Ⅴ
窓から吹き込んだ風にはためく書類が頬に当たり、ランバートはずっとうたた寝をしていた事に気が付く。仕事は早めに片付けてしまうに限るが、あまりに心地よい昼下がりの風が睡魔を呼び起こす。
寝ている間に使用人か誰かが来ていた痕跡に気が付いた。起こしてくれたら良かったのにと思いながら、少し冷めた紅茶を一口飲むと、これもまた彼らが置いていったと思われる都からの新聞に視線が移った。表の紙面には、大陸で破壊活動を行っている天使についての記事が、大きな見出しで書かれてある。
戦いの技術に長けている西国は今や補給が間に合っていないようであり、大陸の東の方へと逃げてきている人々もいる。軍隊の物資を作る人々が消えれば軍隊が動くこともできなくなる。西の列強は今や天使を討伐できる力はなく、ただひたすらに防衛、または逃走に徹するのみである。
東国にはまだ天使の被害は聞いたことが無い。東国に住まう人間で、大陸が天使に脅かされている実感がある者はほとんどいないだろう。確かにここ数年で近隣の都市から西国の特産品などがそろいもそろって消えてはいるが、だからといって自分たちの生活までもが脅かされているわけではない。大陸の東方はこれまでの人類の歴史を見ても常に平和だった。
だがランバートには一つだけ引っ掛かることがあった。それは西国からの移民が増えてきているということだ。西国からの移民はここ数年で急激に増えている。これこそが、大陸が天使に侵略されている事実の一つであろう。
ランバートは天界の天使に少なからず危機感を持っていた。しかし東方はいつまでも平和であるため、その現実になかなか眼を向けられずにいる。子どもたちがいるからこそそれは余計であった。確かに愛しい子どもたちが物騒な時代に生まれてしまったという事実を思う度に、胸の中に不安感が漂う。だがすぐにそんな物騒なことを考える気が消えていく。そして彼らに出来る限りの幸せを与えてやるのが自分の勤めであると言い聞かせ、すべてを忘れた。
窓の外からは庭で元気よく遊んでいる子どもたちの声が聞こえてきた。ウィンスタードは十四歳の少年となり、当主となるための帝王学に明け暮れている。自分の血を分けて生まれた子とは思えぬ程優秀な子なので、おそらく少年の頃の自分よりもそつなく勉めているだろうが、あまり無理はさせたくない。だが学ばなければならないのは仕方が無い。我々に出来ることは、彼が安寧を持って勉学に集中できる環境を整え、それを提供することだけだ。例えば集中力が途切れぬよう彼が勉強している間だけでも屋敷を静かな環境にしてやりたいが――ランバートは窓の傍に立ち、庭で遊んでいるオリワルハとセリファをちらと見た。まるで子猫がじゃれ合っているかのように遊んでいる彼女たちを見るととても微笑ましいものの、「もう少し静かにしなさい」と言いたくなる。だがもう一度そんな二人を見ているとそんな気も薄れてくる。そしてその平和を見つめ続けた。
子どもたちの成長を見ていると彼ら彼女らばかりに眼が向いて、自分も同じように年を経ていることに気が付かない。ふと我に返れば自分も友人もだいぶ顔にしわが増えてきたし、白髪もいくつか見え始めてきた。だが二人とも衰えているわけではない。むしろ日増しに前向きな気持ちになってくる。特にガルナは見違える程に明るい性格になったと思う。昔は無口でぼんやりとしていて視線の冷たい男だったというのに、今では――そう、セリファが生まれてから、子どもと接するようになってから、よく笑うようになった。どうやら彼は子どもたちに少しでも明るく楽しい子ども時代を過ごして欲しいと思っているようだった。親に捨てられ、言葉もわからないままランバートに着いていき、ぼんやりとした幼少期を過ごしてしまった自分に少しの悔しさがあるようだった。
確かにガルナにとってランバートと出会えたことは何よりも幸運なことだった。それでもガルナは自分の幼少期を度々振り返っては、もっと違った意識の在り方があったのではないか、どうして今のように明るく過ごせなかったのかと嘆くことが多かった。子どもたちには未来がある。その未来に傷跡を残す幼少期をけして歩ませてはいけない。導くのは彼らの周りにいる大人、つまりは自分たちだ。そんな言葉を漏らすことがよくあった。
ガルナは子どもたちが幸せに暮らしてくれることにとても情熱的であった。そのおかげか、仕事が忙しいランバートや体が弱いネリスィールが子どもたちの相手をしてあげられなくとも、子どもたちはいつも楽しそうに微笑んで暮らすことが出来ている。ガルナが子どもたちの世話をしてくれて、ランバートにとっては感謝の気持ちでいっぱいであった。
手元にある紅茶をもう一口飲む。昼の柔らかな風が心地よくて、昼寝からもう少し眼を覚まそうとしても眠気がそれを邪魔する。風にはためく書類をぼんやりと見つめていると、部屋のドアをノックする音がした。我に返ったランバートが返事をしたら、ドアが開いた。
「ランバート、もう昼飯の時間だぞ」
立派な鎧に身を包んだガルナは、昼餉の用意が整ったことを告げた。
少し前、オルストロ家の兵士としてふさわしいよう、ガルナに武器と鎧を用意してやった。都の武具職人に頼み、ガルナの体に合うように作られている。今までそんな大きな鎧を纏ったことのないガルナは、最初は煩わしそうにしていたが、オルストロ家を守る兵士としての誇りがその武具に表れていることを自覚するようになると、外出の予定がある時などは必ず着てくれるようになった。
今日は暇を与えている使用人が多く、家の中が人手不足で忙しいために、ガルナには使いを頼んであり、昼餉の後には都へと出掛ける。昔から我々のことを知っている都の人たちが、立派な鎧に身を包んだガルナを目にすれば大層驚くことだろう。ランバートは自分のことでもないのに、なぜだかこちらまで誇らしい気持ちになった。
「あぁ……今行くよ」
ランバートが立ち上がった時、外から「ご飯だー!」という元気な少女たちの声が聞こえてきた。窓の外を見てみると、庭で遊んでいた少女たちが元気に屋敷へと駆けていく。
その時、勢いよく走っていたセリファが躓いて転んでしまった。だいぶ派手に転んでしまい、怪我をしたのだろうか、膝を抑えて痛そうにしている。
「まったく、あいつは……」
ガルナが彼女のところへ行くため部屋を出ようとしたところを、ランバートはすぐに止めて、もう少し彼女のようすを見るように合図をした。
膝を抑えているセリファを、オリワルハがおろおろとしたようすで慰めようとしている。昼餉の時間を告げに来ていた使用人が桶に水を汲んで傷口を洗ってくれている。
しばらくその光景を二階の窓から眺めていると、今にも泣きそうで蹲っていたセリファはゆっくりと立ち上がり、屋敷へと入っていった。
「大きくなったねぇ、君の娘も」
「まぁ……態度もでかくなってるけどな。まったく誰に似たんだか」
ランバートが微笑むと、ガルナが気恥ずかしそうに頭をかいた。屋敷に住まわせてもらっている分、あまりオルストロ家に迷惑をかけないようにガルナは気を遣っているようだが、セリファのいたずら好きは落ち着くどころかどんどん増して行くばかりである。確かに時々いたずらをされて、困る時はあったがそれも屋敷の中ではすぐに笑い話として昇華されるし、ランバートにとっては屋敷の平和の証でもあった。そしてそんないたずら好きの彼女がどのような女性に育っていくのかもある意味期待が高まるばかりだった。
「みんな同じように成長していっているんだよ。僕たちの子どもも、いつか大人になっていく。僕たちがこうして大人になったみたいにね」
ランバートは空を仰いだ。
「いつの間にか僕らも大人になって、子どもが生まれて、年を取った。信じられる? 少し前までガルナはどんな女の子も振り向く程の色男だったのに、だんだんしわも増えてきたじゃないか」
「はくがついた、って言ってくれよな」
それに、お前だって。とガルナはランバートの肩を押した。
子ども時代のことを振り返れば、今の自分の子どもたちが重なる。何の不安も柵も無い生活の中で彼らは守られている。それはランバートの幼い時代と同じであるが、その生活が守られているのは実に周りにいる大人たちのおかげであることに、親になってから身をもって知った。そして如何に自分の父親や祖父がこの家を守ってきてくれたか、その苦労をようやく実感出来たのである。どれだけ勝手に生きていて、生意気な子どもだったか、子どもの自分を振り返っては恥ずかしさで胸がいっぱいになった。
だがそんなにも我の強い子どもだったからこそ、ガルナをこの家に連れてくることができたのだ。彼がいなければどんな人生を歩んでいたのかわからないが、もっと虚無の人生を歩んでいただろう。こんな楽しい人生にありつけていないかもしれない。
「ガルナ。この屋敷に来てくれてありがとうね」
ランバートは落ち着いた声で言った。ガルナが突然真剣な話を振られて困っているようすであったが、ランバートはそのまま話を続ける。
「君がこの屋敷に来てくれなかったら、僕はもっとどうでもいい人生を歩んでいただろう」
「……俺だって、お前が俺を引き取ってくれなかったら人間として生きられなかった……普通じゃない奴に、それ以上の幸せをお前がくれたんだ」
「それは……」ランバートは少しの間、言葉を言いかける。
「あの時君を拾ったのは、自分の孤独を埋めてくれる人が欲しかったからだ。馬鹿で、幼稚な子どもの、ただの自分勝手な決断だったんだ」
「そんなこと関係ないだろ」
ガルナは即答した。ランバートは彼に視線を合わせた。
「お前も、俺も。今が幸せなら、寂しくねえのなら……それでいいに決まってる。お前に拾われて俺は良かった。お前も俺を拾って良かった。それでいいじゃねえか」
ランバートは俯いた。
孤独を埋めるためにこの家に連れてこられたのだと思われているのかもしれないという不安が心の何処かにあった。だがガルナの眼は頑なでまっすぐであった。その男の眼には人生を与えてくれた友の姿が映っている。そして自分の眼にも、人生を与えてくれた友の姿が映っている。
幼い彼に己の人生を決断させようとした日を思い出した。
もう彼が人生をやり直すことは叶わないだろう。その才能を大いに生かせる人生を歩むことはできないだろう。だがやり直したいと思わないことはとても幸せなことなのだ。今が幸せであるのなら。
「うん……そうだね。ありがとう」
ランバートが微笑むと、ガルナも微笑んだ。
「早く昼飯にしようぜ。みんなもう俺たちのこと待ってるぞ」
** ** **
陽が落ちた後、屋敷の廊下を歩くには蝋燭の灯火だけが頼りになる。いつか魔法の技術が進んで、このような生活の中の光も扱いやすく、より明るいものにならないだろうかとランバートは夢見ながら、廊下の要所に炎を灯していく。
子どもたちがまだ物心のついていない頃、遊んで倒さないように気を配るのがとてもたいへんであったのを思い出す。子どもの様子を見張っていられるような魔法でもあれば育児も楽になるであろうに……叶いそうにも無い、くだらない未来を考えながら自室に戻ろうとしていると、廊下の窓辺で身を乗り出して、外の様子を上機嫌で眺めているセリファに出会った。ランバートに気が付いたセリファはぱっと顔を明るくさせる。
「おじさま! お父様はいつ帰ってくるの?」
「あぁ、そろそろ屋敷に帰ってきている頃だと思うよ」
暇を与えている使用人の代わりに様々な買い出しを彼に頼んでいるのだが、おそらく若い頃に交流のあった都の連中と話が弾んでいるのだろう。彼のことだしそんなに長引かせるとは思えないが、しばらく屋敷にいさせるばかりで一人の時間を与えてやれなかったから、家族と家がある以外には何もない此処とは別の場所で息抜きをさせるのに良い機会だと思った。
「ねぇ、おじさま。どうして今日のお父様は、大きなヨロイを着てお出掛けしたの?」
小さな口がはきはきと動く。ランバートはそんなあどけない子の質問に優しく答えてやった。
「それはね、都に出掛けていったからだよ」
「みやこ?」
「ここから少し西の方へ行くと、大きな街があるんだ。今日の父様はそこに出掛けていったんだよ。セリファも外へ出掛ける時はおめかしをするだろう? 君の父様が鎧を着たのも、同じことさ」
「へぇー、お父様がおめかし!」
セリファは楽しそうにくるくると回った。
「さぁ、もう寝なさい。母様はもう寝床についているころだよ」
ランバートがそう促すとセリファは素直に「はーい」と言って、ひとつ大きなあくびをした。
窓の外で何やら光っているものが、セリファの視界の端にちらと映る。もう一度よく窓の外を見たセリファは、一際上機嫌な声をあげた。
「あ! 綺麗なお星さま!」
ランバートは窓を開けて、満遍なく広がる夜空に視線を向けた。確かに、静かな夜空の中に何か強い光が点々と浮かんでいるのが見える。この時期にあのような不思議な星が屋敷の頭上を漂っていただろうか、ランバートは訝しく思いつつその光を見つめていると、突然胸がざわつき、思わず一歩後ろへ退いた。心の端で密かに懸念していたことが頭の中で一杯になっていった。
その時、一筋の白い光が夜空の黒を引き裂いた。そして激しい轟音が廊下に鳴り響き、屋敷は大きく揺れた。
「きゃああ!」
突然のあまり、セリファは叫んで蹲った。
とてつもない衝撃により、壁にかけてある灯籠が倒れて床に炎の柱を立たせる。ランバートはすぐにセリファの手を引き、まずはそこから一番近いところにある使用人の住まう部屋に行った。するとすぐに廊下でセリファの母であるリフィスに出会った。リフィスはセリファに会うなりすぐに強く抱きしめた。彼女や他の使用人たちも先程の大きな音と揺れにより戸惑っている。屋敷で今何が起こっているのかまったくわからないのだろう。
「旦那様、一体何が起こったのでしょうか……!?」
使用人たちはランバートに向かって口々に言った。ランバートも確信を持っている訳では無かったが、冷静さを失わずにいるのに必死で、今屋敷を襲撃しているのが何者なのかを答える余裕はなかった。
しかし少し考えれば襲撃の犯人が誰なのか予想することぐらいはできるだろう。
「とにかく、皆はこの屋敷からすぐに抜け出してくれ。蝋燭の火が燃え広がっているだろうから、なるべく煙は吸うな。姿勢を低くしながら素早く逃げるんだ。僕は家族を探しに行ってくる」
「なりません、旦那様。私たちが探しに行きます。旦那様は早急に避難を!」
しかしランバートは首を振った。
「それでは君たちを危険にさらしてしまう。被害が大きくなることは避けたい、君たちは早く逃げるんだ」
「しかし……!」
「命令だ、早く行け!」
ランバートが叫ぶと、使用人たちの表情が強張る。
「必ず、無事であってください……」
使用人たちはやや悔しそうな、悲しい表情を浮かべながら、ランバートのそばを離れていった。
本当は彼らの意思を尊重してやりたかったが、そうするわけにもいかない。対等に過ごしてはきたが、当主であるこちらの方が立場が上なのは事実である。こんな非常事態で権力をふるってしまう自分を許して欲しかった。
使用人たちの無事の脱出を祈りながら、ランバートは自分の家族を探しに歩き始めた。最初の衝撃によって壁が崩れているところもあり、生家は既に悲惨な姿になっている。自分の生まれ育った家が得体の知れない何者かにこうして壊されていくことに、言葉に表しきれない程の怒りが一瞬だけ生まれたが、すぐに家族の顔を思い出して歩き続けた。
オルストロ家の者の寝室がある場所が最も崩れているところであり、ランバートはその悲惨な光景に思わず意識を失いかける。自分の家族がどうなっているのか全く判らなかった。火のまわりも早く、煙がそこら中に漂っている。煙をだいぶ吸ってしまい、体力を奪われ、壁や屋根に埋もれた寝室を一人でどうにかする力も残っていなかった。
ランバートは家族の名を呼んだ。これ以上屋敷の中に居続けたら危険な状態だった。壁にかけていた蝋燭が倒れていて、火の手があっという間に広がっている。だからといって家族の安否を確認しないまま屋敷から抜け出すわけにはいかない。
何か壁が崩れ落ちていく音が聞こえてくる。その音を聞くなり焦燥が先走る。
後頭部に何か強い衝撃が走った後、ランバートは倒れ伏して、視界が暗くなった。
――
ランバートが次に目を覚ましたのは、子どもたちの声が聞こえた時だった。
「父上!」
顔が煤で汚れているウィンスタードが目の前にいた。その後ろには心配そうにこちらを見つめているネリスィールとオリワルハの姿がある。ランバートは家族が生きていたことに気が付くと、安堵して一気に力が抜けてしまった。
周囲には天井から崩れてきた瓦礫が散乱している。おそらくそれに当たったことでほんの短い間だけ気を失っていたのだろう。
まだ頭がふらふらとするが、休んでいる暇はない。
「皆、よく無事でいてくれたね……」
ウィンスタードに体を支えられながら、ランバートは立ち上がった。立ちくらみでめまいがしたし、頭もずきずきとしてつらいが、そんなことは言っていられない。支えてくれたウィンスタードの手を離して、火の手の浅そうなところを探し始める。
「父上、相手は天使です。屋敷の中にも入り込んでいます」
「……そうか」
淡々と語るウィンスタードの眼を見るに、どうやら実際に天使を見たように思えた。これ程までに強力な衝撃を与えられる力を持つのは、魔術を習得している者でしかない。この屋敷を襲撃したのは、天使であるという予想は、ランバートにとっては半信半疑なものであったが、彼の眼を視て確信する。とうとう大陸の東方にも天使がやってきたのだ……。
「君には彼らがどのように見えた? 噂通り、強大な力を持っている奴らなのか?」
「それは、もう……」
ウィンスタードの声がかすかに震えたような気がした。
「あのような恐ろしい者を相手に、人間は侵略をされていただなんて……」
ウィンスタードは、魔術を少しかじった程度のランバートよりも鮮明に魔力を感じ取ることができる。天使と遭遇して、その力の程度を知ったのだろう。その言葉を語った時のウィンスタードは何処か怯えた表情だった。
「……屋敷から出た皆も心配だ」
ランバートがそう言うと、ウィンスタードは深く頷いた。
そうはいうものの、今は外の者を気にしている時間は無い。ただでさえ炎の手が広がっている上に、病弱なネリスィールはもう足取りがふらついている状態であった。
(一刻も早く出口を見つけなければ……)
火の手の少ない道が見つからなくて、焦りばかりが募る。肌に突き刺してくる熱と肺を焼いてくるような熱い煙が、目の前を暗くさせる。
突然、ウィンスタードが歩みを止めた。そしてすぐに真上を向く。ランバートが彼の動作に気が付き、同じく真上を向いた。
「何かが来る……!」
ウィンスタードの叫び声と同時に、ランバートですらわかる何か重たい圧力が、体中に襲い掛かってきた。体中に鳥肌が立つ。これが魔力というものなのか、あまりにも異常な感覚が、石造りの天井を貫いて降り注いでくる。
何かの予感を察知して、ランバートは条件反射で、ウィンスタードとオリワルハの背中を勢いよく押し出した。両親と距離が離された子どもたちが立ち上がろうとした時、ランバートの真上から天井が崩れ落ちて――。
屋敷の一部であったその天井は容赦なくランバートとネリスィールの体を押し潰した。
身動きは一切取れない。内臓が痛い、頭からは血が垂れている。ただでさえ火事の煙によって息が吸えないのに、瓦礫の重みで余計に呼吸が制限される。
もはや助かる余地が無いことを悟ると、突然のことに唖然としている子どもたちに、ランバートは最後の力を振り絞って叫んだ。
「行けッ……!!」
天井はますます崩れていく。逃げなければならないのに、自分の両親が瓦礫の下敷きになっているところに、子どもたちは為すすべも無く動けなくなっている。そんな彼らがあまりにも気の毒だった。オリワルハは泣き出してしまった。ウィンスタードは親を押しつぶしている瓦礫に手を付けようとした。ランバートはすぐに、瓦礫を退けようとする息子の手を止めた。
「……ウィンスタード、オリワルハを連れて……早く、逃げるん、だ……!」
叫ぶ度に、口の中から血が溢れてくる。
ウィンスタードは首を振って、また瓦礫に手を付けた。
「しかし、父上と母上が……!!」
「僕たちはもう、助からない……!!」
その強い言葉に、ウィンスタードは言葉を失わせた。
この瓦礫の山を見れば一目瞭然だ。たとえこの瓦礫を、子どもたちだけで退けたとしても、もうランバートもネリスィールも、立ち上がることさえままならない状態だった。内臓が破裂したようで、胸があまりにも苦しい。脚も粉々に砕かれているようで、少しも動かせない。ネリスィールは瓦礫に埋もれて何処にも姿が見えないし、声すらも聞こえない。
「早く行け……君たちも、手遅れに――」
最後まで言う寸前に、ランバートは激しく吐血した。もはやそれ以上、彼らに何か言える力は残っていなかった。
どこかでまた攻撃を受けているのか、大きな衝撃音が聞こえる。火の手は休むことなく広がり続ける。破壊された天井から、瓦礫がどんどん降り注いでくる。
覚悟を決めたのだろう。ウィンスタードはつらい顔をさせながら、泣きじゃくるオリワルハの手を引いて、瓦礫の山から立ち去っていった。
(そうだ……)
――それで、いいんだ。
瓦礫の中から、燃えさかる生家の廊下を駆けていく子どもたちの姿が微かに見える。
あまりにも、つらく悲しい時代に彼らが生まれてしまったことがとにかく無念であった。たとえこの瞬間を生き残ることができたとしても、どうすればこれからの時代を生き残っていけるのだろうか。戦うすべを持った大国ですら敵わぬ相手に、彼らはどう抵抗して生きていくのだろうか。ランバートには何も予想することができなかった。とにかく彼らが無事でいてくれることを祈るばかりであった。
傍に気をやると、ネリスィールが微かな声をあげていることに気が付いた。痛い、苦しい、と弱々しい最後の声が漏れている。手を伸ばしてみると、彼女の手に触れた。
「大丈夫だ……僕が傍に居るよ……ひとりにはさせない」
最後に「愛しているよ」と言って、妻の手を握ってやると、ゆっくりと指を重ね合わせてきた。今言った言葉を妻の耳に届いたかどうかは定かではないが、その後は悲痛な泣き声が聞こえてくるばかりであった。
やがてネリスィールの泣いている声が止むと、ランバートは幼馴染を思い浮かべながら、灼熱の瓦礫の下で死を待ち始めた。
彼とはどれだけの時を過ごしただろうか。あまりにも長い時を過ごしすぎて、もはや彼との別れなど考える機会も少なくなっていた。いつまでも、あの幸せな日々を過ごしていけると思っていたから……。
ガルナが言葉すら覚えていない獣の少年の頃から、彼の世界はランバートが中心になっていた。屋敷の中を歩いている時も、畑道を散歩している時も、街の中を歩いている時も、ランバートの後ろには必ずガルナがいて、またガルナの前には必ずランバートがいた。
確かに今のガルナの世界は、獣の少年の頃よりもいろんなものが芽生えてあるだろう。
だけど、妻を迎えたとしても、子どもが生まれたとしても、彼の世界の中心にはランバートしかいないのだ。
これから彼のことを独りにさせてしまうことがあまりにもつらかった。置いていくことしかできないことがあまりにも悔しかった。後悔を背負わせてしまうだろうことを考えるだけで、瓦礫によって受けた傷などよりも、胸が痛くなった。
(せめて彼には、後悔など無い最期を……)
この苦しい時代を生き長らえなくてもいい。ただ何の後悔もない、苦痛もない最期を迎えて欲しい。
それが彼に送る、ただひとつの願いだ。
** ** **
旅に出てから幾月を経た。ガルナもウィンスタードも、旅路の中で野営の方法を覚え、今では焚き火をつけることすら容易に出来るようになった。今宵も街に着くことが出来なかったので、すぐに野営の準備をして、一日の旅路を落ち着かせたところである。
街に着く前に陽が落ちたら、無理はせずにすぐに野宿をできそうな場所について、軽い食事を摂ってすぐに眠る。その眠りに落ちるまで、大体二人の間には奇妙な沈黙が宿った。焚き火の炎は、我々を物思いにふけさせる。薄暗い森の中ではそれが余計であった。
神妙な面持ちをさせたまま、ガルナはあの屋敷の襲撃の後、今までずっと言えなかった話をウィンスタードに持ち出した。
「……あの時、屋敷にいてやれなくてすまなかった」
ウィンスタードは一瞬だけ、何の話だとでも言うような顔をさせた。しかしガルナの声が悲しい程に落ち着いているのを察して、ウィンスタードは焚き火に視線を戻す。
「もう過ぎ去ったことだ。気にするな」
オルストロ家を守る存在であるガルナが、屋敷にいるべきだった時に限って不在であったことを悔やんでいるということはウィンスタードも重々察することは出来た。しかしあの日ガルナが屋敷にいたとしても、誰かを失うということは変わらなかっただろう。すべては結果論なのである。暗い顔をさせているガルナに、もう一つ言葉をかけてやった。
「ガルナ……父上だってお前を責めているはずがない。それはお前が一番よく知っていることだろう」
あぁ、わかっているさ、とガルナは心の中で呟いた。だがもしも彼が許してくれたとしても、自分で自分を許すことは難しかった。旅に出て間もない頃に、ウィンスタードは屋敷で家族を守れなかった罪悪感を告白したが、罪悪感を持つべきなのは自分の方なのだ。
ガルナにとっては、今このタイミングでこうして後悔を彼に打ち明けていることすら恥ずかしかった。後悔に気が付いたのが遅かったのは、死の予知によって筋書き通りに彼らが死んだからだった。
「この旅に着いてきてくれただけで、こんなにも助かっているんだ。お前が気を弱くしないでくれ……」
「ウィン……」
ガルナは、はっと息を飲んだ。彼を守るためにこの旅に着いてきたというのに、何を嘆いている暇があるのだろうか。
しばらくの間、沈黙が続いた。
そして心の中で燃え上がる強い意思を伝えるべく、ガルナはもう一度ウィンスタードに視線を向けた。
「俺はもう後悔はしない。必ずお前のことを守り通す。……この旅を成功させよう。生きて故郷へ帰るんだ」
すると、ウィンスタードは深く頷いて、しっかりとした声で答えた。
「あぁ、もちろんだ」
失ったものは戻らない、だがすべてを失っているわけではない。
ウィンスタードの死以外に見えている未来など無いが、彼が生きている奇跡を無駄にする気はない。
彼を守り、導き通すことが、恩人への恩返しになるはずだ。
目指すのは今や天界の攻撃の過酷なる、西国。だが臆することはない。
自分はもう二度と後悔などしない。
胸を張って恩人の元へ逝けるように生きるのだ。
終




