87 人外魔境
エルム:
「おはようございます!」
シュウト:
「おはようございます。早いですね(苦笑)」
エルム:
「朝が待ち遠しくて、よく眠れませんでした」
とてもさわやかそうに、そんなセリフを言うエルムだった。一緒にシブヤに来た様子の、後ろに控えている2人を素早く確認しておく。〈暗殺者〉のバーミリヲンに〈武士〉のZenon。装備ランクや身のこなしからすると精鋭だろう。荒事向けの人材も連れて、準備万端といったところか。
エルム:
「では、終わったら連絡します」
バーミリヲン:
「了解した」
どうやら〈カトレヤ〉のギルドホームまで連れて来る気はないらしい。シブヤに来るまでの護衛だろうか。いや、むしろ護衛が必要になるのは帰り道かもしれない。今日のうちに話がまとまれば、ある程度のドラゴン素材を持ち帰ることができるかもしれないからだ。そこまで想定しているのかもしれない。
シュウト:
(……いや、待てよ。ということは、かなりの額の金貨を持ってきていることになるんじゃ?)
金貨には護衛が必要だろう。PKに遭うとアイテムロックの無い金貨は優先的にばらまかれてしまう。通常の商売のやり方は分からないが、かなりイレギュラーなことになっているのかもしれない。銀行への入金を確認するには、シブヤには銀行施設がないため、こちらから人をアキバまで送らなければならない。
エルム:
「おまたせしました。今日はよろしくお願いします」
シュウト:
「お願いします。では、ご案内します」
エルム:
「フフフ。まさかこんな形での再会になるとは、思いませんでしたね」
シュウト:
「そうですね。……なんだか、すみません」
エルム:
「謝らないでください。私の想像などは越えているぐらいがいい」
シュウト:
「…………」
何を話してもそこから情報を持って行かれそうで、気が気ではなかった。戦闘はともかく、こういう状況では足手まとい以外の何者でもない。なまじ、相手のことを知っているだけに、怖れに近い感情を抱いてしまう。友人になりたいと思ったこともあるのだが、その感覚とは共存できるらしい。ただ、敵にはしたくなかった。
エルム:
「前からお尋ねしたかったのですが、貴方は〈シルバーソード〉を辞めて、なぜ〈カトレヤ〉へ?」
究極的には『ジンさんが居たから』なのだが、無難な説明に留めておくことにする。
シュウト:
「ゲームを始めたばかりの頃は〈カトレヤ〉に所属していたんです。その時期はもっと人のいる初心者育成系ギルドでしたので、そこで色々と教わっていたんです。ある日、もっと上を目指すなら戦闘ギルドに所属した方が良いと薦められて」
エルム:
「それで〈シルバーソード〉にですか。なるほど。戻ってきたことになるのですね」
シュウト:
「そんな感じです」
ウソは、ついていない。
エルム:
「それで、最近は週に何回ほどドラゴン狩りを?」
シュウト:
「…………」
エルム:
「……ククク、あはははは! 冗談です、冗談ですよ。そんなに警戒されてしまうと、からかいたくなってしまうじゃありませんか!」
シュウト:
「…………すみません」
訊かれたくないことそのものをズバリとストレートに質問され、思い切り硬直してしまっていた。相手はドラゴン狩りのことをまで理解していた。…………と、遅まきながら、さりげなく受け流すのに失敗したことに思い至る。どうやっても情報を提供してしまうらしい。こうなったら、いっそギルドまで走って案内してやろうかと考えてみる。
エルム:
「申し訳ありませんでした。不愉快な思いをされたなら謝罪します。なんでしたら、今のは無かったことにしますが?」
シュウト:
「別に、大丈夫です」
全然、これっぽちも大丈夫では無かったが、挨拶のようにそんな言葉を返している。自分が心理的に誘導されていないかどうかまで不安になってくる。心配しすぎだろうか。それとも、心配しなさ過ぎだろうか。
エルム:
「そういえば、ユフィリアさんはいらっしゃいますか?」
唐突な話題変更につっかえそうになる。
シュウト:
「ええ。朝ですし、出かける予定も特に聞いていませんね」
エルム:
「いやぁ、実はそちらも楽しみにしていたんですよ。何せ“半妖精”の異名で語られる、アキバ最高の美人! 何かと噂の方ですからね」
シュウト:
「まぁ、確かに近距離だと破壊力がありますけど……」
エルム:
「やはりですか! 一緒に生活していて、本当の所、どうなのです?」
シュウト:
「どう、と言われても……」
どうなのだろう?あまり考えたことはなかったが、基本的に話し易いので、あまり気にせずに済んでいる。最初の頃はコミュニケーションを強いられそうな感じで苦痛だと思っていたのだが、意外とすんなり馴染んでしまった気がする。
特にユフィリアは、ジンと一緒にいる時は子供っぽかった。年齢差があるので、子供扱いされていることも一因としてあるのだろう。
シュウト:
「あの瓦礫を越えたところです」
商談とは関係なさそうな話題に切り替えてくれたためか、さほど嫌なプレッシャーは感じずに案内を終えることができた。
◆
シュウト:
「戻り……、お連れしました」
エルム:
「失礼します!」
葵:
「ほーぅい」
いつもはカウンターの中に陣取っている葵が、カウンターの外の椅子に座って待っていた。ぴょんと飛び降りると、エルムの前に立つ。画面的には子供と大人だが、中身の年齢は逆転している関係だろう。
葵:
「いらっしゃい。ようこそ、〈カトレヤ〉へ!」
エルム:
「ギルドマスターの葵様ですね? わたしく〈海洋機構〉のエルム、と申します。どうぞお見知り置きを」
葵:
「そこそこ下調べはしてきたってことだね。よろしく。あのさ、さっそくだけどフレに登録してもいい?」
エルム:
「噂の“魔女”とフレ交換ができるとは思いませんでした。光栄です」
葵:
「そんないいもんじゃないって~。ときどき無茶なお願いしちゃうかもだけど、そのときはよろしくね?」
エルム:
「わたしくでお役に立てることであれば、なんなりと」にっこり
あの卒のなさが怖い。情報を何層のレイヤーでやりとりしているのかもよく分からない。どっちが優勢なのかもまるで読みとれない。
葵:
「じゃあ、そっちのソファに座ってよ。交渉はジンぷーがするから、ネ?」
エルム:
「はい……」
ジンぷーと言われても、エルムにはそれが誰かまでは分からなかったようだ。一晩の情報収集ではたどり着けなかったのだろう。カウンターに座っていたジンが(ていうか、今、座ってた?)、対面になる位置の、いつもの自分のソファに座った。
ジン:
「よいせっと」
ヨッコイショだのは言わないように鍛えろと言っておきながら、自分では言いながら座るあたりが自由である。
エルム:
「ジン様ですか? わたしく……」
ジン:
「まーまー、挨拶は分かったから、とりあえず座んなって。それと、様付けは勘弁してくれ」
こちらはフランク極まりない。
エルム:
「失礼します」
ジン:
「じゃー、とりあえず先制攻撃させて貰おうか」ニヤリ
いつの間に打ち合わせをしたのか(僕が出て行った後か……)、先制攻撃をするらしい。何もそれを口に出して言わなくても、いいのではなかろうか。
エルム:
「お手柔らかにお願いします(苦笑)……えっ?」
ユフィリアがお茶を持って現れる。そうきましたか。お茶を丁寧に、そっとテーブルに置こうとしていた。高まる緊張の一瞬。成功。ホッとしたような感じで一度笑顔になり、向き直って今度はエルムに微笑みかける。
ユフィリア:
「ごゆっくりどうぞ?」きらきらきらきらりん☆
エルム:
「あ、ありがとう、ございます……」
光り輝くキューティクルが、光の欠片として空気に溶けて消えていくかのような、例のいつものヤツだ。言ってしまえばハイエンドのダンジョンみたいなもので、初見で対処できる人は滅多にいない。まず全滅コースなのも同じ。えげつない事、この上なし。
自分の役目を終えて満足そうに引っ込むユフィリアの背中をガン見してしまうエルムだった。彼女は背中まで笑っているように見えるのだから、男性であれば仕方ない部分もある。
そんな自分に気が付き、ペースを取り戻そうとしたものか、咳をひとつ。出されたお茶に手を伸ばし、自然と口をつける。
エルム:
「うあっ、美味しい!」
ここにも罠だ。レイシンが本気を出したのだろう。あのいれ方だと1~2段階は美味しくなるのだから不思議だ。
確かめるようにもう一口。しっかりと味わい、エルムは幸せそうな顔になっていた。
エルム:
「素晴らしい。……いったいどちらで入手されたのですか?」
ジン:
「ん? 茶葉なんざ〈海洋機構〉の扱いじゃねーの? 〈第八商店街〉か?なんだよ、お茶の話をしにきたってか?」
しばらくポカンとしていたエルムだったが、こちらもただ者ではない。
エルム:
「フフフフフ、はははははは! これは参りました。基本通りなのに、ここまで威力のある『先制攻撃』は初めてです!」
ジン:
「面白かっただろう?」
エルム:
「はい。 堪能させて頂きました」
あっさりファーストステージでの敗北を認めて、切り替えてしまう体勢である。
笑い声に誘われたのか、ユフィリアも室内に戻ってくる。ジンとエルムの商談(?)を見物するつもりらしい。エルムにしても、特に人払いなどを要求するつもりはなさそうだ。
エルム:
「……そうか、このお茶も『新しい方法』ということですね。なるほど」
ジン:
「とっとと本題に入ろうぜ?」
エルム:
「ご配慮、痛み入ります。……我が〈海洋機構〉では、ドラゴン素材を購入したいと考えております」
ジン:
「へー。」
面白そうにニヤニヤしているだけのジン。ギアを切り替えるエルム。
エルム:
「昨晩、とある女性同士の会合にて、アクセサリーを無料配布されたと聞き及んでおります」
女子会を『女性同士の会合』と言い換えていたのは少し面白かった。
荷物から一対のイヤリングを取り出し、机に並べて置いた。
エルム:
「当方の参加者から預かってきたものですが、コレと同様のものを約三十、〈カトレヤ〉の名前で配られたそうですね?」
ジン:
「ふーん。そうだっけ?」
エルム:
「しかも、この水晶の部分にドラゴンの素材が使われていました」
ジン:
「あらあら、まぁまぁ。たまたまそれだけ間違えて使われてたんじゃねーの? じゃなきゃ、作ったロデ研の人がまーちがえちゃったとか?」
エルム:
「今の段階で確認できたのは4人分だけですが、その全てでドラゴンの素材を用いていることが分かっております」
ジン:
「……へぇ、ちゃんと調べてるわけね」
エルム:
「はい。基本通りです」
ジン:
「そりゃ大変だ」
エルム:
「数名による鑑定で、レアモンスター〈フローライト・ドラゴン〉のものであることも判明しています。このモンスターと遭遇する確率の低さから、現在のアキバで30個分もの素材を購入することはとても考えられません。よって、一体のドラゴンから、『新しい方法』ではぎ取られたものだと推測できます。このことで、同時に〈大災害〉以降であることもほとんど確定します」
ジン:
「ふーん。だけど、ドラゴンと戦って勝つのって、厳しくね?」
エルム:
「いやいや、コレも同じなのではありませんか? 料理や剥ぎ取りだけではなく、戦闘においても『新しい方法』を駆使されている、と考えています」
だいたい言い逃れできないところまで追いつめられつつあるのか、ジンが背もたれからゆっくりと体を起こす。
ジン:
「で、だから何だったっけ?」
エルム:
「ウチで、いえ、ウチに、ドラゴン素材を扱わせてください」
ジン:
「何で?」
エルム:
「それはもう、儲かるじゃありませんか」
ド直球、ドストレート。剛速球もここまでくると見応えがある。
ジン:
「そっちはそうかもしれないけど、こっちは儲かるかどうかわかんねーだろう。たとえば、ロデ研にも見積もり出してもらうとかしねーと」
ここまで口先での応答で済ませていたジンが口を開く。否、エルムが口を開かせたのだ。
エルム:
「それでも構いません。ウチが一番高く買い取ります。余所の見積もりを貰ったら見せてください。それに多少、上乗せさせて頂きますので」
笑顔のまま、ここに来て怒濤の攻めだった。〈海洋機構〉おっかない。
ジン:
「わっはっは。じゃあ、その上乗せした見積もりを見せて、他んトコに値上げ交渉するかもよ?」
エルム:
「その場合ですと、余所と談合して、仲良く『低い見積もり』を出すことになるかと。ウチだけで独占できないのは残念ですが、しかたありません」
シュウト:
(ひー)(><)
余所の見積もりを見せろだの、談合しますだのと、ルール無用すぎて手の施しようもない。否、ルールなんてこの世界にはまだないのだ。強者の論理は、いっそ清々しささえ感じさせるものだった。
ジン:
「そうしたらマーケットに流すしかなくなるよなぁ。市場は高く買ってくれるかもしれないし?」
エルム:
「逆に、安く買われてしまうかもしれませんよ」
にこやかなにらみ合いが続く。
エルム:
「……といいますか、ドラゴンの素材だけを流しても、高価格の時期は長く続かないでしょう。結局は、我々がマーケットから割安で購入する結果になります。
失礼ですが、そちらの人数や規模からすると、マーケットの動向を見張るのに人手を割くのは、少々、手間なのでは?」
あくまでも強気だった。〈海洋機構〉の実力・規模なら、マーケットも自在に操れるといいたげだ。そもそも、売り手による一方的な価格操作を無効化するためのマーケットだったはずである。しかし、エルムの自信ありげな態度を見ていると、もしかすると可能なのかも?と信じそうになってしまう。
ジン:
「……仮に、だ。そちらさんに高く買って貰うとしても、それで利益が出んのかい?」
エルム:
「ご心配、ありがとうございます。その件ですが、結局はウチで引き取ることになるのですよ。〈ロデリック商会〉は研究用に一定数確保すれば満足するでしょうし、〈第八商店街〉は武具の取り扱いは部分的なものに過ぎません。最も需要があるのは〈海洋機構〉ですから。
であれば、中間マージンなど無い方がいい。時間的なものも短縮できます。素材が必要になった他のギルドへの販売も当方で行えば、逆に中間マージンを頂くことも出来る、という寸法でして」
ジン:
「なるほどね」
エルム:
「いかがでしょう? お互いに良い関係が築ければと、思っております」
圧巻だった。自分ならとっくの昔に『よろしくお願いします』と頭を下げている。もう〈海洋機構〉と手を組むのでいいんじゃないか、としか思えなかった。
ジン:
「……悪くないねぇ」
エルム:
「ありがとうございます」
葵:
「へー、やるじゃん“笑う悪夢”」
葵が小さな声で呟く。まさにエルムを表現するのにピッタリの二つ名だった。葵の側も下調べは済ませているらしい。
エルム:
「よい返事がいただけそうですね。……ところで、ものはご相談ですが、もう一歩、お互いの関係を進めてみるのは、いかがでしょう?」
ジン:
「んー? どういう意味?」
ゆったりと自然な所作で、エルムは足を組んだ。勝利を確信したためなのか、更に大きく出ようとしていた。
エルム:
「ここでお互いのパートナーシップをより強固にするには、ある程度の情報を共有するのが理想かと。ここはひとつ、腹を割って話していただけませんか?」
ジン:
「腹を割って?」
エルム:
「はい。一体、どのようにしてドラゴンを狩っているのですか? また、週に何体ぐらいまでの狩猟が可能なのでしょう。どのようにして狩り場を見つけたのですか?」
彼の本質は、キツネかキリギリスだ。こうして全ての利益を持ち去ってしまうのかもしれない。果たしてジンはこれに抵抗できるのだろうか。対する〈海洋機構〉は、〈カトレヤ〉ごとき小ギルドにとっては、あまりにも強大な存在だった。
……と、ユフィリアが後退し、壁の向こうにまで引っ込む。そのことで遅ればせながら異常事態に気が付くことが出来た。彼女はさすがの、動物的カンの持ち主だった。
エルム:
「個人的な興味もありますが、今後の『共同事業』のためにも、ある程度まで内情を教えて頂きませんと、計画が立てられないという側面もあります」
ジン:
「あんまりそういうのを話しちまうと、こっちが儲からなくなるしなぁ」
エルム:
「いえいえ、そこは勿論、上手くやらせて頂きます」
ジン:
「ホントに~?」
エルム:
「でしたら、一つだけ。どのようにしてドラゴンのいるゾーンを見つけたのですか?〈妖精の輪〉の周期を、どうやって調べたのでしょう?」
ジン:
「なんだよ、その辺が一番の企業秘密じゃねーの?」
エルム:
「ですが、事と次第によっては、現実世界への帰還に関わる重要な問題に発展しかねませんよ? 〈カトレヤ〉はアキバ全体、いえ、この世界にいる全ての〈冒険者〉がどうなってもいいとお考えなのですか?」
ジン:
「まっさっか。変なレッテル貼りは困るなぁ」
エルム:
「そういった部分で何か問題があってたとしても、全て〈海洋機構〉で処理することが可能です。大変失礼かとは存じますが、〈カトレヤ〉をそのまま丸ごと〈海洋機構〉に参加して頂く形も取れるのです。これならどの様な攻撃からも護ることが可能かと。勿論、これで変わるのは名前だけのことですので、ご安心ください」
にこやかな態度のまま、M&A(吸収・合併)にまで話を展開させて来ている。ただの伏線だとは思うが、こうトントン拍子でこられると、相手はトコトンやろうとしているのではないかと気になってくる。
ジン:
「いや、もういいや。十分だ。こりゃ、アキバなら〈海洋機構〉ってことになるわな。んー、そうなると|〈Plant hwyaden〉《プラント・フロウデン》や、海外のプレイヤータウンなんかも視野に入れなきゃなんねーかもなー」
エルム:
「……は?」
エルムの困惑は、自分の困惑でもあった。だがそれも一瞬だった。そういうことが可能なのは、アクアと知り合っていて、よく分かっていることでもあったからだ。
ジンの思考は、交渉の前からこのスケールで考えているのだろう。始めからワールドワイドなのであって、飛躍などしていないはずだ。
エルム:
「そ、そんなこと出来るわけが」
ジン:
「そうかい? お前らにできないから、俺たちにも出来ないってのは、なんだ? 思いこみじゃねーの?」
エルム:
「それ、は…………」
今や、交渉とは関係のないレイヤーで形成は逆転しつつある。まるで地平線の彼方からやってくる津波のように、静かで分かりにくいものだった。強大なプレッシャーがゆっくりとエルムを飲み込もうとしている。例えて言えば、高さ30メートルの津波に、全方位から襲われる『圧力の恐怖』だ。カエルのような変温動物はだんだんと温かくなっていくお湯の中では、自分が茹でられて死ぬまで気が付かないというが、それとも似ている。
〈海洋機構〉という巨大な怪物を後ろ盾に交渉していたエルムは、しかし、致命的なミスを犯していた。戦う相手を、その真の力を見誤ったのだ。
エルム:
「いや、しかし!」
ジン:
「大体、俺達ぐらいしかドラゴン狩りをしてねえってのが、この交渉の前提だろうが。ちがうか?」
エルム:
「それは、そう、です……」
まるでヘビに睨まれたカエルだ。戦力比で言えば、それを遙かに超えているだろう。竜に睨まれたカエルのようなものだ。後ろ盾の〈海洋機構〉がどれだけ強大であろうと、それは最終的に本人の力とは成りえない。交渉しているのは人間同士であって、ギルドではない。そして、ジンは端的に言って、この世界で最強の戦士なのだ。
エルム:
「うあ……あ……あっ」
ジン:
「ん~、どうした?」
プレッシャーの津波が到達し、近くで見ているだけでも辛いほどの大圧力が『超重力の世界』を出現させていた。
エルムの目は見開かれ、汗をダラダラと垂れ流し、口は開いたままでヨダレが垂れそうになっていたが、それでも彼はなんとかしようと足掻き続けていた。
一方、ソファにたっぷりともたれかかり、両肩を広げて悠然と座ってみせるジン。そのまま右足を持ち上げ、足を組んでいた。それだけをしたのだが、プレッシャーの内部にいるとこれは全く別の光景になる。
ゆっくりと時間をかけて高めた膨大な威圧により、超重力が発生し、ジンの足は鋼鉄の質量を遙かに超える質量と化している。その大質量を更に上回る、途轍もない、途方もないパワーで引き上げていく……ように見える。もはやそうとしか見えない。右足が、まるで奇跡の助けを借りているかのように、左足の上に乗せられていった。この偉業をこの世界でジンの他に誰が成し遂げられるというのだろう。下になっている左足は大変なことになるはずだった。床は軋み、とっくに限界の悲鳴を上げている。それどころか、ギルドホーム全体が崩壊の危機にあった。
シュウト:
「ジンさん、もう……」
限界のエルムを見かねて、声を挟む。こちらも相当に厳しい。
ジン:
「チッ、しゃーねーか。しかし、お前の事は気に入ったぜ、にやつき商人。……よく聞いておけ」
室内を渦巻く音のようなものが轟々とがなり立てる中、ジンは通る声で静かに告げる。正直、はたから見ていると死刑宣告でしかなかった。
ジン:
「しばらく独占させてやる。黙って金を持ってこい」
トドメとばかりに殺気を放射するジン。もう笑う以外に術はなかった。
エルム:
「了解いたしましたぁぁあああ!!!」
直立不動で叫ぶエルム。可哀想に、それ以外の選択肢などなかっただろう。ピタリと圧力が止まり、夢か幻かのように消え失せる。
プレッシャーから解放された途端、エルムはうずくまり、放心状態で荒い呼吸を繰り返しているばかり。商談自体は自分には及びも付かない水準で行っていただけに、惜しかった。相手が悪すぎた。
ジン:
「よーし、合意に達したな。うむ、良い商談であった」
葵:
「とか言って、けっこーやられっぱだったじゃん」
ジン:
「ちげーって! これから反撃しようって時に、『あー』とか『うー』しか言わなくなったんだから、しょうがねーだろうが!」
シュウト:
「無闇にプレッシャーをかけ過ぎなんですってば」
ニキータ:
「雑よね」
ユフィリア:
「イジメはよくないと思う」
ジン:
「うっせ、あー、うっせ。あとは細かい話だろ? 後詰めは任せたぞ、石丸。シュウトは丁度いいから勉強させて貰いなさい」
石丸:
「了解っス」
シュウト:
「はぁ、分かりました」
石丸の名前を聞いた途端、エルムが憔悴したままの顔を上げた。
エルム:
「石丸先生!? どうして、こちらに……?」
シュウト:
「あれっ、お知り合いなんですか?」
エルム:
「ええ。その筋では、有名な方ですよ」
石丸:
「葵さんに誘われて、今に至るっス」
エルム:
「はははは。…………ここは、魔境なのですか?」
金額交渉などの細かい取り決めでの話を詰めていくのだが、エルムにとって、石丸との相性は極めつけに悪かったようだ。基本的はマーケットのデータを引用しながら、ブラフを交えて交渉するものらしいのだが、石丸にエルムのブラフはまるで通用しなかった。持っているデータの質・量が違うためで、どれだけそれっぽく見せかけても無駄らしい。これが自分やジン相手だとした場合、高額買い取りと言いつつ、ある程度まで値引きをされていたに違いない。しかし、ジンはそれを見越していたのか、単に面倒だったのか、ともかく石丸に委ねてしまっていた。これではエルムにとって救済の扉は閉じられた後の祭りである。
石丸はというと、最初からジンと取り決めがしてあったらしく、もっと高額でも良いところでは控えめに、逆に値引きされそうな部分では粘り強く拒否の姿勢を崩さなかった。全体的に見ると守りの体勢で一貫しており、短期的な利益よりも、長期的な方向で、値下げに応じない構えを強調していたようだ。
エルム側からすると、全体では悪くない内容であっても、完全にお手盛りの結果でしかないらしい。最後に一言「完敗です」と言って石丸に頭を下げていた。全体的な交渉ならともかく、部分的にはどうにもならないようだ。
その後、倉庫内へのエルムの立ち入りをどうするかで、石丸がジンに念話していた。『全て任せる』といったらしく、エルムを連れて倉庫へと入る。
実際には、ゾーンは許可されない侵入者を自動的に排除してしまうため、葵に頼んでエルムが中に入れるようにしてもらうのだ。
内部は空きスペースがかなり埋まって来ていて、室内練習スペースとして使用が難しくなって来ていた。
エルム:
「これは想像以上の……」
積み上げられたドラゴン素材を目にし、エルムの目に光が戻って来る。ここから更に石丸との金額交渉が始まり、朝までにかき集めたという70万枚の金貨で購入できる分だけのドラゴン素材を持ち帰ることになった。
一人の魔法の鞄にはとても入りきらない量でもあって、外で待たせていた仲間を呼び出し、ギルドの内と外とをエルム本人が何度も往復することになっていた。
シュウト:
「お疲れさまでした」
帰り際、ギルドの外に見送りに出る。街の外まで付いていこうと思っていたのだが、そこまでする必要はないと断られてしまう。
エルム:
「ありがとうございます。今日の結果には、とても満足してはいるのですが……」
シュウト:
「ほんと、すみません。ああいう人達でして……」
エルム:
「何と言えばいいのか、大変そうですね」
逆に、慰めの言葉を頂戴してしまった。うれしいような、他人からいわれたくないような、複雑な笑みが口元を歪めた。
エルム:
「参りました。ここまで一方的にねじ伏せられたのは、本当にいつ以来だったか」
「ギルドの方で金を遣り繰りして、来週にはもう一度お邪魔します」……そう言い残し、エルム達はアキバへと帰って行った。
これで我ら〈カトレヤ〉は、待望の取引先を得たことになる。ジンがエルムにやりこめられ、契約をもぎ取られた形に見えていたのだが、終わった後で全体を考えると、実際にはジンの望み通りの結果になっていた。
◆
――夕刻。
アキバへと帰ったエルム達は、日の暮れる頃に再びシブヤへとやって来ていた。〈カトレヤ〉の動向を監視するために建物を選び、食料などを運び入れてあった。
Zenon:
「あのギルドは位置が悪くてな。監視するのにベストな場所は見つけられなかった」
エルム:
「構いません。この道を見ていれば、出入りの把握は可能でしょう」
バーミリヲンとZenonの両名は、エルムの商談中に監視できる場所を探していた。エルムは窓から外の状況を確認している。
バーミリヲン:
「今回の期限は?」
エルム:
「とりあえず一週間。交代要員は手配してあります。まぁ、夜は寝ていても大丈夫でしょう」
バーミリヲン:
「確認するが、第一目的はターゲットに協力している輩を調査することでいいんだな?」
エルム:
「その予定、なのですが……」
Zenon:
「どうした、エルム?」
言いよどむエルムに声をかけ、先を促している。
エルム:
「ジンさんが、ええと、交渉相手の〈守護戦士〉のことですが、あの方がギルド無所属だったところまでは、予想していた通りだと思ったのですが、……もしかすると協力者などは居ないのかもしれません」
Zenon:
「バカな。ドラゴンと戦うつもりなら、最低でも20人は確保しなければならないだろう」
バーミリヲン:
「……ターゲットの規模を読み違えたのか?」
エルム:
「いえ、そんなことはありません。宿を模した形のギルドホームで、容量や部屋数を考えれば最大で20名ほどが上限でしょう。快適に過ごせるのは12~13名と言ったところですね。
中に入って実際に確認できたのは7名。生活感のような雰囲気もそうですし、椅子などの配置状況からすれば、やはり7名程度で生活していると確信を持ちました。プラスしても1~2名でしょう」
バーミリヲン:
「だとすれば、根拠は?」
ジンに脅されたという主観的な体験を根拠にする訳にはいかないのだろう。エルムは客観的な根拠を探し、どうにか言葉にしようとしていた。
エルム:
「そうか……。倉庫が違和感の元になっているようです」
Zenon:
「お宝がたくさん転がっていたんだろう?」
エルム:
「ええ。ですが逆にそこがおかしいのです。仮にフルレイド24人で狩りをしているとしたら、獲得した素材を人数頭で分割する結果になるのではないでしょうか。〈カトレヤ〉の他に協力者がいるのだと仮定すると……」
Zenon:
「ああ、メインじゃなくサブに回っちまうだろうな」
フルレイドの24人に対して6人しか居ないのでは、主導権を握るのは難しいだろう。
バーミリヲン:
「なら、どうやってドラゴンを狩っている?」
エルム:
「報酬を要求しない援軍でもいるとしか……。たとえば、強力なゴーレムを使役している、とか」
バーミリヲン:
「極端な例外を除けば、召喚すればミニマムランクになる。ドラゴンを相手に戦力になどならない」
Zenon:
「ドラゴントゥース・ウォリアーってのはどうだい?」
バーミリヲン:
「フッ、ドラゴンを倒すのに、ドラゴンの歯が要るとは、傑作だな」
Zenon:
「なら、他にどんな方法があるってんだよ」
バーミリヲン:
「俺なら適当なドラゴンをテイムしてぶつけることを考えるだろう。そんなことが技術的に可能だとすれば、だが」
Zenon:
「ハッ、ドラゴンをテイムするには、ドラゴンを瀕死に追い込めなきゃならないんじゃないのか?」
バーミリヲン:
「まず弱いモンスターからテイムして、だんだんと強いモンスターに乗り換えて行けばいい」
エルム:
「それなら上手くいくかもしれません。しかし、パーティランクから始めたとしたら、どこかでレイドモンスターに乗り換えなければならないことになりませんか?」
Zenon:
「ダメか……」
バーミリヲン:
「資料では〈召喚術師〉が居たはずだな? 怪しい所はなかったか?」
エルム:
「葵さんですね。しかし、彼女のレベルは23で止まったままでした。背を低く設定したキャラで〈大災害〉に遭ってしまったのでしょう。戦力にはなれないと諦めて、サポートに回ったようです」
Zenon:
「EXPポットだな」
エルム:
「ええ、7名程度のギルドであれば、大きな助力になるでしょうね」
Zenonが「全く、うらやましい」とボヤくのを、バーミリヲンが片手で制する。
バーミリヲン:
「待て、ターゲットだ」
エルム:
「あれは…………ジンさんですね」
Zenon:
「ありゃあ、ただの散歩だろう?」
エルム:
「シブヤの状況では『ちょっと買い食い』などをするのが、とても難しくなっているのですよ」
バーミリヲン:
「いや、こちらを見ている……」
Zenon:
「おい、ヘマして発見されたのか?」
エルム:
「こちらに向かって、手をあげていますね」
Zenon:
「……いっそ、挨拶を返してやったらどうだ?」
バーミリヲン:
「ダメだ、まっすぐこの建物を目指している……」
しばらくすると、ペタン、ペタン、とサンダルを鳴らしながら、無人のビルの階段を登り、ジンはエルム達の前へと現れる。剣を手に持っただけの、夏向きの私服にサンダルという格好である。
ジン:
「よう。熱心じゃないか。往復ごくろうさん」
エルム:
「あはは。どのようなご用件でしょうか?」
ジン:
「監視みたいなことしても無駄だって、わざわざ教えに来てやったんだよ」
エルム:
「監視? いえいえ。何か誤解があるのでは? 我々は〈カトレヤ〉様との交渉用に、この辺りに連絡用の支部を作ろうかと考えていただけで……」
ジン:
「ド阿呆が、ごまかしで適当抜かしてんじゃねーぞ。俺がこの場所を知っていた理由を考えろ。あーあー、お兄さんは悲しいなぁ~。信義則違反の現行犯ですよ。折角、いい取引先になりそうだったのになー。取引、やめたいってことだよなぁ?」
エルム:
「ちょっと待ってください! 少しだけ、お時間を頂けませんでしょうか!」
ジン:
「俺は、『黙って金を持ってこい』と言ったはずだが?」
静かな殺意と共に、ジンの瞳がとろりと濁る。エルムはたじろぎ、バーミリヲンとZenonの両名は自分の得物の場所を目で確認している。
〈海洋機構〉を相手に、これ以上はありそうも無いような上から目線、上から発言だ。しかし、直後に殺されそうな雰囲気が、その言葉の違和感を消し去っている。
エルムが本音での説得を始める。
エルム:
「我々も組織ですので、取引きの裏取りをしなければなりません。内部での政治的なパワーバランスを無視するわけにも……」
ジン:
「知るか。そっちの話は、そっちでどうにかするのが筋だろうが」
エルム:
「ご理解いただけませんか? どうにか今回だけでも見逃していただくわけには?」
ジンの殺意に反応し、バーミリヲンとZenonが武器を取った。両陣営に挟まれた形のエルムは、必死の説得を試みている。
Zenon:
「なぁ、戦ってみれば、秘密とやらがわかるんじゃないのか?」
バーミリヲン:
「同感だ」
エルム:
「絶対にダメです。武器は下ろしてください! 戦えば交渉は決裂します。それは我々の敗北です! 武器を使えば、脅したり殺したりは出来ても、そこで行き止まりです。先に進むためには、たとえ不完全であろうと言葉を使わなければならないのです! 武器を使うか、言葉を使うか。殺し合うか、分かり合うのか。安易な暴力を頼みにしてはいけません!」
仲間を諫めているようでいて、ジンに対しても牽制になっている辺り、エルムという男は抜け目がない。
ジン:
「達者な野郎共だな。…………いいだろう。俺も鬼じゃない、今回は見逃してやる。だが、仏のつもりもない。 次は、無ぇぞ」
仏の顔は3度までというが、人の顔は2度までということらしい。
エルム:
「ありがとう、ございます……」
深く頭を下げるエルムなのだった。
ぺたぺたとサンダルの音をさせてジンは部屋を出ていこうとする。最後に振り返って一言、付け加えていった。
ジン:
「おい、もう帰るぞ?」
本当にいいのだろうか?と思いながら、姿を表すことにする。
シュウト:
「撤収するまで見てなくて、本当に良かったんですか?」
〈海洋機構〉の3人が衝撃を受けるのを見て、少しだけ楽しい気持ちになる。どちらにせよ、驚かせる効果を最大に、と考えたら今のタイミングだったろう。
エルム:
「……いったい、何時からこちらに?」
シュウト:
「ジンさんがココに来る、少し前からです」ニコリ
呆然と見送るエルム達の視線が背中に当たっているのを感じつつ、ジンの後を追って階段から帰ることにした。
◇
エルム:
「ふぅ。今日は驚かされっぱなしですね」
バーミリヲン:
「気付けなかった」
Zenon:
「ああ、俺もだ」
バーミリヲン:
「あれが、銀剣のシュウトか……」
Zenon:
「知り合いか?」
バーミリヲン:
「いや、ランカーだからな。名前だけは聞いていた」
Zenon:
「やっぱ強いンか?」
エルム:
「評判は良いですねー。指揮した部隊の仲間にも慕われていました。実力の証明でしょう」
バーミリヲン:
「それで、どうするんだ? エルム」
エルム:
「撤収します。……あの人達を攻略するより、身内を説得する方が安上がりでしょう」
Zenon:
「そいつは楽でいい。俺が」
バーミリヲン:
「俺もだ」
エルム:
「やれやれ」