『ユダの暗号』
暗号はロマンです。
※第八回ネット小説大賞一次選考通過作品
1
じんわりとした熱気が僅かばかりの夏の名残りを残す初秋。
窓枠にとまっていた赤蜻蛉が一匹、透き通った晴天の空へと消えていった。
JR東京駅から程近い場所に建つ高層マンション、クロス丸ノ内は『光との共存』を売りにしていることもあり陽の光が白磁の壁面に反射し広い室内を煌々と照らし出していた。
アンティーク調の家具で統一された落ち着いた空間に加え防音設備も完備されているので都会の喧騒のど真ん中にいるとは思えないほどの静寂さだ。
こんな場所で読書でもしたらさぞ最高だろうなと甘い誘惑に誘われるが、それはできない。残念ながらこれから血腥い殺人事件の捜査が行われるのだ。私は頭を振って夢見心地な妄想を払った。
「今朝の7時50分頃に14階にあるこの1405号室で推理作家の竜ヶ崎誠一さん、47歳が遺体となって発見されたわ。あんたと同業者なんだから名前ぐらいは知ってるんじゃないかしら?」
警視庁捜査一課の桐生櫻子警部は手帳をめくりながら事件の概要を説明する。それを私と仏頂面を浮かべた先生はリビングにあるダークブラウンのソファーに腰掛けながら静聴していた。
「遺体発見の経緯については、元恋人が被害者宅を訪れるとドアに鍵がかかっていないことに気づく。部屋に入ると書斎のウォールナットデスク付近で頭から血を流して倒れている被害者を発見し通報。死亡推定時刻は昨夜の午後10時から午後11時の間。凶器は遺体の傍に落ちていたキリストのブロンズ像。死因は鈍器による脳挫傷よ」
ここまでで何か質問はあるかしら?と切れ長の猫目が私たちを捉える。彼女の動きに合わせて揺れるワンレングスカットが大人の色香を醸し出していた。
「竜ヶ崎、ね」
ぼさぼさの髪を掻きながら先生――――推理作家の鬼頭宗一郎は心地よい低音の声でぼそりと呟いた。
彼は相談役と称して警察から捜査協力を依頼されることがある。大半は先生の義姉である桐生警部からだがその推理力が評され噂を耳にした他の警察署からもしばしばお声がかかるのだ。(出不精なので本人は嫌がっているが)
「そんな奴いたか?九重、お前知ってるか」全く心当たりがありませんとばかりに先生はきょとんとした顔で聞いてきた。
―――――ちなみに言っておくと九重とは私のことだ。九重千紘、どこにでもいるごく普通の男子高校生だ。
訳あって先生の元で助手(名目上だが)としてお世話になっている。が、そんな仰々しいものではなく物臭な彼の代わりに身の回りの世話をするのが日課で所謂ただのパシリである。
いまだ首を傾げる先生に私は呆れながら「本気で言ってるんですか?」と聞き返した。
「竜ヶ崎先生は暗号を得意とした大物作家です。彼の代表作である『君と僕の暗号日記』から始まり先週発売した新作の『メルトの暗号殺人』を足して全46作品、暗号が使われています。先々月に新宿の天城ホテルで開催された竜ヶ崎先生の誕生日パーティーに僕と一緒に出席して顔合わせしたじゃないですか」
思い出しましたか?と話しかけるが彼はつまらなそうに口を窄めるだけだった。
麗らかな日曜日の昼間に神田神保町にある自宅から有無を言わさずこのマンションに連行された推理作家さまのご機嫌を更に損なってしまったらしい。
「物盗りの線はないんですか?」
首にだらしなく締められた黒のネクタイで眼鏡を拭き拗ねる先生を放って私は桐生警部に質問した。
「被害者の財布、高価なジュエリー、時計などの装飾品も全部無事だったからその可能性は低いわ。ついでにいうと小説の、あんたに言わせたらネタ帳っていうのかしら?それも盗られてはいなかった。ドアの鍵穴にこじ開けた跡も衣服に争った形跡もなかったから顔見知りの犯行と見ているわ」
私は手帳に文字を走らせる。
「これほど立派なマンションなら防犯カメラも設置されていますよね、そちらはどうでしたか?」
「玄関ホールに2台、駐車場に3台、裏口に1台設置されているから全ての映像を確認したわ」
でも、と語尾を弱めて彼女は吐露した。
「管理人が白状したんだけど、実は裏口の防犯カメラだけ故障してて機能してないのよ。設置しているだけでも効果があるからって修理費をケチって放置してたんですって。まったく、職務怠慢もいいところだわ」
桐生警部は不貞腐れたように言う。
「犯人はそのことを知っていたうえで裏口から出入りしたのかもしれませんね」
「きっと犯人は『ラッキー!』って思ったでしょうね。ナイスアシストじゃない。あぁもう、また腹が立ってきた。あの管理人もう一発殴っとけばよかったわ」
ということは少なくとも1回は殴ったんですね。管理人がどんな人物か知らないがその光景を浮かべ心の中で合掌した。
「御託はいい。進捗はどうなんだよ。容疑者はちゃんと絞り込めているのか敏腕警部さん」
先生は皮肉まじりに聞いた。その馬鹿にした物言いに桐生警部はむっとなり「警察を甘くみないで」と強い口調で答えた。
先生は特に気にした様子もなくはいどうぞ続けて、というふうに手のひらを上に向け先を促す動作をする。
彼に何を言っても無駄だと悟った桐生警部はソファーにどっかと座り込み「調べによると容疑者は3人…」深い溜め息を吐き淡々と話しだした。
1人目の容疑者、被害者の友人で会計士の後藤善治、47歳。経営戦略の提案などのコンサルティング業務が的確と評価され、ダンディで渋い顔立ちから女性のファンが多くテレビ番組にもたびたび出演しているある意味有名人だ。竜ヶ崎先生とは金銭でのトラブルが原因でよく言い争いをしていたようでついには「殺してやる!」と物騒な言葉を投げつけていたと証言が取れた。当夜のアリバイは自宅で書類整理をしていたということで証明されなかった。
2人目の容疑者、被害者の元恋人で第一発見者の北島カンナ、25歳。職業は女優。昨夜は被害者とともに銀座の高級レストラン『シャイニー』で食事をとったあと午後9時頃に自宅まで車で送ってもらったと供述している。しかしそのレストランで一方的に別れを告げられ大声を出し泣きつく彼女の姿を多くの客、ウェイターが目撃していた。竜ヶ崎先生は非常に女癖が悪いことでも知られておりパーティーの席でも自分が今まで泣かせた女性の数を得意気に語っていた。そのとき自分の恋人だと紹介された女性も北島ではなく違う名前だったなと今更ながら思い出す。自宅で寝ていたということでこちらもアリバイはなし。
3人目の容疑者、フリーライターの神凪淳太、28歳。幻人社という出版社で旅行雑誌やちょっとしたエッセイを担当しているがその傍らで竜ヶ崎先生のゴーストライターをしていた。当時借金があり困っていた神凪さんにエッセイを読んだ竜ヶ崎先生が声をかけたことから始まったそうだ。最初はお金が貰えるだけで満足していた彼も自分が書いた小説を他人の名前で発表され評価されることに段々と耐えられなくなりゴーストライター業を辞退する申し出を何度も出したがその都度却下されていた。当夜は竜ヶ崎先生宅の書斎で新作長編のプロットを組んでいたあと午後9時過ぎに出たということで他の2人同様、アリバイなし。
…なんというか、飲食店業界の裏側を知ってしまったとき以上の衝撃を受けてしまった。なによりショックだったのは竜ヶ崎先生が書いた作品の殆どが彼ではなく神凪さんが手掛けていたという真実だ。
あの難解な暗号にうんうん唸り探偵役の主人公が謎とともにズバッと解き明かした爽快さに感激したあのときの気持ちを返してもらいたい。何も知らない方が幸せ、とは言うがこれはあんまりではないか。私はがっくりと首を垂れた。
「事件の内情はあらかた理解した。だがいくら殺されたのが知り合いの作家だからって俺たちをわざわざ連れてきた理由がいまいち分からない。他に何か隠してることでもあんじゃねえか?」
訝しげに眉をひそめる先生はじろりと義姉を睨みつけた。
「ふん、相も変わらず目敏い男ね」
「そりゃどうもアリガトウゴザイマス。で、どうなんだよ」
彼女は徐に警察手帳から小さく折り畳まれた紙を取り出し机の上に広げてみせた。
「あんたたち、これなんだか分かる?」
2
『哀れな迷える黄金色の羊が二匹
矮小で片鋏しか持たぬ蟹を踏み殺した
怒り狂うは三本の尾を高らかにあげた蠍
禁じられた柘榴を二粒口にした麗しき乙女を刺し殺す
英雄殺しを讃えられた三匹の蠍は賛美歌を奏で
笑い者にされた山羊の一角で突き殺される
嘆き悲しんだ美少年の涙は一つの瓶から溢れだし神をも魅了した
傍観せし空へと駆ける二匹の羊が
淑やかな二人の乙女と共に地に落ちる
悪意ある言葉に惑わされるな導き出せ
全てはその日に生まれた
さすれば誓いを立てた用心深き女神からの祝福を受けるだろう』
「なんだこれ」
暗号文と呼ばれた象徴的な文章を見た先生の感想は作家にしては実にシンプルなものだった。
「こんなもんを竜ヶ崎は握りしめて死んでいたのか」
「原紙は鑑識にあるからこれはコピーだけど。本当、凄い強い力で握られていたから取り出すのにかなり骨が折れたんだから」桐生警部がやれやれと肩を竦めた。「鑑識がね」
貴女じゃないのか、と突っ込みを入れそうになったがぐっと我慢し咳払いをした。
「犯人が握らせたって可能性はないのか」
先生はこちらを向かず暗号文を凝視したまま質問した。
「鑑識の話しによると竜ヶ崎さんは殴られてからまだ息があったみたいなのよ。ウォールナットデスクに向かって彼が絨毯に腹ばいで進んだ跡があったわ。どうやらデスクの底に暗号文を書いた紙を貼り付けていたみたいなの。底から彼の指紋も採取されているから間違いないわ。その一部始終を犯人が呑気に鑑賞していたとは思えないから」
「竜ヶ崎がもしものときの為に隠していたわけか」
先生がかぶせるように言った。仮に見つかったとしても竜ヶ崎先生の職業は推理作家だ。それが暗号であるなら尚更、小説のネタを取られないために隠していると犯人が勘違いし見過ごしてしまっても何ら不思議はない。
「それにしたってもう少し分かりやすくして欲しかったわ。なんにでも暗号にしたがるのはもはや病気といえるんじゃないかしら」
「なに言ってんだ、推理作家あるあるだろ。俺だって書斎の金庫の暗証番号は暗号文にしてあるぜ」
「知らないわよ馬鹿」
えぇとつまり、今までの話しを簡潔に纏めるとこういうことだ。
犯人は竜ヶ崎さんと顔見知りの人物で彼の頭部めがけキリストのブロンズ像を振りかざし殴り倒した。死んだと思った犯人は急いでその場から逃走したがまだ息のあった竜ヶ崎先生が最後の力を振り絞ってデスクの底に隠してあった暗号文が書かれた紙を手に取りそこで力尽き絶命した。ならばこの暗号文はかなり重要な意味を持っていることになる。
「これは竜ヶ崎本人が書いたものか」
「正解。筆跡鑑定の結果、被害者である竜ヶ崎さん本人が書いたものだと分かったわ」
「なんの暗号文か目星はついているのか?」
「全く、ちんぷんかんぷんよ。そもそもこの答えが何を指し示しているのか分からないのに目星もなにもあったもんじゃないわ。だからあんた達を連れてきたのよ」
確かにそれはそうだ。私は再度机の上の紙を見る。
気になるのは『踏み殺す』や『刺し殺す』といった物々しい文字が並んでいる部分だが、それと何より
「下に書かれた文章は上と離れて書かれていますがわざとなんですかね?」
私は疑問に思ったことを口にした。
「仕様だろう。おそらくこの暗号文を解くためのヒントなんじゃないか」
しかしそのヒントですら解読が出来ない始末だ。先生は暫し黙考し顎に手をやる。
「容疑者連中にもこの暗号文を見せたのか」
やっと顔を上げた先生はトレンチコートのポケットに入れていた棒つき飴を咥えた。彼は何か考え事をする際に飴を舐める癖があるのだ。(本人曰く糖分補給作業と呼ぶらしい)
「いいえまだよ。まず最初は専門家に見せてからにしようと思って、ね」
言わずもがな専門家とは先生のことだろう。パチンとウインクをした桐生警部を先生はげんなりとした顔で見た。
「とりあえずもう一度ここに容疑者を呼んでくるから聴取を取りつつ暗号解読に努めて頂戴。一応は推理作家やってんだし、あんたにとっちゃ赤子の手を捻るようなもんでしょ?」
それに少し慌てた様子で先生が抗議した。
「おいおい俺は聖徳太子じゃねえんだぞ。話しを聞きながら暗号もって、無茶を言うなよ」
それを桐生警部は「またまたご謙遜を」と満面な笑みを浮かべたまま軽やかにリビングから出ていった。
取り残された先生がチッと一際大きく舌打ちをする。彼女にしたら先ほど小馬鹿にされたことへの仕返しのつもりなのだろう。
「良かったですね先生、お義姉さんに期待されてますよ」
推理作家はハッと自嘲的な笑いを溢した。
「光栄で涙が出ちまうよ」
*
控えめなノックとともに入室したのは被害者の友人で会計士の後藤善治さんだ。
英国紳士然とした彼は礼儀正しく一礼をし、スーツの着こなしから立ち振る舞いまで一連の動きに清潔感があった。なるほど、女性にモテるのも納得である。私たちは簡素に自己紹介を済ませ本題である聴取へと移行した。
「早速で申し訳ありませんがいくつか質問させてください。生前の竜ヶ崎さんには艶聞が立っていたようですが友人である後藤さんの目から見て彼はどう見えましたか?」
後藤さんは腕組みをし「そうですね」とぼやいた。
「竜ヶ崎は昔から欲に忠実でしたね。顔がいいから隣には常に女性を侍らせていましたよ。しかも女性を泣かせてばかりいるので『いつか刺されるぞ』と警告していただけに残念です。あぁ、刺されたんじゃなくて殴られたんでしたっけ」
しれっと言う会計士に私は訝しむ。友人の訃報に接しているにしてはあまりにも淡白な反応ではないか。
「あまり悲しんでいるようには見えないがね」
私の気持ちを代弁するように先生が詰問する。その質問は想定済みだったようで「折り合いが悪く諍いが耐えなかったものでして」とすぐに答えた。
「その諍いとはなんだったんですか?」
「よくある金の貸し借りで起こるちょっとしたいざこざです。竜ヶ崎は女遊びが激しかったんですがギャンブルも好きでよく競馬や競艇に無意味な投資をしてましたよ。『他人の金でやるギャンブルは最高だ』とか抜かしてましたかね。貸した金をなかなか返さないんで年甲斐もなくついカッとなってしまったんですよ」
「『殺してやる』と息巻くほどにか?」
後藤さんがぐっと言葉に詰まる。
「…それは、単なる言葉の綾ですよ。本心ではありません、分かるでしょう?」
「知るか」
救いを求めるような顔をする後藤さんを冷たくあしらうと先生は暗号文が書かれた紙を呈示した。
「これは…どこで?」
目を大きく見開き食い入るような視線を向けた。
「デスクの底に貼り付けてあったんです。竜ヶ崎さんはこれを握りしめて絶命していました。見覚えはありますか?」
後藤さんは首を横に振った。
「いえ、こんなもの見たことも聞いたこともない。聖書の一節にしては物騒ですし、全く分かりません」
「どうしてそこで聖書が出てくるんだ?」
納得がいかない先生は苦い顔をした。
「知りませんか?竜ヶ崎は女性にあんなに無体を強いているくせして聖書を持ち歩くぐらい信心深いやつなんです。あべこべで笑ってしまうでしょう。ヤクザと同じ、悪いやつほど神様を信じるって言いますが竜ヶ崎も同様でしたね。あなた方は書斎には入りましたか?天井にはシャンデリアが、本棚には聖書が、デスクにはキリストのブロンズ像が置かれていてあの一室だけまるで簡易教会です。あれは一見の価値ありですよ」
「随分と詳しいですね」
「そりゃあ一応は友人ですし竜ヶ崎の部屋には何度か訪れていますからね。知っていて当然ですよ」
つまらなそうに後藤さんは答えた。
「昨夜は自宅で書類整理をしていたんですよね」
「えぇ、多忙なもので家に持ち帰ることも多々あるんですよ。昨日も仕事が終わったら真っ直ぐ直帰しました。間違いありません」
追撃を許さないとばかりに後藤さんは言い切った。その後も当たり障りのない受け答えと共に彼の聴取は終了した。
「あら可愛らしい探偵さんね」
次にリビングに入ってきた北島カンナさんは私を見て白い歯を見せた。にこりと笑う姿は25歳に見えないほどの幼顔で所々ピンク色に染めたボブヘアーがとてもお洒落だ。
「まずは昨夜のことから。確か銀座のレストランで竜ヶ崎さんと食事をし彼から別れたいと告げられたんですよね?」
桐生警部は容赦なく切りかかった。
「はい。でも『別れよう』なんて生易しいものじゃなくもっと酷い…『君に飽きたんだ』と言い放たれたんです。誠一さんとは22歳差だったけれど心の底から愛していたので本当に悲しかったわ」
「その後はどうしましたか?」
「わんわん大声を上げて泣き出す私を誠一さんが自宅まで車で送ってくれました。呆れてものも言えないといいますが車の中でも彼は終始無言でした。それが悲しくてつらくて家についてからもずっと泣きっぱなしでした」
口元を震わせながら彼女は話した。
「つまり竜ヶ崎を恨んでいたわけだ」
北島さんは必死の形相で即座に否定した。
「そ、そんなわけありません。確かに腹が立ったのは事実です。でもそれより悲しみの方が上回っていましたし誠一さんを殺すなんてそんな恐ろしいこと出来ません」
「なら教えてくれよ。あんたは竜ヶ崎と破局したにも関わらずどうしてこのマンションを訪れたんだ?もう関係ねえだろ」
先生の直接的な言葉に北島さんはびくりと肩を揺らした。
「…一夜経って少し落ち着いたのでもう一度彼と会って別れるのを考え直してもらおうと思ったんです。だけどいくらベルを鳴らしても反応がないし携帯も出なくてどうしたんだろうって思っていたらドアに鍵がかかっていないことに気づいて、急いで部屋に入りました。そうしたら誠一さんが中で倒れていて、すぐに救急車と警察に連絡しました…っ」
とうとう堪えきれなくなったのか北島さんは双眸から大粒の涙を流し顔を覆った。
「そのとき部屋のあるものや遺体に触れたりしていませんか?」
彼女は覆ったまま首を横に振った。嘔吐く彼女を一瞥し先生はポケットから紙を取り出す。
「あんたはこれに見覚えがあるか?」
暗号文が書かれた紙だ。
涙目のまま彼女は暗号をそろりと見つめ「いえ」と短く応えた。
「全く知りません。何ですか、これ」
「竜ヶ崎はこれを握って死んでいたんだ」
「誠一さんが?」
今度はしっかりと両手で持ちまじまじと文章を目で追う。が、すぐに怒られた子供のようにしゅんとなる。
「駄目。こういう暗号ものって昔から大の苦手で、なにがなんだかさっぱりです。お役に立てなくてすみません」
早々に音を上げた北島さんはすんと赤くなった鼻を鳴らしソファーの背凭れにもたれかかった。
その後もにべもなく終了し彼女はリビングを去っていった。桐生警部が次の容疑者を連れてくる間、私たちは尋問員から暗号解読班へと戻る。
「まず互いが気になっている箇所をあげていってみようぜ」
その言葉を合図に私は手帳とペンを、先生は暗号文が書かれた紙を取り出した。
「気になったのはこの暗号文には『殺す』って単語が何回も使われていることです。もしかして犯人が殺害を示唆したものかもしれませんね。それと、生き物が登場するのも引っかかります。羊とか蠍とか蟹とか。何か意味がありそうだと思いませんか?」
「馬鹿野郎、暗号文は竜ヶ崎直筆だったんだぞ。なのにどうやって犯人が殺害を仄めかすことができたんだよ」
はい仰る通りです。バッサリ否定されてしまった。
「それに、生き物だって?乙女と美少年は人間だぞ。そこんとこはどう解釈するんだ」
「…生き物ってカテゴリーには入ってるじゃないですか」
「カテゴリーがでか過ぎるんだよ馬鹿野郎」
先生はソファーにあるクッションを容赦なく私に投げつけた。自分でも苦しい言い訳だとは思っていたが2度も言わなくてもいいじゃないか。まったく、短気にも程がある。
「まさかそれだけじゃないよな?他にはないのかよ」
「他、ですか?…そうですね。何回も読んでいるとこう、なんて言うのかな?回りくどいというかわざとらしい言い方をしていませんか?例えば4行目の『禁じられた柘榴を二粒口にした乙女』とか6行目の『笑い者にされた山羊の一角』がそうです」
先生がにやりと笑う。馬鹿にしているからか当たっているからか分からないが暴言を吐かれなかったので私はそのまま喋るのを続けることにした。
「うーん、あとは文章としては綺麗な表現が多いのに内容がえげつないあたりなんかまるでグリム童話にそっくりだなぁぐらいしか思いつかないですね」
「あぁ、死体愛好者の王子や鳩に目玉を抉られて失明する義姉妹が出てくる胸糞悪いアレか」
「なんでそう覚え方が極端なんですか。それに偏見もいいところです。あぁいうおとぎ話や昔話というのはこうしたらこうなるから気を付けてねーっていう子供に対する一種の教訓本みたいなもんなんですよ」
って、いけないいけない話しが脱線してしまった。私は軌道修正をするようにソファーに座り直す。
「この『悪意ある言葉に惑わされるな』とはなんですかね?悪意…悪気とか、害ある意志?」
「俺が思うにこれは寓意法を用いて書かれた暗号だろう。直接的に捉えず客観的に、広い目で見るべきだ」
「寓意法って確か江戸川乱歩が分類した暗号の種類ですよね。わざと遠回しな表現をして本来の文章の意味を隠してしまうっていう…」
他にも置換法や、割符法、表形法などがあるがこの暗号には適さなそうなので除外される。
「そうだ。ここでいう『悪意ある言葉』ってのは『必要のない文章』、つまり『必要のない文章を除け』って意味だろう」
「その心は」
「目下検討中」
肩透かしを食らった私は「はい、次は先生ですよ!」と嫌味を込めてわざと急かしてやった。
「俺が気になったのは羊と蠍と乙女が2回使われているが蟹と山羊と瓶は1回、という点だ。クソッ何か理由があるはずなんだがぼんやり霞がかって見えやしねえ」
「瓶のくだりは寧ろ美少年の涙に注目すべきじゃ?」
「いや、わざわざ『一つの瓶』と表記されているからこっちが正しいと思う」
しかしなかなか突破口がみえてこないことにイラついた先生は飴をガリガリと噛み砕き貧乏揺すりを激しくさせた。まるで闇の中を手探りで米粒を探り当てるような作業に私は気が遠くなった。
そこで時間切れとなり最後の容疑者、フリーライターの神凪淳太さんが姿を現す。
パーカーにジーンズというラフな格好に腰まで伸びた長髪を後ろで纏めていた。
「ずぼらな格好ですみませんね。なんせ帰宅してからもずっと 徹夜で次回作の長編プロットを組んでいたところに警察から連絡が入ったもんで。急いで飛んできたんですよ」
竜ヶ崎先生のゴーストライターとして暗躍していたフリーライターは盛大に欠伸をかいた。
「神凪さん、あなたが竜ヶ崎さんのゴーストライターとして書き始めたのは正確にはいつ頃からか分かりますか?」
桐生警部が真面目な顔で尋ねる。
「5年前です。僕の自信作、『暗号から始まる青い殺意』がバカ売れしたんではっきり覚えてるんですよ。まぁ売れたわりに文学賞には選ばれなくてガッカリしましたが」
私は愕然とした。竜ヶ崎先生が執筆した数ある書籍の中で私の一番のお気に入りがその『暗号から始まる青い殺意』だったからだ。神様は何度私の心を砕けば気が済むのだろう。気落ちした私の心中を悟ったのか神凪さんが微苦笑を浮かべる。
「もしかして君、竜ヶ崎先生のファンだった?ごめんごめん配慮が足らなかったね。だけどこれからは竜ヶ崎先生じゃなく僕のファンになったらいいよ」
「…それはどういう意味ですか?」
彼の言葉に私は懐疑的な態度を示す。
「どうもこうもそのままの意味さ。竜ヶ崎先生が死んで彼と結んでいた契約も破棄され僕はめでたく自由の身となったわけだ。これからは自分が好きな作品をどんどん書いて世に送り出すつもりだよ」
「仮にも自分を救ってくれた恩人に対してその発言はいかがなものでしょうか」
冷ややかな目で桐生警部は諭すように言った。
「あぁ失礼。でもね警部さん、竜ヶ崎先生の人柄を知っていればこその発言ですよ。竜ヶ崎先生の書斎には入りましたか?凄いですよ」
それは先程、後藤さんにも言われた台詞だった。まだ書斎には行っていない旨を伝えると彼は笑いをこらえるように口に手を当てた。
「何が凄いって部屋中に埋め尽くされた聖物の数々ですよ。タペストリーにシャンデリアに聖書にブロンズ像。特にデスクの真ん前にかけられた巨大なキリストのタペストリーは圧巻ですね。まぁ執筆中は気が散ってしょうがないので僕はいつもプロジェクタースクリーンで全部隠しちゃうんですけど。しかし女性をあれだけ騙して取っ替え引っ替えしておきながら神様に祈るって何かおこがましいですよね。僕に言わせたらあの人はユダですよユダ」
「ユダ、ですか?」
イスカリオテのユダ。弟子の中でも特に選ばれた十二使徒の内の一人でありながらキリストを裏切ったことで裏切り者の代名詞として扱われることが多い。彼が銀貨30枚で祭司長たちにイエスを売り渡した話は大変有名である。
最終的にユダはマタイ福音書では自らの行いを悔いて銀貨を神殿に投げ込み首を吊って死に、使徒言行録では裏切りで手に入れた銀貨で買った土地に真っ逆様に落ち内臓がすべて飛び出して死んだと記述されている。因果応報というが、どちらにしても彼はろくな死に方をしていないことに変わりはない。
「ユダ…」
先生は入手した情報を整理しているのかポケットから新たに飴を取り出し口へと投入した。そして他の2人と同じく神凪さんにも暗号文を見せ意見を仰ぐ。
「え?なんですかこれ!鬼頭先生の次回作で使われる暗号なんですか!?」
かぶりつく勢いで神凪さんは身を乗り出す。目は爛々と光り輝き無邪気な子供のようだ。
「仮にそうだとしても大切なネタをおいそれと出すわけねぇだろ」
「あははは、確かに!同じ推理作家としてそれは分かります」
これでもかというほどの顰めっ面で私の方へ壊れたブリキ人形が如くゆっくりと振り向いた先生。
『だったら言うな』とか『俺とてめえを一緒にすんじゃねえ』とか思っているのだろう。
「この暗号は殺害された竜ヶ崎さんが握っていたものです。暗号が得意なあなたでも閃きませんか?」
何か情報を得られると踏んだのだろう、うってかわって桐生警部の声色は穏やかだった。
「そうですね、似たような暗号はいくつか考えたことがありますがどうにもピンときません。でもこんな暗号文が作れるんだったら僕をさっさと解放してくれたら良かったのに」
それは心からの本心だったのだろうか、彼は重々しい表情だった。
聴取は全て終了し神凪さんが部屋を出て行ったところで私、先生、桐生警部の3人は膝を突き合わせ鼎談する。
「何かとっかかりでもいいから見つからないの?」
少し焦った口調で桐生警部は眉尻を下げた。犯人の見当もつかないうえ意味不明な暗号文が脇を連ねているのだ、無理はない。
そんなどんよりとした雰囲気のなか、推理作家は涼しい顔で一言。
「書斎に行きたい」
3
犯行現場となる書斎は1405号室の一番奥にある。
竜ヶ崎先生が特注で頼んだようでシャンデリアから壁から床の絨毯にいたるまで白を基調とした家具が揃えられており神秘的でありながらどこか異様な雰囲気が漂っていた。
その部屋の中で圧倒的な存在感を放っていたのがデスクの前にかけられた件のタペストリーである。幅が1m70cmはあるだろうか、全体的に淡い色の色彩に細かい金細工の装飾が施されあの有名なゴルゴダの丘でキリストが磔刑を受けた模様が織られていた。
竜ヶ崎先生はこのタペストリーを見て何を思い何を祈っていたのだろうか。しかしその答えはもう二度と聞くことができない。
「勿論このタペストリーは調べたんだよな」
「えぇ、犯行現場なんだから当たり前でしょう」
「上々だ」その答えに満足したのか先生は白いソファーへどかりと座る。私もそれに続き隣に座ると上機嫌な推理作家を見つめた。何か閃いている様子に不謹慎と思いつつも彼の口からどんな推理が語られるのかわくわくしてしまった。
「そんなに情熱的に見つめるなよ、穴が開いちまうぜ」
が、やっぱりやめて膝を思いっきり叩いた。この人はすぐに調子に乗るのでいただけない。
「なにか分かったのね」
桐生警部は問い詰めるような口調で言う。
「まだおぼろげで不明瞭な域だがな」
先生は暗号文を取り出し私たちの前でピラリと掲げた。
「この暗号文には2つの共通点があるんだ」
「2つの共通点?」
「あぁ、女が心底大好きで心底くだらねえもんだよ。おい桐生、本当に分からねえのか?お前仮にも女だろ」
暗号文にくっつくほど近づいて刮目する桐生警部はまだ疑問に満ちた顔だ。
「やれやれ能無しの義姉を持つと優秀な義弟は苦労するぜ。おい、お前いつも朝はニュース見てるか?」
「はあ?馬鹿にしないでちょうだい。見ているに決まっているでしょう。社会人として当然よ」
「その後は?」
「後?ニュースが終わったあとはいつも星座占いを見つつ口紅を塗ってから戸締まりのチェックを―――――」
あっと大きな声を上げ桐生警部は目を剥いた。
羊、蟹、蠍、乙女、山羊はそれぞれ牡羊座、蟹座、蠍座、乙女座、山羊座のことを指していた。
そういえばギリシャ神話では牡羊座は金色の毛を持った空飛ぶ羊で、蟹座はヒュドラとの格闘中のヘラクレスに踏み殺され、蠍座はオリオンを刺し殺した功績を讃えられ、乙女座は冥土の柘榴の実を口にしてしまい、牧神パンは山羊に変身したが下半身が魚になってしまい他の神々から嘲笑されたと記されている。
悔しい、どうして気づかなかったんだろう!
「ここで共通点その2だ。この暗号文には必ず星座が記された前後に数字が入っているんだよ。おい九重、手帳とペンをよこせ」
受け取ると即座に暗号文の重要部分にさっとアンダーラインを引いていく。
「いいか?1行目から始まって『黄金色の羊が二匹』、『片鋏しか持たぬ蟹』、『三本の尾を高らかにあげた蠍』、『禁じられた柘榴を二粒口にした麗しき乙女』、『英雄殺しを讃えられた三匹の蠍』、『笑い者にされた山羊の一角』、『美少年の涙は一つの瓶から』、『空へと駆ける二匹の羊』、そして最後の『淑やかな二人の乙女』。な?言ったとおりだろう」
納得しかけた瞬間、そこでふと気づく。
「あれ、でも先生。『片鋏しか持たぬ蟹』は数字が入ってないですよ?」
それをいかにも悪戯が成功した悪餓鬼のようなしたり顔で私を見る。
「それがこの部分のミソなんだよ、蟹だけにな。いいか、蟹の鋏は2本あるだろ。なら必然的にこの片鋏ってのは数字に置き換えると『1』にならないか?まぁ竜ヶ崎が仕掛けたひっかけ問題ってやつだな」
つまらないオヤジギャグは置いといて、確かに言われてみるとそんな気がしてきた。私はまんまと罠にかかってしまったようだ。
「この暗号文に星座と数字が入っていることは分かったわ。でもだから何?ここからどう広げていくのよ」
桐生警部は眉間に皺をぎゅっと寄せ先生に食いつく。
「慌てんなっつーの。道筋はちゃんと下に書かれているぜ」
「下って、この『悪意ある言葉に惑わされるな導き出せ』ってやつですか?」
「文字通り。導いて、出すのさ」
徐にさらさらと手帳に何かを書き出す。数秒後、手を止めると小気味の良い音を出しペンで叩いた
「これは数字の位置に来ている文字を読めって意味だ。星座を平仮名にすると分かりやすいな。そうすると牡羊座の2番目に来る文字は『ひ』、蟹座の1番目に来る文字は『か』だろ。他のもこんな具合に書き出していくと…」
先生は興奮気味に次々と手帳に文字を書き出していく。暗闇に一筋の光明が差した気がした。
『ひかり とり やみ ひと』
「…本当にこれが暗号文の答えなの?」
出てきたのは意味のない言葉の羅列だった。これが死の間際に何としてでも伝えたかった竜ヶ崎先生のメッセージだというのか。光明が差したと思いきや私たちはまだ暗闇の中に取り残されたままにいた。
しかし「いや」と先生は答え「まだ続きがあるんだ」次のヒントがある、と暗号文を指差す。
「『全てはその日に生まれた』って文章のことを言っているんですか?でもその日に生まれたって誕生日ぐらいしか思いつきませんよ?」
「竜ヶ崎さんの誕生日は7月だけど関係なさそうね。ちょっと、どうなってんのよますます意味不明じゃない」
「だから言っただろ。『まだおぼろげで不明瞭な域だがな』って。俺だって知りてえよ」
一難去ってまた一難だ。黙り込んでしまった先生は微動だにせずただひたすら暗号文を繰り返し呟く。
「待てよ」突如はっとした声が書斎に響く。
「誕生日、誕生日。そう誕生日なんだよ。九重、そこの本棚から旧約聖書をもってこい」
「解けたんですか?」
「全ては神のお導きってな」
立ち上がり本棚へと移動する。聖書や神話など誰が見ても分かりやすく配架されていたので私でも数分で目的の物を手に入れることができた。
私から聖書を受け取るとパラパラとめくりながら先生は嬉々として話しだした。
「『全てはその日に生まれた』っていうのは生まれた日、もといこの世界に誕生した日のことを指しているんだ。お誂え向きに旧約聖書の『創世記』第一章に天地創造について記されている。こんだけ聖物に溢れていて竜ヶ崎が信心深いってんなら使わない手はないだろ。まぁかいつまんで説明すると、
1日目 神は闇と光を作り昼と夜ができた。
2日目 神は空(天)をつくった。
3日目 神は大地と海を作り植物を生えさせた。
4日目 神は太陽と月と星をつくった。
5日目 神は魚と鳥をつくった。
6日目 神は獣と家畜をつくり神に似せた人をつくった。
7日目 神は休んだ。
とある。先ほど出た答え『ひかり とり やみ ひと』を当てはめると…」
「ちょ、ちょっと待って!」
先生から聖書を奪い取り桐生警部は暗号文と交互に見やる。それを飴を舐めながら先生は優雅に足を組んだ。
「…ひかりは1日目、とりは5日目、やみは1日目、ひとは6日目になるから、繋げると『1516』!これが暗号文の答えね!」
ご明察とばかりにパチパチと拍手をする。それに気分を良くした桐生警部は喜色満面だ。
「で、それがどうしたよ」
「え?」
私たちはたまらず聞き返した。
「え?じゃねえよ。これが一体なんの数字かって言ってんだ。携帯?キャッシュカード?金庫?コインロッカー?パソコン?4桁の数字なんてこの世界に腐るほどあるんだ。その中からピンポイントに見つけ出すなんて骨が折れるどころの騒ぎじゃねえぞ」
暗号文の謎が解けたことにかまけて大切な部分を失念していた。その事実を突きつけられた桐生警部は力を失いすとんと座り込む。あまりの落ち込み具合にかける言葉が見当たらなかった。
「…そもそも犯人が分かっていないのに私ったら何ひとりではしゃいじゃったのかしら。ふふふ、死にたいわ」
とうとう悲観的な発言まで口にする始末だ。
「確実とは言えないが嘘つき狼はあの3人の中にいるぞ」
「え?」
けろりと言ってのけた先生に桐生警部が掴みかかった。
「だ、誰なのよそいつは!勿体ぶらずに吐きなさい!てか吐け!」
どもりながら極悪人に尋問するような口ぶりで言う彼女に先生は「それよりも今はこっちに集中させろ」とプイッとそっぽを向いた。
渋々手を離した桐生警部の目はそれでも納得がいかないと顕著に物語っている。
「なんだ?まだこっから捻ろっていうのか?」
獣が唸るような低い声で先生は解読に取りかかる。
「まさかアナグラムじゃないですよね」
私の思いつきのアドリブにざかざかと猛スピードで書き出す先生は暫くした後、「余計意味が分からんわあほんだらぁ!」とペンを絨毯に投げつけ盛大にキレた。人の私物になんてことするんだこの人は。
「残るヒントは最後に書かれた『さすれば誓いを立てた用心深き女神からの祝福を受けるだろう』って一節ですが用心深い女神って何を意味しているんですかね」
「分からないわ。あ、でももしかしたら竜ヶ崎さんが今まで付き合った女性の中に彼から何かを託されている人がいるのかもしれないわ」
「そうか?手酷く女を次から次へと振りまくってるクソ野郎から貰ったもんなんてすぐに捨てるか受け取らないんじゃねえか」
「せっかくやる気が起きたのに出鼻を挫かないでくれるかしら?」
「どっかの無能な警部さんが素っ頓狂な推理をするのが悪いんだろうが」
苛立ちが頂点に達した義姉弟が癇癪を起こし出した。こうなってはいくら口を挟んでも止まってくれないと知っているので先ほど先生が怒りに任せて宙に放ったお気に入りのペンを回収すべく私は膝をおってしゃがみこんだ。
「あれ?」
そこであるものが視界に入る。
「見てください先生、本棚の一番下の奥に猫のマトリョーシカがありましたよ。うわーうわー可愛いな。そういえば取材旅行でロシアに行ったってパーティーの時に竜ヶ崎先生が言っていたからこれはその時のお土産ですかね」
ぽってりとした体形に耳なしタイプの、ロシアでは一般的な頭巾をかぶったデザインのマトリョーシカだ。本物に負けないぐらい繊細に描かれていて猫好きなら必ず手にしてしまう魅力がそこにはあった。
「九重くんは本当に動物に弱いわね」と苦笑した桐生警部に言われハッと我に返った。そして悔いた。犯行現場でロシアの伝統工芸品を持って歓喜する男子高校生、なんて滑稽な光景だろう。途端に恥ずかしくなり私はマトリョーシカを元の場所に戻そうとした。
「そうか…」
しかしその手をいつの間にか覆いかぶさるように背後に立っていた先生によって止められる。私の手からひょいとマトリョーシカを取りコンコンと叩いた。
「分かったぞ女神の正体が」
「正体って…これ?」
ぽかんと口を開け絶句する私に先生は無言で頷きマトリョーシカから入れ子を出してどんどん机に並べていく。
「その猫を見て思い出したんだ。『誓いを立てた用心深き女神』ってのはギリシャ神話に登場する月と狩りの女神、アルテミスのことを指しているとな」まだ入れ子は続く。
「アルテミスが月の女神ってことは神話に疎い私でも知っているわ。でも猫とどう関係があるのよ?『誓いを立てた用心深き女神』ってなに?」
桐生警部は矢継ぎ早に尋ねる。
「だから話しは最後まで聞けっての。で、その神話ではナイル川付近で宴会を開いていたオリンポスの神々が突如現れた怪物に慌てふためきそれぞれ動物に化けて逃げたと記されている」
「もしかしなくてもその時アルテミスが化けた動物っていうのが猫、だったんですか?」
「大正解。九重くんには10ポイント差し上げましょう」
軽口を叩くが声色は真剣そのものだった。
「アルテミスは純潔を尊ぶ処女神としての誓いを立てていた。その為に怪物が封印された後も用心してなかなか出てこようとしなかった。これで誓いを立てた用心深き女神=アルテミス=猫の説明がつく」
言い終えたと同時に一番小さな入れ子に到達した。上下に揺らすとカラカラと乾いた音がした。何か入っているのは明白である。
慎重に開き逆さにして手のひらに出す。小型の白い物体がマトリョーシカから重力に従ってぽとりと降ってきた。
「…USBメモリだわ」
囁くぐらいの声量で桐生警部が呟く。
この書斎と同じ、白一色のUSBメモリはシャンデリアの光源に照らされ妖しく光る。
『パンドラの匣』
そんな言葉が頭の中に浮かんだ。この小さな存在にいったいどんな大きな秘密が詰まっているのだろうか。
カチリ、壁に掛けられた時計の針が4時を告げた。
「それじゃあ早速女神さまの祝福を受けようぜ」
―――――その祝福は果たして希望か、絶望か。答えは神だけが知っている。
*
「事件解決よ」
神田神保町にある自宅のリビングにて、机の上に置かれた携帯のスピーカーからいきいきとした桐生警部の声が聞こえた。拡声ボタンを押しているおかげでキッチンに居た私の耳にもはっきりと届く。
「やっと自供したんだな」
お気に入りの朱色のソファーに座り先生は入れたばかりのほうじ茶(先生は珈琲も紅茶も飲めないので)を啜った。
「はじめは頑なに否定していたけどUSBメモリ内の証拠に加え犯行時刻にマンションへ入っていく姿を目撃したカップルを地道な聞き込みで見つけ出したのよ。面割りも済んでいるわ。それで嘘を塗り重ねても無駄だと悟ったのね、彼―――――後藤善治はあっさりと罪を認めたわ」
あの日、竜ヶ崎先生に呼び出された後藤さんは有名人ということもあり裏口から人目を忍んでマンションに入った。奇しくも防犯カメラが壊れていて起動していないことは竜ヶ崎先生本人から聞いて知っていたそうだ。ドアの前ではちょうど北島さんを送り届けて帰宅したばかりの竜ヶ崎先生が立っていたのでともに部屋へと入る。書斎に行くとすぐに竜ヶ崎先生はUSBメモリを目の前にちらつかせ金を要求し恐喝行為に及んだ。焦って錯乱状態になった後藤さんは突発的に竜ヶ崎先生をブロンズ像で殴り殺しUSBメモリを持って急いで逃走した、これが事件の全容である。
「ブラフだったんだな」
「そう、竜ヶ崎さんが後藤善治に見せたUSBメモリは真っ赤な偽物だった。家に帰ってすぐに破壊してしまったから中身は分からないけど多分なにも入ってはいなかったんでしょう。事情聴取のときあの暗号文を見て壊したUSBメモリは偽物でまだ本物はどこかにあるんだと気づいたみたい」
しかし気づくのが遅すぎた。
USBメモリの中には後藤さんが犯した数々の不正行為を証明するデータが入っていた。
実際には発生していない経費等を計上するもので、その多くが行ってもいない出張や領収書を改竄して申告し旅費を水増し請求して私腹を肥やしていた。それと同時に担当した会社の内情を調査して手に入れた極秘情報をライバル会社に高額で買い取りを持ちかけ横流しをしていたのだ。
「あの4桁の数字はUSBメモリの情報を見るためのパスワードだったんですね」
ほうじ茶が入った湯呑みを持ちながら私もソファーへと座る。2人分の重みでスプリングがギッと軋む音を立てた。
「片方だけでは意味がない、4桁のパスワードとUSBメモリ、その両方が揃わなければ女神の祝福は受けられない。そんな仕組みになっていたんだ。まったく、竜ヶ崎の野郎とんだ策士だぜ」
先生は呻くように言う。
「とりあえずまだ裏付け捜査と竜ヶ崎がどうやってあのUSBメモリに入っていた情報を手に入れたのか、等々調べなきゃいけないことが山積みだから一端切るけど、その前にあんたに聞きたいことがあるのよね」
「は?なんだよ」
「どうして後藤善治が怪しいと感じたのか、その理由をまだ聞いてないわ」
それは私も気になっていたことだ。
興味津々でじっと見る私に気づいた先生は「お前も知りたいのか?」と口パクで伝える。
ぶんぶんと激しく首を上下に振り意思表示をするとハアと溜め息を吐かれてしまった。説明するのが面倒臭いのかバツが悪そうに後ろ頭を掻く。
「俺が後藤を怪しいと思った根拠は3つある。1つ目は暗号文を見せたとき、あいつだけ暗号文があった場所を聞いてきただろ。知る必要なんてないのに妙だなと本当に些細なことだが俺の中で小さな猜疑心が生まれたんだ」
「でも根拠と呼ぶには弱すぎるわ」
桐生警部は正論を突いた。しかし先生は涼しい顔で続けた。
「2つ目。書斎の壁にかけられた巨大なタペストリー」
「タペストリー?」
後藤さんを疑った理由を聞きたいのにどうしてタペストリーの話にすげかわったのか。目をぱちくりさせていると先生はくつりと笑いほうじ茶を一気に仰いだ。
「後藤が竜ヶ崎の書斎を簡易教会と名づけたとき、家具の位置取りまで細かく話していただろ?それでおかしいと思ったんだ」
「いったいどこがおかしいんですか?」
「分からねえか?後藤はあのとき『天井にはシャンデリアが、本棚には聖書が、デスクにはキリストのブロンズ像が置かれていて一見の価値ありだ』と勧めていたにも関わらず壁にかけられたあの巨大なタペストリーだけは口にしなかった。聖書やブロンズ像なんかよりずっと強烈だろ?実際、神凪は一番最初にタペストリーについて話したし圧巻ですとも言っていた。妙だなと思ったと同時に俺はこう考えたんだ。『後藤はタペストリーの存在を知らないんじゃないか、何度か訪れていると言っていたがそれは嘘で本当は事件を起こしたあの日が初めて訪れたんじゃないか』とな」
「だったら尚更説明がつかないじゃない。竜ヶ崎さんは書斎で死んでいた。後藤も書斎で殴り殺したと自白しているのよ。ならあんな大きなタペストリー、見えないという方がおかしいわ。それともなに?この期に及んでまだ後藤がなにか隠しているとでも言いたいのかしら?」
桐生警部が遠慮のない言葉で反論する。
「いいや、あの日初めて訪れたんなら後藤はあのタペストリーには気づかなかったはずだ」
「どうしてそう言い切れるわけ?」
「神凪の言っていたことを思い出してみな」
私は聴取の内容をメモった手帳を取り出し記憶を遡った。
「えっと『タペストリーにシャンデリアに聖書にブロンズ像。特にデスクの真ん前に飾られた巨大なキリストのタペストリーが圧巻で』のあたりですか?」
「違う、その後だ」
その後?
もう一度、手帳に目を向けようとしたとき「プロジェクタースクリーン…」やや掠れた声が小さく、しかしはっきりと携帯ごしから聞こえた。
「そう、神凪はこう言っていた。『執筆中は気が散ってしょうがないのでいつもプロジェクタースクリーンで全部隠しちゃう』つまりあの巨大なタペストリーはそれを覆うプロジェクタースクリーンによって隠されていたんだ」
なら、後藤がタペストリーを言わなかった理由がつくんじゃないか?先生は得意気に目を瞑った。
桐生警部が嘆息を漏らすなか、私は先生に直言した。
「先生、根拠の3つ目はなんですか?」
私の記憶が正しければさっき先生は根拠は3つあると言っていたはずだが…。
指摘されたのが嫌だったのか彼は銀紙を噛んだような顔をしチッと舌打ちをかました。
「…根拠と呼ぶにはあまりにも飛躍してるしくだらねえからあんまり言いたかねえんだけどな」
「言いなさいよ」
間髪いれずに桐生警部が先を促した。声色が弾んでいることから取り付く島がない先生をからかっている風だ。
ついに観念したのか苦々しく「神凪は竜ヶ崎をユダと呼び冷笑していただろ。それで思い出したんだよ」
何を、とは敢えて聞かず彼が自分の唇から発せられる言葉を大人しく待つことにした。
「―――――ユダは頭の回転が早く計算能力に長けていた。それ故イエス、弟子たちの中でユダはある重要な役割を担っていた。しかしそれは同時に簡単に不正を行える役割でもあったんだ」
「その役割っていうのは?」
「その役割ってなんなのよ?」
私と桐生警部の声が綺麗にシンクロする。大袈裟に仰け反りだらんとソファーに沈んだまま先生はたった一言、独白じみた調子で述べた。
「会計係」
《ユダの暗号 完》