せかいをはんぶんこ
「どうして、こうなってしまったのだろうか」
問い掛けのような言葉はただの独白で、つまりは答えるものはいない。
はじまりは小さな諍いだった。そんなふうに覚えている。
竜と人。それは違いがありすぎる存在同士だったのだ。だからきっと、諍いが起きるのは自然なことだった。
ただお互いに分かっていたことは、「一度流れた血を贖うのには、とてもたくさんの血が必要だ」ということ。
そうして竜と人は、お互いに傷つけ合った。
きっと竜たちは思いもよらなかっただろう。強靭な自分たちがここまで追い詰められるなんてことは。
もはや我ら竜の一族に領土はない。あるのはただひとつ残った、私の居城のみ。
高位の竜族は、ある程度人間に近い姿を取ることが出来る。
はるか昔に人間の居城であったこの城に住まう私は、人形で玉座に腰掛け、ため息を吐いた。
「少し前は、そうではない頃もあったのだがな」
つい十数年ほど前までは、竜と人の仲はそれほど悪くはなかった。
積極的に関わってはいないまでも、一部のものたちは共存すらしていたのだ。
私も昔は、人を助けたり、人に助けられたりもしたものだ。
それ故に今の状況を憂う心はある。
けれどもう、なにもかもは遅く。
王とはいえ私個人の感情で、大局は動かしようがない。
「せめて華々しく終わりたいものだ」
もはやこの戦いが我らの敗北で終わることは目に見えている。
多くの歴戦の勇士が死に絶えた。そして今も、城内では私に従ってくれる竜族が戦って、倒れている。
戦闘の音は段々と近付いてくる。私のところに至るまでに、あとどれくらいか。
不思議なことに、恐怖はない。ただ「終わるのだ」という実感めいたものがあるだけだ。
「担ぎ挙げられたようなものだしな。ようやく肩の荷が降りると思えば良いか」
竜の王とは言ったものの、ほとんどお飾りのようなものだ。
私はどちらかというと箱入り娘で、人間でいうところの家柄が良いという程度の存在に過ぎない。確かに力はあるが、倒れて行った竜の中には私より強い者もいたのだ。
……偉大な親を持つことは、時に子供には苦労となるものだ。
ぼんやりとそんなことを考えているうちに、戦闘の音が近付いてきた。
そろそろ、私の最後の仕事が迫ってきたようだ。
「せめて、すべての責任を負うくらいはしよう。悪役らしく振る舞うくらいはできようともさ」
人は、竜の考えをきっと知らない。
だから私がすべての元凶であれば、そう振る舞うことが出来れば。
もしかすると、少しだけ許されるかもしれない。我らの同胞が、子供たちが、この世界に生きることを。
そしてここまで来たら、素直に人に勝利を与えたい。
ほんの少し前まではそうではなかった、かつての隣人たちを、これ以上困らせたくはない。
「ははっ。今降伏すれば世界の半分をくれてやろう、とでも言ってみるか」
昔読んだおとぎ話の悪役のセリフだが、そういうのも悪くはない。それくらいの方が、後腐れなく悪者として殺してくれるだろうから。
そこまでを考えたところで、ドアが開いた。
床を硬質に鳴らして足を踏み入れてきたのは、ひとりの人間。
若干の幼さを残した顔つきの、青年と言えるオスだ。
茶色いくせっ毛が特徴的で、防具は必要最低限、関節や心臓のみを守るような形。
首から下げた鍵の形をしたペンダントが、トレードマークのように揺れる。
何度もその顔を遠見の術で見た私にとっては、間違えようもない相手だった。
「よく来たな、勇者よ!」
玉座から飛び降り、私は高らかに笑う。笑ってみせる。
勇者。彼が現れてから、戦況は一変した。
どこからともなく現れた彼は、恐ろしいほどの戦闘力で次々と竜を屠っていった。
それまで竜族が優勢だった戦争は、たったひとりの人間の手で覆ったのだ。
それはまるで、私たちを殺すために生まれたものだと言うように。
勇者の足取りは軽く、こちらに対してなんの警戒もないという表情だ。
自然体の動きで、一瞬の踏み込みで必殺となる距離までを、彼は歩いてくる。
それに対して、隙をつこうなどということは考えなかった。
どうせまともにぶつかっても終わるのなら、せめて悪役らしくあり、なんでもないことのように殺されようと思ったからだ。
真の姿である、竜の形を顕現させるまでもない。ただここで、私の首がはねられればよい。
さあ、悪役の最期の始まりだ。
「……竜王」
「うむ。間違いなく、私が竜の王である。勇者よ、今降伏すれば――」
「――結婚しよう?」
「うむ、結婚してやる。……ん?」
「あ、じゃあ降伏します」
「ちょっと待てお前なにを言った今ぁ!?」
うん。今ちょっと会話の流れがおかしかった。いやだいぶおかしかった。
もう一度やり直そう。咳払いをして、改めて相手を見て、言葉を紡ぐ。
「いいか勇者、今降伏すれば」
「竜王と結婚できる?」
「どうしてそうなった……!?」
「今できるって言ったのに……!?」
「一言も言っとらんわぁ!?」
これは想定してなかった。というかこんな展開想定できるか。
改めて相手を見てみれば、随分と真剣な目だった。どういうわけか、大真面目だ。
ええと、とりあえず色々と整理しよう。
「いいか、勇者」
「なんだい、竜王」
「人間と竜は今、戦争をしているな」
「そうだね」
「そして私は竜の王で、君は人類の希望だ」
「うんうん。知ってる知ってる」
「つまり君の目的は」
「竜王と結婚」
「んんん……!?」
意味が、分からない。
「ちょっと待て、一旦落ち着こう」
「ああ、つまりあれか。交換日記から」
「落ち着いて付き合いすぎではないか……!?」
そういう意味じゃない。
少し頭が痛くなってきたが、とりあえず相手は大真面目だ。表情は真剣で、嘘が見当たらない。
つまり結婚してくれというのは、冗談でもなんでもないのだろう。
「まあ、うん。この際それはいい」
「プロポーズ成功!?」
「そのいいじゃない! 君の言いたいことは分かったと、そういう事だ! そうではなく、まず、なぜそうなった!?」
「え、いやほら、俺ももう20過ぎたし、嫁が欲しいなって」
「お前なら、この戦いが終わった後でいくらでもいるだろうがぁ!?」
戦争を集結させた英雄ともなれば、それこそ多くの美女が放っておかないだろう。
これからどういう生き方をするのであれ、生活にも、女にも、きっと困らない。
それがどうして異種族、それも戦争相手の親玉と結婚する必要があるのか。
「とりあえずもう一度よく考え直せ。私である必要はないというか、私が一番危険な物件だぞ!?」
百歩譲ってその求婚を受けたとして、その先にある障害が多すぎる。
竜と人は戦争をしているのだ。もうお互いに引き返せないほど血が流れて、どうしようもないほどに。
人は人類の希望が竜の花嫁をめとることを決してよしとしないし、竜族だってそんなことを認められはしないだろう。
しかし相手は、それがどうしたというように首をかしげて、
「危険であるほど、恋が燃えたりしない?」
「お前さては意外とロマンチストだな……!?」
「お互いの理解が深まったところで、式場の話していいかな?」
「お前も私を理解したらどうだ……!?」
「……照れてる?」
「呆れとるわ!!」
分かっているのかどうかはさておき、この展開には心底から呆れている。脈絡もなくいきなりで、ムードもない。
「……ってムードがあればいいってわけでもないだろうが私ぃ!!」
「おおう、火が」
「竜だからな! 炎くらいは吐くとも! じゃなくて! ……すまない、ちょっと私の方も落ち着かせてくれ」
毒されているのか、思考がまとまらなくなってきた。
自覚はあるので落ち着くために目を閉じて、息を吸う。呼吸と鼓動に集中すれば、少しずつ自分の気分が落ち着いてくる。
「ふう、落ち着い……」
「大丈夫?」
「!?」
目を開けたら、思った以上に近かった。
吐息が触れるほどの距離で、相手がこちらの顔を覗き込んでいたのだ。
反射的に平手を入れようとして、かわされた。勇者というのは伊達ではないらしい。
「ななななんでそんな近くにいるんだお前は!?」
「うん? あ……綺麗な顔だったから見とれていたら、いつの間にか近寄ってたみたいだ」
「きれ……!?」
落ち着きかけた心が、一気に火にかけられた。
心臓がどくんと跳ねて、そこから全身に熱が回る。
吹きかけた炎を飲みこんで、私は牙を向いた。
「い、いきなりなんてことを言うんだ!?」
「いや、だって……綺麗な顔してるし、尻尾もすらっとしててすべすべしてるし……あ、声も綺麗だよな」
「〜〜〜〜!?」
飲み込んだ熱の塊が上がってきた。
心臓がうるさすぎて、視界が歪むのではないかとすら感じる。
「ちょ、ちょっとたんまぁ……!」
泣きそうな声を自覚しながら、私は悲鳴をあげた。
……これなら普通に戦った方がマシだ!
今日この日までに積み上げてきた覚悟が、一気に揺らぐ。
そもそも私は色恋には慣れていない。まだ年若いうちから竜王と崇められて、そういうことをしたことがない。
強さや家柄、竜としての血統。そうしたものを褒められこそすれ、愛でるように美しいと囁かれることなんてなかったのだ。
それが急にこんなふうに女扱いをされれば、決心が揺らぐどころではない。
気恥しいし、こそばゆいし、むずがゆい。というかどうしろというのだ、こんな感情。
「死ぬ覚悟を決めた相手に、それを言うのかお前は……!」
「どうせ死ぬならその命、俺にくれてもよくないか?」
「ふゆっ……きゅ、急に歯の浮くようなセリフを言うな!?」
「なるほど、こういうのに弱いと」
「分析もするなぁ!?」
いけない。違う意味で全力で攻略されかかっている気がする。
このままでは戦闘どころではないので、物理的に距離をとった。
「いい加減遊びは終わりにしろ! 悪い冗談もいいところだ!」
「いや、俺は最初から大真面目なんだけどな」
「ならば、私も大真面目にしてやろう……!!」
じろりと口の端から炎が漏れる。他ならぬ私がそれを許したがゆえだ。
炎のように猛ることを、私は己に許した。
めきめきと音を立て、身体が崩れる。否、これこそが私の本当の身体。
塵が塵であるように。灰が灰であるように。
竜の我が身は紛れも無く、竜なのだ。
「グウウウウウ!!」
かつては人のものであった玉座が、竜たる私に踏み砕かれた。
勇者の瞳に映る私の肉体は、漆黒の巨体。
人型をとっていたときの数倍は太くなった黒曜の尾が、手近な柱を玩具のように砕く。
「これが竜だ! お前たち人間の敵だ!! 触れるだけでお前たちを壊すことができる――殺さねば、そうなるだけのものだ!!」
「ああ……」
「分かるだろう……! もう、私たちの間にあるのはそれだけなのだ! だから……私を殺してみせろ、勇者ァ!!」
湧き上がった心臓の鼓動を押し込めて、代わりのように炎を吐き出した。
私が吐き出した熱量は迷いなく、大気と建造物を丹念に焼き舐める。
直撃すればひとたまりもないであろうそれを、勇者は軽い調子で横ステップして回避し、私へと肉薄した。こちらの成果は僅かに、彼の髪を焦がした程度だ。
やはり、私では彼に届くことはできないか。
……これでいいのだ。
これで彼はきっと迷いを捨てる。もうほんの一瞬で、私を殺すだろう。
なにを思って求婚なんてことをしてきたかは分からないが、おそらくはただの気の迷いに違いない。
私はここで終わって、それでいいのだ。
「……竜の姿も綺麗だなぁ」
届いたのは、刃でなく声。
腰に吊り下げた剣ではなく、私の龍鱗にそっと触れて、彼はそんなことを言った。
命のやり取りの中、本気だからこそ響いた言葉に、殺気が鈍る。
「やめないか、馬鹿者……!」
「いいや、やめないね。俺は一途なんだ」
「その一途さをどうして私に向けた……!」
「そりゃあ好きだからに決まってるだろう……!」
苦し紛れのように振った爪はあっさりと避けられて、相手の言葉だけが私に刺さる。なんだこれは。どういう戦いだ。
「そもそも、初対面だろうに……!」
「え? ……うおっとぉ!?」
こちらの言葉に相手が動きを止め、打撃が入りかけた。
直撃すればたやすく相手の五体をバラバラにするであろう竜の打撃が、相手の身体をかすめる。
さすがに危険だと思ったのか、今度は相手がこちらから距離をとった。
「ちょっと待って、落ち着こう」
「お前が引っ掻き回してるんだろう……!」
「いやまあ、前提が違ったのなら俺の方が悪かったかもしれない。うん、それは謝る。でも、まずは確認いいか?」
「……言ってみるがいい」
だいぶグダグダになってきた気がするが、もう今更なので気にしないことにする。
それよりも、どうしてこんなことになっているのかを明らかにしたほうが、きっとお互いにとっていいだろう。
「……俺たち、初対面じゃないよな?」
「お互いの存在を知るという意味では初対面ではないかもしれないが、直接会うのははじめてだろう?」
「んんん……!?」
今度は向こうが動揺する番だったようだ。
相手は眉を歪め、難しい顔をして、
「もしかして、忘れてるのか……?」
「は……?」
忘れている、という言葉に、記憶を掘り返してみる。
と言っても、竜の命は長い。私だって年若いとはいえ、数百年の時を生きている存在だ。
軽く思い返した程度で、それだけの記憶をすべて確認できるわけではない。
本来の主を失って久しいこの城のように、埃をかぶった記憶は簡単には掘り起こすことができない。
「……すまん。どこかで出会ったか?」
「わりとショックを受けるぞ、その反応……!」
「いやまあ、気持ちは分かるが……どうしても分からんものでな」
お互いに知り合いだと思っていた相手に告白して、「誰?」と返されるのはだいぶ酷い。色恋をしたことがない私でも分かるくらいに酷い。
しかし、なんと言われようと分からないものは分からないのだ。であれば、聞くしかない。
「くっ……あれは今から14年と3日前のことだ」
「随分細かく覚えているんだね!?」
「そりゃもう、それで俺は救われたんだからな」
「……すまない。正直ちょっと変質的で怖い」
「容赦ない話の折り方だな!? そこは一途って言えよ!」
だって、そこまで記憶してるのはさすがにちょっと怖いじゃないか。
私が長生きで記憶について無頓着な部分もあるが、人間は時に妙な集中力を発揮させるから驚きだ。
「とにかく、14年前だな」
「14年と3日だ。その日、俺の村の近くで大きな火事があった。山村だったから、正確には山火事だな」
「……あ」
言われてから、そんなこともあったと思い出した。
たしかあの時、私はすこぶる機嫌が悪かった。
だと言うのにどこぞの馬鹿が山に火を放ったせいで、更に機嫌が悪くなった私は――
「――山火事の火を、消し飛ばしたのだったか」
竜は力のある種族だ。気に食わなければ、それくらいはやる。
無為な殺生は好きではないので生き物に害が無いように魔法は使ったが、とにかく私はあのとき、そういうことをした。
「……アレで救われたと、そういうことか?」
「そうそう。そういうこと。西の空に飛んでいく竜王を、俺は見ていたんだな」
相手が何度も頷くのを見て、なんとなく納得した。
そういう意味でなら、まったくの知らない仲ではないと言えるような気もする。少なくとも相手にとって、私は知っているものだったのだから。
「だがそれなら、私としては初対面だぞ。あのときの私は、お前のことを認識すらしていなかったのだから」
「確かにそうだけど、ほら、視界の端に映ってたとかで覚えててもよくないか?」
「無茶を言うな。竜の記憶力は、あまりよくなくてな……しかし、よくあのときの竜が私だと分かったな」
「前に、竜王の姿を見る機会があった。それで、一目で分かったんだ。あのときの竜だと」
そんなことで分かるのかと思うが、14年も前のことを日にちまで覚えているような奴だ。分かるかもしれない。勇者って怖いな。
「そして俺は思ったんだ。『結婚しよ』って」
「お前さては、だいぶこじらせてるな……?」
「恋煩いを?」
「人間性をだよ!!」
竜が人間性を語るのも妙な話だとは思うが、だってその結論はおかしいだろう。
しかし、相手の方はお互いに相互理解が及んだと判断したのか、すっかりノリノリだ。思いきり拳を握って、
「だって結婚するだろう!? 力強く美しい黒曜の鱗をまとった身体! 宝石のような紅玉の瞳! すらりと伸びたセクシーな尻尾!! しかもそれが命の恩人! 恋に落ちないほうがどうかしてるね!」
「ぐっ……種族が違うだろう、種族が……!」
「ふふんっ! 山育ちを舐めないでもらおうか! 村民より動物の知り合いのほうが数が多かったぞ!」
「威張ることなのか、それは……!?」
妙な田舎自慢が始まった気がする。
話しているうちに相手が近づいてきたので一応攻撃してみるが、ちょっと落ち着いつてきたのか軽い調子でかわされてしまう。おのれ。
「だいたい、それで求婚するのはいいとしても、それでここまで来るか……!?」
「来たんだからしょうがないだろう!」
「よし、貴様相当の馬鹿だな!? こんなところに、大量の屍を重ねてきて、どうするのだ! 今更、どうしようもないだろうが!」
「どうしようもない……!?」
「私たちは血を流しすぎた! 今更和平もなにもない! そんな状況で、愛だの恋だの、どうしろというんだ!」
始まりや、どちらに非があるかどうか。
そんなことは、戦争において重要なことではない。
大切なのは、一度始まってしまったものを終えるのは、とてもとても難しいということ。
「出会い方を間違えたな、勇者」
きっとこうでなければ、違っていたのかもしれない。そういうことも、あったのかもしれない。
それでも、ここは違う。ここではそれは叶わないことだ。
お互いがお互いを傷つけすぎた。
お互いがお互いを憎しみすぎた。
お互いがお互いを否定しすぎた。
愛や恋以前の問題だ。
もう私たちは、隣人にもなれない。
「竜と人とが、隣で並び合うことすらできなくなって、それでもと――」
「――それでも、お前が好きなんだ!」
それでもと、そう言えるのか。
そう問いかける前に、潰されるように言葉が来た。
……ああ、彼は言えるのだな。
考えてみれば、当然のことか。
彼の言葉を聞く限り、私のことを求めて彼はここまでの戦いを通ってきたのだ。
たった一度。空のように見上げた竜のために、ひたすら戦い抜いた。
そんな彼ならば、当たり前のようにそう言えてもおかしくはない。
「私は、そうは言えないのだ……!」
私は違う。
どんな状況であれ、女として求められたという事実に悪い気はしない。
褒められれば純粋に嬉しいし、求愛されてときめいたのも、否定できない。
……それでも。
私は竜の王なのだ。
責務を捨てるわけにはいかない。仲間を見捨てることはできない。
例えそれが、なし崩しのように与えられたものだとしても。
「そう簡単に、投げ捨てられないんだ……!」
「だから俺が降伏すればいいだけの話だろう……!?」
「それはそれで問題があるだろうがっ! 竜だって人間のことは認めないし、ありえたとしても――人間が滅ぶのだ!!」
勇者がこちらの軍門に下るとは、そういうことでもある。
彼がいなければ、この戦争はとっくに竜が勝利をおさめていた。つまり勇者はひとりで、戦争をひっくり返したのだ。
それだけの力を持った彼が竜につくならば、その時は人の終わりだ。
私の言葉を受け取った本人は、不思議そうな顔で、
「竜の王が、人のことを想うのか……?」
「……かつて隣人だったものを、これ以上苦しめてどうする。大局は決まったのだ。それを覆すべきではない」
「…………」
「分かったか? それならいい加減、茶番は終わらせ――」
「――お前のことを好きになってよかった」
「聞かないか! ときめかせるな!」
「やっぱりこういうのに弱いんだなぁ」
「ストレートは苦手で……ってだから! 人の話を聞け!!」
「いやいや、今ので俺の気持ちは決まった。もうなにがあっても結婚する」
「なんかこの勇者まためんどくさいこと言い出したぞ……!?」
彼のことを人間性をこじらせていると評したが、訂正しよう。
人間性も恋煩いも、こいつはこじらせている。
「いい加減に聞き分けないか……!」
「いやいや、可能性を諦めちゃダメだ。もう少し考えよう」
「今更考えてなんとかなるのか……!?」
「……うん。よし、竜王。俺と一緒に逃げよう」
「……は?」
「ここでお互いに相打ちってことにして、そうすればまあ、とりあえず人間側の勝利で丸くおさまるだろう。そうしたら、俺たちがどこに行ってもいいんじゃないか?」
「た、確かにその通りかもしれないが……」
「英雄なんて言われるのも趣味じゃないし、隠居もできて嫁さんもできる。一石二鳥だな」
「ちょ、ちょっと待て、まだいいとは言ってないだろう!?」
満足げにうんうんと頷き始めた相手を、慌てて制止した。
止められた方は不思議そうな顔をして、
「うん、なにかおかしいか?」
「どう考えてもおかしいだろうが! なんでそうなる!?」
「ほら、やっぱりこういうときは愛の逃避行だろう?」
「あい、のっ……ええい! そんなことができるか! そもそも、どこに逃げるというのだ!」
「そうだなぁ、とりあえず時空でも超えてみる?」
「……は?」
「ちょうど前に別次元で修行したところ覚えてるから、すぐに行けるだろうし」
「ちょ、ちょっと待て! お前が今、何を言っているか分からないぞ!」
時空とか次元とか、こいつはなんの話をしているんだ!?
なんだかよく分からないが、いきなり妙な単語が出てきたことは理解できる。
「お前は、今までどういうところを歩いてきたんだ……」
呆然とこぼした言葉に、相手は肩をすくめる。首から下げられた鍵のペンダントが、しゃらりと軽い音を立てた。
彼はペンダントに視線を落とし、口を開く。
「まあ、とあるところでこの不思議な鍵を手に入れてからは、いろいろあってな。ほら、それくらいしないと竜とまともに戦うなんて無理だし」
「そ、それはそうだろうが……」
「だからいろんな世界で修行をな。いや~、超魔王はマジでやばかった。三回死んだ。クレりんが蘇生魔法持っててほんとよかった」
「クレりん!?」
私の預かり知らないところで、彼はなにをしてきたのだろう。
気にはなるが、それを聞いていると長くなりそうなので、一度置いておくことにする。
「そこまでして、どうして……」
「そりゃ、お前のことが好きだからだよ」
「っ……!」
「だから何度でも言うぞ。結婚してくれ」
ああ、まずい。これはまずい。
色恋も知らぬ小娘だと自分のことを理解してはいた。分かっていた。
それでも、こうして真っ直ぐに求められたら、ダメだ。
我ながら驚くほど簡単に、堕ちそうになってしまっているのだから。
「……やっぱり、ダメだ」
「どうして?」
「お前は、私の同族をたくさん殺した。そんな相手と、一緒になることはできない」
「なんだ、そんなことなら簡単だ。俺は一匹たりとも竜を殺していないのだから」
「……は?」
「これだ」
空気を撫でるように、するりと抜かれたのは、白銀の色を宿した刃。
……美しいな。
それは確かに刃で、すなわち命を絶つもの。
それでも私は、その剣を美しいと思った。
刀身は細身で、氷のように薄い。しかしそこから感じる鋭さに頼りなさはない。
斬るためではなく、ただ見せるために晒された刃の美しさに溜め息を吐きそうになりながら、私は彼に問いかけた。
「……その剣が、なにか?」
「この剣、竜殺し、ってことになってるけどな。実際には違うんだ」
「違う……?」
「封竜剣。端的に言えば、竜を封じる剣だ」
「は……!?」
聞いたことのない単語に、素直に驚く。
相手の方は私の反応を予想していたらしく、苦笑いのような顔をした。
「まあこれも、別の次元のものだからな。知らなくても無理はない」
「ということは、それを使えば」
「ああ。封印した竜がすべて出てくるとも。他の人間はともかく、俺は竜を一匹として殺していない」
「……そんなものを手に入れるのに、どれだけの苦労をしたんだ、お前は」
「それは話そうと思えばおいおい話せるが、今は、そうだな……惚れた女のためならば、って言ってもいいか?」
「っ、だから、すぐそういうことを……」
「照れた顔も可愛いな」
「……竜は、表情を変えない」
「雰囲気の問題だ。嫌か?」
「嫌、では……ない、が……」
逃げるようにそらした視界で、黒曜の尾が揺れているのが見えた。
居心地が悪そうな揺れではなく、むしろ上機嫌に。
尾は口ほどに物を言うと、父がよく言っていたのを思い出す。
「……その、まだお互いのことも知らないし」
「細かいことはこれから知っていけばいいし、少なくとも今俺は、知れば知るほどお前のことを好きになっているぞ」
「~~~~っ! や、やめろもう! 吹くぞ、火を!」
「顔から? 口から?」
「どっちもだ!!」
心臓の音が周囲に聞こえるのではないかと思うほどに、どくんどくんとうるさい。竜の肉体では余計にだ。
おまけに、尻尾もふりふりと動いてしまっている。私は慌てて竜の姿から、人の姿に変わった。これならばまだまともに見えるだろうと、そういう判断だ。
肉体は縮んだ上で人型をとり、身体を覆う鱗は人で言うところの服飾となった。尾だけはそのままの姿で、ただ小さくなる。
身長の差は逆転し、私が彼を見上げる形になった。
「……どうしろというのだ。私に。私たちに」
「そうだな。まず、この世界の竜を一匹残らず封印する」
「……それから?」
「人間のいない別の時空にでも行って、そこで竜を解放するさ。それが新天地となるだろう」
「……お前はどうする」
「もちろん、竜王の傍にいる」
「私はその新天地を治めねばならない。なにせ、竜王なのだから」
「それならば、傍らにいるだけのことだよ」
真っ直ぐに見つめられて、息が詰まりそうになる。
ああもう。なんだこの心臓のうるささは。頬の緩みは。心の高ぶりは。
まとわりついた熱を振り払うように頭を振れば、視界には私の髪が映る。黒曜の鱗を溶かしたような髪を振り、私は言葉を重ねた。
「そ……そうなったら、お前はひとりぼっちじゃないか」
「竜王が側にいてくれるだろう?」
「……他の竜は、たとえお前が誰も殺してなくても、お前のことを簡単には認めてくれないぞ」
「お、じゃあ竜王はもう認めてくれたのか」
「そ、そういう意味じゃっ……なく、ないけど、でも……」
「でも?」
「……私のことだけを想って、そこまですると言ってくれるのは、嬉しい……けど……」
目の前の青年がどれだけのことをして、どれほど私を想ってくれているかなんて、はっきりとは分からない。
だって今日、はじめて言葉を交わしたのだ。
おまけに私は竜で、相手は人。種族が違う存在同士で、相互理解なんて簡単にできるはずもない。
それでも、彼は大真面目に私と対峙した。
戦争など、大局など知るかと、涼しい顔で愛を囁いてきた。
その熱に触れて、なにも感じずにいられるほど、私の心は硬くない。
「……ああ、もう、本当に」
自覚したところで、自然とそんな言葉が漏れた。
もうとっくに、私は彼の言葉に傾いてしまっている。
竜王として責務はある、逃げ出すことはできない。捨てることも、したくない。
しかし、それは決して死にたいということではないし、恋をしてみたくないということでもないのだ。
「……お前はそれでいいのか?」
「構わない。だって、初恋なんだから」
「……盲目過ぎるだろう、馬鹿者」
あっさりと頷かれて、とうとう私はなにも言えなくなってしまった。
降参の意思が宿れば、自然と身体は彼の胸へと飛び込んでいく。
相手は驚いた様な顔をしたが、それは一瞬。そっと回されてくる手が、ぬくもりを運んでくれた。
むず痒い気持ちを感じながらも、私は言うべき言葉を口にした。
「……はんぶんこだ」
「え?」
「私の生きる場所を……世界を、半分くれてやる。だからお前も……自分の世界の半分をよこせ」
「……よろこんで、竜王様」
はにかんだ口が寄せられ、握られた手に優しく触れる。
そのことを嫌だとは思わず、私は心の熱さを受け入れた。
「……まずは交換日記からはじめよう。心臓が保たん」
「毎日、竜王への愛を綴って渡すとするよ」
「そ、それはそれで心臓が困る……!」
ある意味では、攻略されてしまった気がする。けれど、そんなに悪い気がしないのは、なぜだろうか。
「過去には戻れなくても、前には進める。だったら俺は、君と前に進みたい」
「……好きにするがいい。でも……それなら、私に恋を教えるくらいは、してくれるんだろうな?」
「もちろん、任せてくれ。経験は無いが、気持ちならある。14年と3日分、そしてこれから先も積み上がる気持ちが」
「……まったく。私の胸を、うるさくするのが得意な男だな、お前は」
照れを隠すように、言葉をこぼす。
そんな私の気持ちは見透かされているのか、慈しむように髪を撫でられた。
胸の奥をくすぐるこの気持ちを言葉にするのは難しい。
それでも、私の身体に宿る熱を、いつか言葉にできればいいと、そう思う。
だから、今日この日から。
私と彼で、せかいをはんぶんこ。