第2話
死の無い世界に罪はあるか
「この器を犠牲にして得られたものをけして無駄にしてはいけないよ」
昔、以前の主人にそう一言さとされたことがあった。
まだ彼の屋敷に来てまもない、幼い頃だった。俺が飾り棚に置かれてある漆器を誤って割ってしまって使用人の女に叱られていた時に、すかさず彼がやってきた。普段通りのへらへらとした態度だった。それでも優しげな表情をしていた。
俺はまだ道徳はおろか、人の言う言葉すら、理解するのに危ういぐらいの子供だった。自分よりも年下の子供の方こそ言葉が自在だった。規範意識も格上だった。
そんな獣にも同然な俺に彼の言葉をその場で理解することはできなかったが、なぜかその言葉だけが自分の頭の中にずっと生きていて、離れなかった。赤ん坊の頃から人の存在しない場所にいたこの俺が、人より頭の悪い俺が、どうしてその言葉が頭の中に染み付いたのか定かではない。
けれど屋敷で過ごしている内に、その時言われた言葉がよくわかるようになっていった。内容は殆ど、四歳や五歳の子供に与えるようなものだろう。十歳を越していると思われる子供にかけるなど馬鹿らしいとも思えるが、あの時の自分にとってはすぐに理解できなかった。
しかしやがてその言葉の意味を知った時、罪を犯すことが怖くなっていった。
いつか罪を犯さなければならない日が来るかもしれなかったからだ。
そしてそれに抗ってはならないことは既に直感でわかっていた。それがいつ来るのかは全くわからないが、それが来る直前にわかるのだろうということも大体わかっていた。
だからこそ怖かった。その瞬間までに自分は覚悟ができるのだろうかわからなかった。
人間にとって罪を犯すことは罪以外何ものでもない。だから人は罪を犯すことから逃げなければならないのだという。
それでも自分にとっては、罪を犯すことから逃げることこそ罪だった。
だが人間と過ごすにつれて、人間の心が備わってくると、罪を犯すだけでも罪は罪なのだという認識が生まれた。
何かを壊せば罪。壊さなくとも罪。
俺はどうすればいいのだろう。
けして抗ってはならないその「罪を犯す日」を、どうやって対応すればいい。
ましてや人間の心を持ち、人間の世に浸透してしまったこの俺に何ができる。
罪悪感を担うほどの度胸が自分にはあるのか。
何を犠牲にしたって俺は罪を繰り返すだろう。
成さねばならない罪だからだ。そしてそこから罪悪感だけを得て、また生き延びていくのだ。
とても恐ろしいことだ。
でも俺はそれに抗った。
だから怖い。
** ** **
ガルナが目を覚ました時には、馬車は止まっていた。
脇からは涼しげな風が透き通る。
静かな狭い車の中。ふと視線を落とすと、隣には一冊の本が置かれていた。
端に寄りすぎて、風に飛ばされそうなほどの位置にあるしおりがはためく。それが何となく気になってしまって、そっと本を手にとって開き、しおりの位置を真ん中の方へと戻してやった。
ふとあの子のことが頭によぎる。
ちょうど正午だろうか。車から顔を出すと、真昼の日光の眩しさに、ガルナは少し目を細めた。
すぐに目を慣らし、車の右脇の周辺を見たが、彼は見当たらない。
「すいません、連れのガキ、見ませんでしたか」
気の良さそうな御者は白く美しい馬に水を飲ませていた。午前中はずっと移動をしていたため、今はちょうど休憩の時間なのだろう。
「あちらの方に。左手の草むらにいらっしゃいますよ」
御者に軽く礼を言ったあと、ガルナは狭い車の中から降りて御者の言う方向へと向かった。
道路に止まっている馬車から、それほど遠くない草むらの中の木のそばに、彼はいた。
木の根元のそばでうずくまっているようで、何をしているのだろうと疑問に思い近づいてみると、彼の手元にたくさんの小石があるのが見えた。形も色も不揃いでその辺にあったものを集めたのだと思われる。
「……出発早々から石集めか? ウィン」
こちらの存在には気がついていたようで、何も動じずにその小石たちを何やら見定めながら彼は答えた。
「あまり良い形のものがない。向こうの山へ近づけばあるだろうか」
なぜ石が欲しいと思えるのか理由はさっぱりわからないままだったが、そんな突然の謎の行動を起こすことが度々あるような少年のため、さほど気にすることでもなかった。
「どんな石が欲しいんだ?」
ガルナはそう問いかけると、ウィンスタードはこちらに振り返り、そして溜息混じりに呟いた。
「平たいものとか……尖っているもの。大きなものはまだ扱いづらい」
「ふむ……」
扱いづらい、と言った意味についてもよくわからなかったが、これもまた深入りすることはやめておこう。
彼の集めた石はごくごく小さなものばかりだった。その石を両手いっぱいに溢れさせ、そばの木から十歩ほど離れ始める。
「ガルナ、危ないから木から少し離れろ」
「危ないってどういう意味だよ」
「……いいから」
ウィンスタードの言う通り、木から離れる。
彼は一つだけ石を手に取り、他は地面に置く。
その後、ウィンスタードの目の前に黄色く光る魔法陣が現れた。
そして手に持っている小石を水平に投げると、その石は眩い光を放ちながら、目の前にある木の幹へと素早い動きで飛んでいった。
まるで雷のように、真っ直ぐで素早い光だった。
突っ走っていったその光は、木の幹の割れる音と共に瞬時に消えた。
あまりの迫力ある魔法の実演にガルナはやや喫驚する。いつも見る彼の魔法の練習は、物を浮かべたり、傷を直したりする魔法ばかりだった。このように、何かに衝撃を与えるような魔法は見たことがなかった。
ウィンスタードは木のそばへと寄り、幹が受けた傷跡を観察し始める。
そこまで深いわけではないが、明らかに木の幹の中に石が入り込んでいる。あまりにも素早かったためか、石が脆かったせいなのか、石が粉々に割れてしまっている跡も確認することができた。
あんなに小さな石がなぜこれほどまでの威力を出せたのか。仕組みはよくわからないものの、やはり、魔法という技術が起こせる奇跡なのであると、改めてわかる。
天界から授けられた技術だと言われる魔術を習得できる人間は世界でほんのわずかであった。遥か東の国には、特に多くの高度な魔術書が与えられており、有能な魔術師も多いらしいが、それでも魔術を扱える者というのは多くはない。そしてその希少さからか、どこの地域でもかなり優遇される。
ガルナも魔法を使ったことはあるが、ほぼ使えないに等しい。魔力を用いるに申し分のない体質を持っていると言われたことはあるが、魔術書の言語とこの大陸の使用言語は異なっているため、魔術書を完全に読むことはできなかった。魔術書の言語、すなわち天界の言葉を覚えるのもガルナにとっては億劫であった。自分には必要の無い技術だと常に思っている。
「基本的な浮遊魔法の一種だ。物体を浮遊させて、その物体に多くの魔力を一度に放出する。小さいが、弱点を狙えば対象に損傷を与えることができるだろう」
「ほう」
木から離れ、またもう一度小石の山を拾い上げると、ウィンスタードは馬車へと戻り始めた。
「魔術を用いて戦う兵士には、基本的な戦い方らしい。浮遊魔法の発展する国は、軍隊が発展している国だと言っても過言はない。これこそ一般的な戦闘の仕方だ」
馬車にある荷袋にその小石たちを入れ始める。例え小石とは言っても、それなりに重量は増しているはずだ。
「おいおい待てよ。こいつら持ってく気か?」
「そうだが」
「こんなもんその辺にもいっぱいあるだろうが、今持っていても何になるんだよ」
「常に携帯しておかねばならないものだ……まぁ、わけは後で話す。陽に当たりすぎて、気分が悪い」
ウィンスタードはそう言って、また車の中に乗り込み座席に座ると、そのまま目を閉じて眠り始めた。
小石が入っている荷袋を、渋々足元に置き、ガルナも車に乗り込み出発をまった。
その少年はガルナにとっての恩人の子息だった。
父親譲りの亜麻色の髪。母親譲りの容色。
そして誰にも勝る才能。特に魔術の才に関しては、父親はおろか、隣国の立派な魔術師と肩を並べられる。
これほどまでに才能があるというのに、都へ学問所にも通わず、国家試験も受けず、のんびりと自領で過ごしている理由は何かあるのだろうが、親すらもその理由は知らなかったようで、ガルナは直接彼に聞くのは止していた。
馬車がまた動き出してしばらく移動した後に、ウィンスタードは起き出して、静かに説明を始めた。
「あの石は、天使たちに使う」
「……天使に?」
「ガルナは天使の弱点がどこだか分かるか」
ガルナは横に首を振った。彼らの弱点など考えたこともない。ガルナは実際に彼らと対面したことは一度も無いので、知る由もなかった。
「奴らの弱点は翼だ。耳や肩、背中に付いていたり、位置は不統一なのだが、ある程度損傷させれば天使は怯む。動きが鈍くなるはずだ」
「その怯んだところを俺が斬れば良いのか」
ウィンスタードはこくりと頷いた。
天使には翼を持っている。白く淡く光る、美しい翼だ。人間と変わらないほどの体型をしている彼らは、白いローブを身にまとい、金の装飾や顔を隠す仮面などを付けて、背丈の二倍はあるだろうほど長く大きな槍を持っているらしい。
見た目だけでは確かに神々しい戦士のようにも見えるだろうが、性格は残虐だ。
一晩の内に我々の家を焼いた。そして人々の命を奪っていった、恐ろしく残酷で卑劣な連中なのだ。
我々は天界を討つべく旅を始めている。
それが最善なことだとは思っていない。これからしようとしていることはまさしく復讐なのである。
そうは言うものの、どこかで読んだ本にあった「復讐は何も生まない」という一文は、こんなにも説得力のない文だとは思わなかった。
復讐が何も生まないわけがない。自己満足や人々の平和、天界からのひんしゅくもその先のどう傾くかわからない地上界の命運も、天界を討った先には訪れるだろう。いや、訪れるはずなのだ。もしもそれを成し遂げたのなら、我々にとって都合の良いことも悪いことも、いろいろなことが起こる。
だが、天界を討ったとしてその先の未来がどうなるのかはどうでもいい。
ガルナは恩人である彼の父親に着いていこうと決めた時のように、この子に着いていこうと決めたのだ。
彼を最期まで守り通すことができたのなら、恩人への恩返しになるだろうこと他ならない。さらに仇を打つことができればそれ以上のことはない。
ガルナにも天界への憎しみはあるが、それよりも大切なことがあるのだ。
――我々人間の恨みを晴らそうと立ち上がったウィンスタードを支え続けること。
それを肝に銘じて、覚悟を決めて共にこの旅に出始めた。何も悔いはない。
帰還がいつになるのか全く先が見えないが、どうにかして天界に対抗できる力を集めないといけない。
最初に向かおうとした国は、オルストロ邸からすぐそばに位置するギルミナ帝国だった。魔術師支援に快い国家であり、西エルス大陸で随一魔術を扱うのに積極的である、我がオルストロ家への経済的支援を行っていた。つまり我々と特に繋がりの深い国家になる。
兵を集めるとなれば、とりあえず一番近くて親しい国家と話を付けることが第一の駆け出しとなろう。国王との面会の約束を事前にしていなかったため、すぐに会うことはできなかったが、理由を説明すればすんなりと要求を承諾してくれた。
天使の襲撃が起こり、オルストロ家は没落寸前に貧したこと。天使と戦うことを決意し、多くの兵団を率いるべく大陸を回ること。そしてそのための援助、及びオルストロ家復興の支援に協力をしてほしいということ。
天界と戦う意思を見せると、国王のみならず、彼の側近たちも同意の声をあげた。
「魔術師殿が戦をおこす気でいらっしゃるのであれば、我々にとってこれ以上に胸の軽くなることはない。どうか、我らの援助で少しでもお力になれれば幸いでございます」
王はそう言って、千の兵の協力が約束され、さらには小粒の宝玉を多く受け取った。いわゆる資金に変えるための宝玉である。その宝玉少々を手元に控えて、残りを自領であるクェリシスカに送ってもらった。
親しい国家だからこそ、いとも簡単に交渉が成立した。さらには旅に必要な資金を頂戴することができて、駆け出しとしては充分な結果に思われたようだった。
しかしウィンスタードは安心な顔色は見せない。
ギルミナ帝国を去り、次に向かう国を見るために地図を広げ溜息をつきながら呟いた。
「これから先はあまり良い待遇をしてもらえはしないだろうな」
「ここほど関わってない国家だしな」
「……というよりは大陸の中央の国だからか。おそらく、名の通らぬ魔術師など相手にもしないだろう。地図を見れば、魔術を好む国もあるし魔術を好まない国もいる。大陸の東側は、魔術を盛んとする国々が多いから、その国々を恨む国家もそう少なくはないことが予想できる。争いは多いことだろう」
つまりは先ほどのギルミナ国家のように待遇の良い扱いはしてもらえない。それどころか魔術を拒む国もある。
そもそも天界に地上界が襲われるようになったのは魔術が原因だから、地上界が天界に侵略されるようになったのは魔術師のせいだと叫ぶ者も多い。だからといって魔術を盛んにすすめる国も軍隊を持っているはずだから、それだけ我々に従属してくれる可能性も低いと考えられる。
「馬車を止めろ。ここからは徒歩で向かう」
ウィンスタードのその一言で馬車が止まると、車から降りて御者の方へと寄って言った。
「よく聞け。ここから先は行ってはならん。すぐに元の場所へ引き返し、また他の客を乗せてやってくれ」
と言い、先ほどもらった小粒の宝玉の中からふた粒を御者に渡した。本来の料金を遥かに越すほどの金額に値する。
「そ、そんな恐れ多い……ひとつで充分にございます」
「……それでは旅の始まりが順調であることを我が側近たちに告げていってくれないか。きっと彼らも安心するだろう」
御者はその頼みを聞いて、差し出したふた粒の宝玉を受け取り、生家のあるクェリシスカ領へと戻っていった。
ここからの移動は徒歩となる。
彼がいとも簡単に馬車を手放すのはなぜなのか。ガルナは脇に草原の広がっている道路を歩きながら、とても疑問に思っていた。
この大陸は未知の場所も多い。ましてや貴族の家で裕福に暮らしていた我々が、近くの場所でさえ土地勘を得ているわけがない。
もう陽も落ちかけ、辺りは夕焼けの色に染まりだした頃。ガルナはウィンスタードにその疑問をぶつけてみた。すると彼は、いつもの落ち着いた声色で答える。
「今から私たちは大陸の中央へ向かう。天使は魔術を盛んにしている国によく現れると聞く、魔術を扱う人間が一番憎いからだ。大陸の東へ向かうにつれて、魔術を盛んにする国は多くなってくる。その分だけ治安も悪いだろうし天使と会う可能性もあるだろう。ただの御者には迷惑をかけられん」
やがて道路は森の中に入っていった。
舗装はされているものの木々の立ち並ぶ場所のため、陽が落ちそうなこの時間帯に歩くのはやや危険を伴う。そこまで長い森ではないため、早足で歩いていた。
――だがその時に、あの殺人鬼はやってきた。
白く光り輝くローブ、黄金の仮面と装飾を身に付け、大きな槍を片手に持ち、翼をはためかせて飛び回る殺人鬼。
我らが家族、友、財産を壊した残虐な天使が……。
その存在にいち早く気が付いたのはウィンスタードだった。
天使たちの放出している魔力の反応に、魔術師であるこの少年はすぐさま気が付いたのだ。そしてさらに、魔力を放出させている者こそが天使そのものであると察知できたのは言うまでもない。
きっと屋敷を襲撃された夜に一度対面したからだろう。憎き天使たちの放つ魔力の感覚が、その身に刻み込まれている。体に染み付いて離れないように、その感覚を記憶しているのだ。天使の存在に気が付いた時に見せた彼の憎悪に満ちた雰囲気がそれを物語っている。
それは後方から来ている。とにかく天使の追撃から逃れるため、二人で森林の中を全力で走っていた。
だが、宙を浮かんでこちらに向かってきているからか、地を走っている我々が彼らを撒くことはおろか、逃げ続けることもできそうではなかった。数えてみたところ三人ほどなのであるが、あっという間に姿が見えるほどにまで近づかれてしまった。
大きな翼を広げて武器を構え、殺意をむき出しにしながらその光り輝く白い戦士はこちらへ向かっていた。
(どうしてこんなにも執拗に追いかけてくるんだ……!?)
ガルナが持つ大剣で天使たちを向い討とうにも、彼らの動きが早すぎてそれどころではなかった。
どうにかして奴らの動きを止めなければ……このまま走り続けることはできない。
「ウィン、何か手立ては――」
昼間に言っていた石を投げ飛ばす戦法を使ってみては、と言おうとしたところだったが、ウィンスタードは何かを呟きながら走っていた。声は小さく、何を言っているのか全くわからないが、それは魔法を使うにあたってなくてはならない詠唱というものなのだと何となく悟った。
魔法の詠唱というはかなり長い。どんなに初歩的な魔法であっても、魔術書の見開き二ページほどの量を持つ。だがそれを唱えなければ魔法の発動はできないのだ。しかもこういった戦闘の時には、魔術書を片手にして読んでいる暇は無い。魔法の詠唱は覚えるということが前提である。
ガルナも魔法を使ったことはあったがそれは一回や二回のことなだけで、詠唱を覚えきることがなかなかできず、結局は詠唱が原因で魔術を諦めたと言っても過言ではない。天界の言葉がとにかく難しくてなかなか理解できなかった。
ガルナは詠唱を暗記するという難しさをよくわかっているから、走りながらもそれを唱えられるウィンスタードにやや感服せざるを得ない。
詠唱を唱え終わったのか。ウィンスタードはすぐに後ろへ振り返り、向かってくる天使たちの方向に魔法陣を表す。
そして昼間に拾っていた石を宙に放り、木の幹へ当てた時のように黄色い光を帯びさせながら素早い勢いで天使たちに飛んでいく。
――小石はうまく、天使の翼を突き抜ける。
翼に小さな傷を受けただけだというのに、天使たちは怯んで地に落ちていく。
だがすぐに体勢を立て直そうとしたところを見て、ガルナは反射的に天使の首を三体全て叩き落としにいった。さすがの天使も、首を落とされては動く気配もなかった。
斬り落とした瞬間、激しいめまいがガルナを襲った。天使の首が転がり落ちているさまが、残像となって、すべてが重なって見える。
そして切った感覚を度々思い出した。感触が人間そのものなのだ。人間と同じように赤い血も吹き出る。肉を裂く生々しい音も人間と変わらない。さらに壊れた装備から見えるのは人間と同じような姿。いずれも男性のようだが、顔つきも髪の色も一人一人違う。
翼と身にまとっている装備以外は、全て人間そのものだった。
だからこそこんなにも不愉快な感覚は収まらない。
「ガルナ、ガルナ……?」
我に帰ると、目の前にはウィンスタードの顔があった。心配そうにこちらを見つめている。
辺りにはさきほど殺した天使たちの死体が無残にも転がっていた。形が人間そのものだからどうしても嫌な気持ちにしかならない。
「大丈夫か……?」
(そんな心配されるほどに俺は固まっていたのか……)
ガルナはめまいに耐えかね、いつの間にか膝をついていたところを立ち上がり、剣をしまいながら言った。
「……あ、あぁ。大丈夫だよ。それよりもここから早く出よう」
ウィンスタードは頷くと、早く森を抜けるべく先へと歩き始めた。
最初天使に出会った時はどうなるかと思ったが、決着はどうにもあっさりとしていた。
しかし、ふいに恐ろしい気持ちが湧いてくる。
こうして初めて天使を順調に殺せたわけだが、次に出会う時はどうなるかわからない。実際にこうして出会うこと自体予想外だったはずなのに、これからはもっと予想外なことが起きるかもしれない。
根拠はないが、嫌な予感がした。
森を抜けた時にはすっかり陽が落ちていた。
だが何もない野原が広がっているばかりで、宿屋のようなものはなかなか見えなかった。
どうやら出発から早々、野宿をとることになりそうである。
ただ山には近づいてきたようで、丘の上には小さな岩穴があった。
その岩穴に入り込み、休息をとることにした。
野宿は別にどうでもよかったのだったが、やはり貴族の身であるウィンスタードには、この石でごつごつとした土臭い場所はあまりにも耐え難い寝床になるのではないかと、ガルナは少し心配した。
けれどもよく冒険譚の書物を好んで読んでいた彼は逆にこれが憧れの場所であったと、目を輝かせながら言った。
「野宿というのがどんなものか、幼い頃から気になっていたんだ。どうせこれからもこういう事態は多いだろう。経験は早めにしておくに限る」
「それはそうだろうけどよ……」
食事も携帯用の麺麭であり、なかなか粗末なものだった。
今まで貴族の家に住んでいて、これほどまでに質素な生活はしたことがない。ガルナも何十年もしていない。
自分たちは今までかなり裕福な暮らしをしていたようだ。それに気付かされた今、何となくこの旅にいろんな意味を持っているのだということを思う。
質素な食事も終わり就寝につこうとしていたところだった。
外套にくるまってうとうととしているウィンスタードは、ガルナの膝の上に頭を乗せてきた。
一瞬もう眠ってしまったのかと思ったが、どうやら薄目はあいている。岩穴の入口を正面にして、夜の星空を眺めた。
入口からはちょうど、月が見えている。
この世界では月というのは我々と同じ生物のようだと言われていた。日にちが経つにつれて姿を変え、ある周期を回ればまた元の形に戻る。その姿がまるで、人が生まれ成長し、死んでまた蘇る過程と重なる、と。
馬鹿らしい。
人は蘇りなどしない。ガルナはそう強く確信している。わかっている。その人の命が事切れればそれで終わりなのだ。
もしも死者の命が蘇るなんて世界があるのならば、そんな世界にはいたくない。それでは本当に死ぬべき人間がまだこの世に居続けるのと同じようなものではないか。
そんな世界いても苦しいだけではないか。多くの大切な人の命を奪った天使のような悪党のはびこる世界なんて居続けたくもない。
この世界は死というものがあって初めて成り立つ。
静かな夜だった。
「ガルナ」
「ん?」
寒くて暗い岩穴の中にか細い声が響く。
膝の上で顔を乗せて寝そべるウィンスタードは、薄く目を開けて呟いた。
「……わたしは、方法を知らなかったんだ。この身から放つ魔力が、こんな残酷なことにも使えるとは……いや、使わざるを得ないことを。知らなかったんだ。考えたこともなかった」
「……」
段々と声が震えて聞こえてくる。顔をうずめ、弱々しい声が続く。
「私の家族も、お前の妻も。数々の使用人も。どうして消えたと思う。私が奴らの弱点を知った上で、何故オリワルハを助けられなかったと思う。……私は、幼い頃から共にしてきたこの魔力が、そんなことに扱えることを知らなかったからだ」
ガルナは彼のその懺悔にあっけにとられていた。
――魔術をもって、何かを殺せることを知らなかった。
悲痛さの混じるかすれた声は、そう訴えていた。
この世界には魔術を用いての戦争がある。それでもその殺し合いのために扱われる魔法が、殺し合いとは無関係な自分でも容易く扱うことができるだなんて思いもよらなかった。何かを殺そうと思ったこともない自分には、天使を己の力で殺そうなどと考えたこともなかった。そういった気持ちなのだ。
無垢な彼だからこそ、その言葉は何よりも痛ましい。
何かを殺すために、大好きな魔術の勉強に勉めていたわけではない。そして何かを殺せるということを知らなかったからこそ、自分の家族を助けられなかった。
懺悔にも似た思いが、ガルナにも伝わってくる。
「知らなかったんだ……」
か細く震えていた声が声涙へと変わる。それにつられてこちらもやや目頭が熱くなる。
「……お前のせいじゃない」
その絹髪を優しく撫でながら、宥めの言葉を続ける。
「お前のせいじゃないよ、ウィン。あの時一人で立ち向かっていたらお前さえも消えていたかもしれない。だからそんなふうに思うんじゃない」
ウィンスタードは肩を震わせ、声を漏らしながら慟哭を抑えている。ガルナは、彼が顔を埋める膝の上に暖かいものがじんわりと伝わってきたのがわかった。
大陸を回って軍隊を作るという大志を抱き、同胞たちに旅に出ることを宣言したウィンスタードだが、いまだ十四歳の少年。昼間にいつもの同じような冷静な態度を見せていても、多感な時期の少年に受けた心の傷は耐え難いものだろう。それがあまりにも不憫でつらい。
「安心しておやすみ……いいね」
月明かりに反射して淡く光るその美しい髪を、彼が落ち着くまでずっと、撫で続けた。
次第に彼のしゃくり上げていた声が寝息へと変わる。後にはとても穏やかな顔をさせて、眠りに落ちていった。
輝かしい未来と可能性を持つ子どもたちが、この残酷な世界に生きているということがこんなにも憎い。
自分は獣のような幼少期を過ごしたからこそ、強く思う。なぜこんな無垢な子どもたちが、若くて活気な時間を壊されることを、強いられなければならないのだ。幸せな家庭で生まれ、幸せに生きることのできる権利を持つこの子たちがこれほどまでに傷つかなければならないのだろう、と。
こんなにも天界が憎い。
こんなにも時代が憎い。
その夜は、訪れるかもわからぬ泰平の時代を願った。