56 座学
ジンが連発する〈竜破斬〉を嫌い、くすんだ緑の鱗を持つ巨大なドラゴンが空に飛び上がった。巨体を支え切らない不安定な姿勢のままに、急に落下しては爪で攻撃し、浮かんでは落ちるの不規則な攻撃を繰り返した。狙われているジンは、躱しながらダメージを入れていく。
シュウト :
「〈アロー・ランペイジ〉!」
シュウトのつがえた矢が複数の影に分裂し、一斉にドラゴンに向けて襲いかかる。狙いは左の翼。数本はコウモリの皮膜のような羽を貫いたが、ドラゴンが動いてしまったことで大半は胴体に当たり、ダメージを与えつつも弾かれてしまう。
ジン:
「飛び退け!」
着地するドラゴンの下敷きにならないように、ジンが指示を出す。着地からそのまま尻尾による薙払いを繰り出す緑竜。ジンは振るわれる尻尾の中央付近で回転攻撃を受け止め、その威力を削ぐようにした。これは範囲攻撃に巻き込まれる味方を護るためである。鈍い衝撃音と同時に青い光が点る。ジンはこの状況でも攻撃と防御を同時に行っているが、尻尾の持つ大質量の威力によりズルズルと後退。石丸はこの隙にと呪文詠唱を開始。
レイシンが大振りの蹴りから衝撃波攻撃を放つ。逆サイドのシュウトは目を狙っての弓攻撃が命中し、左目の視力を奪っていた。直後、石丸の呪文が完成し、ドラゴンの背中で氷の嵐が巻き起こる。
ニキータ:
「ブレス! 散開して!」
シュウト達からの攻撃を全て無視し、ドラゴンは背を反らしながら大きく息を吸い込む。ドラゴンの正面から逃げる仲間たち。囮で残っていたジンがすばやく場所を変え、ユフィリアや石丸をかばうような位置に移動した。
火炎放射器を数十倍にしたような、炎の奔流がジンとその背後にいる仲間に向けて放たれる。熱と同時にやってくる岩のような厚みを持った空気の塊は、どんな巨体であろうと小石のように転がってしまうのに違いなかった。それでも頼れる〈守護戦士〉は踏み止まり、仲間を護る盾としてあり続けた。至近距離の落雷にも似た轟音が長く続いた。
ユフィリア:
「〈ヒーリング・ライト〉!」
小威力の即時回復魔法をジンに対してまず使ってから、続けてより大きな威力の回復魔法の詠唱を始めるユフィリア。大威力の呪文を先に使わないのは、呪文が完成するまでの1秒か2秒の時間が戦局を左右する場合もあるためだった。低威力の呪文でも、使う側と使われる側の組み合わせによっては、生死を分かつ決定的なものにもなり得る。
ジン:
「ぷはっっ!!」
ドラゴンブレスを受けきり、呼吸を止めていたジンが再びドラゴンに向かって走り始める。盾や鎧の一部は融解していたが、気にしている場合ではない。〈竜破斬〉を入れようとしたところで、パッと空中に退避するドラゴン。
ジン:
「マズっ。〈アンカーハウル〉!!」
ユフィリア:
「お願いっ。届いて!」
願いもむなしく、タウンティング特技〈アンカーハウル〉の効果が発動する前に、ドラゴンは効果範囲外へと出てしまい、そのままいずこかへと飛び去ってしまった。
ユフィリア:
「あーん。また逃げられちゃった~(涙)」
がっくりと肩を落とす。これでドラゴンと戦ったのは5回目。そして逃げられたのも5回目である。最初よりは戦闘として形になって来てはいたものの、どうしても逃げられるのを防げない。ジンが仲間の防御に回るほど、攻撃や挑発の時間が削られていくためだ。一人なら回避できるものを、敢えて受け止めなければならない。するとユフィリアが回復しなければならなくなる。更にジンは回復魔法を使うユフィリアをガードしなければならず、足を止めることになる。
ジン:
「まぁ、初日じゃこんなもんだ。気にしてもしゃーあんめぇ。片づけて休憩すっぞ?」
気休めの言葉をかけて、のろのろと動き出す仲間達を見守るジンだった。
◆
ジン:
「……というわけで、これからドラゴンと戦うことになる」
雨は昨夜から降り続き、今もどんよりと重たく雲が垂れ込めている。朝食の片づけをしたところで、現状の確認と今後の展開が発表された。
〈妖精の輪〉の調査は順調で、ほぼ近場のものは月齢による変化とタイムテーブルを調べ終えているとのことだった。シブヤの調査は今日が最後で、午後にはアクアも出発する予定だと言われる。ユフィリアがお別れパーティーをしたいと言い出したが、「すぐにまた来るから」と断られた。
〈妖精の輪〉のタイムテーブルは把握したものの、ドラゴン探しはまだこれからだそうだ。引き続き調査を続行し、転移先の〈妖精の輪〉についても調査の手を広げていくことになっている。
ドラゴン狩りを始めるにあたって多少の準備をするべく、しばらくは午前中にまとまった時間をとって訓練に当てるとジンは言った。
ジン:
「まぁ、いくら口で説明しても、体感してみないと分からない部分が多いから、今は簡単にしか説明しないが、……ドラゴン退治で一番難しいのは何だと思う? シュウトは黙っておけよ」
シュウト:
「はい」
ユフィリア:
「えっ? 倒すのが大変なんじゃないの?」
ニキータ:
「ブレスの回避とか、回復役の負担が大きいこととか?」
ドラゴンは強い。だから倒すのが一番大変に思われるのだが、ジンの戦闘力があればそこは問題にならない。となると、ダンジョンではなく野外、しかも少人数で倒す時に一番問題になるのは……。
葵:
「逃がさないようにすること、だよ」
ジン:
「〈アンカーハウル〉を使うにしても、準備から効果発動までの時間に、ひと羽ばたきであっさりと範囲外に逃げられちまう。タウンティングの距離を増幅するアイテムはあるんだが、俺の使っている効果を2mプラスするものでも、逃げられる時は逃げられちまう」
効果の高いアイテムになれば、+5mといった品もあるのだが、そんなアイテムを使っても〈アンカーハウル〉では術者を中心とした半径15mの距離にしか効果が及ばない。ドラゴンの移動速度なら1秒と掛からずに〈アンカーハウル〉の範囲外に出ることが可能だった。
ジン:
「慣れない内は、通常の壁役で『挑発』と『防御』、さらにダメージを与える『攻撃』も俺が一人でやることになるだろう。俺一人で戦って、たまにユフィリアに回復してもらった方がてっとり早いんだが、最終的な到達点を考えると、ちぃっとばかし苦労して貰わなきゃならん。6人いれば、単体のレイド×4でも倒せるぐらいにはなれるはずだ」
レイド×3をほぼ一人で倒したジンなのだから、ユフィリアが回復を定期的に行えば、レイド×4クラスのボス級モンスターであろうと、理屈としては倒せるようになる計算なのだろう。あくまでも理屈では、だが。
言っている意味は分かるのだが、シュウトにしても感覚は追いついて行かない。約100人がかりで倒すようなモンスターを、たったの6人で倒せるようになれるものなのかどうか。しかし、そのぐらい出来るんじゃないかと思う自分もいる。あのベヒモスを倒した場に居たことで、自分の現実感覚などはとっくに麻痺してしまっていたし、それが強くなるということだろうとも思う。常識に縛られていては、常識的な結果しか出せないのが道理というものだ。
ジン:
「死なない様にちゃんと護ってやるけど、そんなことをしてると、たぶん逃げられるんだな、これが(笑)」
ユフィリア:
「レイシンさんがこの間ジンさんと戦った時みたいに『フリーライド』っていうのを使っても、ダメなの?」
レイシン:
「はっは。がんばってみるけど、そんなめちゃくちゃ強くなったりはできないからね」
アクア:
「ふぅーん。貴方もそのフリーってのが使えるわけね」
ジン:
「ま、後はとりあえず戦ってみて、失敗しながら感覚をつかんでいけばいいさ。……ドラゴンとの戦いはいったん置いといて、ここからは基本的な講義を始めたいと思う」
シュウト:
「あっ、紙とペンを用意して来ます」
◇
ジン:
「人間の筋肉ってのは、断面積で発揮できる力が決まっているんだけど、エネルギーを供給する方法によってパワーが変化してくるんだ。ATP・CP系、解糖系、酸化系の3種類が存在している」
ジン:
「ATP・CP系ってのは、CP、つまりクレアチン燐酸が分解したりする時にATP、いわゆるアデノシン三燐酸を作り出すことによって、強大な力を発揮する方式のことだな。全力で約3秒。ほぼ10秒でオールアウトする」
ジン:
「次に解糖系は、血中のグリコーゲンを乳酸に分解することでATPを再合成して筋肉を駆動させている。乳酸を作るから乳酸系とも言われることがある。この話から昔は乳酸が『悪の疲労物質』みたいに言われてたわけだな。解糖系は中間的なパワーを生み出す。全力で30秒。ほぼ60秒でオールアウトする。ここまでが無酸素運動の領域(アナロビック過程)だな」
ジン:
「最後がいわゆる有酸素運動(エアロビック過程)って奴で、酸化系だな。グリコーゲン・脂肪を呼吸で取り込む酸素を使って酸化させて、水と炭酸ガスに分解することでATPを再合成する。弱い力しか出せないが、長く続けられるので、オールアウトしにくい」
ジン:
「それぞれ、ハイ・ミドル・ローパワーということになる。これがエネルギー供給を基準とした『力の展開』だな」
ジン:
「次が『速度の展開』。筋肉を収縮させたり、伸展させる場合の速度によって、その動き方が変化する。ファスト・ミディアム・ストロングに分類される。これで3×3の表になるわけだな」
(図表)
ジン:
「現実世界で運動する場合、最低でもこの表の意味ぐらいは理解していないと話にならないんだ」
ユフィリア:
「でも、この世界ではあんまり関係ないんじゃなかった?」
ジン:
「そうだな。筋力はクラスとレベルによって一定値に決められている。筋トレをしても全く意味はない。だから、この表は『もう一つの意味』でこそ重要になってくるんだな」
ニキータ:
「もう一つの、意味?」
ジン:
「結論から行こう。こいつは脳内イメージの問題なんだ。筋力は一定で決められている。でも強い力を出したり、弱い力を出したりできる。ならば、最低でもこの3×3の図のような筋出力を意図的に行う必要があるんだ」
ユフィリア:
「んっと? どういう意味?」
ニキータ:
「それは……極めて常識的な話の気がするんです、が」
ジン:
「はいはい、ド素人はなーんにも理解できてないね」
シュウト:
「スポーツは本当にド素人ですし」
ジン:
「残念な君たちのために順を追って説明していこう。野球のピッチャーが早い球を投げようとすると、ファストパワーを使うことになるよな?」
ユフィリア:
「うん。ボールは軽いから、表で言うと、ロー・ファストパワー?」
ジン:
「いや、ロー・ファストの代表的な運動はマラソンだのの持久走だ。時速150キロの速球を投げようと思ったら、ハイ・ファストが必要になってくるだろうな。また別の話をすれば、ベンチプレスでマックスに近い筋力を発揮する時には、ストロングパワーを使うことになるわけだ」
シュウト:
「ハイ・ストロングパワーですね」
ジン:
「こういう風に種目や動作ごとに使用するパワーが変わってくるわけだ。元々この図は、構造的に筋力を配分するための基本になるものなんだよ。これを延長すると、〈守護戦士〉はよりストロングパワー系だし、〈暗殺者〉はよりファストパワー系ってことになっていく」
ニキータ:
「分かります」
ジン:
「100m走なら、時間の関係でハイパワーであるATP・CP系を使うし、ファストパワーを鍛えなきゃならない。体を鍛えるということは、脳を鍛えるという意味もあるんだよ」
ニキータ:
「脳の力を、配分する?」
シュウト:
「えっ?」
ジン:
「代表的な失敗事例をあげると、バーベルを使った筋トレは、重さにしか評価基準がないから、『とりあえず重いのを上げる』ことになる」
ジン:
「逆に腕立て伏せみたいなトレーニングは、筋力が上がってくると5回ぐらいでバテてたのがミドルパワーで30秒ぐらい続けられるようになって、だんだんとローパワーで回数を続けられるようになっていくわけだ。こっちは『とりあえず回数をこなす』ことになっていく」
シュウト:
「その『重いのを上げる』場合はストロングパワー、『回数をこなす』のがローパワーだとすると、ハイ・ファストパワーを鍛える練習がありませんね」
ジン:
「シュウト、ちょっとそこで腕立てしてみろ」
床に手をついて腕立て伏せの姿勢になるシュウト
ジン:
「普通に腕立てをするのでも、普通のスピードでやればミディアムパワーになる」
速くも遅くもない速度で数回腕立てをしてみせるシュウト
ジン:
「速く腕立てをすればファストパワー、ゆっくりやればストロングパワーが鍛えられる」
言われた通りに速く動いたり、ゆっくりと腕立て伏せをしてみる。つまり、動かし方を決めているのは自分だった。一見、当たり前のようだが、それはこの世界では筋力を鍛えることができないためだ。これが現実世界であれば、必要な速度で体を動かしつつ体を鍛えていけばいいことになる。ファストパワーが必要な場合、ストロングの速度で腕立て伏せをする意味はあまり無さそうに思える。
ジン:
「それぞれの専門競技に見合った構造筋力配分からすれば、筋トレは逆効果な鍛錬になることもある。脳を鍛えるという意味では、ファストパワーを鍛えたいのに、ストロングパワーを鍛えたとすると、その鍛えた筋肉はゆっくりとしか動かない『使えない筋肉』になってしまうんだ。脳がストロング仕様になってしまえば、その鍛えた筋肉はファストでは動かしにくいからだ。これがプロの選手でも不調の原因になることもある」
アクア:
「なるほど。〈冒険者〉は筋肉を鍛える必要がないのだから、脳を鍛えて体の使い方を覚え込ませればいいってわけね」
ジン:
「まー、そんな感じかな。近年はこういったことへの理解が深まっているから、勉強熱心なトレーナーは理解しているよ。だけど、中高生、大学生でもよく分からないままトレーニングしているケースは幾らでもあるんだ。バーベルを使うトレーニングでも、負荷を小さくして、スピード重視でトレーニングするみたいな工夫は誰にでもできることだ。知ってさえいればね。……といっても、理解力の無い指導者の前だと軽い負荷で楽してサボろうとしている~とか思われるかもしれないけど」
シュウト:
「今度からファストパワーを意識しながら訓練すればいいんですね」
ジン:
「いや、ハイもローも加減は自分でやるんだから、ハイパワーの発揮も脳の問題だぞ。しかし、ただ強い力を出そうとしてもダメなんだ」
一気にしゃべったので、水を飲んで一息つくジン。
ジン:
「じゃあ、次。精制度の問題な。精密制御度の話だ」
ジン:
「攻撃技の威力を高めたいと思ったら、技術はそのままに筋力だけを高めればいいと考えがちだ。この場合の思想的立場は『筋力+技術=パフォーマンス』なわけだ。この単純な式に従えば、筋トレをすればパフォーマンスレベルは高くなるはずだな」
シュウト:
「ならないんですか?」
ジン:
「ならない。技術とは、筋出力を前提に構築されているからだ。たとえばピアノを弾くとしよう。指で鍵盤を叩くわけだが、その指で鍵盤を叩かせているのも筋肉だ。 簡略化すると『技術的筋出力』をしているのに、筋トレをして筋力を高めると、その精度を狂わせる可能性が出てくる。決められた順番で指を動かさなきゃ成らないのに、何故か薬指だけ筋力がアップしたらどうなる? 極端な話、線の細い女の子の薬指だけがゴツい劇画調の男の指みたいに鍛え上げられたとしたら、薬指だけスピードがアップして曲がおかしくなったり、薬指で押さえた部分だけ音が大きくなったりするかもしれないだろ?」
ユフィリア:
「指輪が入らなくなりそう(笑)」
アクア:
「喩えとしては変すぎるけど、そういうことよね」
ジン:
「大雑把で荒っぽく、テキトーな、つまりラフな筋トレをしてしまうと、そういう目に遭うわけだ。精制度の問題とは、如何にして精密な、洗練されたトレーニングを行うか?という問題になる。精制度が高ければ、技術の邪魔をしにくいわけだな」
ニキータ:
「これも脳のイメージの問題みたいね」
ユフィリア:
「そうみたい」
ジン:
「身体測定なんかで握力測定をする場合、全身での筋力発揮を行う。歯を食いしばり、眉間にシワを寄せ、首から背中から、関係ない足まで全部に力を入れて、必死になって力を込める。…………これがラフな筋力、ラフパワーだ」
ジン:
「必要な部分にだけ、素早く筋力を発揮させる。その際、顔をゆがめることは決してしないし、してはいけない。……これが求める精制度の高い筋力。リファインパワー、略してレフパワーだな」
シュウト:
「何故、顔をゆがめてはいけないんですか?」
ジン:
「『認識は顔に現れる』。これでもかってほど精密な作業を行う時に、苦痛にゆがんだ様な顔をするか? 細かいプラモデルを作ったりするみたいな時とか」
シュウト:
「しません、ね」
ジン:
「筋力の発揮も、テクニカルに行う精密作業と変わらないんだよ。ピッチャーが時速150キロで球を投げつつ、針に糸を通すようなコントロールを両立させようとするのは非常に難しい。だから、細か~い作業をやるのと同じ顔付きになってなきゃダメなんだよ。ダンディやクール、ニヒル、ハードボイルド。隠れ論理は全部一緒だな」
シュウト:
「もしかして……もしかしなくても、格好付けなきゃいけない、とかですか?」
ジン:
「まー、そうとも言う。でも、見た目だけイケメンのヘタレ共とは違うぞ? 戦闘の場合、危機的な状況ほど精密な動作が必要になるんだ。つまり、苦しそうな顔をしていたら負けに直結するってことさ。ピンチほど不敵に笑ってみせる『ちゃんとした理由がある』わけだからな。程度の低い、ただの強がりなんかとは端っから次元が違う。本物のイケメンってなぁ、そういうもんだろ?」
シュウト:
「…………」
まただと思った。もう少し『強いから、格好良い』というものだと思っていた。だが、この話は『格好良いから、強い』に近い内容だった。
ジン:
「余談はともかく、ラフパワー中のレフパワーの割合がその人間の技術レベルの土台や根幹だと思っていい。ラフパワーの割合が高ければ、技術的に使いようのない筋力だってことさ。これが余力のように感じて勿体なく感じるんだが、要するに練習不足ってことだな。……ただ、種目や動作ごとに必要なレフ%は変化するから、多少のラフパワーなら運用することもできなくはない。その分、技術的に低いレベルのものが多く成らざるを得ないのが難点だがな」
アクア:
「100%のレフ化は可能なの?」
ジン:
「〈冒険者〉の体だから、かなりのところまでいけるような気がしてるんだが、あまり意味のない理想だろう。どこかで目的と手段が逆転するはずだ」
アクア:
「そうか、そうかもね」
ジン:
「この話も、普段の練習からレフ的でいなければならない。本番で戦う時だけレフ的に振る舞おうとしても、体が、脳がそういう風には動かない。元の人間からすれば膨大な能力を持つ〈冒険者〉の肉体だからこそ、丁寧に使わなければならないんだ」
ジン:
「次は、運動量に関わる諸々についてだ」
ユフィリア:
「ね、ちょっと早くない?」
ジン:
「大丈夫。関連事項だから、まとめて話しちまった方がいい内容だ」
ジン:
「運動量を伝達する方式は二つある。一つは間接式。過去に発生させた運動量を、体や武器を介して伝達する方法だ。イメージ的には鞭が蛇のようにしなりながら、その先端までエネルギーが移動していく感じで、これはファストパワーに当てはまる」
ジン:
「もう一つは直接式。筋肉の伸展から生まれたエネルギーなんかを、直接伝達する。イメージ的にはぐいぐいと手で押したりすることだな。こっちはストロングパワーに相当する」
ジン:
「ここで重要なのは、必要な筋肉に力を入れ、不必要な筋肉は脱力するってことだ。運動の結果は、外部への作用の大きさによって観察される。強く殴ったり、弱く押したりするってことだ。この時、自分の体の中で喧嘩しちまうと、運動量の伝達を邪魔してしまう。その結果、殴ろうとしてもぎこちなくて威力が無かったり、上手く押せなかったりする」
ユフィリア:
「仲良く協力して、力を合わせればいいってことだね」
ジン:
「そういうこと。その為には、精密な筋出力が必要になる。粗雑な筋出力だと、入れてはいけない筋肉にまで力が入ってしまうから、脱力できなくなる」
ジン:
「また、力をたくさん出すには、振り幅を大きくしなきゃいけない。力を抜いておいて、タイミングよく一気に力を出すんだ。逆に最初から筋肉を使ってたら、当然、振り幅が小さくなってしまう。この最初から筋肉を使ってますよ、という状態を『予備緊張』という」
ジン:
「でもまー、でかいドラゴンが牙をひん剥いて、ものすげー勢いで襲ってきたら、普通は身構えるよ(笑) 緊張で体がガチガチになって当然だよな。……そういう風に威嚇することで相手の実力を発揮させず、一方的に勝利し易い状態に持ち込むのは、戦闘の基本中の基本でもある」
ジン:
「強ければ強いほど強くなり、弱ければ弱いほど弱くなりやすいんだ。強ければ余計なプレッシャーを感じないから予備緊張も少なくなるし、脱力できて筋力の伝達が巧くいって、高い威力を出せるようになる。その高い威力やパフォーマンスに相手は威嚇されて、勝手に萎縮していく」
ジン:
「逆に自分が弱ければ、まず怖いから体が縮こまる。プレッシャーで視野も狭くなって周囲が見えなくなるから判断力が普段よりも無くなる。そうなると、とっさの防御なんかも失敗し易くなる。予備緊張や恐怖で筋力に振り幅を作れないから威力が出ないし、ラフパワーで威力を出そうとしても、技術的に低レベルになるから当たらなくなったり、力の伝達効率が悪くて威力が減じられる。動きも振り回すようなものになってしまう。その結果、『コイツは弱い』と思われるから相手に心の余裕を与えてしまうわけだな。そうなるとますます、ってことだな」
ニキータ:
「ですが、『強い』とか『弱い』という状態はすぐにどうこうできませんよね?」
ジン:
「確かにそうだ。だけど、予備緊張や脱力はどうにかなるかもしれない。 怖いのは仕方ないけど、素直に悪循環に陥って、萎縮して、失敗して、負けてやる必要まではない。実力的に自分が相手よりも強くても、ビビって負けることがあるのが勝負の世界なんだ」
ジン:
「さっきの例を続けると、普段から大声で怒鳴ったりする『恫喝して勝つ事』に慣れている奴が相手だとするよな。これに対して、怖いと思いながらもレフ性や脱力を失わなかったりで動きが良いままだと、相手は『まだ怒鳴り足りなかった』と思って更に威嚇を繰り返してくる。それでも効果がないと『もしかして自分と同じぐらい強いのかも?』と疑念を抱き始めるんだ。すると、居丈高に『勝つのは当然、自分』だと思っていた動きが、だんだんと慎重になって来たりするもんなんだよ。相手が逆に萎縮を始めるんだな。そうすると俄然、戦い易くなってくる。まるで羽を伸ばしたみたいにこっちの体は楽になる。実力が変わらない場合、こうなってしまえば勝つことだってそう難しくはないね」
ジン:
「というわけで、〈冒険者〉の場合は筋力を鍛える必要がないから、脱力の上手さが実力を左右してくる。筋出力をしながら、それを邪魔しないように脱力することが出来なきゃいけない。それで脱力が巧く進んでくれば筋出力の伝達がうまく行くから、最終的な出力が大きくなる」
ユフィリア:
「今のって最後に同じことを2回言わなかった?」
葵:
「大事なことだから2回言ったとか?」
ジン:
「いや、『必要な筋力だけを動かす』のはレフパワー的だが、逆からいえば『不要な筋力は動かさない』という意味の、レフ脱力にもなるだろ。不必要な、いわゆる動きの邪魔をする筋肉を使っていないのだから、威力が大きくなる。そこで作り出した運動量を『伝達する』のにも、当然だが脱力ができてないとダメだ。体が硬いと鞭のようには動かないから、運動量の伝達効率が下がるだろ。脱力できてれば、大きな威力をそのままロスを小さく伝達して、大きく作用させることができるんだ」
シュウト:
「そうすると、脱力は二重の意味で重要なんですね」
ジン:
「この世界だと何倍も重要になってくるな」
ジン:
「話をまとめよう。運動量の伝達を阻害するものは、まず内部的なものがある。その大半は脱力できていないことが原因だ。ラフパワーも大きな原因になってくる。もう一つは恫喝も含めた外部的なものだ。逆の視点で、外部から運動量の伝達を上手に邪魔することが、防御テクニックの真髄だと言ってもいい」
石丸:
「だんだん話が戦闘に近づいて来ているっス」
ユフィリア:
「うん。でもわかったような、わからないような?」
ジン:
「頭でわからなくても、身体でわかってりゃいいのさ。頭でわかっても、身体がわかってなきゃ意味なんてないしな」
シュウト:
「……ちなみに、ジンさんの鋭撃や重撃は、ファストやストロングパワーのことなんですか?」
ジン:
「うんにゃ、あれは全然、別。ファストとストロングじゃ、合成して極撃に出来ないだろ」
シュウト:
「たしかに……」
講義は終わりのようで、その後はだんだんと雑談になっていった。
午後は引き続き雨の中を〈妖精の輪〉の調査である。シブヤの調査も一段落ついたようで、アクアとの別れの時間になった。
ユフィリア:
「いっちゃうの? 寂しいよ」
アクア:
「だったら、私と一緒にくれば?」
ユフィリア:
「みんなで一緒に行くとか、どう?」
ジン:
「ダメだ。俺たちは俺たちでやることがあるだろ」
アクア:
「また来るわ」
ジン:
「おう。サンキューな?」
アクア:
「フン。……そうだ。レイシン、次に来たときはコシャリをお願いね」
レイシン:
「了解。がんばって作ってみるよ」
アクア:
「それからニキータ、がんばりなさい」
ニキータ:
「ありがとう」
アクア:
「じゃあね」
あっさりと〈妖精の輪〉でどこかへと消えてしまった。心配しなくても、また会えるのだろう。どこかで誰かがピンチになれば。
こうして〈カトレヤ〉は、時を待たずして本格的な訓練とドラゴン戦とを開始することになるのであった。
主な参考文献
高岡英夫『鍛練の理論―東洋的修行法と科学的トレーニング』恵雅堂出版 (1989/01)
発売から20年が経過して古典になったかなぁ?というところですが、日本の科学的トレーニングにおいては外すことの出来ない名著であります。とはいえ知名度はゼロに近しく、一般的にはまともな認識の土台すらない状況が続いています。この程度の内容はありふれていて、陳腐化していなければならないのですが、……論外というヤツですね。