72 アルファを越える
手が何倍もの大きさに膨らんでしまった夢みたいな経験をした後、さつき嬢への念話を終えて階下へ降りていった。すると人の話声が聞こえる。一人はジンのものだ。
ジン:
「……そんなことになってたとはな。んで、どうするもつりだ?」
アクア:
「どうもしない。というか、どっちにしても出来ないし」
シュウト:
(アクアさん、来てたんだ)
もう一人の声はアクアだろう。トップ会談のようで入りづらい雰囲気を感じたが、どちらにしても自分がここにいるのは、ミニマップを使えるジン(室内では使っていない時も多い)や、少なくとも耳のいいアクアにはバレているだろうと思い直す。隠れてもじもじしている方が彼らにすれば変に思われるのだ。
シュウト:
「おはようございます」
ジン:
「おう」
レイシン:
「おはよう」
アクア:
「ハイ」
葵:
「シュウ君、おはよ!」
レイシンからミルクティーでいいかと尋ねられて、恐縮しつつお願いする。ジンはさっそくお味噌汁を飲んでいるらしい。ふわりといい香りがして、懐かしい気持ちになる。(僕もお味噌汁を頼めばよかったかな?)と少しだけ後悔した。
シュウト:
「何のお話ですか?」
アクア:
「最近の情勢が辺だから調べていたんだけど、何ヶ所かのサーバーで古来種がいなくなってるらしくて。もしかしたら、全部のサーバーかも」
シュウト:
「その話って、日本もですよね。……それって、どうなっちゃうんですか?」
葵:
「こらこら、君にもS級クエストの経験があるんだから、だいたいの予想はつくでしょ」
思考停止をたしなめられ、自分で考えてみることにする。少なくとも幾つかのクエストでシナリオが狂うことは間違いなさそうだった。クエストそのものに古来種が関わっている場合、発動しなくなるものもたくさんありそうだが、その逆に抑制が効かなくなるものも多くなりそうな気がする。何かの異変やその予兆を捉えた古来種に協力する、といったパターンのシナリオなら、異変が起こってしまう前に『歯止め』をかけられなくなる可能性が高い。
しかもこれが世界規模となると、今後どのような影響が出るのか見当もつかない。
アクア:
「ひとつやふたつならどうにか出来なくもないんだろうけど、13あるサーバーごとにいろいろな問題が起こったとしたら、どの道パンクするのは間違いないわ。ここでも何かあったんでしょ?」
ジン:
「ああ。〈ゴブリン王の帰還〉は低級のレイドクエだったはずなのに、まるっきり戦争クラスの規模になってた。どうにもモンスターの数が爆発的に増えてる気がしてならない」
レイシン:
「ミナミの〈スザクモンの鬼祭り〉も凄かったしね」
モンスターの数が増えたと聞かされると、アキバなど都市部で〈大地人〉が3倍の人数になっていた事を一緒にイメージしてしまう。
アクア:
「『全員を救うことは出来ない』だなんて当たり前の話でしかないんだけど、やっぱりキツいものがあるわね」
少しもキツそうな素振りを感じさせずにそう言ってのけるアクアだった。
ジン:
「命に優先順位を付ける、だなんて誰だって嫌な話だからな。かといって、何でもかんでも助けてやればいいって話でもない。当事者の自助努力がなきゃどうにもならないかんな」
シュウト:
「……そういう時はどうすればいいんでしょう?」
ジン:
「基本は、ハラ減ってるヤツに、魚を釣ってやるのではなくて、魚の釣り方を教えてやるってことなんだけど、現代では魚を釣ろうとするヤツが多すぎて別の問題が起きてる感じだからなぁ。……アクアのケースで問題なのは、問題のスケールの大きさだ。広く満遍なく全体を助けて回る時間や体力はないだろう。効率が悪くなりすぎる」
葵:
「だから結局は『集中と選択』ってことでしょ。すると、助ける命を選ばなきゃならない。堂々巡りね」
ジン:
「いや、部分最適でもいいんだよ。こういう時はどこかを優先的にフォローしていくしかないし、その優先する場所の選び方こそが問題なんだ。全体にとってボトルネックになっている場所に注力すれば、それで全体最適ってことになる。何よりもまずボトルネックを見つけることだ」
アクア:
「ボトルネックね。簡単にいってくれちゃって。まったく、ラスボスみたいな分かり易いボトルネックがあればいいんだけど」
葵:
「にゃははは、さすがに居ないでしょ。倒しただけで全てを解決してくれる悪の親玉だなんて。そんなものは、もはやロマンの領域だわ(笑)」
ジン:
「だろうなぁ。もし、そういうのがいたら呼んでくれ。特別サービスで俺が瞬殺してやっから」
考えてみるとこれは凄い話だった。ジンなら、もうどんなラスボスが来てもほぼ倒せてしまうのだろう。つまり『明確に戦うべき敵がいない』という状態なのだ。たとえば、ミナミにいる濡羽という人がラスボスか?と言うと、僕らにとっては違う。彼女は元の世界に帰ることを否定し、邪魔しようとしている可能性が高いのだが、倒さなければならないラスボス的な存在とは言えない。倒しからといって、元の世界に帰れるわけではないからだ。
これを言い換えてみると、『状況』のようなものと戦っていることが分かってくる。そのことで、ただ帰れれば良い訳では無いのかもしれない、と改めて気が付くことになった。
自分たちをこの世界に呼び出した存在がいると仮定して、それは本当に悪なのだろうか? ……こう問いを立てるとすると、〈大災害〉直後ならまだしも、今では否定的な気持ちになって来ている。きっと僕らに『何か』をして欲しくて(たとえば世界を救ってもらいたくて)、この世界に呼んだのではないだろうか? それには少しばかり人数が多すぎる気がしないでもないのだが、こう考えたのならば、何かの目的を達することが出来たら、元の世界に帰してもらえるのでは? と思ったりしてしまう。我ながら騙されやすい人が考えそうな素朴な意見の気もするけれど、これが状況を整理してみた時の率直な感想だった。むしろ、何もしないで帰りたくない。
この場合、古来種の失踪はこちらの世界に僕らが呼ばれた理由と関係があるのかどうか?ということが問題になってくるのではないだろうか。
ユフィリア:
「おはよー♪ あっ、アクアさんが来てる!」
アクア:
「ハイ!ユフィ。また来たわ」
ユフィリアがアクアにハグしに駆け寄ったので、その場の会話は流れてしまった。興味深い話の気もしたが、深入りするかどうかはジン達が決めることだろう。そして、確実に深入りする方向になると分かり切ってもいた。
◆
アクア:
「それで? 雑用クンは少しは強くなったの?」
雑用とは自分のことらしい。うれしそうにニコニコしているユフィリアをはべらせ、そんな話題を振ってくるアクアに対し、(ユフィリアを奪われて)苦々しい表情のジンが答える。
ジン:
「大事な部分だから外せないが、おもちゃも兼任だ。ま、ちょっとジャンプアップしたから、目標が低くていいならもう一歩なんだが、俺たちと肩を並べる気なら、全然まだまだ、遙か彼方のこれっぽちも無しって感じだな」
アクア:
「それはそれは、ご愁傷さま」
シュウト:
「どうもです」
分かっていることなので、これっぽちもダメージは、ダメージが、ダメージで、ぐぅ。
ジン:
「お前なぁ、手のリンクをちょっぴり回復させた程度のくせに凹んでんじゃねーよ」
シュウト:
「すみません。というか、ヘコんだっていいじゃないですか……」
アクア:
「で、フリーライドってのは何なの? ジャンプアップしたんなら、もう教えてもいいんじゃない?」
ジン:
「ん、そうだな。部分的に教えたろうか」
自分の好奇心を満たすために僕を利用した!とふてくされる気分もあったが、こちらにも得な話だったので黙っておくことにした。賢い大人は汚い大人。何だって利用してやるのだ(←イジケ気味)
ジン:
「基本的にライドは身体のメタ制御法のことだ、ってのは言ったっけかな? フリーライドの場合なら、多重拘束を解除する事によって、あたかも自由になったかのような感じになれる。その為には3大拘束反射なんかを消去しなきゃならない」
シュウト:
「3大……、高速の反射ですか?」
ジン:
「速い反射じゃなくて、拘束を作っている反射反応。3大ってのは、挙上反射、体幹起立反射、傾倒反射のことだ。これらは把捉性拘束なんかよりも根が深い。特に体幹起立反射や傾倒反射を起こさないってのは、一般的な常識からみると、不自然になるって意味合いがあったりするんだ」
立ち上がり、室内で実演を始めるジンだった。
ジン:
「挙上反射は、斧みたいな重たいものを振り上げる時の動き。背筋の力を利用しようとすることで、背中を反る。同時に胸が開いてしまう」
ユフィリアがメイスを振りかぶり、「こう?」と尋ねていた。大きく振りかぶった感じだ。
ジン:
「次。体幹起立反射は、前に倒れそうな時に、とっさに背中を反らしてしまう動作。倒れ込みを前方推進力に転換する技術の関係上、この体幹起立反射は根本的な実力とか限界とかを決定してたりする」
ジンは何気ない動きで、すーっと前に倒れ込み、倒れ切る前に素早い継ぎ足をして、立ち上がった時には部屋の反対側の壁の近くまで移動していた。距離にして4メートル以上。体幹起立反射なるものは、全く見られなかった。
「お前もやってみろ」とのお達しなので、自分でも前に倒れこんでみた。ぎりぎりで足を出して、その場で体を支える。しかし、やはりというべきか、前方向にはまったく移動していない。
ジン:
「ストップ。そのままな。……分かるか? この背中の反り具合が体幹起立反射なんだ」
顔から床に激突したくはないので、自然と背中を反らしていたらしい。ほとんど自覚はない。体のバランスを取るためでもあるので、これが拘束を作っている反射動作だと言われてしまうと、転ぶしかなくなってしまうような気がする。…………そもそも転んではいけないのは何故だったろうか?
ジン:
「最後は傾倒反射だな。これも例題を頼むとすると……」どん!
シュウト:
「うわぁあああ!?」
それだけ言うと、ドンと正面から突き飛ばされる。いつの間にか足を踏まれていたため、逃げ場がない。手をブンブンと振り回して耐えたが、耐えきれずにそのまま後ろに倒れてしまった。……と思ったら、後ろに立っていたレイシンに体を支えて貰っていた。いつの間に後ろに回ったのだろう。こういうところでも憎たらしいほどのコンビネーションの良さが光る。
ジン:
「この腕を振り回して耐えようとしてしまうのが傾倒反射だな。うむ、非常にすばらしい例題をありがとう」
シュウト:
「それって、僕が拘束されてるって意味なのでは?」
ジン:
「そーとも言う」うんうん
シュウト:
「ですけど、これがないと倒れちゃうじゃないですか」
ジン:
「『カンケーないねっ!』by柴田恭平っ」
ジンは体を真っ直ぐにしたまま、なんの支えも無しにそのまま後ろ向きにすーっと倒れてしまう。体が落ちる寸前で軽く床を蹴ると、浮力のようなものの助けを借りて滑らかに立ち上がってしまう。〈竜殺し〉の特技〈フローティング・スタンス〉の能力、転倒防止機能であろう。いつの間に特技を使ったのやら。
シュウト:
「……ズルくないですか、それ?」
ジン:
「ん? そういう風に感じるかどうかは、個々人の趣味の問題なわけで。ともかくこの手の拘束を解除していくことで、フリーの動きに近づいて行くわけさ」
アクア:
「もう少し例題をみせなさいよ」
ジン:
「いいけど、先に説明させろや。いいか? 強さってのは、もの凄く分かり易く言えば、『β世界線への移動』現象に酷似しているのだよ」
アクア:
「シュタインズゲート?」
ユフィリア:
「何? わかる?」
ニキータ:
「無理ね」
シュウト:
「もの凄く分かりにくいんですが……」
『ヤレヤレ、これだから素人は』的なジェスチャーで呆れを表現されて、少しムっとする。
ジン:
「だから、強くなるというのは、弱い状態Aから、強い状態Bへの移動なんだよ。あー、まぁ用語を統一するなら、α→βへの移動ってことだな」
アクア:
「この場合、βへの移動はとんでもなく難しいってことね」
ユフィリア:
「そうなの? どうして?」
ジン:
「練習、特に反復練習ってのは、α(アルファ)から、α′(アルファダッシュ)への移動だからだ。何度繰り返そうが、ダッシュの数が増えていくばっかりで、基本的にどこかでβ(ベータ)になることはない」
葵:
「ちょっと待った。……それって、絶対的に強くなれないんじゃない?」
ジン:
「本質的にはそうだ。体系の不完全さを証明することは、体系内部からじゃ不可能だからな。フリーライドやオーバーライドは、その辺を飛び越えるために必要なメタ制御技術だし」
アクア:
「ラフマニノフが弾けない子も、練習すれば弾くことか出来るようなるけど?」
ジン:
「できる・できないと、上手・下手を混同させるなよ。どうにか弾ける程度のレベルで上手だとは言えないだろ。楽譜通りに弾ける人間同士でだってその内容に差が生まれる。それがなきゃ音楽なんてものには何の価値もないだろ。パソコンに演奏させとけってんだ」
ユフィリア:
「もう難しくなっちゃったね」
ニキータ:
「そうね(苦笑)」
ユフィリア:
「後で分かり易く教えてね、シュウト」
シュウト:
「いや、どうだろう。自信ないな……」
ジン:
「わりー、わりー。アクアに合わせるとお前等を置き去りにするんだよな。んーと、だから反復練習ってのは、同じ事を繰り返す運動だろ? これで脳内回路は太く強くなるけど、弱い状態から劇的な進化は起こさなくなるんだ。脳内回路は反復強化されるけど、その事によって動作が固定されてしまう効果もうまれる。それは依存に近い。じゃあどうするか?っていう話なんだ」
アクア:
「……ということは、最初っから正しいフォームなりを叩き込む準備をしてから、反復練習しなきゃいけないわけね」
ジン:
「そういう使い方はアリ、っつーか基本だが、何が『正しい』かを『どうやって決めるか?』って話だろ。トップを狙うプロ選手なら、より有効な方法論を求め続けなきゃならないんだぜ?」
葵:
「つまり、成長という名前の『変化』をし続けなきゃならないわけだ」
シュウト:
「それって、昨日の話と矛盾してませんか?」
ジン:
「矛盾はあるけど、させてない。柔らかさは最大級の共通因子だ。問題なのはフォームとかのことだな」
アクア:
「結論としては、セレンディピティーなんでしょ?」
ジン:
「そうな、何故か女の子が大好きなセレンディピティも答えの一つだ。これは統計的な手法になりがちなんで、人数が多くないと始まらないんだけどな」
葵:
「中国武術の4000年は、失敗の歴史っ!」
シュウト:
「あのー、オタク話じゃなくても意味が分からないんですが」
ニキータ:
「ジンさんだけでも話を飛ばしまくるのに、そこにアクアさんが加わるとまるでワープかテレポートね」
ジン:
「俺としては話が早くて助かるんだけど……」
ということで仕切り直し。
ジン:
「セレンディピティーとはなんだ? ほい、ニキータ」
ニキータ:
「失敗の中から役に立つ方法を発見する事、ですね」
ジン:
「そう。この場合、反復練習は下手クソが下手クソっぷりを強化する手法になってしまう可能性もあるんだよ。変化という概念には、成長だけじゃなくて上達の反対である『劣化』なんかも存在してるからだ。だけども、たまたま失敗したり、間違えたりした時に、ひょんな事から巧くなったり、巧くなるための方法にたどり着いたりすることがあり得るんだな。これがセレンディピティの利用ってわけだ」
葵:
「災い転じて福となす!」
ユフィリア:
「うーん、うーん」
ジン:
「セレンディピティを発見するのには、膨大な人数による膨大な時間が掛かる。わざわざ一から発見したり、忘れ去られたものを再発見するのはしんどい。だから、その集合体である常識とか、専門技術を修得していく必要がある。過去に学べって話ですよ。んで本題に戻るけど、武術の場合メインになる方法は、セレンディピティじゃなくって、無心に到達することなんだな」
アクア:
「へぇ~」
シュウト:
「無心、ですか……」
ジン:
「んじゃ、そろそろ具体例をみせようか」
誰も見ていないということで、ギルドホーム前の道路で実演することになった。今回は珍しく葵も見に来ている。
空が高い。無人の街らしい埃っぽさはあまりなく、真夏の爽やかに感じるどこか透明な空気と昼までにもっとキツくなりそうな日差しが刺すようだ。そんな中、ジンが道の真ん中に立つと、影が濃く見えた。
ジン:
「今回は、挙上反射と剣での踏み込みをやってみせよう。(1)は振り上げてから踏み込む」
シュウトボッコボコ棒という不名誉な名前を付けられた普通サイズの剣を握り、背中まで振り上げて、突進。「うぉおおお」とおまけの様な声を出すジン。
ジン:
「(2)は、踏み込んでから振り上げるタイプな」
振り向いて逆側へ、架空の敵に向けて「でやぁああ」と突進してから、振り上げてみせる。
ジン:
「どっちもダメダメなんだけど、ともかく(3)番目。これは振り上げながら突進するタイプで、普通のヤツだな」
説明通り、「わりゃあああ」とヤケクソ気味な声と共に、振り上げながら突進。極めて普通の例題で特記すべきものは何もない。
ジン:
「(1)は腹ががら空き。(2)は打ち込みとしては遅すぎる。だから、この合成である(3)が主に使われることになるんだな。それぞれの問題点と有利な点とはあるが、先に挙上反射を抑えた(4)をやってみせよう」
形式は(3)と同じ、『ながら』突進。ただ、腕の振り上げ方が微妙に違っている気がした。
ユフィリア:
「えっと、どう違ってるの?」
石丸:
「腕の振り上げ方っスね」
ジン:
「そう。挙上反射だと背中を反らして物を持ち上げるから、後ろ向きのモーメントが掛かるんだよ。だから、剣は腕だけでサッと振り上げなきゃならないんだ。剣道だと竹刀が軽いこともあるし、ちゃんとしてるところなら背中を反らさないように教えているはずだ。
(3)の場合、振り上げで生まれる後ろ行きのモーメントと前方突進のモーメントが同時でごっちゃになってロスが出るんだよ」
アクア:
「それなら、(1)だと後ろ向きのモーメントが終わってから動くことになるわね」
シュウト:
「そうか、そういう利点があるんですね」
ジン:
「(2)の場合も突進は素早く行える。状況によっては敵の様子をみながら直前で変化を付けられるんだけど、(2)のままだと振り上げ動作がバレバレだから、敵の目の前でやったら死にたいって言ってるようなもんだ」
シュウト:
「(4)タイプの振り上げと組み合わせることで、突進からの変化に対応しやすくなるわけですね」
ジン:
「こういうものはフォームを教える段階で正しい動作だけを教えて処理することも可能だ。でも、やはり教わる側が理屈まで押さえている方が望ましいのは間違いない」
――挙上反射は、『体のイメージ』に影響されている側面がある。
絵が苦手な人や小さい子供が人の体を描こうとする場合、体を箱、腕を棒として書こうとする。これを『ブロック体』と呼ぶ。ブロック体の認識はそのものが『幼いイメージ』であるため、もっと複雑なことを正解だと思いたがってしまう傾向が生まれる。
たとえば、絵が描けるようになってきた人は、筋肉の連動性を描こうとすることから、剣を振り上げたポーズで『挙上反射』を描いてしまい易い。この場合の正解は、ブロック体と同じように、腕をただ挙げた姿でなければならない。だが、それでは『躍動感』が足りなく感じるといった感覚的部分が邪魔をし易くなっている。身体感覚が先にあって、そこからセンスが発生している関係から、武術的正解に対して感覚だけで到達できるとは限らないのだ。
アクア:
「…………それで? β世界ってのはどうなるの?」
ハッとする。α側の技術ということを忘れて見入ってしまっていた。
ジン:
「チッ、覚えてやがったか」
ジンは荷物から普段使っている実戦用の剣、ブロードバスタードソードを取り出した。こうして比べてみると、随分と大きさに差がある。重さも数倍はあるだろう。
ジン:
「まず、剣を柔らかく握って、軽くブラブラさせます。いや、実戦だとこんな準備動作とかは一切見せたりしないけどさ。『こんなサービス、滅多にしないんだからねっ!』ってヤツだ」
アクア:
「下手で聞いてられないわね。……『こんなサービス、滅多にしないんだからねっ!』」
葵:
「うぉおおお! なんという銀河の妖精!? 眼福じゃあ、いや、眼耳じゃあ!」
ジン:
「ガンミミって、お前。せめて耳福だろ」
葵:
「てへぺろ~」
シュウト:
「……葵さんは、とりあえず黙っといてください」
葵:
「シュウ君!? ううう、あたし、要らない子……」
葵がいじけ虫しているところで再開である。
ジン:
「こうしてブラブラさせてから、ここで軽くフリーをかけてやります。すると……」
微かな風切り音と、それに続くブレーキ音。いつもの『激烈な突進』といえばそうなのだが、移動よりもむしろブレーキに力を使ってる気がしてきた。結果はいつも通り、何をやっているのかどうやっているのか分からなかった。
葵:
「すっげぇええええ! マジ超スピードじゃん! ジンぷー三角形!」
アクア:
「化け物たる由縁ってヤツね」
ユフィリア:
「ねージンさん、目を瞬きしちゃったらもう一回お願い!」
ジン:
「おー、いくぞ? カウント、3、2、1……」
しゅだっ!と移動する。やはり何をやっているかよく分からないスピードだった。必死になって見ていたのだが、さっきまでとは何もかも違ってみえた。
問題だったのは剣の振り上げ方のはずだが、振り上げた動作は見えなかった。それでも停止時点で剣は振り上げ切った状態になっている。それでも確かに、振り上げてはいないはずだった。
アクア:
「……速くて分からないじゃない」
ジン:
「フッフーン、降参したなら教えちゃろう。フリーの動きだと、剣を振り回すよりも体の動きの方が早くなるから、そのまま前に出ればいいのだ」
シュウト:
「でも、剣を振り上げていませんでしたよね?」
ジン:
「だからそこがポイントだな。手は柔らかく、剣の重心をしっかり感じておいて……」
剣の中心付近からくるんと回す。
ジン:
「振り回さずに、こうして重心で変形させる。中高生レベルの理科だか物理だかで習う通り、重心の位置が変わらなければ剣は『移動してない』んだよ。この方法だとかなり重くても、ちょっとの力で回転させることができる。これを前方向の突進に使うわけだから……」
剣の中心付近にある重心を、空中にピンかなにかで固定したように動かさずにおいて、そのままジンはゆっくりと前進。剣は自然と回転を始め、ジンの移動が終わると、振り上げたのと同じ形になっていた。
葵:
「βと言われれば、βか。結果は似てるけど、そこに至るルートが違っちゃってる。コレは確かに反復練習でたどり着くのは難しいかも……」
剣を持ち上げる、振り上げるという概念から外れた動きをしているので、『似て非なるもの』という言葉がぴったりとくる。剣道部がよくやっている前後に小さく移動しながら素振りするイメージからだと、全く別種の動きに感じられる。シンプルでいて、合理的だ。
ジン:
「全身の疑似流体化が進んでくると、周囲の物体を引きずる動作が起こるんだ。その結果、自然とこういう形になってくるんだな。……ま、こんなもん知ってた所で、どっちにしたってフリーが使えなきゃ何の役にも立たないんだけどさ(苦笑)」
(1)~(3)の振り上げ動作では、(4)の挙上反射を抑えた動きでも、フリーの動きを阻害してしまうのだろう。
ジン:
「いいかシュウト。具体論が好きなのはバカ、抽象論が好きなのは低能なんだ。これはよく覚えておけよ?」
シュウト:
「なんとなく分かるんですが、具体論じゃどうしてバカなんですか?」
ジン:
「具単論が好きなバカってのは、難しいことが分からないフリをしている間に、難しいことが本当に分からなくなってしまうからだ。その結果、自分の感覚に反している物事は受け入れられない様になっていく。自分の感覚で正しいと思ったことが正解だと思い込むんだ。後は狭量で頑固な人間の出来上がりさ」
ニキータ:
「抽象論が好きな低能というのは?」
ジン:
「抽象論が好きなのは、そこそこ頭が良いヤツが多い。全体の方向性をコントロールしなければ、力が分散して巧く機能しなくなってしまう。だからお題目だったり、全体目標だのの抽象的な概念が必要なんだ。それが分かっているから抽象論をおざなりにしないのが頭が良いってこと。しかし、頭が良くても能力の足りないヤツは山ほどいる。成功までの筋道、具体的なプランを提示できない場合、それがどんだけ良いことを言ってるつもりでも、中身がないってことになる」
アクア:
「両方必要ってことなのよね」
ジン:
「そうそう。具体論好きのバカからすれば、具体性が無いなんてマジ役に立たないヤツだ!って話になるからな。一方で抽象論好きの低能には、大局を見ずに目の前のことだけやろうとしてっから使えない!って思う。具体的なやり方なんて細かい事は、自分が口出しするより、本人に任せた方が巧く行くだろう、とか思ってたりすんだよね」
葵:
「水と油だーねー」
アクア:
「だからシュウトは、具体的な情報に踊らされずに、しっかり見て、聞いて、自分の頭で考えなさい、ってことよね」
ジン:
「そうです」
シュウト:
「気を付けます。両方あればいいんですよね?」
アクア:
「で、フリーライドとこの辺りはどう関係しているわけ? 関連性が低すぎると思うんだけど」
ジン:
「うーん、さすがに誤魔化し切れませんでしたかー。フリーってのは、重心の移動技術と無心とが基本セットなんよ。拘束反射は重心移動を阻害するもののこと。無心は身体制御技術だけど、この世界だとオートアタックがあるからちょっと面倒な話があってなー」
アクア:
「ハハン、その辺りは、まだシュウトに聞かせたくないわけね?」
ジン:
「核心部分以外なら平気だけどな。オートアタックなんてものは、所詮は制御システムとして二流のまがい物に過ぎない。人類には端っから宇宙最高の制御システムが用意されてんだよね」
シュウト:
「オートアタックを超えるオートアタックみたいなものがあるんですか?」
ジン:
「そっちもあるけど、もっと基本的なものだよ。汎用性・専門性に渡って万能にして至高、まさに無敵の制御システムさ」
葵:
「そんなチートなものなんて、あんの?」
アクア:
「まだるっこしいタメなんていらないんだけど」
ジン:
「へいへい。……それは」
ユフィリア:
「それは?」ゴクリ
ジン:
「もちろん、中心軸さ!」ニヤリ
そろそろ説明や解説じゃなくて物語の方向に戻したいんですがー、前回分の内容で終わるとα→β移動問題を放置することになってしまうので、避けないことにしました。
申し訳ございませぬ<(_ _)>