑なものであった。
この制限だらけの生活は、まるで体がなまっていくようなものだった。三日もしないうちに、外出がしたくなってたまらなくなる。その衝動は、小さな窓から射す光で満足できるようなものではない。
それが余計に苛立ちを増した。
捕虜の身となって五日が経った頃には、一人の青年がガルナの部屋へ尋ねてきた。
金髪の癖毛が特徴的な、にきびとそばかすだらけの、兵士だった。
「今日からお前の警備にあたることになった。……頼むから仕事を増やさないでくれよな」
初めて会った第一声がそんなにも間抜けた言葉だったから、ガルナはつい苦笑を混じらせながら、言った。
「こんな安い奴が警備でいいのか」
すると彼は怒ったのか、口を尖らせながら文句を言い返した。
「悪かったな、安い奴で。生憎、お偉い兵士は遠征に駆り出されるんだ」
ディレクトリアでは幾度の遠征が行われている。侵略を第一に考えるこの国では遠征への人材や費用を優先して回す。だからこそ、宮殿も街並みもさほど豪華であるという感じがないのだ。国王は自分の住まう場所よりも他の土地を広げることに集中していることがわかる。
青年兵士の言葉を聞いて、もしかすればウィンスタードも遠征に付き添われるかもしれないと不安な気持ちが涌き出た。
「ウィンは……戦争へ駆り出されるのか」
「お前の連れか? そんなのは俺みたいなやつがわかるものじゃねえよ。すべて王の思われる範囲の話だろう」
と、青年は軽い口調で言い捨てるように言った。
話しているうちにガルナは気付いていたのだが、その青年兵士は他の兵士と違って、ずっと人間臭く感じていた。この国だけでなく、東国ではあまりにも魔術や天界に妄信的でおかしな人間ばかりであった。いつもそばにいたウィンスタードでさえ人間的ではない場面も多々あったから、こんなふうに軽い口調で会話をしてくる者は何故だか久しぶりで緊張感が湧かなかった。
――この青年ならば頼めるかもしれない。
「なぁ、お前の名は何と言うんだ」
ガルナは出ていこうとする青年兵士に問いかけた。
青年はいきなりどうして、とばかり言うような表情をさせて、ただ一言自分の名を名乗った。
「サウル、という」
「そうか、サウル。お前に頼みたいことがある――ウィンスタードが、今日を無事に生きたか、一週間ずつでもいいから教えてくれないか。あいつが心配なんだ」
「は? 俺なんてまったく王に近づけないというのに、そんなの知れるわけないだろ」
サウルと名乗る青年は、眉にしわを寄せながら抗議する。
「頼む。お前に厄介をかけるつもりはない。ただ安否がわかってくれたら、警備に来る時にでも、飯を持ってくる時にでも教えてくれればいいんだ。そうしてくれれば、俺はこれからずっと勝手なことなどしないし、ここの規律も守ろう」
「何を勝手なことを……」
「……あいつは、俺の家族のようなもんなんだ。心配に思わないわけがない」
その一言にサウルは眉のしわをといて口を紡ぐ。そして独り言のように呟いた。
「家族、か……」
サウルは何か考え始めたのか、視線を床に落として黙りこんだ。そしてこちらに向き直して、あっさりとした口調で「時々教えてやる」と言って、サウルは部屋から出ていった。
彼がどうして黙り込み、先ほどまで口を尖らせていたにも関わらず、急に態度を変えて承諾してくれたのか不思議に思った。しかし日々の緊張の疲れからか、突然眠気が襲ってきて、考えるのも億劫になりベッドへ横たわった。
目を閉じる度に、死の予知の映像は瞼の裏に映し出される。
この国に来てから、よく眠れた試しはない。
** ** **
ウィンスタードは城の書庫にある本を片端から読みあさっている最中であった。読む本の殆どが魔術書や兵法書であり、軍人になろうとする若者が読むような一般的な学術書である。やがて基礎の書物を読み終えると、次には応用である難しい書物にも手を伸ばした。
解明されてない事実には自分なりに仮説を立て、整理し、自分の文字に著した。誰かが読むようなものではないものの意見を事細かに並べ、さらにはすでに解明されてある論文にも反対の意を記した。
魔術の面では、今まで触れたことのない類の魔術が多くあり、新鮮に感じた。
特に、対象に攻撃をするという目的だけの魔術は今まで見たこともない。ウィンスタードが天使に攻撃をするときには、浮遊魔法の応用としての技を使用していた。旅を始めた最初は、石などの物体を高速で移動させ、敵に当てて損傷させるといったことをしていたものの、攻撃魔法と称される魔法は、空中で爆発を起こさせたり地面を引き裂いたり、落とし穴や地雷のような罠に似た魔法もあった。
このようないろんな種類の魔法があるからこそ、戦争が強くなって国力が増すのだろう。
そもそもなぜ大陸で一番進んだ魔術がここにあるのか。
それは天界が、この地の人間が最も賢く、数も多くいると信じたからだと考えられる。実際、地上が「知恵」を授かる前、つまり人間が人間ではなかった頃の東の国の生き物は「道具」を使って生活する者が少なからずいたらしい。そこの違いから、天界は与える知識の量――魔術書を東の国に多く授けたのだという。
これにより東の地域は発展していき、魔術も全国に普及していった。
だから、東国ディレクトリアがこんなにも高い国力を持つのは当然のことであった。
――それでは、なぜこの国は天界と戦わずに、人間とばかり争おうとするのだろうか。
ウィンスタードにとってそれがまったく理解できなかった。このおかしな国で理解できることはあまりにも少ないのだが、特に疑問に思う点はそこだった。あんなにも残虐な行為をする天界を、人類世界を脅かす賊を、なぜ放っておくのだろうか。天界こそが、どんな異民族よりも鎮圧せねばならない連中だというのに。
読み終わった書物を戻しに書庫へ寄ろうとすると、途中の廊下でハドレニアと偶然会った。
ウィンスタードはできるだけ目を合わさずに素通りしようとするもハドレニアはその歩みに追って着いてくる。
彼はまたどこかの異民族討伐のため遠征に出掛けていた。その帰った直後だったからか、機嫌が良いように見えた。
「どこへいくのだ?」
「……書物庫だが」
「ほう、なかなか励んでおるな。どうだ、我が国の学問は」
「おかげでこの侵略ばかりを好む残虐な国で、退屈せずにすんでいる」
返答が億劫だったのでまっすぐ前を向いたまま、短絡的な口調で答えた。
どんな皮肉もすべて通用しないハドレニアは、むしろ笑みを浮かべながらまた愉快そうに言う。
「侵略とは偏見というものだぞ。我々は戦争を行っている、戦争とは勝てば自国の力も増す。相手も戦いたくてうずうずとしているのだ、それに答えてやるのが我が軍隊の戦場での礼儀」
その言葉に苛立ちを覚えたウィンスタードは、歩みを止めてハドレニアに振り向く。
「それはあなたが、むやみに戦いを仕掛けようとするからだ。あなたのような強い国に襲われるからこそ、相手国もそれ相応の戦いの準備をするのだろう。それに、強い力を得ようとすればまた向こうも力を得ようとするだけで争いは深まるばかりだ」
ハドレニアはいぶかしげて言った。
「だからこそ戦争なのではないか。――まぁ、いい。我が国を強国と思ってくれているのは気分が良い」
彼の言いぐさに苛立ちが高まっていき、手足が震えだしてくる。
それでもウィンスタードは冷静に再度言葉を返した。
「あなたはその強大な力を、まったく有効活用できていない」
「何だと……?」
先ほどまで愉快そうなハドレニアだったが、冷たい表情へと変わる。ウィンスタードはそれに構わず、また言葉を続けた。
「力のない異民族を蹴散らすよりも領土を広げるために侵略を重ねるよりもやるべきことがあるだろう。なぜ、討たなければならない相手にその力を振るわない、私には考えられないほどの愚行だ」
「ほう、その討たなければならない相手とはどんな相手だ。申してみよ」
ハドレニアのその言葉に白々しさを感じ、不快に思ったが強い口調で答えた。
「――天界に決まっている」
一瞬だけ沈黙があった。大体の言葉をすぐに返すハドレニアだったが、その時は驚いたように目を見開いてあっけにとられた表情をしていた。そしてすぐに彼の高笑いの声が廊下に響き始める。
「……何がおかしい」
「そなたはまだ天界を討つなど馬鹿げたことを考えていたのか? なんたる憐れな小僧だろうか。そんなにも天界に心を捕らわれているとはな」
ウィンスタードはハドレニアを睨みつけた。何か言い返そうとしても、怒りをこらえるのに頭がいっぱいになり、何も言うことはできなかった。
「良いものを見せてやろう。きっとお前も余の言葉に理解できよう」
ハドレニアはそう言うと、彼も書物庫へと向かっていった。
書物庫に着くとハドレニアは指を一振りし、書棚から一冊の本を飛んでこさせた。本を手に取り、大きな長机へと寄って椅子に座り、本を広げる。
その本の表紙には〈天界之書〉と書かれている。西国にはない、天界の詳細が書かれている本だった。
「そなたは天界のどんなことを知っている? ずっと昔から残虐な侵略を繰り返す野蛮な輩と思うか」
「……いいや、人間が争いをしないときには、地上界を侵略するようなことはしなかったはず。だが、天界が知恵を地上界に授けたとたんに地上界で争いが起き、天界は制裁を加えるような形で地上界に攻撃を始めたのだ」
ハドレニアは頬杖をつき、再度問いかけをする。
「それで?」
「それで……」
言葉を失ったウィンスタードに、ハドレニアは悪戯っぽく微笑む。
「では天界の正体を知らないのであるな」
「天界の正体……?」
実際、西の国には天界についてのことはあまり知られていない。地上界を造り人間を造り、知恵を授け、そして争い始めたエルス大陸に制裁を与え続ける世界なのだとしか知らなかった。
「天界はな、想像から創造を行う世界なのだよ」
本をぱらぱらとめくって、とあるページを開き、ウィンスタードに向けて読ませた。
「天界には創造神というのがいて、彼が想像したものはすべて具現化される。大地も命も抽象的なものも、すべてこの世に居座るものとなり、意識ある者の概念となるのだ。我々も神によって願われ、ここに生きている」
〈創造神は万物を司る。創造神の思われることすべてで地上界は成り立つ。しかし、神はそれを自ら実行するわけではない。従順なしもべであるあまたの使いが、神の意思に従い、地上界の均衡を保たせる。天界とは地上界を支配する存在、どの世界も抗えぬ絶対の処なり〉
ここまで同じ形・大きさ、まっすぐ横に並ぶ文章を見るのは初めてだった。こんなに美しい文章で書かれている書物はディレクトリアで作られた書物にはないだろう。
しかし内容はつまらない文章だ。
ウィンスタードは読んでいる内に、文字を追うのが億劫になり、本を閉じた。
「これが、本当に天界が書いた書物だという根拠などないだろう……」
呆れるように言ったが、ハドレニアはその書物を手に取りまたぱらぱらとページをめくった。
「お前は言うと思ったが、そうでもない。天界の書物だと決定付けられる根拠が後ろの方にあるのだ」
後ろから数えると五十ページぐらいの厚さだろうか。その紙面に書かれてある文字をみて、ウィンスタードは目を丸くした。
絵にも文字にも似つかない、今まで見たこともないおかしな文字が並んで書かれてある。
書物を再度手に取り読もうとしても、何と読むのかよくわからない。どんな文字なのか質問する前に、ハドレニアが説明を始めた。
「象形文字だ。それも天界のな。これによっていまだにこの書物はすべて解読されていない」
「象形文字だと……」
「あぁ、それに文字の解読の書物など一冊もないから、我々の技術をもってしても読めないのだ。、二、三ほどの単語を理解できても、それ以上は何年かかってもいまだわかっていない」
淡々と語っているハドレニアの表情はやけに真剣な目付きだった。
その表情からなんとなく察したが、きっと彼はこの書物を解読したいのだろう。
そして次には予想通りの言葉を発した。
「そなたに、この書物を解読してほしい」
一言一言、すべてが予想通りだった。
予想通りすぎて、思わず鼻で笑いそうになったが、いつも通りの無表情で答えた。
「……前も言っただろう。私はあなたに力を貸すためにここにいる。この国の知識を発展させようとしているのではない」
するとハドレニアはまたいつもの表情に戻る。
「まだそんなことを言っているのか……本当に天界に心を捕らわれているのだな、気の毒でならない」
「あなたは天界となぜ戦おうとしないのだ」
「先ほどの文章は読んだか? 天界は想像の世界、想像から万物を造り出す世界なのだよ。だからこの世界の国、人、今こうして余とそなたが話しているこの瞬間すら天界が想像して創造した時なのだ」
ハドレニアは椅子から立ち上がり、ウィンスタードの顔に近づく。
「余が天界に抗わない意味? それは、天界は地上界が抗う存在じゃないからだ。我々は天界の作った箱庭の中で日々憎み合い、奪い合い、殺し合う、天界の造った玩具にすぎないのだよ」
その不気味な声色と表情に、一瞬だけ言葉を失いかけたが、ウィンスタードは眉をひそめながらも再度問いかけた。
「それでは……あなたの国が天界に滅ぼされたらどうするのだ」
「天界に滅ぼされる前に、このすべての世界を支配する。それならば、天界が我々を殺した後でも、この国が天界の記憶に残るはずであろう? 地上界すべてを支配したディレクトリアという強国が存在した、なんて記憶が天界に残されるならば、余は天界に殺されても惜しくはない」
意味がわからない……。
ウィンスタードは心の中で強く呟いた。
そして立ち上がって、ハドレニアに反抗するような態度でまた質問を投げた。
「でも、この大陸すべてが協力して立ち向かえば、勝てる可能性だって、考えられる。権力主義で支配を重ねようとするあなたらしくもない」
そう言うと、ハドレニアはますます怪しく微笑んだ。
「天界は想像の世界だ。天界が思えば思う分だけ、天界自体も強くなるぞ。――強い力持とうとすれば、相手も強くなろうとして余計に争いが生まれる。それを余に堂々と申したのは誰であったかな?」
ウィンスタードは息を飲んだ。
その言葉に、頭が真っ白になって何を言い返すことも、動くことすらもかなわなかった。
自分は自分の倫理に反することを、無意識の内にしていたのだ。
そしてそれに気がつかぬまま、兵士を集めるために数年の時をかけてこの大陸を歩き回り、天使を殺し、人を殺してきた。
「いい加減自分の過去によって天界に心を捕らわれるのをやめろ。そなたという天才が無駄死にする方が、余にもお前の従者にも口惜しいものだろう?」
絶望の表情をさせるウィンスタードを見て、またにやにやと笑うハドレニアはそう言い捨て、書物庫から出た。
書物庫には気味の悪い静寂が訪れる。
――自分のこの四年の旅は何だったのだろう。
これが本当に、家族を救える方法なのか。結局は物語の読みすぎの、現実を見ない子どもの戯れ事だったのか。
天界は抗えぬ存在だったのか?
様々な思いが頭の中をぐるぐると駆け回り、放心してしまっていた。
こういう時にガルナにすがりつくことができればどれだけ心が楽になれただろう。
きっと彼は「お前の望んだ道を行けば良い」と答えてくれるに違いない。
今はそんな人物はいない。
自分すらも自分を慰めることができない。
「憐れな存在だ」
ハドレニアが言った言葉が急に頭の中で鮮明に甦る。
そして天界を討つことだけを見ていた自分を恥じた。
――これからどうすればいいのだ。
本当に天界を倒そうとしていいのか?
返事もかなわぬ遠い場所にいる尊き人にすがるように、心の中で繰り返し問いかけ続けた。
それでも何かが起こるわけでもなく、ただの静寂と悲嘆を感じた。