第11話
「苦痛の世界が恐ろしいのではない。あなたを失うかもしれない戦いをすることこそが恐ろしいのだ」
ギルミナ帝国に帰還してから二週間ほどが経つ。この間、帝国に駐在する兵士たちは、訓練と武具の整理ばかりの毎日だった。国内の範囲であれば、天使が出現したときに鎮圧のため出動することも時折あったが、未だ天界と大戦争を繰り広げようとする動きはない。
確かに旅をしていた時と比べればとても楽な生活ではある。
それだからだろうか、ガルナにはこの生活に違和感があって仕方なかった。せっかくここまで天使と戦えるようになったのに思う存分戦うことのできない不安や焦りが、このちょっとした平穏の時にさえ感じてしまう。
ガルナは天使の鎮圧のための小隊に混ざることを許されなかった。自分の持つ部隊も鎮圧へ参加したいという旨を部隊の小隊長に言っても、度々断られてしまう。なぜ参加させてくれないのか教えてもらえず、しばらく憤懣としていたが、とうとうウィンスタードに直接頼みに行くことにしたのはすぐだった。
しかしそのことについてウィンスタードに抗議をしても、彼は兵団の兵士の書類を眺めながら、いつも通り淡々と答える。
「別にあなたが直接戦場へ赴く必要はない。引き続き、訓練の遅れている兵士たちの指導を任せる」
そう冷たく言い放ち、また仕事をし始めた。
ガルナは彼の仕事机を叩いてさらに抗議をする。
「兵士の面倒なんて他の部隊でも出来るだろう。天使と戦う部隊からは怪我人も死人も出ていると聞く。なぜ一番慣れている者にやらせないんだ?」
「天使と戦うことに慣れる者を増やさねばならないだろう。それに彼らはちゃんと鎮圧して帰ってきてくれる」
「だが死傷者が出ていることは事実だ」
「……なぜそこまで戦いたがる?」
ウィンスタードはため息混じりで言った。
ガルナはそれを答えるのに少し思い留まったが、視線を落として、やや苦しそうに言った。
「……罪悪感なんだ。助けられないことが何よりつらい」
ウィンスタードはガルナを見つめた。
実のこと、彼と同じように、ちょうどウィンスタードも罪悪感を抱いていた頃だった。今でも天使の横暴により命を落とす者がいるというのに、倒せる術を持つ自分が向かいに行かないことに申し訳なく思えてしまい、ずっともやもやとしていた。だからガルナの言いたいことは痛いほどにわかった。
しかしそう思いながらもウィンスタードは現地へは行こうとしない。ただ武具や兵士のリストの書類をまとめたり眺めたり、戦法や作戦を軍議で発表することばかりに務めた。さらには国王にお願いをして、カザール平原に兵団の駐屯地として小さな砦を建設中でもあった。
ウィンスタードはまだ焦りたくなかった。兵団の全体の力を蓄えている今、慎重な準備を進めたかった。そのためにも、少しの緊張すら避けた。
司令官という、兵団を率いる統率者となった今、油断をした時が負けだと心に覚悟を決めているのだ。
天界と戦う本当の目的は人を第一に守ることではなく、天界そのものを葬るためだ。諸悪の根元である天界を確実にうち滅ぼすためにも、兵団に精鋭を増やしたり、さまざまな作戦を練らなければならない。
まだ直接天使と戦う機ではないのだ。
「焦るな。私だって早く天界と決着をつけたい。しかし相手は天界だ。それなりの準備をしてからでないと、天界に打ち勝つ確実性はなくなる」
その言葉にガルナは唸った。
「天界に勝てる確実性の話なんてしてねえ、現地へ行くあいつらが心配なんだ」
「……それなら派遣する部隊を増やそう」
「俺の部隊に行かせてくれ」
ウィンスタードは横に首をする。その反応に対して、ガルナは肩を落として不服そうに反抗する。
「なぜ俺ではだめなんだ?」
その問いかけにウィンスタードは言葉を濁す。
だが、何かを言いかけたきり視線を逸らして黙り込むばかりで、しばらく沈黙が続く。
その沈黙を切り裂くかのように、突然部屋の扉が大きな音をさせて開いた。
そして部屋に駆け込んできた一人の官吏が、息を切らしながらウィンスタードを呼び掛ける。
「団長……! 緊急事態です!」
「何事だ」
官吏は一息落ち着かせたが、それでも慌てた様子は拭えたようには見えない。
だが官吏は大きな声ではっきりと述べた。
「東の方角に、奇妙な浮遊物体が突如現れました!」
ウィンスタードとガルナはその言葉だけでは理解できるわけもなく、慌てているその官吏を見つめる。
そこでウィンスタードはふと立ち上がり、窓の外を覗く。
部屋の位置の関係上、真東を見ることが出来ず、官吏の言うその奇妙な浮遊物体の全貌はわからなかったが、何やらその方角から凄まじい強さの魔力を感じる。〈穢れ〉の魔力ではないものの、その強さは異常なほどであった。
見晴らしの良いベランダへ出て、東の方角を見ると、その光景に二人は目を丸くする。
この国の領土よりも遥か遠くに、巨大な結晶のような物体が見える。
しかもそれは城下町の全体が見渡せるほど高いこの城の位置よりも高く浮かんでいる。
驚きを隠せないウィンスタードやガルナと同じように、周辺には何人かの兵士や官吏も、向こうにそびえる宝石のような物体に注目をしていた。
「なんなのだ、あれは……」
「たった今現れたばかりなので正体は分かりようにもございません……一体、あれは何なのでしょうか」
官吏は不気味なものを見るような面持ちで言った。
確かに遠方に浮かぶその物体は非常に異様だった。その異様さが不気味さに変わってしまうことも致し方ないほどに不可思議な光景が前にある。
突然現れたというからには、城の者も、民の心も混乱しているに違いない。
日光に照らされ、きらきらと輝くその結晶体からは大きな魔力の反応が感じ取れる。こんなにも遠い距離があるというのに、これほど大きな魔力が伝わって来るとなると、ますます見過ごすわけにはいかない物体であるとウィンスタードは確信する。
とにかくもっと近くに寄って調査をしなければならないと強く思った。
「今からあの場へ向かう。学者と兵士を呼んで来い。現地で拠点を張るため、数日は滞在することになるだろう。その間の兵団は官吏に任せる」
その後、ウィンスタードはガルナに向いた。
「ガルナ、お前にもあの場所の調査に参加してもらいたい。調査隊の護衛を任せる」
「あ……あぁ、もちろんだ」
そばにいた官吏たちはウィンスタードの決断に少々慌てた様子だったが、すぐに承諾して各々準備に取り掛かった。
** ** **
突如現れた謎の結晶物体を調査するべく、ウィンスタードは約五十人の兵士や学者を引き連れて、現地である東の方角へと向かった。
その物体はギルミナ帝国からかなり遠く、半日馬車を走らせても簡単には着かなかったが、次の日の夜明けにはエルス大陸の中心に位置するカザール平原に到着した。
カザール平原はどこの国にも所属しない、誰のものでもない土地であった。元々遊牧民が多く住んでいたが、セゼルの山々が大噴火をしたことによって彼らは南へ移っていってしまった。だから今、この土地に住む人間は誰一人いない。
このような、侵略に絶好の場所をなぜ他の国々は取ろうとしないのか。
そのわけは、誰かがこの土地に手を出せば必ず他の国も奪いにかかるだろうことを見越して放置をしているためだった。今更ここを自分の領土に組み込もうとしても、他国に恨まれるだけであり、それは大規模な大陸戦争を引き起こすきっかけにもなると考え、殆どの国は手を出さないのだという。
だが大陸戦争を引き起こしたくない最大の理由は、天界という人類にとっての厄介な敵がいるからだった。
天界との戦争が終われば、次にはこの土地を争い合う大陸戦争が待っていることは明白である。
そんな奇妙な土地がこのエルス大陸の中心に佇んでいることに、ウィンスタードは不快感を覚えずにはいられなかった。
カザール平原に入れば結晶との距離がだいぶ近づいてきて、やがて結晶の真下にたどり着く。そこで早速調査隊はテントを張り、拠点を置き始めたが、周囲を見るとギルミナ帝国から来た調査隊と同じように結晶を調べるべく拠点を置いている他国のテントがあった。兵士や学者も何人かうろついている。
国旗を見ればギルミナ帝国と親しい同盟国であったため、ウィンスタードは兵士たちに拠点の準備をさせている間、同盟国側のテントに訪ねた。
同盟国のラテルア将軍はウィンスタードが来て驚いた様子だった。
「西国の大賢人が、なぜここへ?」
「あんなに大げさなものが突然現れたなら、調べに来ないわけがありません。……どうでしょうか、わたくし共と協力をしてあれを調査致しませんか」
ウィンスタードはそう提案すると、ラテルア将軍は喜んで、軽快の口調で答える。
「あなたのお知恵があるならば、すぐにでも解明でき、民の心も落ち着かせることができましょう。是非よろしくお願いしたい」
「こちらこそ、貴殿の国と協力できるなら、私の心も軽くなれるものです。……ただひとつ、お願いがある。我々は急ぎで来てしまったため、兵糧が足りない。少しだけでも構わないので分け与えていただけないでしょうか」
その要求にもラテルア将軍は快く受け入れる。
「もちろんですとも。私の国はここから近いので足りなくなったとしてもすぐに調達できます。多くを送ることはできませんが、適量を要請しておきましょう」
ウィンスタードはその他に調査の予定や分担を話し合った後、自分の陣地に戻った。
その頃には既に朝方になっていたので、一行は早速結晶の調査を始めることにした。
結晶は相変わらず強い魔力を放ちながら上空に浮かんでいる。近付く度に、魔力の気配が強まっていく。ギルミナ帝国とカザール平原とでは馬を走らせても半日かかる距離にあるというに、宮殿にいた時でさえ強い魔力を感じたのだから、結晶の真下へ来ればより強い魔力を感じることは明らかであった。
しばらくその物体の様子を眺めていたが、何のために現れたのか、誰かが作ったのか、それとも自然に作られたのか全く見当もつかない。まるでこの世のものではないように、神秘的で不思議な結晶なのだ。
観察しているだけでは何も見えてこないので、ウィンスタードはその物体の高度を調べることにした。
こぶし三個分ほどの煙幕弾を用意してそれを浮遊魔法で高く放り投げ、結晶に当たって爆発し、煙が出たところを地上との距離として見る方法を使って実験に移った。
早速煙幕弾を飛ばしてみたものの、煙幕弾は結晶に届かないまま途中で地に降り、そのまま地上で爆発して煙を吹き出してしまう。
ウィンスタードのような強力な魔術師が結晶に向かって投げたとしてもなかなか届かないため、結晶と地上との間にはかなりの距離があることが考えられた。
しかしある程度繰り返しながら高度を徐々に上げ行くと、ちょうど一番高く上がったところで爆弾が姿を消してしまった。
しばらく待っても煙幕弾は地上に降りてこない。
突如として煙幕弾が消えてしまったことに、学者や兵士たちも驚きどよめく。ウィンスタードもまた、爆弾が爆発しないままに戻ってこないことに深い疑問を抱いた。
同じぐらいの力でまた煙幕弾を投げてみたが、また爆弾は姿を消してしまい、地上に降りてくることも爆発することもなかった。次に先程投げた時よりも少し弱めに投げてみると、爆弾は地上に降りてきていつも通りに爆発をした。
(結晶に触れればそのまま吸い込まれてしまうのか?)
まるで異空間に連れ去るように、もしくはそのまま物体を消滅させてしまうかのように、あの結晶に触れたものはみな、姿を消してしまう。
しかしその程度の仮説を立てることができたところでウィンスタードは満足するわけではなかった。
魔法を使ってようやく触れられるほどの高さにあるということ、触れた物体を瞬時に消し去れるほどの強力な魔力を持っているということはわかったが、最大の謎である結晶の存在意義は全く知れるわけではない。その後は何か実験をすることもなく、ただひたすら結晶を観察し始めた。
結晶から出ている魔力の性質について学者たちと議論もしてみたが、とにかく強力な魔力を放つがその性質自体は「ただ単なる魔力」という結論へ陥るばかりであった。
そのまま観察を続けていても何も分かってこなかった。
とうとう調査隊はカザール平原に到着してから一週間もしない内に帰国せざるを得ない状況になった。
なぜなら同じく結晶を調査するために滞在していた同盟国の軍も、同じ時ぐらいにカザール平原から撤退しなければならなくなったからだった。どうやら例の巨大な結晶物体に動揺し、慌てふためく自国の民衆が後を絶たず、国の状況が乱れてきたらしい。それを整えるべく帰還を強いたのだという。
同盟国からの兵糧の支えも無くなろうとしている今、これ以上調査を進めるのは割に合わないと考え、ウィンスタードも帰還の準備を開始した。
――しかし、その準備をしている最中に緊急事態が起こった。
先に帰還途中であった同盟軍の兵士の一人がまた平原に戻ってきて、大急ぎでウィンスタードを訪ねに来た。拠点へ駆け込んできた兵士が慌てた様子でラテルア将軍からの言伝をはっきりと述べる。
「帰還途中に天使が我々の軍を襲撃しに来ました……!! その数二十以上は確かです!!」
それを聞くと、拠点にいる兵士や学者たちがどよめく。ウィンスタードもさすがに驚きを隠すことはできなかったが、冷静のまま兵士に質問をする。
「状況はどうだ? ラテルア将軍は無事か?」
「お怪我こそされておりませんが、兵士には負傷者が多く、天使の軍勢を抑えられない状況であります。学者を連れているので、逃げるのにも遅れが生じるのです。我が軍には魔術師がおらず、治療も防御も間に合いません。どうか、貴軍のご支援をお願いしたい」
兵士はウィンスタードの前にひざまずき、深く頭を下げて力強い口調で頼んだ。
二十以上もの天使の軍勢に、今のこの兵士の量でまともに立ち向かうなど賭けのようなものだ。こちらにも魔術の使えない学者は多くいるから戦いにくいことは大いに予想できる。
だが今鎮圧せねば自軍にも被害が出る可能性も、そのまま天使が帝国に着いてきてしまう可能性も考えられる。
ウィンスタードに迷っている暇はなかった。
「わかった。我々も援軍に向かおう」
そう承諾をしてから、自軍の兵士や学者たちに指示をする。
「学者は兵士と共に国へ帰るのだ、だが魔術で応戦できる者は残れ。我々は残りの兵士と共に、天使の征伐に向かう」
そう指示してから帰還の小隊と天使征伐の小隊に分けると、征伐の小隊には魔術師二人、兵士十三人、合計十五人の兵士が残った。
動員できる人員がどれぐらい少ないものか予想はついていた。むしろ予想よりも多い方だった。
しかしここに残った者たちの少し物怖じしているような様子を見ていると、申し訳ない気持ちがウィンスタードの心に募る。
彼らはこんな事態になることなんて予想していなかっただろう。一体や二体の天使であっても強力だというのに、これから二十以上もの天使と戦うことになる。
実際、恐ろしく思うのはウィンスタードも同じだった。
天使と戦うことも怖いが、何よりも怖いのは誰かが傷ついてしまうことだった。
特にその気持ちは、早く天使と戦いたいと待ち望んでいるガルナを見ていると強まっていく。
ウィンスタードは唇を噛んだ。
彼をこんな事態に合わせたくなかった。天使に会わせることすらさせたくない。
現地へ馬を走らせている途中、ウィンスタードは低い声でガルナに告げた。
「大勢の天使との戦闘は初めてだ。この兵力で容易に敵う戦闘だとは到底思えない。……どうか慎重に行動して欲しい。危険だと思ったら素早く後方へ下がれ」
だが、ガルナは眉をひそめる。
「兵士が少ない今、そんな甘いことも言ってられないだろう。魔術師の支援があれば、俺たち兵士は充分動けるはずだ」
「……とにかく勝手な行動は許可しない。私に従え、私が指揮官だ」
そう念を押すと、ガルナは返事こそしなかったが、黙ってウィンスタードを見つめた。
現地へ近づくと、死体や血の匂いが辺りに広がっていた。馬車の轍に沿って、人間の死体や天使の死体が無惨に転がっている。緑の草原には赤い血が飛び散っている。
そのような酷い光景を見慣れていない学者たちは次々と吐き出す。戦うことを決意した魔術師であっても、実戦経験のない彼らには耐えられなかっただろう。
それでもここまで来た以上はちゃんと戦闘に参加してもらいたい。今更帰すわけにもいかなかったし、帰っていいわけでもないことは彼ら自身充分承知しているようだった。
轍を追いかけていくと、前方に天使の軍勢が人間と戦っているのが見える。彼らは天使に周りを囲まれていて、馬車を進ませることができない状態だった。
ウィンスタード一行は馬の手綱を引き、颯爽とラテルア将軍の元へと向かった。
ウィンスタードはラテルア将軍の一番近くにいる複数の天使の翼を光線魔法で貫いた。天使たちの動きが鈍りよろけたところを兵士たちが斬りかかる。その隙に、ラテルア将軍の無事を確認しにウィンスタードは馬から飛び降りた。
「援軍に参りました。急いで怪我人の手当てにあたらせます」
「かたじけない……もう我が軍では対抗することができそうにない。この数を相手することはできるか?」
学者たちに怪我をした兵士の手当てを促しながらウィンスタードはラテルア将軍の質問に答える。
「……正直のところ、どんな事態になるかは予想もつきません。ですが、魔術で対抗するのであれば、充分望みはあるでしょう。――いえ、対抗しなければならないのです」
ウィンスタードは天使の方を向いた。
数は兵士の言っていた通り、数十は確認できる。その大きな槍や白いローブに金色の装飾、そして大きく広げている翼を見れば、同盟国の調査隊を襲撃したのは紛れもなく天使であると理解ができる。
数は多いものの、そこにいる天使は皆〈穢れ〉に侵食されていない普通の天使だった。だからといって強敵であることに変わりはないが、〈穢れ〉に侵された天使と対峙するよりも戦いやすいことは確かだ。
天使の強い力に負けてしまいそうになる兵士も徐々に現れ始めたが、ウィンスタードはすぐに光線魔法や防御魔法で支援をした。
けれど次第に兵士たちも疲弊し、周りにいる天使が増えてくると、ひとつ疑問に思うことがあった。
天使たちが増える時に、天使から放つ魔力が空から感じるのだ。まるで天使が空から現れているかのように、魔力の気配が頭上から響き渡る。
ウィンスタードはふと、空を見上げた。
何と空に浮かぶ結晶物体から天使たちが透き通るように出てきて、こちらに向かって飛んできている。
結晶までは地上から程遠いので、ここから見える天使は殆ど小さくて肉眼では確認しづらいが、天使が放つのと同じような魔力がこちらに複数差し迫ってきていることから、複数の天使が結晶からこちらに向かっていることがわかる。
ウィンスタードは何となく、この場所にいることこそが危険であると思った。
「……総員、退避する。できるだけあの結晶から離れなければならない」
ウィンスタードは続けて忠告する。
「ここにいては危険だ。我々は全滅するだろう」
「この数のまま逃げれば領内に奴らが入るかもしれない」
返り血に濡れているガルナが息を切らしながら言う。ウィンスタードは低い声のまま答えた。
「嫌な予感がする……とにかくこの平原から一刻も早く去りたい。ラテルア将軍の調査隊とともにここから離れよう」
ガルナを含め兵士たちもウィンスタードの命令に少し疑問を抱いていたようだったが、兵士たちは指示通り同盟国の調査隊の馬車の護衛に着いた。
一行は北の方角に向かってゆっくりとした退却を開始する。
しかし天使たちは軍への追尾をやめない。
学者やラテルア将軍を乗せている馬車の周りにウィンスタードは兵士たちを囲わせ、自らもまた天使の攻撃を防ぐため、あるいは天使を殺すために魔法を放った。
ガルナは相変わらず精力的に戦っていたものの、他の兵士たちは次第に疲れが見え始めてくる。
それと同じぐらいに、攻防どちらにも神経を注ぎながら魔法を唱えているウィンスタード自身も足元がふらついてくる。
(一度にけりを着けてしまえば……)
ウィンスタードは先頭に出て、より大きな光線魔法の魔法陣を展開し始める。
「ウィン!」
天使により近い場所で魔法を唱えようとするウィンスタードをガルナは止めようとするも、魔法陣が開かれた時にはもう遅く、近付こうとする気が無くなっていた。
その瞬間、ウィンスタードの周りには数多くの光の柱が現れ、一瞬にして天使を貫いていく。ちょうど頭部に当たり絶命した天使もいたが、体に突き刺さり身動きの取れない天使や怯んでいる天使もいたので、ウィンスタードはすぐに兵士たちにとどめを刺すことを促す。
兵士たちは急いで前へ出て天使を殺していった。草の上には天使から吹き出た赤い血が飛び散る。
光線魔法によってさらに弱体化した天使たちが殺されている間、ウィンスタードは突然胸が苦しくなり膝から崩れるように地面にしゃがみこんだ。
あまりの痛みに手足が震える。誰かに悟られぬよう、歯を食いしばりながら声を抑え、地面にうずくまるが、一向に痛みが止む気配はない。
そして口を覆って激しく咳き込む。口の中に血の味が広がるのを感じると、抑えていた手のひらを見ながら、ウィンスタードは唖然としてしまう。
(……まさか)
その血を見た瞬間、様々な仮説が頭の中を飛び回った。
しかしすぐに我に返り、吐血したことを人に見られていなかったのを確認してから、乱れた息を整えながら重い体を起こして立ち上がった。
その場にいた大体の天使は死んだようだったが、また次の群れが来ることが予想されるのでウィンスタードはすぐに兵士に攻撃を止めさせ、馬へと乗り、再び退却を始めた。
兵士や馬車とともに馬を走らせながら、上空に浮かぶ結晶を見上げる。相変わらずあの結晶から天使が飛び出してこちらに向かってきている。地上に近付くまで時間がかかるようだから止まらずに走り続けていたが、やはり警戒を怠ることはなかった。
やがて結晶から天使たちが出ていることに気付いた学者や兵士たちが口々に「あれは天界そのものなのではないか」と言い始めた。
(天界そのもの、か……)
何の根拠もないが、ウィンスタードはふと納得してしまっていた。
強力な魔力を放ち、地上界を見下ろすように天空にそびえ、人間を襲う恐ろしい天使が這い出てくる。そこを「天界」と呼ぶ以外に調度良いものがあるだろうか。
しばらく走り続けていると天使が全く追いかけてこなくなった。天使の襲撃から完全に振り切ることに成功したようだ。兵士たちも、同盟国の調査隊も安心したような面持ちになる。
しかしこちらの損害も多かった。
元々結晶の正体を調べるためにこのカザール平原へやってきたため、武器も資源も足りないままの戦闘だったからこそ、十人以上着いてきた兵士がわずか三人ほどになってしまっていた。倒れていった死体は出来うる限り回収したが、急ぎながら退却していたため全員分あるとは限らない。
自軍の馬車は先に帰らせた兵士や学者に譲ったため、死体は同盟国の馬車に乗せてもらった。車の中は血の匂いと兵士たちの骸にまみれており、その残酷さがとても近寄りがたい光景だった。
同盟国の駐屯地に到着すると、ウィンスタードの分隊はその馬車を譲ってもらい、そのままギルミナ帝国へ帰還することになった。
その時には既に夕方になっていた。オレンジ色の夕焼けが辺りの草原を照らしている。
傷付いた分隊の中で口を開く者は誰もいなかった。ただひたすら喪失感に駆られ、帰路を寂しげに進んだ。
ウィンスタードは目の前にある日没の景色をぼんやりと眺めながらゆっくりと馬を歩かせる。
突然オレンジ色の太陽が霞んで見えていく。乗っている馬の頭も複数に見え始め、視界がぼやけていく。そのことにあまり、違和感も抱かず、意識が遠退いていく感覚が、とても優しい感覚に感じてしまい、ふと、このめまいに身を任せたくなった。
「団長?」
そばにいた兵士が声をかける。
その声も、まるで頭の中で響いているように変に聞こえる。
ウィンスタードは手綱を握る力もなく、そのまま滑るように落馬した。
霞んで暗くなっていく視界の中に、急いで馬から降りてこちらに駆け寄ってくる兵士たちが視界にちらついたが、一気に瞼が重くなって身動きもできなくなる。体に力も入らない。
(もういっそ、このまま……)
目が覚めた場所が、家族の元だったらいいのに。
どうせ魔法で敵わぬ世界なら。
どうせ侵略されてしまう世界なら。
** ** **
ウィンスタードが目を覚ましたのはそれから二日後だった。
その間、水さえ飲まずにいたため、城の一同は不安に感じていたが、何とか目を覚まし、食べ物も水も飲めるまでには回復した。
それでもガルナは何も安心することはなかった。
最近――特にこのギルミナ帝国に帰った後のウィンスタードは何かおかしい。
旅をしていた時の彼はもっとわかりやすい子だったというのに、今では彼の考えていることがさっぱり読めない。
今では軍に入り、お互いに仕事を持つようになってからガルナは、ウィンスタードのことが段々とわからなくなっていった。
ウィンスタードは国王から城の小さな地下壕を一室賜っている。魔法の研究のための部屋だそうだが、その研究内容も明らかではないし、何よりウィンスタードは地下壕に他人が立ち入ることを許していない。
軍務であれば、何をしているのかは明らかにすることだろうが、そうでもないようだ。だが、地下壕で何をしているのかはガルナにさえ、かたくなに教えない。
何をしているかはどうでもよいことだが、軍務だけではなく地下壕でしていることがあるからこそ疲れが溜まってしまっているのではないかとも思った。そうだとすれば、彼を諫めなければならない。
以前よりもウィンスタードのことがずっとわかりにくくなったことに、ガルナは不安や寂しさを感じた。
(俺は気にしすぎなのだろうな……)
セリファは、親がいなくともあれだけの成長を遂げた。だからこそ、再会できた今でも彼女のことについて気にやむことはあまりない。
けれどウィンスタードは別格だった。
彼は恩人の息子なのだ。
そして死ぬ運命を受け持っている命でもある。正直、どうしてこの八年を生きてこられたのか不思議に思うぐらいだが、彼がいつか何かに殺されてもおかしくないというのは明らかだ。
だから例えウィンスタード自身に干渉してほしくないと思われたとしても、避けられたとしても、彼から離れてはいけない。
八年前から、この先ずっと、ウィンスタードを支え続けるということを胸に誓っているのだから。
ウィンスタードが目覚めたその夜、彼は寝具から勝手に起き上がり病院から出て例の地下壕へと行こうとした事件が起こった。
ふらふらとした脚付きのまま地下壕に向かおうとしているところ、途中で気絶してしまい、結局また病院に戻されたらしい。
それを聞いたガルナは急いでウィンスタードの病室に見舞いに行った。
「地下壕に行く気だったのか? まだ安静にしていろと言われているだろう。倒れて怪我でもしたらどうする」
「……少しだけ見てくるつもりだった。ここに戻す必要は無かったというのに」
不服そうに言うウィンスタードに、ガルナはため息をついて返す。
「疲れが溜まっているんだよ。ゆっくり休みな」
ウィンスタードは何も答えず俯いているばかりだった。
確かにまだ顔色も悪そうで、病院の棟から地下壕までの距離を行くには無理がありそうに見える。
「地下は誰にも入らせることができないようになっているんだろう? 何をしているのかわからないが、まずその体調を整えてから、行くべきだな」
ガルナがそう言うと、ウィンスタードは毛布を握り締め、口を開く。
「……必要なことなのだ。お前にはわからないだろうが、あれは――」
ガルナはウィンスタードの言葉を遮って、言った。
「わからないな。お前が体を壊してまで没頭しなければならないものなんて今は無いんじゃないか。お前はもう大軍を率いる長だ、国王から軍の指揮権を任せられたほどの人間だ。そんな奴が体調を悪くしている暇などないだろう」
ウィンスタードは口を紡いで何も反論しなかった。
そしてしばらく間を開けてから、言った。
「体を壊している、というのはあながち間違いではないが……疲れてはいない」
「疲れているから体を壊したんじゃねえか」
「違う」
ウィンスタードは強い口調で言い、そしてガルナに目を向けて再度釘を刺すように言う。
「疲れてなど、ない」
少しだけ口を尖らせながら、今にも泣きそうな潤んだ目で、途切れ途切れの言葉を続けた。
「私は悔しい。人間の魔術の限界が、この程度のものだなんて。昼間に……複数の天使を串刺しにした魔法を使ったあの時、わかったんだ。これが、人間の限界なんだと……」
そう言うと、ウィンスタードは両手で顔を覆って、静かに泣き始めた。
ガルナは、彼の言っていることを理解できなかった。突然泣き始めてしまった理由もわからず、戸惑う。
しかしふと、先日天使の軍勢と戦った時のことをよく思い出してみる。
あの時は翼に傷のついてない新手の天使が次々と来ていて苦しい状況だった。そこにウィンスタードがあの大きな光線魔法を放ってくれたおかげで、一時の危機から救われたのである。
だが、その後のウィンスタードはかなりふらふらとした足取りだったのを思い出した。いかにも気分の悪そうな様子だったのを覚えている。
「でもよ……どうして限界なんだ……?」
ガルナは少し枯れた声で問いかける。なぜかそこには緊張感があった。心臓の動きも早くなる。
ウィンスタードは低い声で答える。
「……吐血をした。おそらく、魔力とは、体を蝕むものなのかもしれない。一度に使いすぎれば、体に害を及ぼすのだ」
そしてウィンスタードは深呼吸を一つしてからまた話し出す。
「きっと私は、あれほどの魔法を使い続ければ死ぬだろう。……だが、あの程度の魔法を使い続けることができないようでは、どのみち人類は天使によって滅ぶ。何故なら天界は、人間の魔法以上の力を持っているのだから」
ガルナはかける言葉を失いかけた。
吐血をした。
魔力は体を蝕む。
魔法を使い続ければ死ぬだろう。
その言葉を聞くたびに、ガルナは不安な気持ちでいっぱいになり、返す言葉を考える余裕もなくなっていった。
だが、そんな不安な気持ちを振り払うつもりで、また一つウィンスタードに問いかける。
「そ……それでも、もっと強い魔術師が人間の中にいる可能性もあるんじゃないか? お前ばかりが背負い込むこともないだろう」
その問いかけにも、ウィンスタードは先ほどと同じような調子で答える。
「私以上の魔術師は見たことがないが……きっといるだろうな。もしそうだとすれば、彼らが表へ出てこない理由がわかる気がするんだ。彼らはきっと天界に身を寄せている。人類が勝てない相手を敵に回すよりも、逆に天界に属して、天界の知識を吸収した方が一番効率的で安全なのかもしれない。この地上でここまでだけしか魔術が発展できないとなれば、天使に打ち勝つことはおろか、侵略を防ぐことなど叶わない」
そんな弱気なことを言うなと言いたかったが、ガルナには何か言う気力もなくなっていた。
何も考えられなくなり、ガルナは肩を落とし、俯いた。
少しだけ沈黙があったが、わずかに間を開けてからウィンスタードは落ち着いた声で話し出す。
先ほどよりもずっと優しくて、穏やかな口調だった。
「だけどな……私は地上も、天界も救うことのできる手段を手に入れたのだ」
ガルナは俯いていた顔を見上げた。
ウィンスタードは真剣な眼差しのまま言う。
「その手段があの地下壕にある。まだ私以外他の誰も知らない、究極の魔法だ。……ガルナ、私のこの人生で一番長く付き添ってくれているお前は、私にとって特別な人だ……一番先に見せてやりたい」
その真剣な眼差しを見るなりガルナは、まだ安静にしていろと言うことはできなくなっていた。
何も答えなかったが、ゆっくりと立ち上がり、ウィンスタードを起き上がらせて部屋を出て、共に地下壕へと向かった。
** ** **
地下壕への階段はかび臭く、薄暗かった。天井には蜘蛛の巣もところどころにあるし、虫もちょろちょろと動いている。この小さな地下壕は王から賜ったもののため階段や壁は美しい造りだったが、掃除は一切されていないようで、息を吸う度に臭うカビ臭さや埃っぽさなどの不快感が常にあった。
しかし階段を降りきって、地下壕の扉を開けると、その中は汚れた階段とはうって変わった美しい神秘的な世界が広がった。
魔法の研究を行っている地下室にはいろいろなものがある。玉のような淡い光や、光で描かれている魔法陣の文字が周囲にいくつも浮かび、部屋の中心の台座には青黒く光る宝石のようなものがあり、魔法陣の結界によって囲われている。壁に貼られているたくさんの羊皮紙には魔術師の扱う言語で何かが書かれている。階段で感じたようなカビ臭さはなく、そこには羊皮紙や古文書の臭いばかりが漂っていた。
「ここは……」
その光景に唖然とするガルナに構わず、ウィンスタードは机の上にある何枚もの羊皮紙を手に取りながら、虚ろな目で言う。
「これが、私の行っていた研究。……とは言ってもディレクトリアにいた頃から始めていたが、な」
そして正面の壁に垂れている大きな布を見上げた。
その白い下地の布には手描きで記されたと思われる魔法陣がびっしりと詰め込まれている。今まで見たこともないような、奇妙な魔法陣だった。
「この魔法陣は、私の研究している魔法の正体を図として表したものだ。詠唱はその結界の中にある。私の手でしか開けられないよう、封印を施している」
ウィンスタードは青黒い宝石を指さした。
「さっき言っていた、地上界も天界も救える魔法のことか?」
ガルナがそう問うと、ウィンスタードは静かに頷く。そして、魔法陣の書かれてある布に手を触れながら寂しげな口調で言う。
「天界の横暴に苦しむ地上界も、〈穢れ〉の侵食に苦しむ天界も、一度に救える手段。――その名を、サルヴァドールという。天界が自らのために作った最後の魔法だ」
サルヴァドール。
救世主の意味。
その魔法が、天界や地上界の何を救い出すのか。
魔術のことをよく知らないガルナであっても、目の前の複雑な魔法陣を見るなり唖然としてしまっていた。その魔法陣に何の意味があるのかわからないが、他の魔法とはまったく違う複雑さが、とても圧倒的だった。
さらにこれほどまでの情報の山をウィンスタード一人で作ったことを思えば、また驚きで言葉を失ってしまった。
「この魔法はディレクトリアで見つけた。驚いたことに、天界はあの国に象形文字で記した文章をとある書物に記していたのだ。きっと人類で最も力ある国に天界や地上界の命運を託すつもりだったのだろう。わざわざ象形文字で記してまで知識人だけに読ませたかった部分を、私は幽閉中に解読することができた」
ウィンスタードは散らかっている机の上から何かを探すように、本や魔法石、ペン、インク、羊皮紙などの中を漁りながら説明を始める。
「天使の弱点は、翼であると私は主張してきた。実際翼を損傷すれば天使の性能が極端に下がる。これは私が八年前、オルストロ邸を襲撃されたときに気付いたことだった。ではなぜ、翼を損傷すれば天使は極端に弱まるのか。私は天使たちに翼を持つ意義を考えた。その答えは天使の落とす羽根を見れば、よくわかることだった」
ウィンスタードは、散らかっているものの中から見つけ出した手のひら二つ分ほどの長さの羽根を、ガルナに見せやすいよう机の上に差し出した。
その羽根のほのかに光輝いているのを見ればすぐに天使の羽根であるとわかる。
「天使の羽根は、普通の鳥の羽根と比べて淡い光を放っている。この光の正体は魔力だ。つまり天使の翼には魔力が帯びている。その理由は、彼らが地上にある〈穢れ〉から身を守るためなのだ。天使は〈穢れ〉の魔力に弱い。人間は、人間が生まれた頃から〈穢れ〉が存在する環境で生活してきたため耐性があるが、天使はそれに慣れておらず、少し触れただけでどんどん侵食され、ついに自我を忘れて狂うことになる。だからすぐに侵されることを避けるために、防御壁となる翼を現している。天界では、彼らは翼を広げてなどいないだろう。あの翼は地上界でしか現さないのだ。この根拠は、ディレクトリアにあった天界から来た書物に書いてあった」
ウィンスタードは〈天界ノ書〉の象形文字部分だけを模写した羊皮紙をガルナに見せた。
ガルナは始めに象形文字の書かれた羊皮紙を手に取った。その羊皮紙には、絵にも文字にも似つかないような不思議で今まで見たことのない多様な形の文字がいくつも並べられている。
訳文がないままに読めるはずが無かったので、ガルナはすぐに翻訳の文章を読む。
そこには確かに、天界は〈穢れ〉に弱いということが書かれてある。天使とは人間よりも先に〈穢れ〉に飲み込まれやすく、天界自体も急速な侵食を起こすという。それにより天界の特徴である「意思創造」の能力も徐々に効力を失うらしい。
わかりにくい事柄もあり全文を解釈できないが、ガルナは最初の部分を読んだあと、羊皮紙を机の上に置いてウィンスタードに視線を向けた。
「それで……どんなふうに救うというんだ? 〈穢れ〉ってやつに何か意味があるのか?」
「……最初は〈穢れ〉を天界に満たせば天界は滅ぶのではないかと考えていた。だが、文字の解読を行ううちにそれは不可能だということがわかった。天界は地上界の秩序を守る世界だ、そして死者の魂が向かう楽園だ。天界が滅べば、地上界の秩序を守る役割を持つ者はいなくなる。つまり死者の魂が帰る場所が無くなってしまう。地上界は秩序が守られないために崩壊されて行き、その崩壊によって身体から抜け出た魂も帰る場所を失い、痛みと苦しみを背負いながら地上でさまよい続ける。〈穢れ〉の侵食とは、天界にも地上界にも不利益なのだ。――いや、最も悲劇的な結末だろう」
ウィンスタードの声色がどんどんと寂しいものになっていく。
それでもガルナは黙ってウィンスタードの話を聞き続ける。
「さて、〈穢れ〉に弱いことには天界も非常に焦ったことだろう。人間が天界へ行ったり、天使が地上界から天界へ帰ったりすることで、天界は〈穢れ〉の汚染が徐々に広がっていく。やがて天界特有の「意思創造」の能力はその汚染によって崩壊されてゆき、浄化も効かなくなることだろう。人間よりも〈穢れ〉に浸食されやすい天界は、直に、〈穢れ〉の汚染によって消滅してしまう。――だからこそ、天界はこのサルヴァドールを作ったのだ」
ウィンスタードは次には結界が張られてある詠唱に目を向けた。
「そしていつか訪れる滅亡の日に備えて、地上界にそれを与えた。〈穢れ〉に狂い果てて、自我を保てなくなってしまった時に、その後始末を地上界にさせるためだった」
「後始末って……?」
ガルナは静かな声でウィンスタードに問う。
ウィンスタードはすぐには答えず、口を開くまでやや時間があった。その沈黙が、やけに緊張感を増させる。
それでもガルナは最後まで知ろうとした。ウィンスタードの行っていた研究を、未だ誰にも明かしていない研究を知りたかった。
ウィンスタードの目をじっと見続けていると、また低い声ではっきりと答えた。
「……天界も地上界も一度に滅ぼすことだ。すべての命が、何の痛みも苦しみも悲しみも感じないままに、一瞬で消滅する。ありとあらゆる生命を……意識や精神そのものを消し去るのだ」
ガルナはそれを聞いた瞬間、胸にひんやりとしたものが触れたような感覚を感じた。
そして目を見開き、言葉を失う。
落ち着いた声で、それでも悲しく呟くように答え続けるウィンスタードを見つめることしかできなかった。
「さすれば地上界の人間も天界の天使も、皆痛みを感じないまま人生に幕を閉じることができる。この苦しい意識の世界から無意識の世界へ逃れ、永遠に眠ることができるのだ。こんな残酷な世界にいるよりも、ずっとずっと、素晴らしい世界だと思わないか?」
そう言われた途端、ガルナは思わず、ウィンスタードから視線を反らした。
そしてウィンスタードが世界を破滅に導く魔法を隠れて研究していたことに、驚きと恐ろしさを感じた。
「……お前、そんなことしていいのか。お前は大丈夫なのか……? 世界を壊すなんて、そんなの……」
驚きで言葉がまとまらないままにガルナがそう呟くと、ウィンスタードの顔が少しだけ歪む。
「今まで私は、大勢の人を守りたいと思ったことなどなかった。ただ天界を殺す、それだけの理由のために、助けられる命も見捨て、罪のない命さえも葬ってきた。結局私は、天使のように、非道だったのだ。……世界を滅ぼすなど造作もない。むしろ私は、一刻も早くこの魔法を使って、地上界や天界から生きる苦痛を消してやりたい」
ガルナは眉をひそめた。
「ランバートは……お前の家族も、死んでいった奴らだって皆、そんなこと望まない」
そこにはやや怒りの声色もあった。それでもガルナは精一杯抑えながらウィンスタードに反論する。
しかし、ウィンスタードは冷ややかな表情と口調で答える。
「……知るものか。この魔法を使いさえすれば、それに悔やむことなど、どうせなくなる」
その冷たい物言いに、ガルナは思わず憤り、机の上を叩いた。羊皮紙が飛び上がり、床へと落ちていく。
「ふざけるな!! お前が旅を始める前に言った決意は何だったんだ……俺たちが八年もやった旅は何だったんだよ!?」
そう怒鳴ったものの、ウィンスタードは何も動じず、同じように冷たい態度のまま言う。
「どうせ皆死ぬのだ。もう他の手段はないんだよ。そんな絶望しかない争いに、何の理由があって抗い続ける必要がある?」
ガルナはウィンスタードの胸ぐらを掴んだ。悔しさに歯が軋んだ。そして掴んでいる手の力を強め、険しい表情を向けて言った。
「俺は嫌だね……そんな胸糞悪い最期を迎えるぐらいだったら、戦って死んだ方がずっとましだ!」
するとウィンスタードも少し険しい表情になって、饒舌に反論をし始める。
「どうしてわからない? お前だってこの前、私が倒れたのを見たであろう。人間が扱える魔術の限界がもう既にやってきたのだ。……あぁ、そうだよ。私は、私よりも強い魔術師が現れることをずっと待っていたさ。それでも現れない……それどころか私に期待するばかりで自分の能力を向上させようとする魔術師すら現れない。この時点で、人類が天界を相手にできる限界は到達しているのだ!!」
彼の怒号が地下壕に響き渡る。それは今まで示してきたこともないような威勢だった。
ガルナは何も、返す言葉が見つからなかった。
「……だが、もう既に人類が天界に抗える唯一の手段である魔術すらも限界に来ている。どうせ死ぬなら、誰一人として苦しまないですむ方法を選ぶことこそが、最も賢い選択だと思わないか? 天界でも成し得ないことを人類が成すのだ。これほど価値も名誉も効率もある選択はなかろう……!」
ウィンスタードは胸ぐらを掴まれていた手を振りほどいて、厳しい目をガルナに向ける。
「ガルナ、お前だって考えたくないことがあるだろう。早く家族や友に会いたいと、焦る時があるだろう。いつ天使たちがまた襲い来るのか、いつ大切な人が死んでしまうのか、不安になる時があるだろう。そんな苦しい気持ちは、この魔法を使った後には何も感じる必要がないんだ。戦う必要もなくなるし、恐れることもなくなる。これのどこが嫌だというのだ? どこが胸糞の悪い最期だというのだ……」
――その時頬の叩かれる音がした。
ウィンスタードは夢中で熱弁していたからか、その痛みが一歩遅く伝わる。そして少し間が開いてから、ガルナに頬を平手で打たれたことに気付いた。
しかし、そんな痛みよりもずっとつらかったのは、ガルナに否定され続けていることだった。
ガルナに頬を叩かれた後、ウィンスタードはどんな軽蔑の目で見られているのだろうと思い、顔を上げることができなかった。
ただ俯いたまま拳を握り締めた。
ガルナの説教を待った。
心の中のどこかでガルナにこの衝動を止めてほしいと願っていた部分があった。
そんな矛盾した気持ちが心の中に溢れて、ウィンスタードは何も言いたくなくなっていた。
「……いい加減にしろ、ウィンスタード……」
ガルナは静かな声で、それでも強い口調で言った。
「戦うことも恐れることもない世界も、誰も苦しまないで死ねる世界もどうでもいい。お前の決意を、人々の期待を、これまでの努力を無駄にすることこそ俺は嫌だ……そんな妥協、俺が許さない」
ウィンスタードの肩に手を置いて、穏やかな口調で言う。
「その魔法を使わないまま滅亡を迎えた時が怖いなら、俺はずっとそばにいよう。どんなに苦しい世界でも、俺はお前を迎えに行こう。……だから、諦めないでほしい。そんな手段で、全てを無駄にしてはだめだ」
ウィンスタードは声を押し殺しながら泣き出した。俯いている顔から、涙をぽろぽろと落とす。
肩を震わせながら静かに泣いているウィンスタードが憐れに思えてきてしまい、ガルナは彼を優しく抱き締めてやった。
ガルナも、ウィンスタードの気持ちが痛いほどわかった。彼の言う話が本当であれば、すぐにでもサルヴァドールを使うべきであると思った。いつ何を失うかわからない不安な気持ちも、家族や友人に会いたくて苦しい気持ちも、今この瞬間も続く死の予知も……すべて一瞬で無くなるとしたら、それは楽な選択だろう。
しかしそれは妥協なのだ。今までの努力をすべて無駄にする選択なのだ。
そんな最期をウィンスタードにさせるなど、彼の父親であるランバートに面目が立たず、申し訳ない気持ちでいっぱいになるに決まっている。
(俺は、最期には必ずランバートのそばに帰る)
それが、いつ訪れるかわからぬ最期への思いだった。「あなたの大切な者の命を、精一杯守ってきた」と胸を張って、恩人と再会したかった。
だからこそ、ガルナはウィンスタードに妥協させたくないのだった。
サルヴァドールを使えばどうせ何もかもが無になるのだから、そんな感情を抱くだけ無駄なのかもしれないが、ガルナはどうしても無の世界よりもウィンスタードや恩人のことばかりを考えてしまう。
むしろそう考えることこそが妥当なのだ。
もっと別の救い方があるかもしれないと信じるのが当たり前なのだ。
まだ滅亡ですべての幕を閉じてしまうのは早いのではないか。
どうせ滅亡する運命であっても最期まで、そして滅亡した後までウィンスタードを支えてやりたいと思った。
ウィンスタードのすすり泣く声が聞こえなくなってしばらく経った後、ウィンスタードは顔をガルナの服にうずめながら、やや震える声で言った。
「……五日後、全軍を武装させ、カザール平原に敷く。その光景に天界はきっと応えるだろう。その時こそが、我々と天界との決戦であると思え」
ガルナはその言葉に即答こそはしなかった。しかし、否定をすることもしなかった。
ウィンスタードの目を見れば、その真剣さがよく伝わったからだ。腫れていてほのかに赤みがあり、いまだ涙ぐんでいる目だが、まっすぐで熱意や強さのこもった視線がガルナに向いている。
彼はこのまま戦うことを望んでいる。滅亡という一番楽な選択をせず、戦いに立ち向かおうとしている。
そんな強い意思があるということが、その目を見てわかった。
そうであれば、ガルナはそれに応えなければならないと思った。
生きようとする者にはどこまでも着いていく覚悟がある。
生きている内に出来る限りのことを成し、何事にも屈せずに戦う意気込みもある。
このまま生き続けることを選択したウィンスタードを、最期まで守り通そうという決意もある。
それがきっと、この自分の生涯において一番重要で大きな役目であるのだと、ガルナは強く確信した。
そしてガルナが、その役目こそが自分にとって最後の役目になるということを知るのは、まさに五日後の〈天界戦争決戦〉の日であった。




