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SALVADOR  作者: れのん
前編
3/20

第3話

災厄の引き金を引き続けることこそ、唯一の正統

 今日のように月の明るい夜――近くの街へ、主人に頼まれたものを買いに行っていた日の帰路だった。

 「それ」は突然訪れた。

 前触れに前触れなど訪れない。それは一瞬の内に頭の中にいっぱいになり、次にはその事実の絶望さで胸が苦しくなるほどの吐き気に襲われた。

 そして次第に涙が溢れた。何十年も知らなかった涙だった。こんなにも苦しくて大声を上げたくなるような悲しみを味わったことは、恐らくこれまでで一度もないだろう。

――免れない運命なのだ。誰が阻止しようとしても防ぐことはできない、悲しい筋書きなんだ。

 自分の中ではわかっていたものの、その予知を知った時にすぐさまとった行動は、運命を変えるべく彼らを助けに行こうというものだった。泣いているばかりではだめだ。運命に抗ってはならないとわかっていながらも、彼らを助けに行きたかった。

 三十年近くもあの屋敷で過ごし、家族や親友と共に裕福に生きていた特別な時間が、走馬灯のように頭の中に流れていたが、その時の自分にはまず告げられた運命を覆さなければならないという意思が強かった。

 抗ったことで訪れる更なる恐怖にも屈せず、屋敷への帰路をよく全力で走れたものだと今となっては思う。

 それでもあの時は彼らを失う覚悟などなかった。彼らを失うことの方が恐ろしかったのだ。運命に抗ったことで訪れる恐怖なんて、彼らがいれば立ち向かえるような気がした。

 自分は、彼らといる未来が欲しかった。

 一分一秒でもいい。誰か一人だけでもいい。

 幼少期の、感情を持たない頃に味わった孤独を、これほどまでに時間を経てから味わうなど絶対に想像できない。


 川を越え、丘へ登り、屋敷が遠くに見えて来ると、さらに信じたくない光景を見た。

 我が家は炎に包まれて、黒煙をあげている。そして人々の叫び声や泣き声が入り混じって、より焦りや不安がこの胸を押し寄せる。その光景がどうしても、自分には予知の能力があるということをゆっくりと思い出させてくるのだ。

 もう数十年近くも感じなかった感覚。

 人が苦しむ予知。人が死ぬ予知。

 そしてその予知が実行され、自分はどうして、防ぐことができなかったのだと悔い悩む罪悪感。


 他人が死ぬのであればどうでもいい。それでも大切な人が死ぬのは何よりも耐え難い。

 これこそが自分が一番恐ろしく思っていた筋書きだった。


「屋敷にはあと何人残っているんだ?」

 炎の燃え盛る屋敷の前まで行くと、それを絶望の目で眺めている小間使いの女に話しかけた。

 だが彼女は恐怖で身がすくんでいてなかなか答えてくれない。先走る焦燥に思わず声を荒立ててしまう。

「まだランバートたちはいるんだろう? 早く答えてくれ、あと何人あの中にいるんだ!」

「が、ガルナ様……それが……」

 下女は手のひらほどの大きさの白い羽を差し出した。淡く光り輝く、不思議な羽だった。

「……それは何だ」

「天使が、いるのです……恐ろしくて、誰も立ち入ることができないのです」

 そう言うと下女は恐怖のあまりか、泣き叫んでうずくまってしまった。

――天使がいる。

 ついに彼らはこの領域まできたのか。魔術を盛んにする東の国と抗争を繰り広げていたというが、ようやくここの領域まで勢力をあげてきたようだ。

 妻子も友人も周りのどこを見てもいない。ただ、泣きすくみあがっている召使いばかりしか見られない。

 燃え盛る屋敷が徐々に崩れ始めている。あんなに立派だった美しい建物が瓦礫となっていくのが、目の前で起こっている。

(行かなければ……)

 早く助けに行かなければ。

 そう思い、一歩足を動かした時だった。

 その踏み入れた足元から途端に暗闇の世界が広がった。

 先ほどまで炎に燃え盛る我が家を前にしていたというのに、熱さも焦げ臭さも騒がしさも不安も何もない。ただ無の空間。そして、一歩踏み出したままの状態で身動きは全く取ることができなかった。

 自分も恐怖にすくみあがっているのか? それとももう既に天使に殺されてしまって、こんな無の世界に連れてこられてしまったのだろうか。

 違うそんなわけがない、と心に言い聞かせつつ、どうにかして体を動かそうとしていた。そして、石のように固まって動かない足元の方を見てみる。

 そこには大量の白い羽が自分の両足にこびりついていた。大きさは、先ほど下女が見せた羽よりもずっと小さく細かいものの、それがおびただしいほどこびりついている。ただの羽に見えるというものの、足を少しも動かすことができない。


 助けに行かせない気なのだ。今燃え盛る屋敷の中にいるのは、命を助けてはならない死期の訪れた人間たちだからだ。

 けして、死期の訪れた人間を生かしてはならない。

 それがどんなに大切な人でも生かしてはならない。


 なぜなら運命に沿わない人間は、災厄の引き金となるからだ。何が起こるかは知らないが、それに逆らえば、運命が順調に回っていたところに、ズレが生じる。そしてそのズレにより、何かの混乱がこの世界に訪れるのだ。

 運命に抗うことは何よりも不吉なことなのだ。


「なぜそんなふうに思うんだ?」

 ふと自分の中に声が響いてきた。

「なぜ運命に抗ってはならないんだ?」

 その無の空間には一つの気配もしない。誰だかわからぬ声が、頭の中に響いていくようだった。

(そんなこと、知るものか……)

 なぜ、自分はこんなにも、運命を抗うことを拒むのだろう。

 そもそもなぜ、自分は人の死期を知ることができるのだ。

 他の人々は人の死期を知ることなどできない。それに気が付いたのはずっと若い頃だった、そして、人の死期を知ることのできる人間などいないということも、それからすぐに気が付いたことだった。


(俺は誰の子なんだ、人間の子なのか)

 ずっと知らないまま生きてきた。自分の正体を知る術などどこにもないから、さして気にすることもなかったが、今ははっきりと思う。

 自分は誰なのだ、と。

 自分は人間なのか、魔物なのか。それとも――。


 途端に、無の空間から解き放たれたように、焼けている我が家が前にそびえ立つ、絶望の世界へと戻る。


 ここまではあの時体験した出来事と同じだった。


 しかしウィンスタードが、オリワルハを抱えて出てきたはずの目の前の正面玄関は、焼け落ちた瓦礫によって塞がれていってしまった。 

 もはや屋敷は全焼し、しばらくしても何も出てこなかった。


 


 これは夢なのだ。

 暗示なのだ。

 

殺せ。

 無意識に頭の中にそんな言葉が浮かんでくる。

 誰のものかわからない声が、筋書き通りにならない人間の処理をすることを促してくるのだ。

 


 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ

 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ


 ** ** **


 悪夢から目覚め、声が洞窟内に響く。一晩を過ごした薄暗い洞窟の中で、ガルナは目を覚ました。

 外はもうすでに朝になっていて、ちょうど朝日がこちらに痛いほどに射してくる。

 本当は眠らずに見張りをしようと思っていたのだったが、思わず眠ってしまっていた。気疲れしているせいか、夜になるとどうしても瞼が重くて仕方がない。

 予知夢を見たくないはずなのに、眠らぬことをどうしても眠気が許さないのだ。

 天界の襲撃が起こった夜からずっと見る予知夢は、時が経つにつれて急速に鮮明になってくる。その予知夢とは、あの屋敷が襲撃された時の出来事がそのまま映し出される内容であり、最後には実際には起こらなかった展開までもがくっきりと見えてしまう。段々と、あの時感じた熱さや焦げ臭さが、より現実的になってくるのではないかと思ってならない。

「ガルナ?」

 洞窟の入口で、ウィンスタードがこちらを覗いた。

 もう先に起きていて準備もできているようだった。左胸に垂らして結った髪が少し不格好なのが多少気にはなるが……。

「ガルナ、向こうに川がある。川沿いを歩けば、どこか街に着けるかもしれない」

「川沿い……か」

 金などは充分あるものの、街に着けず飯も寝床も不完全だったため、初日から野宿で散々である。今日こそは街について、小さな宿でもいいから寝台に寝転びたいものだ。

 荷物をまとめて小さな洞窟から出る。

 空は澄んで青くとても心地の良い風がふいている。

 丘の上は特に空を広く見渡すことができて、とても良い景色だ。昨日交渉に行ったギルミナ帝国の街がよく一望できる。

 ギルミナ帝国は西エルス大陸で特に大きな国だから貿易も盛んである。国へ入っていく荷馬車や商人たちが、遠くから見てもよくわかった。

 

 川沿いを歩いている最中、ガルナは先ほどから気にかけていたことを思わず口に出す。

「さっきから気になるんだよな、それ。ちゃんと鏡見て結ったのか?」

「……鏡がないからうまく結えないんだ」

(鏡があってもうまくないくせに……)

 ガルナはそう言いたい衝動を抑え、彼の髪留めの布を解いて、また綺麗に結わき直してやる。

 ウィンスタードは少し困り顔で呟く。

「そんなに不格好だっただろうか」

「いつも下女にやらせてたからだろ。これからは自分でもできるようにしといた方がいい」

「そうだな……わかった」

 ウィンスタードは頭も良く心優しい性格であるものの、手先の不器用なところが玉にキズであった。魔術など得意な分野には鬼才と呼んでいいほどにずば抜けた能力を発揮するが、苦手なことにはとにかく苦手で、できることとできないことの差が激しい。

 しかし苦手なことがあるぐらいがちょうど良いのだ。得意なことに関しては人間離れしているぐらいに才能を発揮するから、「苦手なことがある」という人間らしい一面があって逆に安心する。

 それでも全て安心できるというわけではない。貴族として平々凡々と過ごしていたからこそ生活能力も皆無なはず。自分がしっかり世話をしてやらないと、天使と対決する前に死んでしまうというのもありえなくはないなと、ガルナは心の中で苦笑した。

 一人で生きていける力もないくせに、最初はよく「一人で旅に出る」なんて言えたものだ。

「そういやお前、なんで髪伸ばしてんの?」

 ふと思いついた疑問を何となく問いかける。ウィンスタードはやや口を尖らせて言った。

「その言葉、そっくりそのままお前に返したい」

「あー……まぁそうだな。俺は昔、ランバートに言われてこうしているわけだが」

 そう言うと、ウィンスタードはきょとんとした顔になる。

「父様に? どうしてだ」

「さぁな、俺にもよくわからん。伸ばした方がいい、とだけ言われただけでな」

 ガルナはオルストロ家に迎え入れてくれたランバートに自由を売っている身であるから、彼の言ったことについては従わざるをない。だが今となっては、髪を伸ばせと言った理由もちゃんと聞いておけばよかったとも思う。

「……髪が長い人間はそんなに珍しいことではない。特に魔術師は……魔術師の間だけであるが、髪には魔力が込められていると信じられている」

「魔力が?」

「髪が長ければ長いほど、魔力が込められるのだ。だから魔法による苦痛も和らげてくれるという」

「だけど……俺は魔法を使わないぞ。どうしてランバートは髪を伸ばせと言ったと思う」

 問いかけてみると、ウィンスタードは少し考えてから答え始めた。

「それは多分、ガルナが魔術を始めると思っての言葉じゃないか。前にも言ったようだが、お前は体質がある。魔術を扱う上での体質が私以上に相応しいのだ……全くと言っていいほどに、宝の持ち腐れだ」

 最後に強く指摘されたような気がして、ガルナなぜかきまりの悪い気持ちになる。

 若いくせに言うことはなかなか痛いところをさしてくる。

「悪かったな……だけど魔術はずっと苦手だったから、今更やる気にもなんねーよ」

 ランバートに薦められて魔術書を開くことは少々あったが、どれも解読が難しすぎて魔術の勉強時間だけはさぼっていたものだった。例え、魔術の天才であるウィンスタードにどう言われようとも今更魔術を始める気にはならない。

 魔術はなくとも自分には剣術があるから自分の身も他人も守ることはできる。魔術を扱うことによって得られる名誉もいらない。そういうところは護衛兵士がしゃしゃり出るような面でもないだろうとガルナは常に思っていた。

「魔術をしないにせよ、長い髪は持っていた方が良いだろう。それは微力ではあるが、お前を魔法から守ってくれる見えない防御壁のようなものだから……」


 突然地響きのような音が聞こえてきた。

 その地響きは段々と大きくなっていき、若干地面が揺れ始める。すぐ近くの林からは多くの鳥たちが逃げおおせているのが見えた。周辺にはウサギやリスなどの小さな小動物まで慌てている。

「……地震か?」

 ウィンスタードがそう呟いた時、ガルナはあの天使の襲撃の夜から気にかけていたことを思いついた。

――そしてとうとう、その時がやってきたということを確信したのだった。


 次の瞬間、立っていられないほどに大きな揺れが起こった。

 何もない丘の上だから安全だというものの、これほど大きな地震だと地割れが恐ろしい。しかし揺れは大きすぎて立つことはおろか、身動きをすることすらかなわない。

 二人はその大きな揺れに耐えることができずしゃがみこんだ。

 周囲にいる小動物たちが、一斉に慌てて逃げ出す。

 木々は今にも倒れそうなほどに揺れ、大風でも吹いたかのように木の葉のこすれる音がした。地面からは地響きが悲鳴のようにうなる。川の水が大きく揺れて、波打っている。


ただひたすら揺れが収まることを待つばかりだった。


 しばらくして揺れが止まり、また穏やかな時が訪れる。

 おそるおそる立ち上がり、ふと丘の下の遠くをのぞいてみると、あれほど立派な城塞を持っていたギルミナ帝国が崩れていくのが見えた。

 そばで見れば見上げるほどに高く、そして頑丈に作られていた城壁が、いとも簡単に崩れている。よく見ると、城壁の内側に建ち並ぶ家などの建物も、次々と崩れ、潰れていく。

 その無残な光景にしばらく唖然としていてしまったが、ガルナはウィンスタードが丘を降ろうとするのに気が付いて、すかさず彼の腕を掴んで国へ戻ることを阻止する。

「待て、どこへ行こうとしてる? 助けるつもりか? そんなの俺たちがやるべきもんじゃない」

 というと、ウィンスタードは掴まれている腕を振りほどいて抗議をする。

「何を言っているんだ……見殺しにする気か」

「お前がこの旅でやろうとしていることは万人を助けることじゃないだろう。天界と戦うことだ。……人を助ける暇なんて、無い」

「……」

 ウィンスタードは返事こそしなかったが、渋々受け入れたように見えた。

 ガルナは複雑な思いを抱いた。本当はそんなことを言いたくはなかった。とても悪い言葉だ。

 けれど、後から考えても、この度の目的の成就のためであれば、助けに行くことは合理的な判断ではない。むしろ、助けに行くなどという選択肢は我々には無い。

 それはお互いよく理解できていたが、わだかまりはあった。特にガルナにとっては、その原因を知っているからこそ、やり場のない感情があった。


 その後は宿を探すべく、夕方になるまで川沿いを歩いていた。

 どの街も大地震で混乱していて、宿屋も民家も一晩泊めてくれるような場所はどこにもなかった。

 しかし南に近づくにつれて地震の影響を受けているような建物は無くなっていった。そうであっても、これほどまでに大きな地震はここ数百年冠例に無いがために、誰もが「天界による天罰である」と言って、ただの旅人を泊めてやれる余裕のある宿はない。

 民は動揺をしていた。今までに体験したことのない大地震によって、街が壊され、井戸も壊れ、これからの生活に疲弊する気配は拭えない。

 今日も野宿になるのかと諦めそうになっていたところ、人気の無い道脇に倒れこんでいる女の姿が見えた。瓦礫に両足を押しつぶされていて、足を瓦礫から抜こうと必死にもがいている。

 思わず目が合ってしまったので、助けに行かざるを得なかった。

「ありがとうございます、高貴なお方たち……」

 質素な服装の若い女は立ち上がろうとしたが、瓦礫で潰されていた両足が怪我をしているようでよろめいてしまう。

「立てないのか? 血が出ているようだが」

「お、お構いなく。一人でも平気です」

 女はそう言ってもう一度立ち上がろうとするものの、今度は地面に両手をついてしまうほど大きく躓いた。

 転んで顕わになった足首を見て、血が多く出ているのがよくわかった。

 ウィンスタードは彼女に駆け寄ってしゃがみこみ、「足を出せ」と言った。

 女は少し戸惑いながら両足を前に出すと、ウィンスタードは彼女の足に手のひらをかざし、白く光る魔法陣を現した。しばらくすると傷口を白い光が包み込んでいく。

「足の腱を切れば歩きにくくもなるだろう。このままでは、帰れそうにもあるまい」

 白い光は輝き続ける。すると次第に傷口が塞がれていった。

 魔法での治療を終えると、女は今度はちゃんと立ち上がることができた。

 女は慌てたようにぺこぺことお辞儀をして、先ほどよりもうやうやしく礼をした。

「魔術師のお方だったのですね。お見苦しいものを見せてしまい、そしてわざわざ私などに治療を施してくださいまして……本当にありがとうございます。何をお返ししたらいいのかわかりません」

 どうやらこの地方も魔術師に対して敬する姿勢をとる者が多いのだろう。大陸の中央にはいまだ行ったことがない場所ばかりだったので、どこが魔術師に厳しい国かわからない。とりあえず、こうした反応を示してくれるようであれば少しだけ不安感も取り除かれるようなものだ。

 何かお返しをしたいと言い続けるその女に頼みたいことはただひとつであった。

「一晩だけ泊めてもらえないか。宿を探していたのだが、泊めてくれるような所が無くてな」

「まぁ……お安い御用ですわ。狭い家で申し訳ないのですが、喜んで」

 と、女は微笑んで言った。

 女の家には陽が落ちる前には着いた。

 その家は倒壊こそしていないものの、ドアの部分は壊れていたり屋根の瓦は少し落ちていたりと、地震の影響がこの地域にも及んでいることを物語っている。

 家には亭主とその子どもたちが住んでいる、いわば一般的な民家であった。亭主は心配そうな眼差しをしていたが、妻から「魔術師に助けてもらった」と聞くと、安心したような面持ちになった。

 貴族の住まう屋敷ほどの大きさはないものの、少なくとも昨晩泊まった洞窟よりはずっと良い。旅人二人が寝泊りできる部屋は充分にあった。

 夕餉が始まるまで、ガルナは外で薪割りを手伝っていた。 

 屋敷に住んでいた頃からこのような力仕事は、非力な下女たちの代わりにやっていた。

 ランバートの連れてくる使用人はどれも奴隷である。時折彼はわざと奴隷市場に赴き、せりに参加する。金に余裕があれば幾人かを買って帰ってくる。

 金でやり取りはするが、それは彼女らを助けるための「手段」に過ぎず、ランバートはその奴隷たちを買った時点で「人」として扱った。自由になりたい者は自由にさせ、一人で生きていけない者には自分の屋敷に連れてきて使用人として雇う。

 ランバートは奴隷市場から「人」を選び出す時、彼らの目を見て選ぶと言っていた。

 奴隷として扱われている彼らから、まだどれだけ「人」として生きていたいか思っている者が誰かを見定めるためである。

 こうしたことを若い頃からしてきたランバートは、同じ貴族の間でも相当の変人だと評判であった。幼い頃から付き添っているガルナでさえも彼が変人であるという事実は否めない。しかし、彼のやり方を拒むことはなかった。

 屋敷での力仕事が全てガルナに任されていたのは、殆どの使用人が女性ばかりだったからだ。

 連れてこられる元奴隷たちは女性が多かったから、屋敷には女性の使用人ばかり増えていった。

 魔術師や戦士など、ある程度教育を受けた者は奴隷にはならないという規則によって、教養のない女性たちばかりが奴隷市場に売られることが現代では当たり前となっている。基本、女性には学問を身に付けてもよい権利を持たないため、武術や魔術を持つ資格など無く、非力な存在の立場に置かれることを余儀なくされる。

 けれどもランバートは、文字の読めない者がいれば一から教え、さらには文字を書くことさえも身に付かせていった。

 彼は己の利益も、他者の利益も自在に操った。己のためにしか動かない下手な貴族よりも、より領主らしい男だった。これこそが統率力なのだろう。

 彼が幼い頃から心の片隅に置いていた野心が成就していたら、本当に大陸で最も栄えある国を築き上げることができたのではないか。そのための才能が無くとも、周りの者たちが埋め合わせれば良いだけのことで、少なくとも技量は充分にあったはずだ。


 その野心も、今では本人がこの世にいないことには叶わない。

 けれどランバートの息子であり、オルストロ家の主を継ぐウィンスタードを見ていると、どうしても継がれるのは「家」だけではないことを感じさせる。

 ある時ランバートは「息子に自分の意思を継いでもらいたい」と、ガルナに呟いたことがある。子どもたちを自由に過ごさせてきた彼のことだから、きっと半分は本音ではなかったと思うが、もう半分は本音で言った言葉だっただろう。

 果たしてそれは半分の本音だけで流してもいいのだろうか、願望のままで終えてもいいのだろうか。

 ランバート以上に博識で魔術の才があって行動力も申し分ないウィンスタードという少年は、父親と同じような器量を持ち合わせ、そして父親以上の才能を発揮してくれるのではないか。

 宿にいる子どもたちに文字を教えている彼を見ていると、もしかしたら彼は父親の意思を継ぐことができるのではないかとガルナは思うのだ。

 その眼差しこそは、少し哀愁を帯びているが……。

 可能性は捨てきれない。

 昨晩は気分も疲れていたせいでかなり卑屈になっていたが、子どもたちの未来は完全に壊されたものではないのである。

 自分が彼を生かすことができるなら、ウィンスタードの意思も、恩人の意思も成就することができるかもしれない。

 それは恩人にとっても、ウィンスタードにとっても、自分にとっても誇らしく、素晴らしい世界だろう。


 ガルナは最後の薪に斧をふり下ろそうとした。

 しかしそれに刃が入る直前でぴたりと止めてしまう。

――いや、止めざるを得なかった。

 斧を振り下ろしたそこに、一瞬だけウィンスタードが横たわっているように見えたからだった。

 それに驚き、うろたえて引き下がり、ガルナは手にある斧を投げ捨て、もう一度それを見る。

 しかし、そこにはまだ切断されていない大きめの薪が、台の上に立っているだけだった。

 すかさず家の中を見てみると、ウィンスタードはまだ子どもたちに文字を教え続けているようだった。その光景を見て安堵するものの、恐ろしい気分は拭えない。


 殺せ、という暗示がその時初めて幻覚となった。

今日の地震といい、早くも不吉なことが起こり始めている。

 夕餉を終えると、二人は借りた部屋へと移った。

 昨日のように天使との戦闘はしていないものの、川沿いを歩き続けたり、子どもに文字を教えたりと、ウィンスタードはかなり疲れている様子だった。

「子どもの探究心はすごいものだな。文字を教えるだけであんなにも食いつきが良い」

「お前が学問をするのと同じことさ。俺もガキの頃に文字を教えてもらった時は嬉しかった。知ることに喜びをもつのはお前が一番よく知っていることだろう」

 ガルナは屋敷へ連れてこられる前はもちろん文字など読めなかったが、ランバートに教えてもらい、ある程度読めるようになると、数々の書物が眠る地下書庫に入り浸るようになった。ほとんど掃除されていない暗い部屋なものだったから、度々ランバートに「体を壊すから早く出ろ」と言われた。しかし今のウィンスタードと同じぐらいの年だったあの時は、特に知識欲の高い頃だったと思う。とにかくランバートの屋敷に来た時は知らないことだらけで、その未知の世界に興味を覚えていた。

「もう寝とけ。明日は朝餉を頂いたら、すぐに出よう」

「あぁ……おやすみ」

 ウィンスタードは先に寝具に入り、眠り始めた。

 まだ子どもたちは寝ていないようだ。今まで見たこともないような珍しい格好の旅人と接することができて、子どもたちは大いにはしゃいでいたのだ。この前まで住んでいたクェリシスカ領の人民は文字を操れる者がいたとしても魔術師を見たとしても何の驚きの顔もしないが、この領地はどうやら違うらしい。少し東へ向かうだけでこんなにも文化や暮らしが違うとは思わなかった。

 この時代の領地区分はとても細かった。一日歩き続ければ余裕で他領から他領へと行くことができた。ただ領地を越える都度、関所で金を払わなければならないが、まだ手元には多くの資金が残っている。東へ向かうことはまだ容易なはずだ。

 はしゃいでいる子どもたちも興奮が収まったのか、しばらくすれば遊びまわっていた声は止み、宿には酷く寂しげな静寂が訪れた。


 あの子どもたちを見ていると、娘を思い出す。

 妻と同じように明るくておてんばで、学問にはあまり積極的ではないが、いつも笑顔で屋敷や庭を駆け回っていた。

 彼女にはもう母親もいない。左目の光も失った。

 今更というもの、娘のそばにいてやれないことに段々と申し訳なく思えてきてしまっていた。彼女と別れた時に見たあの憂いの帯びた表情は、どれだけ時間が経とうとも忘れることはないだろう。「行かないで」と言うように、精一杯の悲痛を父親へ訴えかけている表情だった。

(俺の娘はどう生きるのだろう)

 光を半分失った小さな少女が、肉親のいない世界でどう育っていくのだ。

 生き延びたとしても、再び会った時にはどんな人間になっているのだ。

 それ以上はどう考えたとしても無駄であった。これからはさらに故郷と距離が離れていく。今更考えても、それはもう無意味なことだ。

 横になろうと、隣の寝具に寝転ぶ。

 眠る気など起こらなかったが、起きていても暗示は止まない。

 特にウィンスタードを見ていると、頭の中にかすかに言葉が響いてくる。「殺せ、殺せ」と強い憎悪を帯びた言葉が何度も何度も湧いて出てくる。

 そしてその都度、小さな地震が起こるのだ。

 昼間に起きた地震ほど大きくはないものの、窓やドアからはガタガタと音をさせ、本棚からは本が落ちる音がした。

 それに驚いたのか、寝息をたてていたウィンスタードははっと目を覚まし、くるまっていた寝具から顔を出して周囲を見回した。

「小さいから大丈夫だ。危ない時には言うから」

「……そうか」

 しばらくすると地震は止み、また夜の静寂に戻る。

 ウィンスタードは安心したのか、また自分の寝具にくるまって再度眠りにつこうとする。

 しかし彼は少し間を開けてから、眠りかけの虚ろな口を開けた。

「……人を助けることだって良いことだろう。実際、そのおかげで今日はこの屋根の下で眠りにつくことができたんだ」

 何を言うのかと思えば。昼間に言われたことをどうやら少し根に持っていたようである。

 彼は冒険譚を好んで読むこともあるから、そう言った「正義」の部分には敏感なのではないかと思った。確かに彼の今言ったことは正論であり、反論のしようがないが、それ以前に昼間言ったことを間違って伝わっているのではないかとガルナは思った。

「お前には万人を信じてほしくないな。それはお前の死にも繋がるんだ。人を助けることは人を信じることだ。お前には万人を信じる覚悟はあるか?」

 ガルナは小さな声で話を続ける。

「誰にでも手を差し伸べれば、いつかその手を誰かが引きずり込むかもしれない。手を差し伸べた相手に魔物が混じっているとしたら、きっとお前はその魔物に飲み込まれるだろう。引きずり込まれた先は死か生き地獄かわからない」

 いつも賢く、落ち着いている彼でも、実際はもっと無知なのだ。ガルナが思っている以上に、ウィンスタードという少年は無垢な心を持っている。所詮若いのだ。

 最後にガルナは彼の肩に手を置き、力強い声で伝えた。

「ウィン、お前は生きてほしい。国ひとつを助けている間に天使はどんどんと侵略を進めるぞ。その猶予は、数少ない同胞も……あるいは自分すらも殺してしまうかもしれない。それは同胞も、お前の家族も望んでいない」

「……うん」

 ウィンスタードは、やや不安そうな表情をしていたが、か細い声で返事をし、こくりとうなずいた。

 それからはまた、彼の寝息とすきま風の音だけの物寂しい空間になる。

 だが、その後も幾度か小さな余震があったので、なかなか眠りにつくことができなかった。

 その都度起き上がってウィンスタードが起きてしまっていないか確認して、また寝具に潜り込む。


「今すぐにでもやればいいんだ、簡単だろう。天変地異の恐怖などなくなる」


 誰の声なのか知らない声が聞こえてくる。というよりは、そんな言葉がふと心の中に現れるのだ。

 本当はこの少年を生かしてはならないという気持ちと、だからといって死なせることもできない気持ちとが入れ混じる。どちらの方を取ればいいのか考えるたびにその両方は混じっていって、余計にわからなく、苦しくなってくるのだ。

(簡単、か……)

 どんな最期が、彼にとって一番楽なのだろう。

 天界からの侵略、そして明日は生き延びていられているかわからない状況。そんな時代に生まれた数奇な少年は、死ぬ時にはどんな死を選びたいと思うのか。

 痛みも苦しみも無い死か。

 やれるだけのことをやりとげた後の死か。

 もしくは早く、家族の元へと自らが向かうか。


 人間に殺されようが、己に殺されようが、それは天使の所為だ。天使がこの時代を荒らしているからこそ、この世界のありとあらゆる死は天使によってもたらされる。

 結局は皆、天使に殺されるのだ。


 天使なんかに無残に殺されるぐらいだったら、いっそ―― 



 

 ガルナは寝息をたてているウィンスタードの首に手をかけた。

 手をかけるまで、何も意識が無かった。気がつけば、両手が彼の細い首筋をつかもうとしていた。

 しかし、その首の温かさを知った時、なぜか突然現実に引き戻されて、うろたえてすぐに手を引いた。そして、本当に恐ろしいことをしようとしていたのだと、自分への強い恐怖心が湧いてきた。


(簡単なものか。簡単なものか……!)

 ガルナは宿を飛び出た。

 小走りで宿を離れていたが、段々と足取りが早くなる。

 自分は今危険な人物で、あそこにいてしまえば何かを傷つけかねないと思った。そして無我夢中で宿から遠くに走り続けた。

 壊れた石畳が敷かれている街頭を越えて、建物と建物の間の狭い小道に曲がり、行き止まりに着いてようやく足を止める。

 ガルナは自分の愚かさに吐き気を感じた。

 自分の勝手な考えと気持ちが、あのような魔が差した行いをさせたのだ。

 これ以上、天変地異で人が死んで行くのは無念でならない。度々訪れる地震を収める方法を知っているのにできないことが忍びない。

 けれど天変地異の元凶であるウィンスタードを失うことの方が考えられない。彼をこの手で殺めたところで助かる人はいるのか? せいぜい厄災を免れるだけのことで、天界と地上界の争いは変わらない。

 そんな思いが、彼の首に手をかけていたときに寸前で止めたのだ。

 これ以上自分の大切な者を失うのは、自分の死を意味した。

 結局、自分で彼を殺めるなど耐えられなかった。

 壊したくないし、壊せたくもない。


 あの子を誰が壊すものか。

 誰にも壊させない。


――死の予言など背いてやる。


 心の中で、何度も強く誓ってみせた。

 するとゆっくりではあるが、乱れていた心が落ち着いてきた。

(そうだ、恐れることは、何もない)

 たとえ世界が壊れようとも、彼だけは守りたい。守らなければならない。

 失うことが恐ろしいのであれば、守れば良い。それに犠牲が伴ったとしても、自分には関係ない。

 彼は、彼しかいないのだから。


 

 その時、後ろに何か気配を感じた。

 咄嗟に後ろを振り返ってみたが、その気配の主を見て心臓が跳ね上がりそうになる。


――天使が立っている。

 白いローブと黄金の仮面と装飾を身につけ、大きな翼を背中にまとっている天使は、こちらをじっと見つめ立っていた。

 向こうは一人ではあるものの、こちらは丸腰の状態で、向かい討つにはだいぶ無理のある状態である。

 ほとんど勝算はない。真向で勝負など、今はできない。

(……くそ、どうすれば)

 しかし、いくら待っても天使に攻撃をしかけようという気配は見えなかった。以前森の中で天使に追いかけられた時のような荒々しい雰囲気はなく、むしろ恐ろしいほど冷静で、落ち着いた立ち振る舞いをしていた。

 夜の暗闇の中に淡く白く光り輝く天使は、その場で座り込んだ。ガルナは一瞬だけ構えてしまったが、天使はそのまま白い手と膝を地面について、跪いた。

 なぜ天使がこんな行動をするのかまったく理解ができなかった。多くの大切な人を奪った残虐な天使が、今、目の前でうやうやしく頭を深く下げている。この様子をあっけにとられずにはいられない。

 ガルナは開いた口が塞がらず、その一人の天使が跪いている様子を見つめることしかできなかった。

 やがて天使は跪いた状態ではあるものの、頭を上げてこちらに顔が向く。相手は顔を全て覆うほどの仮面をつけていたが、目が合っているということが何となくわかる。そして彼のその姿勢からも、敵意がないことを示しているように見えた。

 それでもガルナは警戒をとくことはなかった。天使を前にしているという緊張で、心臓は痛いほどに早く動いていた。


「神の御心、同胞の意思をお伝え申し上げます。わたくしは罪なき人間に危害を加えんとする者ではありません。いずれ〈穢れ〉に飲み込まれてしまうと気が付き、狂う前に貴方にお会いしようと決めた次第にございます。――どうかそれほどまでに警戒なさらないでください」

 ガルナはさらに驚いた。天使が何か喋りだすとは思いも寄らなかったからだ。

 人間とはいたって変わらない、中性的な男の声だった。丁寧で落ち着いた口調からもますます疑問を深めていく。 本来、人類にとって天使とはとても残虐で横暴な立場にあるというのに、こんなにも冷静な振る舞いをしているこの天使が不思議に思えて仕方なかった。


 そんなことよりも今目の前にいる天使をどうすればいいのか考えなければならない。だが、彼に対してかける言葉など、今の時点では考えることもできなかった。喫驚と焦燥で思考は支配されていた。

 考えている間にも、また天使は話を進めようとする。

 今度は少し冷たい声色で話しだした。

「貴方はあの少年の死期が訪れていることに気が付いているというのに、なぜ、始末をなさらないのですか。運命に沿わない者がいる世は、どんな厄災が訪れるかわからない。これ以上神の創造された世界を破壊するということは、神への反逆となる。……反逆者は始末しなければなりません」

 もうこの時点で、天使が何を言っているのか理解することができなかったが、自分の命が危ういということは何となくわかった。

 ガルナはよりいっそう、警戒を強める。逃げようにもここは行き止まりのため、どうにかして天使の後ろ側へと回らなければならない。向こうも武器は持っていないようにみえるが、運良く逃げられたとしても宿へと戻ってしまっても良いのだろうか。宿の人だけではなく、街の人も危険にさらしてしまうかもしれない。

(いったい、どうすれば……)

 いろいろなことが頭の中を駆け巡ったが、そんな間にも天使はまた話を続ける。

「――しかし、我々は貴方を殺すことができません。貴方を殺すには、神の意思が必要だ。神はいまだ、貴方を尊び、そして必要としていらっしゃいます。――ですから、我々は貴方へ進言いたします」

 天使は突然立ち上がって言う。

「どうか、ただ一人の少年の命でも、その生を終わらせてほしい。それこそがこの世界の利であり、神の利でもある」

 先程から天使の言っていることにはまるで理解できていなかったが、その言葉にはガルナは怒りを覚えた。

「……お前たちは人々を苦しめているというのに、何が世界の利だ。何が"ただ一人"の少年の命だ」

 拳を握りしめ、こみ上げてくる怒りをぎゅっと抑え込んだ。

 天使はさらに声を低くし、言った。

「この世界は神のもの。神に背く者、運命から外れる者がいればそれを始末し、間引きするしか方法はない。貴方という方が、なぜそれを知らないのか」

 わからない。

 では、どうして罪もない人々を殺すのだ。

 そんなことを問いかけようともしたが、天使相手には無駄であると悟った。

 この連中は狂っている。本人が狂っていないと言ったとしても、人間から見れば天使の思考は狂気だ。

 こんなにも人間を見下すような態度をするこの天使と対話することに嫌悪感を覚えていた。

「ふざけるな……あの子は誰にも殺させない。あの子に楯突くのであれば、天使だって、人間だって、いくらでも殺してやる」

 天使は黙り込んだままで何も話してこなくなった。

 攻撃をしかけてこないかしばし注意をしていたものの、やがて天使は静かに、空気へ溶け込むように姿を消していった。

 彼が消えた場所には、一枚の大きな羽がふわりと舞い落ちた。

 天使との対話はとても腹の立つものだったが、後には不思議な気分が残った。

 なぜ自分の目の前に現れたのか。なぜあんなにも頭を下げ、へりくだった態度を取っていたのか。

 そしてなぜ自分にウィンスタードを殺すことを促してくるのか。

 考えれば考えるほど数々の疑問が生まれてくる。

 もしかすると、いつも「殺せ」と頭の中に響いていた声、言葉は天使が発したものなのか?

 だとすれば俺は一体――


(元へ戻らなければ……)

 あの子のそばへと戻らなければ。

 俺は人間だ。奴らとは違う。

 だからあの子のそばにいられる権利がある。

 死の予言も世界の破滅もどうだっていい。もしもあの子に危機が訪れれば命懸けで助けるつもりだ。 

 ウィンスタードはこんなに酷い世界でも純粋に生きたいと思っている。そうでなければこんな旅に出るはずがないからだ。

 だから俺はそれに答える。

 生きたいと思っている者を救う。――今は亡き恩人が同じことをしたように。


 少し警戒をしながら、宿の方へと帰る。

 そしてその途中で、今は亡き恩人に、けして答えの返ってこない問いを投げかけた。


 ランバート。

 お前はなぜ俺を助けたんだ。

 俺はあの時、「生きたい」と必死に思っている目をしていたか?

 獣に同然だった汚い俺を、どんなふうに思いながら手を差し伸べたんだ?

 お前には俺が、どんなふうに見えたんだ。


 自分が彼に拾われた時、本当に「生きたい」と思っていたのかは定かではない。

 正直、今も「生きたい」と正しく思えているのかなどわからない。

 だが生きる目的はある。

 恩人の意志を成就する。そしてそのために、あの子の命を守り通す。

――俺はそのために生きるのだ。

 万人が厄災に飲み込まれたとしても、俺は俺の生き方を貫く。


 恩人の意思と、その意思を継ぐ者に添うことこそ正統。そして道を踏み外しそうになった時に支えてやるのが自分の役目となる。


 俺の意思は彼らの元にある。


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