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SALVADOR  作者: れのん
前編
4/20

第4話 

それは麻薬をも自らで失う予兆

 空は灰色がかっていてあまり良い天気ではない。そろそろ冬が近づくのか、風も冷たく地面には枯葉が転がっている。


 旅を初めてから、もう既に二年半が経とうとしていた。

 ギルミナ帝国を去ったあと、セゼル地方の山が大噴火をしたという報せを聞き、北東にあるディレクトリア領を素早く目指すためのセゼル山沿いの道を通ることができなくなってしまった。噴火により周辺諸国は焼かれ、灰が積もり、土地は荒れた。飢饉も回避せざるをえない様子だったので、百姓はおろか兵士さえも飢え死んでいく始末であった。

 二年を過ぎた今でも、噴火や地震、飢饉などの厄災は絶え間ない。また、疫病も流行ることでどんどんと西側の国は落ちぶれていってしまった。


 東国の様子は未だよくわからない。南の国である、ツェヘレジア、キリオシア、ミルヴァスの領地にも足を踏み入れたがやはり災害によってなかなか交渉に応じてもらえず、数ヶ月の交渉を呈してようやく三千や五千の兵を協力してくれるようなものだった。

 数ヶ月の交渉でようやく応じてもらえるようになるのは、ウィンスタードによる話術と魔術の腕が全てだった。

 人と喋ることは少ない彼だが頭の回転は誰よりも鋭い。国の長所や短所など、その他国家でしか知らない事情さえも情報を収集し、国の特徴をとらえ、そしてそのありったけの情報を駆使して交渉を始める。名誉を特に気にかける国王には「天使と戦えば、民からの支持も上がる」と言ったり、天使と戦うことに臆している国には「怯えたまま戦わずして死ぬのは、あなたの祖先、あなたの臣民にも無礼である」とまで言った。

 その交渉によって交渉相手が激昂したり、従属してくれない時にはやむを得なく武力を用いた。

 武力とはいえど単なる脅しである。そして天使と対抗する力がなくはないということを見せつけるための、いわば安心させる種でもあった。今まで通ってきた国はそれぞれ魔術を重んじる国ばかりだったので、ウィンスタードが自らの魔術の力を見せるのは軍の協力を得るのに効果的であった。

 しかし最初から魔術を使うのは良くないと考えていた。なぜなら兵士を充分に集めたとしても、その後、天使と決戦をする時にでもこちらに従ってくれるかどうかわからないからだ。

 魔術の能力を見せるというのは、天使と戦いたいという強い意思を示した上で用いることができた最終手段であった。

 ただの一貴族が数々の国を動かすその姿には、さすがのガルナも唖然としてしまっていた。

 初めて交渉中に脅しの魔術を見せた時、ガルナでさえうろたえていたことをウィンスタードはよく覚えている。自分が赤ん坊の頃から共にオルストロ邸で過ごしていて、側近だが家族にも同然であるガルナにあんなにも唖然とされてしまってとても気まずく感じていた。

 それでも人間を殺してまで脅したことは一度たりともない。

例え我らを殺そうとしてくる輩がいるとしても、殺すことはないだろう。こんな現状であっても、最低限の理性がそれを許さない。

 憎い相手、気に食わない相手を殺すというのは、天界がやることと同じだからだ。

 家族を殺した、同胞を殺した天使たちと同じ術は使いたくない。だから人間は殺さない。

 ウィンスタードのその心はどんな国を前にしてもかたくなだった。


 次に向かう国はオリヴィア帝国という軍事国家だった。十年程前に多くの国に侵略をはかってきたため、周辺諸国と比べ領地が広く、国力も高い。侵略主義の風潮があるからこそ、今まで通ってきた数々の国に対し、野蛮で攻撃的な国であるとも考えられた。

 だが昨今は天使からの被害が多いのか、土地が荒れてさびれた様子が目立っていた。実際二人の通ってきた関所はひどくボロボロになっていて、貧相な鎧を纏った兵士数名が関所番をしているだけで他に人は一切いなかった。

 舗装されてある道も割れていて、道路の途中に見える家々もところどころ崩れている。煙突から煙の見える建物は無い。時折見る人間の死体は、白骨化しているものが大半であった。

 この悲惨な光景を見るなり、ウィンスタードはあることに気付いた。

 この領地には魔術師がいない。

 今まで通ってきた国は確かに天使からの攻撃や災害の爪痕が多く存在していて、荒れている場所は嫌というほど見てきた。しかしいずれも魔術師のいる国であった。魔術師の施す浄化によって、荒れた土地は雑草が生える程度には活力が蘇り、保たれ、元通りにはならずともそれに近い状況まで回復することができた。

 つまり復興は魔術師のおかげですぐに追いつくものだった。

 しかしここは魔術師による土地の再生が行われていない。天使からの襲撃や災害を最近受けたと考えたとしても、これほどまで荒れている理由はどうしても天使の直接の所業だとはあまり考えにくかった。

 先ほどから体を突くように刺してくるこの悪寒や嫌な気配は、オリヴィア領に入ったとたんに感じた。これは魔術師だけがわかる感覚だった。

 魔術師はこの嫌な空気を穢れ〉と呼ぶ。人の負の感情――怒りや悲しみ、憎悪などの感情が魔力に表れたものだとされた。

 通常、〈穢れ〉というのは魔術師による浄化魔法で消し去ることができる。だからこそ、これまで行った国は〈穢れ〉の魔力はここよりも少なかったし、魔術師も少なからず存在した。

 しかしここでは一切その処置が行われていないように見える。

 ここには一人の魔術師もいない、あるいは極端に少ない。つまり魔術師を快く思っていない国だと考えられるのだ。


 貧民街に入ればその国の有様がより一層わかりやすくなった。

 布切れのようなボロボロの汚い服を纏った住民たちが、虚ろな目をして街道の脇にしゃがみこんでいる。客を待つ娼婦も商人もひどくやせ細っていて、とても領地の広い国だとは思えないほどの荒廃ぶりだった。

 周囲に漂っている悪臭は、排泄物の臭いも腐敗した死体の臭いもあるだろう。道端に倒れている者は生きているかどうか全て確認するにもしきれないほどに多かった。

 そんな中に高貴な服装をしている、いかにも裕福そうな人間が貧民街を通るのを、住民たちの目が集中しないわけがなかった。

 その数々の目線が気になっていたものの、二人は構わず交渉相手となる政府まで向かおうとしていた。

 オリヴィア帝国では、つい先日まで周辺の領地を奪略し、暴虐を繰り返していた。

 しかし、天使の襲撃により多くの場所が荒らされてしまい、その隙をついた周辺諸国が一気にオリヴィア領地へと攻め込んでいった。

 今までオリヴィア帝国が野蛮な侵略を繰り返してきたがために次々と巻き起こった仕返しだった。

 そんな単純な意図があって、広い領土を持つこの国が〈穢れ〉の漂う荒地となってしまったのである。

 魔術を持たない国は、この大陸では生きにくいことが手に取るようにわかる。


 突然ガルナが立ち止まり、静かな声で問いかけた。

「ウィン。そこの右の曲がり角見えるか」

「曲がり角? 見えるが……」

 ガルナは一度、背後の様子を確認する。そしてしばらくすると、後ろを横目で向いたまま再度口を開いた。

「向こうに逃げるぞ」

 ガルナがなぜそういったのか理解できていないまま、ウィンスタードはガルナに手を引かれ、前方に見える曲がり角へと走っていった。

 ガルナの掴んでいる手がとても強くて、足も早く、段々と手首が痛くなってくる。どうしていきなり走り出しているのか問い掛けるものの、なかなか答えてはくれなかった。

 貧民街の路地はとにかく入り組んでいる。鼻が曲がりそうになるほどの悪臭を漂わせるゴミや、生きているのか死んでいるのかもわからない人間が倒れているのが目に付いた。

 人の気配のない暗くて細い小道に入り込み、しゃがんで物陰に身を潜めた。

 すると、ガルナに理由を問う間もない内に、角の右の向こうからたくさんの人が走っている慌ただしい足音が聞こえてきた。

(追いかけられていたのか……?)

 ウィンスタードは息を殺してその足音が去るのを待った。

 少しだけ様子を確かめたい気持ちもあったが、ガルナに襟に手をかけられていたので道に顔を出すのはやめておいた。

 足音の中にはガシャガシャというような鎧の音が聞こえた。全ての足音にそんな音が聞こえているわけではないから、おそらく鎧を身に付けている者と身に付けていない者がいることが予測できる。つまりは兵士と一般人が追いかけてきたということだろうか。何を言っているかは聞き取れなかったが、男の声もあったしかすかに女の声も聞こえた。

 しばらく建物と建物の間に身を潜めていると、段々と慌ただしい足音は遠くへ行って聞こえなくなっていった。

「何なんだあいつらは……」

「さあな。この街では俺たちの格好は目立つんだろう」

 ガルナは立ち上がり、ゆっくりと道路に顔を出して周囲の様子を確認した。

 どうやら追っ手はいないようだったが、道のわきに浅黒い肌をした白髪の老人が座り込んでいて、こちらを見つめていた。

「じいさん、この国に魔術師はいるのか?」

 魔術師、という言葉を口にした時だったか、老人のその虚ろな目が、突然目玉が飛び出そうなほどに大きく開いた。

「魔術師……!  そんなモンがおるわけなかろう!!」

 やせ細ったボロボロの老人は、今にも頭の血管が切れてしまいそうなほどの大声を張り上げていた。

「魔術師のせいで、どれだけワシらが苦しんでいると思っておる!! この世で最もおぞましい、不潔な輩……許せない許せない許せない!!」

 この老人が言った言葉を聞いた通り、この領地は魔術師に対して快い対応はしてくれないことが確信できた。このように血走った目つきで怒りをあらわにするほど、魔術師への憎しみが込められてある。

 それから老人はただ怒りを訴えるばかりであったので、二人は追っ手がこちらに来ない内にさっさとその場から離れた。

「ウィン、この領土は諦めよう」

 ガルナは低い声でそう呟いた。ウィンスタードは交渉を諦めることをあまり考えていなかったため、彼の言葉に少し驚く。

「そ……そんな必要もあるまい、第一、まだ国王に会ってないじゃないか」

「街がこんな有り様じゃ、城も城だ。ろくな話をするわけがないだろ」

「しかし、ここまで落ちぶれていればすぐに兵の協力が得られよう。今は国力が劣化していても、我々に着いてくれば回復するかも……」

「いいや、だめだ。どうせここはもうすぐ他の領土に奪われる。危険を侵してまで貧弱な力を得たいか?」

「……」

 そこまで言われると、ウィンスタードも納得せざるをえなかった。

 ウィンスタード自身もこの領土から早く出たくてたまらなかった。魔術師を狙う者が多いからというよりも、周辺に漂う〈穢れ〉の濃さがどうしても不快で、通りを通るだけでも体が重くて苦しかった。 

 〈穢れ〉というのは、魔力を扱い慣れた者が一番敏感に感じる成分である。今もその不快さは変わらない。


 裏路地をまわり、何とか街から脱出すると近くに森が見えた。この場所がどの位置なのか全く検討がつかなかったが、今はあの貧民街からできるだけ遠くに離れたい。

 すぐそばにある立て札を見ると、その森の向こうが領土から出る道であることを示していた。森はあまり深くないように見えるが、道が舗装されておらず、注意して歩かなければすぐに崖へ落ちてしまいそうなほどの細い道が続いていた。

 危険はあるだろうが、森を迂回する暇もない。こんな危険な場所で、

 二人は迷わず森の中へ足を踏み入れた。

 森を進んでいくうちにウィンスタードはあることに気付いた。

 この森は〈穢れ〉の量が多い。関所周辺や貧民街の中だけでも全身を覆うような嫌な悪寒を感じられたのに、今までの量を遥かに越える〈穢れ〉の魔力を感じた。

 悪寒だけではなく、頭も内臓もきりきりと痛み、吐き気はするし体は重くて足がふらふらしてきた。

 故郷は〈穢れ〉の魔力が少しもない清い場所であったため、天才的な才能をもつ魔術師のウィンスタードであっても、その苦痛を知るのは初めてのことだった。

 呼吸も苦しくなり、冷や汗がわいてくる。

 次第に歩くこともできなくなり、心臓を抑えながら、そばの木に寄りかかってしまった。

「大丈夫か?」

 地面にしゃがみこんでしまったウィンスタードに気付いたガルナが足を止めてそばにかけよった。

「……少しだけ時間をくれ」

「どうしたんだ? 顔色が悪いぞ」

「……〈穢れ〉を知っているか。魔力をもつ者には特に感じやすい成分だが、ここ一帯は量が多い。浄化がないと苦しくてな……」

 ウィンスタードは早速浄化の魔術式を展開し始める。

 浄化は試しに一度自宅の一部に使った時と、近くの街の魔術師に頼まれた時しかやったことがなかったから、うまくできるか確信はなかったが、今この状況では気休め程度にはなるだろう。迷わず浄化を行うつもりだった。


 浄化をすればしばらく〈穢れ〉の溢れる地帯にいても無効になる。念のための処置ではあるが、この際、魔術師はもちろん、魔術を持たない者でも、〈穢れ〉の魔力を浄化しておくべきだ。

 浄化の作業が終わると、再び東の方角に歩き出した。

 しかししばらく歩いたところでウィンスタードはまたもや足を止める。

 浄化を施しているというのに、いまだに〈穢れ〉の気配が止まないのだ。

 一度は自分の浄化魔法が不十分だったからとか、この一帯の〈穢れ〉の量が自分の思っている以上に多いからだとか考えていたが、周囲の気配に集中しているうちにあることに気付く。

――何かが近付いてくる。

 人間の気配ではない。もっと人間離れした速さと魔力の強さ、そして邪悪さを兼ねた何かだ。

 もしかして天使だろうか? 天使と似た気配であるにせよ、ここまで邪悪な感じがするのは普段とは大きく違っていた。

 その存在が間近に来る前には、ガルナも気が付き、大剣を手にしていた。

 こちらに向かっていたそれは、警戒を初めてからすぐに現れた。


 その正体はまさしく天使である。

 後方から姿を見せた一人の天使だったが、いつもより違う様子だった。怒りや憎悪が目でみてわかるほどに滲み出ている。自らが〈穢れ〉を吐き出しているかのように、天使からかなりの狂気が感じられた。

 気の狂っている天使を前にして、ウィンスタードは翼を損傷させるための魔法の詠唱を素早く唱えた。

 その間、天使はふらふらとした動きをしながら一心不乱にこちらに攻撃をしかけてくる。ただでさえ大きな槍をもって、予測不能な攻撃をしかけてくるから、攻撃を抑えようとするガルナも、その素早い動きと力の強さに抵抗するのみで精一杯であった。

 狂っている天使からの攻撃を防御している内に、ウィンスタードは魔法の詠唱が終わり、光の小さな柱を出現させて、天使の翼を貫く。

 普段天使と戦闘する時、彼らの翼を損傷することで天使が痛みに怯み、その隙にとどめを刺すというのが基本だった。

 しかしその天使は一瞬の怯みも見せなかった。光の柱で貫かれた翼を、力尽くで素早く引き抜き、こちらにまた迫ってきたのだ。

「くそ、効いてないのか!?」

「いや……効いているはずだ。おそらく……〈穢れ〉に狂って、痛みも感じていないほどに精神が壊れているんだ」

 そういえばこの天使から感じられる邪悪さというのは〈穢れ〉とよく似ている。

(天使も〈穢れ〉に狂うのか……)

 隙を見せてくれなければ、素早い動きをする天使の攻撃を回避し続けるのは限界がある。

 翼に傷を付けられたとしても、天使は一心不乱の攻撃を止めない。

 ウィンスタードは天使の攻撃をかわすため後ろに下がったその時、崖の縁の足元が崩れ、崖に落ちていってしまった。

「ウィン!!」

 ガルナは崖の際に駆け寄り叫ぶも、天使を相手にするのに手一杯で助けには行けなかった。

 天使は次々と力の強い槍の攻撃を仕掛けてくる。ウィンスタードの安否が気になるところだったが、どうしても天使に行く手を阻まれた。

 何とか天使の攻撃を剣で受けつつ、ガルナはウィンスタードの落ちた崖の方を見た。

 木の枝や石などが多く転がっているものの、そこまで高い崖ではないことがわかった。下の方で何か人影が少し動いているのが見えた。

 怪我はしているかもしれないが、自らの回復魔法でどうにかなるだろうか。

 今までも怪我をすれば自分で回復魔法を施していたのを思い出すが、ガルナにとっては不安な気持ちは拭えない。

 その不安な気持ちが大当たりしたように、いつも見るようなウィンスタードが死ぬ予知の映像が頭の中に流れ込んでくる。

 どうやって死ぬのかは、戦闘に集中していたからわかりにくかったものの、確実に、このままでは彼は今度こそ死の運命を受けるかもしれない。

「くそ……くそ……!!」

 こんな場所で終わらせたくなどない。

 ましてや天界と真っ向で勝負さえもしていないこの現状では、志の一つも明らかになってはいない。

 ここで死なせるわけにはいかない。

 ガルナは、焦燥の募る中、狂気の天使と交戦し続けた。


 ** ** **


 体中が酷く痛む。

 崖の側面を引き摺って落ちてきたものだから、木の枝が肌に擦れて切り傷がところどころにあった。

 何より左の足首と肩の痛みが特に激しい。底に落ちた時に強く打ったのだろうか、手を軽く触れただけで激しい痛みを感じた。

 おそらく、捻挫をしているか骨にひびが入っているのだろう。今まで打撲すらしたこともなかったから、魔力の苦痛とは違う痛みに歯を食いしばる。涙が顔の小傷に沁みる。

 魔法をかけたとしても体中が痛くて、未だうずくまっていたかったがそんな暇はない。早くガルナの元へ戻らなければならない。

 治癒魔術では傷口の回復はできても、関節や骨の治療はできないから足を引き摺って歩く他ない。

 その引き摺る足を地面につけるだけで激しく痛むので、立ち上がる度に何度も転んでしまった。

 近くに他の天使の気配がないだけ安心するものだったが、痛みをこらえて歩き出さねばならない。早く上に上がってガルナを助けに行きたかったが、思うように足が進まず、すぐに元の場所へ上がれそうな距離ではあっても気が遠くなった。


 元の位置へ戻るための道に差し掛かった時、何か周囲で誰かの気配を感じた。

 ウィンスタードは一瞬だけ天使だと思い警戒していたが、天使が放つ特有の魔力の感じが無く、何か普通の生き物だとわかった。左手の茂みの中にあるその気配が、獣なのか人間なのかしばらく考えていたが、天使ではなければその茂みの中にある気配を気にすることも必要ないと思い、またガルナのところへ向かおうとした。

 しかしその瞬間、後頭部を何者かに強く殴られ、ウィンスタードは地面に倒れ込んだ。

 気を失いそうだったが、倒れた拍子に伴った足や肩の激しい痛みが、気絶を阻止する。

 突然のことで訳がわからなかったが、どうにかして状況を把握しようとする。立ち上がろうともしたが全身が痛み出し、怯んでいる隙に後ろからそのまま抱き上げられ、左手の茂みの中に連れ去られた。


 ウィンスタードは気が付けば数人の男に地面へうつ伏せのまま押さえつけられ、身動きのできない状態となってしまった。

 頭を大きな手で押さえつけられているものの、何とか周囲に何人いるかを把握することができる。しかし大きな体格の男の力には、到底非力なウィンスタードがそこから解放されることは叶いそうにない。さらには傷を負っているから動く度に痛くなって、また歯を食いしばった。

 突然のことでどうしても頭が混乱するのを抑えることはできなかったが、状況把握は怠らぬよう、なけなしの自我で意識を張り詰めさせる。

 大柄で、見るからに貧相な服を着た汚い姿の男たちは、喉の奥を鳴らすように怪しく笑い、ガラガラとした不気味な声で耳元に囁いた。

「お前みたいな奴がこの国でうろちょろしてればどんな目に合うかわかってんだろ? 魔術師さんよぉ」

 耳障りなほどのその声が耳に入る。その声色の恐ろしさに背筋が震え、寒気を感じた。

 この間も、回りにいる五人ほどの男たちは怪しい声で笑い、そしてにやにやと目を細めている。

(まずい……)

 どんなに動こうとしても男の手から解放されそうな気配はない。むしろ動こうとするにつれて男の押さえつけている手の力が強くなり、その上他の男の手が足や手に回ってきてさらに身動きがとれなくなる。

 地面に押し付けられている右頬が痛い。

 押さえつけられるのが痛かったから身動きはあまりしなかったが、男たちの手が服の中に入ってきた瞬間、心臓がはねあがりそうなほどの恐怖と不快さが重なるように溢れ出てきた。

「い、いやだ……!」

 いろんなところを乱暴に触ってくる男たちのその手が本当に不快で、必死に抵抗をしようとしたものの、また力強く頭を押さえつけられる。口の中が切れて血の味がじんわりと伝わる。

「いやだと? お前が、お前みたいな魔術師がいるから、どうされても文句は言えねえよな 」

 この時、ようやく極度の身の危険を感じたのかもしれない。心臓が壊れるかと思うほどに早く動いている。あまりの恐怖に、次第に目には涙が溢れてきて、胸にはむかむかとした気持ち悪さが這い回る。

 大男たちの汚い手が体をまさぐってくる度、その不快さは増していった。

 彼らの荒い息づかいが耳元にまとわりつく。

「なに、命はもらわねえ。どこか魔術師の国に売り付けてやるよ。お前の服も体も魔術も、全部高く買ってくれるだろうなぁ……こんな国にいるより国家魔術師に体中の魔力吸いとられて、可愛がられて生きた方がお前も幸せなんじゃねえか? ん?」

「嫌だっ…… 離せ、やめろ!」

「まぁでも、国家魔術師に手をつけられる前に俺たちが先に味見してやろうってことだ。奴らの辱めに狂って死なないように、俺らが慣らしてやろうか。なあ?」

「めろ……、やめ、ろ」

 痛い。気持ち悪い。

 まだガルナは来ない。

 助けに来てほしかったが、それと同時にこの状況を彼にさらすことを無意識に拒んだ。

 だから自分でこれを回避したくてたまらなかった。

 だがそれは自分の倫理に反した。

 今まで人間に害なす天使は幾度と殺してきたものの、自分と同じ種族である人間を殺すことは絶対にしたくないことだった。

 しかしウィンスタードは他の打開策を考える余裕はなかった。ただひとつの呪文を、痛みに耐える声と混じらせながら、無意識に小さな声で呟くままだった。

 最後までためらった。

 けれどこれしか方法が考えられなかった。


 先ほどまで大男たちの汚いガラついた声がしていたというのに、一瞬の内でそれが消えた。

 いくつもの脳が破裂する生々しい音がした途端、自分の頭に温かい液体が降りかかるのがわかった。

 目で見なくともその液体が血液だということを把握するのは簡単なことだ。臭いや状況、そして自分の放った魔法から考えれば、自分に降りかかっている液体が何なのか充分理解できる。

 ゆっくりと辺りを見回すと、そのあまりにも残虐な光景に思わず目を見張る。

――これは自分がやったのだ。

 この人間たちの顔を、人間の顔とは思えないほどに無残の形にしてしまったのは自分だ。

 先ほどまで生きていた人間の息の根を止めたのだ。自らの魔法で、自らの力で、彼らの脳を光の柱で貫き、顔を破壊させた。

 辺りは血の海となり、ウィンスタード自身もまた返り血に全身が濡れていた。


 今思えばなぜ「殺害」が一番の打開策だと考えていたのか、馬鹿らしく思えてくる。

 恐ろしいことだ。

 同じ人間相手であっても、殺してやりたいとまで思えた相手を殺すことの容易さと快感を知ってしまったことが、何よりも恐ろしい。

 これこそが、人間を悪魔に変える感情なのだと、ウィンスタードはその時初めて理解した。


 ** ** **


 天使の攻撃は相変わらず、滅茶苦茶な槍の振り方だった。

 だが、天使は傷を付けても怯まないし、攻撃を繰り出す速度が速く、予測不能な動きをする。狂った相手との戦闘がこれほどまでの苦戦を伴うことを、ガルナはこの時初めて知った。

 何度も武器を打ち合わせた末、ガルナはようやく天使との戦闘で勝利する。心臓を貫くと、流石の天使も槍を手から落とし、地面へ倒れてそのまま立ち上がることはなくなった。

 割れた仮面からはひどく目を血走らせた男の顔がのぞく。天使はまだ息があるようで、荒い息を混じらせながら何かをつぶやいている。

「まぶしい……まぶしい、まぶしいまぶしい、ひ、ひじゅつ、……まぶしいまぶしい」

 少し警戒しつつも、思わず彼の言っている言葉を聞き入っていた。

 狂っていて呂律の回っていない上に、心臓を貫かれて血を吐きながら声を出しているから、言っている言葉を完全には理解できなかった。

「ひじゅつ、フぉるぜ、ル……ころせない、まぶしい……しぬ。しね、しぬしねしね、なぜ、ころさぬ、いたんしゃを……なぜ……」

『なぜ殺さない』

 ガルナは以前出会った天使のことを思い出した。

 夜に突然ガルナの目の前に現れ、そしてウィンスタードを殺すことを促してきた天使が、ふいにこの足元に倒れている天使と重なる。

 天使が完全に事切れてから、ガルナは彼の正体をふと思い当たった。

 彼の声が、以前に出会った天使と似ていたような気がしたからだ。天使と対話をするというあの思いがけない出来事をこれまでに忘れたことはない。ひとつも理解できぬ、そして腹の立つ言葉を告げるために現れた天使の声を、二年を過ぎた今でも頭から離れることはなかった。

 確かあの天使は、いずれ自分は狂ってしまう身だと言っていた。

(もしかしたら、こいつは……)

 あの時出会った天使なのかもしれない。


 しかし今はそんなことを考えるよりも、ウィンスタードを助けることの方がよほど先決であることは確かだ。

 気がつけば、先ほどまで流れていたウィンスタードが死ぬという予知の映像が頭の中から消えている。あんなにもうるさく響いていた不協和音はあとかたもなく止んでいて、嫌な静けさを感じさせる。

 ガルナは焦った。その映像が消えてしまうということは予知の消滅。つまりウィンスタードの死を意味しているとも考えられる。

 焦燥は募るばかりで思わず体が震えたが、すぐに気を取り直して、崖の下への道を行き急いだ。


 しばらく進むと、濃い血の匂いがつんと鼻の奥に刺してきた。誰の血か、どんなことがこの周辺で起きたのかあまり考えたくなかったが、ちょうど崖の下に着いた道の脇の茂みが、どうも怪しいというふうに感じる。このどす黒くなった枯葉に溢れる茂みの向こうから、確かに濃い血の匂いがするのだ。

 ガルナはゆっくりと茂みの向こうを覗いた。そしてその光景に目を丸くする。

 そこは死体と血液で溢れる悲惨な光景の場所だった。

 何か槍のようなもので頭を貫かれている死体が、五人ほど地に横たわって散乱している。それらはすべて、体格の良い男の死体に見えるが、顔は無惨に砕かれていて、人間の顔という原型さえもとどめていない。その傷口と呼べそうにもないほどに大きく損傷している箇所からは真新しい血がいまだに滴り流れていて、地面に染み込んでいる。

 その血の海からやや離れたところまで、血の跡が地面に続いていた。その跡を目で追っていくとすぐに、うずくまって震えているウィンスタードの後ろ姿があった。その悲しい後ろ姿を見れば、そばにある死体の山が誰の所業でなったのか、すぐに理解できた。

 それでもガルナは一瞬安心したものの、震えて泣いている彼のことを思うと、どうしようもないほどの悔しさが溢れてくる。

 ガルナがウィンスタードの肩に触れようとした時、突然手を弾かれた。ウィンスタードはガルナから離れようとしながら抵抗の声をあげる。

「さ、触るな、来るな!!」

「落ち着けよ、俺だ。大丈夫だ、もう何も心配はいらない」

「いっ……いやだやめろ……」

「ウィン……」

 ガルナは逃げようとするウィンスタードの腕を引いて、そのまま強く抱きしめた。抱きしめてからというものウィンスタードは小さな力で抵抗をしていたが、だんだんと我に戻ってきたのか、咄嗟にガルナの背中の方にその細腕を回した。

「うっ……うううぅ……」

 最初は声を抑えていたものの、やがて抑えていたものを一気に放ったように泣き叫び始めた。

 ガルナは精一杯の慰めの意をその抱擁に示した。

 ウィンスタードの衣服も髪も肌も、すべてが血で染まっている。首元を見れば、肋骨が見えるほどにはだけていた。

 問いかけてみたが、ウィンスタードはその問いに頷くことも首をふることもなかった。

 思えば後ろにある死体の山と血の海を見ればわかることだ。何かされない限り、温厚な彼が人を傷つけるわけがない。

 彼を守ることができなかった悔しさと怒りがどんどんとこみあがってくる。

 ウィンスタードが死ぬ予知が止んだのは、彼が自分で死の運命を切り抜けたからだ。そう思うと、自分があの時天使と相手をせずにウィンスタードを助けにいっていればとも思う。そうすれば、ウィンスタードが今こうして慟哭をあげる必要はなかったのではないか、と……。

 自力で切り抜けたとはいうものの、彼の身も心も傷がついてしまっただろう。大男数人に囲まれ、羽交い締めにされ、自尊心を抉られ、終いには汚い人間の汚い血を浴びた。これ以上に屈辱的なことを、この少年が経験したことなどあるはずがない。

「ガルナ……」

 ウィンスタードは落ち着いてきたのか、嗚咽をあげつつか細い声で話し出した。

「わたしは、人を殺してしまった……とうとう、人を、殺してしまった」

 ガルナはその言葉の悲痛さに思わず眉を寄せた。

 それも彼が思うだろうことだと思っていたからだった。今まで天使に魔力をふるうことはあっても、人を殺すために魔力を使ったことなど一度もない、そして「憎いから人を殺すということは天使と変わらない」という己の倫理を自らで破ったのだから、彼がこうして青ざめているのも、彼の性格を知った上でなら理解できた。

 それでもウィンスタードの行動は完全なる正当防衛だ。あの男たちに同情の余地などどこにもない。

「それでも、お前はこうするしかなかった。殺していなければ、お前が殺されていたんだ」

「違うんだ」

 ウィンスタードはガルナの言葉を遮るように否定の意を発した。

 両目に涙を溢れさせながら、また息を荒くさせる。

「殺した時……本当に一瞬のことだったんだ……この一瞬が、どれぐらい恐ろしいものかわかるか……簡単なんだ…………一瞬で、人の脳髄が吹き飛ぶ」

「……ウィン?」

「一瞬すぎて……簡単すぎて……人を殺し慣れてない私は、次は、殺すべき人じゃない人さえも、殺してしまうかもしれないって思えてきたんだ。天使を殺すのとわけがちがう……ほんのすぐの間に、私は人の一生を終わらせてしまう」

 ウィンスタードは心を落ち着かせてからまた顔をあげて、ガルナの方を向いた。

「ガルナ、お前は私を諭してくれるか。もしも、酷い過ちを犯してしまいそうになるとき、お前は私を止めてくれるか」

 後悔も恐怖も混ぜ合わせたような若草色の瞳が揺らめく。まるで訴えかけるような嘆きの眼差しが、また悲痛な色をしていて、ガルナはその気の毒さに思わず目頭が熱くなる。

 彼にとって人を殺めるというのは、こんなにも後悔の表情をさせるほど禁忌の行いなのだ。

 けれどガルナには、ウィンスタード自身がもつ執念よりも大切なものがあった。例え彼の自尊心が傷つけられたとしても、無くなっては惜しいものがあった。

「……お前はそんなことはしないさ、罪のない人を殺すなんてこと、お前にあるものか。もしもそんなことが起こるものなら、絶対に止めてやる。……だけど生きてほしい。死ぬことだけは避けてほしい。それが間違いだとしても、俺はお前を許そう。誰もがお前を虐げても、俺はお前を許そう。同族に殺されて家族の元へ行く方が、余程、俺は許せない」

 ウィンスタードは涙を流しながら、固まったようにガルナを見つめた。唇を震わせて、時折しゃくりをあげながら、大きく見開いた目をガルナに向けていた。

 しばらくしてから視線を落とし、ぽろぽろと涙を落とした。そしてまたガルナに顔をあげて、「ありがとう」と一言呟く。だがそのあと少し間が開いてから、「すまなかった」とまた顔を俯かせて謝罪をした。

「謝ることなんてない、むしろ俺が守らなければならなかったことだったんだ。お前が平気でよかった……早くここから出よう」

 ウィンスタードは頷いて、立ち上がろうと地面に足を付いた。

 しかし足を捻挫していることを忘れていて、激しい痛みを感じて地面に手を付ける。

 見れば足首の痣がどんどんと広がって、腫れあがっている。改めて、治癒魔術に対して人間の内側を治療できないもどかしさを感じた。

 その様を見たガルナは、すぐにウィンスタードの膝裏と背中に腕を入れて、そのまま抱き上げて森の小道を進み始めた。

「……支えてくれれば歩ける」

「いいよ。もう少し進んだあとで固定具と松葉杖を作ろう。それまで運んでやるから、な?」

「…………」

 如何にせん、返り血まみれなのだからガルナの肌や髪や衣服に血が付くことも、わざわざ運んでくれることも申し訳なかったが、ウィンスタードは目を伏せながら小さく頷いて、結局彼の言葉に甘えてしまっていた。


 ガルナに抱き上げられながら森の道を進むにつれ、ウィンスタードは少し瞼が重くなってくるのを感じる。そしてうとうとした眠気の中でふと思うのだった。


 ガルナは優しい。

 心の弱い自分は、その優しさに酔いすぎて、もっと身を預けたくなる。

 こんなにも不安定な世界で、数々の国の軍隊の協力を得て来ることができたのも、襲い来る天使と戦うことができたのも、ガルナがそばにいてくれたおかげだった。

 もしも彼がいなくなってしまったら、自分はどうなってしまうのだろう?

 何の別れの言葉も告がれずに突然消えたら?

 それとも自分の目の前で倒れてしまったら?

 そんなの今まで考えたこともない。この世で一番長くそばにいる人間をもし失ってしまうことがあれば、自分はどうすればいい。きっと受ける悲しみは、家族と死別してしまった時に感じた悲しみよりも深いものだろう。

 それに堪えられる覚悟は?

 その後を生きられる保障は?

 自分にはその勇気があるのだろうか。心の弱い自分が、大切な人を失うつらさを、もう一度堪えることができるのか。


 もう今さら離れることなど堪えられるはずもない。彼の優しさを、永遠に触れることができると信じきっている自分に、その後を考える度胸はなかった。

 彼の存在は自分にとって唯一最大の原動力であり、そして残酷な麻薬でもあるのだから。


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