74 バカの壁
朝から難しい話が続いたこともあり、そろそろ体を動かしたくなっていたが、せっかくお風呂に入って爽やかなので、汗をかきたくもない。そんな事情を考慮してか、汗も出ないような軽い運動をやることになった。
準備運動として、クロスオッスを10回だけ。それも30秒程で終了してしまった。
ジン:
「じゃあ、まずはゆっくり歩いて貰おうか」
牛歩と呼ばれるようなゆっくりとした、ウォーキングともいえない移動を行う。室内でこんなことをやっていれば、汗など出そうと思っても出てこない。
ジン:
「次、ゆっっくり階段登り。折り返しのとこまででいいぞ」
ギルドホーム内の階段なので、二人がすれ違うのがせいぜいの代物だ。全員が見ている中で、一人ずつ登っていく。折り返しのところまでたったの14段。〈冒険者〉の体で軽く汗をかこうと思えば、この20倍は必要だろう。
ジン:
「お疲れさん」
葵:
「これは、なんなわけ?」
ジン:
「これは、中心軸で歩いているかどうか分かるテストみたいなもんだ。人間が歩く場合、どうしても片足になる瞬間ができちまうだろ? この時、中心軸を使うと、倒れないようにインナーマッスルを使って元の姿勢を維持しようとするから、左右にブレにくくなるんだよ」
アクア:
「ふーん。だから、ゆっくり動いたわけね」
シュウト:
「ゆっくりだと、ブレが大きくなるから……」
ユフィリア:
「えっと、どういうこと?」
ジン:
「実際に歩いてみりゃいい。右足が空中にある場合、右側に倒れてしまう。だから、それを嫌って左足に体重を移しながら移動しているんだよ」
右足が浮いている状態では左足に、左足が浮いている時は右足に体重を乗せるため、結果的に体が左右に揺れながら歩くことになる。ゆっくりと歩けば、足が着地するまでにより多くの時間がかかるため、左右の足に体重を乗せないと倒れてしまうのだ。
シュウト:
「速く動いていれば誤魔化せても、ゆっくりだと地が出てしまうんですね」
ジン:
「正確な技術を押さえてやる訓練は、ときどきこうしてゆっくりとした動作を試すことが多いな。速さで誤魔化してショートカットすることで、雑になっていないかが分かる」
ゆっくりと歩いたり、ゆっくりと階段を登り降りする。地味なのだが、みんなでやっているためか、どこかしら楽しく感じる。
ユフィリア:
「モデル歩き~」
ジン:
「わははは。モデル歩きは基本を押さえた上で、崩して個性を表現ってパターンだからな。もうちょっとケツをフリフリしてみろよ」
ユフィリア:
「ニナが上手なんだよ」
ニキータ:
「こんな感じかしら?」
背も高いし、本当にモデルだと言われたら信じてしまうかもしれない。……というか、現実世界側で何の仕事をしているのかなどのリアル情報を聞いたこともなかった。
葵:
「任せなさい!ランウェイを歩くのなんて、お手の物よ!」ビシッ
ジン:
「おい、転ぶからやめとけ」
葵:
「にゃにおー。これでも昔はっ!」
ジン:
「レーイ」
レイシン:
「はっはっは」
葵:
「は、放しぇ~」じたばた
レイシンに軽くつまみ上げられた葵は、そのまま彼の膝の上でふてくされてみえた。それでも暴れないのだから、膝の上にいるのは満更でもないらしい。
アクア:
「やっぱり、トリは私がやるしかないようね」
これみよがしに銀髪をしゃらんとかきあげ、鋭い目付きで正面を見据え、しなやかに歩いてみせるアクア。なるほど、テレビでたまに見かけるスーパーモデル風だった。
ユフィリア:
「アクアさん、上手!」
ニキータ:
「さすがね」
シュウト:
「……あのさ、ユフィリアって、モデルとかに興味はないの? 芸能界とか、いろいろスカウトとかされてそうな気がするんだけど」
ユフィリア:
「んーと、本当はあんまりそういうのに興味ないんだ。それに私って背が低いから、TGCは良くても、海外でランウェイは歩けないでしょ?」
身長165センチのユフィリアでも海外の基準では背丈が足りないらしい。最低でも170センチ、可能なら180センチぐらいあった方がいいらしい。165センチで背が低いと言われてしまうと、173センチの自分の立場がなくなってしまう。
アクア:
「ね、この間の話、考えてくれた?」
ユフィリア:
「えっと、……まだ考え中、かな?」
アクア:
「私は本気よ。期待してるから」
ジン:
「そ~こ、なに口説いてんだよ」
アクア:
「いいでしょ別に。貴方には関係ないことだわ」
ジン:
「おい、……俺にも一枚かませろ」
ニキータ:
「もう! そういうお金の話は後で」
ジン:
「へいへい、ニキータさんは練習熱心でいらっしゃいますねー」
確か世界を狙うとか穫るとか言っていた件だろう。アクアの歌にユフィリアのビジュアルを組み合わせたら、それだけでインパクトは大きくなりそうな気がした。現実世界側のユフィリアを見たことはないが、非現実的な、まさに妖精めいた雰囲気がありそうな気がする。……黙っていれば、だけど。
速くしたり、遅くしたりしながら、ただ歩くだけなので、まったく疲れることがない。それどころか、一生懸命にやろうとしているとストップをかけられるほどだった。
ジン:
「シュウト、がんばり過ぎ。もっと楽にやれ」
シュウト:
「楽に、ですか? ……あの、疑うわけじゃないんですが、ジンさんの練習って、簡単というか、楽なのばっかりな気がするんですが?」
ジン:
「最高だろ? それが何か?」
シュウト:
「ええ、まぁ。……はい」
アクア:
「シュウト、だから貴方はいつまでたっても雑用のままなのよ。 ……理論に実例、練習方法、終いにはモチベーションまで全部もらおうとしちゃってるじゃない。プライドは無いの?」
シュウト:
「えと、……スミマセン」
何か、もの凄く理不尽なタイミングで怒られた気がしたのだが、事実なので反論の余地はない。「日本人は謝ればいいと勘違いしてる!」とかの追撃も手厳しく、亀のように首を縮めてしまう。いや、アクアとは出会ってまだ半月程度なので、『いつまでも雑用』とか『弱いまま』みたいな事を言われるのはどうなのかと思わないでもない。
アクア:
「貴方ね、今日の内容だけでも、かなりの部分まで推測が可能なのよ。いい? このバカ男がやろうとしていることは……」
ジン:
「うっわ、何を言っちゃうつもりか知らないけど、メッチャやりにくいんですけど」
アクア:
「別にいいじゃない。まだるっこしいのはキライよ」
ジン:
「あんなー、頭で分かったからって、体で出来るようになんかならねーんだぞ?」
アクア:
「頭ですら分かってないようなことを、体で出来るようにするのは大変でしょ」
石丸:
「そこから先は趣味の問題じゃないっスか?」
ジン:
「むぅ……」
アクア:
「いいから私に任せて。…………いい、シュウト!」
シュウト:
「は、はい」
何か、以前にもこんなシーンがあったような気が。
アクア:
「このバカ男がやろうとしていることは、『内部感覚の変更』なのよ!」
シュウト:
「内部感覚、ですか?」
アクア:
「アルファ的な内部感覚を減らして、ベータ的な内部感覚を再構築するために、楽な練習をやらせているはずなの。貴方が一生懸命にやろうとしたから止めた。それはだから、そのためなのよ!」
シュウト:
「えっと……?」
アクア:
「もう! なんでこんな簡単なことがわからないのよ!」
ジン:
「実力ってこういうものなのかねぇ。ご推察の通りでおま」
早口でまくし立てられてしまったが、だいたいの意味は分かったような気がする。ジンがもう一度、いまの部分を解説する。
ジン:
「要するに、『がんばる』ってことは『無理がある』ってことなんだよ。努力するって概念、感覚が、無理をするって意味になっちまってるから、これ自体が問題化してるんだ。素人はまだしも、運動経験者にとって楽な練習は不安になるものなんだ。『こんな楽ちんな練習をしたって強くなれるはずがない』って信念を叩き込まれてるからだし、部分的にはそれで正しかったりする」
シュウト:
「なるほど……」
ジン:
「しかしだ。例えばみんなで同じ練習をしてても、個々で効果に差が出たりするわけだろ。当たり前のことではあるが、それは内部感覚が手つかずだからなんだ。α→β移動問題でいうと『がんばり感覚』がα。『らくちん感覚』がβ。もちろん、鍛錬自体はキツイものもあるけど、『がんばり感覚』でやるとまるっきり意味がなかったりする。それがなぜかと言えば、『らくちん感覚』で『正しく感じられる』ような運動能力の獲得が目標だからだ」
ユフィリア:
「がんばっちゃダメなの?」
ジン:
「そう。多くの人にとって、がんばり感はマイナスの作用を多く持っている。駆動ロスによる抵抗、言い換えれば筋肉や関節への負荷みたいなものを『良い感じ』だと思ってしまっているんだ。……とりあえずは、力感がなければないほど、伝達ロスが小さいと思っていい」
レイシン:
「『ギュッ』とか、『ググッ』とかの、力を入れた感じはあんまり良くないサインなんだよね」
ユフィリア:
「そうなんだ」
珍しくレイシンが補足を入れる。擬音を使った解説で、ユフィリアにも分かりやすかったようだ。ジンの解説に口を出すのを、いつもは遠慮している。今回はアクアが口を挟んだ効果もあるのだろう。
アクア:
「『良い音』が分からなければ、決して良い音楽は生まれない。食事だって同じでしょ。美味しいって感覚が分からなければ、美味しいものを作ることなんてできないわ」
レイシン:
「そうだね」
アクア:
「それなのに、運動にとっての『良い音』は、みんな分かっていない訳でしょう?」
ジン:
「正確には『分かってるつもり』なんだ。まぁ、間違ってるわけだけど」
アクア:
「それって、とても、とても怖いことよ……」
極寒の地に放り出されたかのように、自分の体を抱きしめるアクア。その寒さにも似た不安の感覚が、こちらにも感じられるようだった。
ジン:
「これが評価軸の問題だな。正しい感覚を知らないと、自分で自分を罠にかけてしまう。壁を作って、正解を外に閉め出してしまうんだな。これぞ『バカの壁』ってやつさ。
例えば不味いもんばっかり食べていると、それを美味しいものだと思い込んでしまう。もっとずっと美味しいものを食べて、ショックで目を醒ますまでの間、ずっとそのマズイの世界に閉じこめられてしまうわけだ」
ユフィリア:
「ぜったい、美味しいのがいいよね」
ジン:
「ああ、美味しい方がいいな」ナデナデ
ユフィリアの頭をそう言いながらやさしく撫でるジンだった。
しかし、運動の世界であれば、マズイものが大好きな人達がたくさんいる、ということになるのだろう。自分もその一員というのは納得いかない点ではあったが、こればかりは仕方がない。美味しい方が良いだなんて、誰にとっても当たり前であって、だから『そうではない』ことが問題なのだ。
ジン:
「といっても根性論の練習を要求されて、状況的に逃げられない場合もあるからな。そういう時ってのは『生き残れるかどうか』の絶対的な場面だから、必死になって『楽に』やらなければならない。10キロ走れと言われたら、10キロ走るのだし、ショートカットなんて論外だ。人よりゆっくり走るのも許されない。そういう中でいかに『楽に走るか』を追求する必要があるんだ。むしろ人よりも速く走りながら、誰よりも楽に走らなきゃならない」
シュウト:
「楽にやって、生き延びる訳ですか……」
ジン:
「真面目で一生懸命だと、先生の言う通りに正面から取り組みました、でも怪我しました!ってパターンになることが結構ある。実のところ、環境が厳しい程、この『いかに楽にやるか?』という要請は強くなる。厳しい環境が『楽』を生むんだ」
葵:
「『北風がバイキングを作った』かのように?」
ジン:
「『北風がバイキングを作った』かのように。根性論の価値はこの点にある。というか、そこにしかないというべきか。根性は育てずに、楽を育てるのさ。
だけど、『普段、楽にやっている分、本番はちょっと無理すればかなりの記録が出る!』みたいな勘違いをしてしまったりするんだよ。本番は練習よりもっと『楽』でなきゃならないんだけど、まぁ、バカの壁のせいで勘違いするハメになる」
石丸:
「その『楽』は、効率とは違うんスか?」
ジン:
「似ているけど、微妙に違う。ここをちゃんと定義付けられない限り、近代スポーツの夜明けはこないってぐらい重要な話でもあるな」
アクア:
「で、その定義とは?」
ジン:
「柔らかく、ゆるんでいること」
葵:
「そのこころは?」
ジン:
「『がんばれ』には2つの意味・方向性があるんだ。頑を張れだと『硬くなれ、我慢しろ』になるから、逆に『楽=柔らかくなること』になってくる。しかし、『がんばれ』にはもう一つ『行動しろ!』の意味が隠れているのさ。コレが厄介で、『行動しろ』の反対だと、『楽=行動しない』になってしまう。つまり『楽』になりたければ寝ているのが一番いいことになっちまうんだな。これだと楽を理解できたことにはならない。……というか、現在の日本語では、楽という言葉を使ったら理解を遠のけてしまうだけなんだ」
シュウト:
「じゃあ、どうすれば?」
ジン:
「『止まれば、固まる』のなら、ゆるめるには?」
ニキータ:
「……動けばいい?」
ジン:
「YESだね」
参考になる話、程度に思って聴いていたのだが、ここの価値が分かるのは、ずいぶんと後になってからだった。間違いなく、雑談で語っていいレベルの内容ではない。
ジン:
「で、歩きの場合、左右にブレないように!と強く思うと、がんばっちまう。ブレちゃダメだ!って思うと、体を動かさないようにして、体を固めようとしてしまうわけだ。それじゃ、やる意味がない。がんばり感が好きだと、この体を固める感覚が正解だと思ってしまうんだろうな。『なんか俺、がんばってる!』って感じが好きなヤツは意外と多いんだ」
葵:
「拘束しないように、楽にやればいいんだ?」
ジン:
「うむ。『楽にやれ!』だなんて、最高だろう?」
アクア:
「……怖いぐらいにね」
ユフィリア:
「らく~にやろうとすると、ちょっとブレちゃうけど?」
ジン:
「うむ。別にブレちゃってもいいんだよ。力を抜けばブレるもんだ」
ユフィリア:
「それでいいの?」
ジン:
「ブレたり揺れたりするから、制御する意味があるのさ。ブレがあるままで、ブレそのものを制御するんだよ。ブレを止めるだけなら、体をガッチリ固めてしまえばいいだけなんだから」
ユフィリア:
「そっか。うん、なんかわかったかも」
ジン:
「……お、シュウト上手いぞ。それでいい」
プレッシャーゼロの中で、上手くできたらただ褒められるだなんて、本当にいいのだろうか? と思う。……もしかしてこれが『褒めて伸ばす』ってことなのかもしれない。
ジン:
「よし。逆に、大きくブレて歩いてみるんだ。違いを実感するようにな」
少しの違いしかないのに、こんなにも違う感じがするとは思わなかった。昨日まで、否、『数分前までの自分』を思って切ない気分になる。こんなことも理解できていなかったとは。
交互に練習(と言っても練習してる感覚はゼロだったけれど)していると、なんとなく中心軸らしきものが、自分にもあるような気がしてくるから不思議だ。
ジン:
「んで、これは前後にもブレがあるんだ。イスに座った状態で説明しよう」
食事スペースに移動して、各自が座るのを待つジン。例題は自分がやることになったらしい。
ジン:
「肘をついて、机にもたれ掛かってみな? 勉強してる感じで」
普段から食事をしているテーブルなので、丁度いい高さがある。テーブルにもたれて、腕で体重を支えてみる。
ジン:
「次、よっこいしょっと言いながら、元の位置に戻す」
シュウト:
「……よっこいしょ」
ジン:
「背もたれに、どっかりともたれ掛かる」
シュウト:
「えっと、どっかり」
ジン:
「ナイス掛け声。じゃあ、よっこいしょっていいながら、ニュートラルに戻す」
シュウト:
「よっこいしょ」
ニキータ:
「…………?」
ジン:
「これが前後ブレの基本形だな。作業中に前にもたれると、何かする時にいちいち『体を起こす』って動作が入るんだ。実はこれが『おっくう』を作ったりする」
葵:
「おっくう? 面倒臭いの『億劫』?」
ジン:
「ああ。体を前後するだけで、動作数が2回ずつ増えていくからなー。例えば飲み物を飲むたびに体を起こして、また前にもたれて、を繰り返したりしてるんだよ。しまいにゃ、人に話しかけられても体を起こしたくなくなってくる、とかはよくある話だ」
葵:
「うぐっ、それ『あるある』だわー」
ジン:
「だろ? 親に『良い姿勢がどうのこうの~』って言われても意味なさそうな感じしかしねーけど、良い姿勢だと動作数を減らせるねん」
葵:
「どうして関西弁っぽくなった?」
ジン:
「……じゃ、やってみぃ」
体を起こす時に『よっこいしょ』は必ず言うように、とのこと。各自でテーブルにもたれかかり、よっこいしょと言いつつニュートラルに戻す。背もたれにももたれかかり、またよっこいしょと言いながらニュートラルに戻す、を繰り返した。
歩きでの左右ブレと同じことが、座っていて前後にも起こっているのが分かる。ニュートラルでいなければならないのも分かる。分かるのだが、これが楽なのかどうかは、まだ実感できない。もたれ掛かる方が楽そうなイメージが強いからだ。
ニキータ:
「なぜ、よっこいしょと言う必要があるんでしょうか?」
ジン:
「〈冒険者〉だと筋力がありすぎるから、この程度の動作負荷では『何も差異を感じないから』さ。よっこいしょの無駄な動作を挟むことで、けっこう集中が途切れたりしてるもんなんだけど、オジン・オバンくさいから『言うな』という形式で教えて、押さえつけてしまってる。だけどそれは間違いで、これは言ってたほうがいいんだよ。単によっこいしょの掛け声を言わなくなっただけだと、動き方がオジン臭いまま変わってこない。それだと、なんの意味もないかんな。生活の中の動き自体を変えることで、『よっこいしょ』が出なくなる方がグッドだろ?」
ユフィリア:
「じゃあ、よっこいしょって言ったら、『あ、ヤバ』って思えばいいんだね」
ジン:
「……それだと今までと変わらんような? あー、今のはダメな動き方だったなーって思えばOK」
葵:
「『よっこいしょっ』て言ったら、歳とったなーって思うように教育されてるもんねぇ」
ジン:
「具体的にもそうなんだぜ? トシ食ってインナーマッスルが弱くなったことで『ちゃんとした動作』が出来なくなるのが原因だかんな。サイズの大きいアウターマッスルに頼らなきゃ、立ったり座ったりができなくなってくるんだな、これが」
葵:
「老化とは、脱インナーマッスル依存なわけだ!」
ジン:
「俺たちはアウターマッスル依存から脱するのが目的だがな!」
シュウト:
「なんか、あべこべですね」
ジン:
「あれだよ、『正しい』とされるものがズタズタにされちまってるからなー。具体的にも、観念的にも正しさなんてものは疎かにされて、100人いれば100通りの意見があるなんて言われるようになって久しい。インターネットの登場でこの方向は加速してるし、自分の感覚が絶対正義!みたいな状況は、これからも続いていくんじゃねーかなぁ。 …………結局、洗脳か自己中のニ択ってこった。洗脳だとその影響範囲の全員が全滅する場合もあるけど、100通りの考え方があるなら、100人の内の1人ぐらいはホームラン、2~3人がヒット、なんて可能性もあるかもな」
アクア:
「どっちがマシかって議論は、不毛ね」
ジン:
「どっちでもいいんじゃねーの? だいたい俺は護られてる側だしな。俺が強いのなんて、バカの壁サマサマですよ」
葵:
「ジンぷーから見たら、そうなるのかもね。みんなが勝手に誤解して弱くなってるだけっていう」
ジン:
「流石に、ほんのちょっぴりは努力めいたこともしたけどな(苦笑)」
くるりと振り向くと、ジンはこっちに向けて笑いかけてきた。何をされるのか?と身がまえてしまう。
ジン:
「いいか、シュウト。1万人がいたら1万人が、100万人いても、その100万人の全員が、ヨーイ、ドン!でギュッと力を入れるんだよ」
シュウト:
「……はい」
ジン:
「アキバにいるトップクラスの連中の顔を思い浮かべてみな? その全員が、0.01秒を競っているとする。一瞬でも遅れたら負けだ」
“黒剣”のアイザック、〈D.D.D〉のクラスティ、西風の剣聖ソウジロウ、その他にも廃人と呼ばれたような強者の顔を、思い出せる限り何人も思い浮かべてみた。本当に、一瞬でも遅れたら間に合わなくなる相手ばかりだ。
ジン:
「そんな連中を相手にしたら、絶対に手を抜くことなんて出来ない。僅かでも遅れたら、脳天を叩き割られる。誰もが一瞬のそのまた一瞬、刹那の時を競っているんだ」
シュウト:
「分かります」
自分もむざむざと負けるつもりはない。そういう世界にいた自覚もある。これまでは一歩とどかなかったといえど、後は時間の問題ぐらいには思っていたのだ。
ジン:
「……だがな、そういう状況でただ一人、武蔵だけは力を抜くことができた。力を抜いて、その上で誰よりも速かったんだ」
シュウト:
「………………」
ジン:
「わかるか? この怖さが」
シュウト:
「可能なんですか、そんなこと?」
つい、口から言葉が出てしまう。目の前に実物大の証拠が立っているのは分かっているのに、だ。
ジン:
「そりゃ、ちょっと力を抜いたぐらいで、誰よりも早く動けりゃ世話ねぇさ。徹底的に力を抜く。そのまま10倍、100倍と進んでいくと、やがて体は重くなり、その重さが速さに変わってくるんだ」
シュウト:
「それでも、〈冒険者〉の優れた筋力よりも速くなれるものなんでしょうか?」
ジン:
「余裕だよ。動作を起こすのに人間の反射速度だと約0.2秒、〈冒険者〉でも約0.1秒前後。そこから停止慣性を突き抜けて、最高速まで加速するのに掛かる時間は、最短でも0.3秒ぐらいかな? まぁ、そんだけあったら1人殺してお釣りがくるね」
シュウト:
(そうか。この人は、ジンさんって人は、生きてる『世界』が違うんだ……)
全職中、最速にして最強を誇る奥義〈アサシネイト〉も、0.3秒以下の攻撃速度を実現している。だから滅多に外すこともないのだし、防御も困難とされている。見てからではほぼ間に合わないので、先読みで防御特技を合わせて対抗するぐらいしかない。……それなのに、ジン相手には一度も当てられていない。もはや予想してしかるべきだった。
現状でいくら努力したところで、そもそもたどり着くことはないのだ。アルファ的な努力をバッサリと止めて、ベータ的な努力をしなければならないのだろう。これは自分の常識がまるまる役に立たない可能性もあった。これまでがそうであったように、これからもずっとそうなのかもしれない。
しかし、それでも、なんとしてでも、『フリーの世界』に移動しなければならない。これまでの自分が完全に否定されてしまう恐ろしさもあるし、そこまでして強くならなければいけない理由も特に思い付かなかったけれど、好奇心とワクワクするような気持ちに照準がピタリとあって動かない。
まるで一本の矢のように。目標に的中するまで真っ直ぐに飛んでいくものになった気持ちだった。
――やがてシュウトはごく自然に頭を下げていた。
秋に稲穂が実り、重くなって垂れてくるような自然さであった。坂道を下るよりもゆるやかに、流れに身を委ねるように、ジンを自らの師として受け入れはじめた。
こうして、強さや技ではなく、知識ですらない『何か』を受け継ぐ者になろうとしていた。
あけましておめでとうございました。
74話にもなって、ようやくシュウトくんは弟子になろうとしています。えっとこれまでもそうだったように見えていたかも分かりませんが、人間ってそう簡単に誰かにひれ伏したりしないものだと思っていますし、それでいいのではないかと。
本当はもうちょっと前に予定していた流れなのですが、快楽殺人者うんぬんの時はそういう雰囲気でもなく、不自然だったので入れられませんでした。
アクアブースターのせいでこの日の出来事がどんどん増量されて困っています。しかも、午後の出来事が残っていたりするのですよね。
本当に申し訳ございません<(_ _)>