45 青の守護戦士
ジン:
「あ~、くっそ、ユフィリアがいればなぁ、どうすっかなぁ~」
シュウトが側を離れた途端に、ジンはブツブツと愚痴りを再開させた。段々と苛立ちを募らせていくアクアは、こういう時に全部聞こえてしまう己の身が呪わしい。
アクア:
「ブツブツとウルサイ。ちょっと情けなくない?」
ジン:
「イメージ中だぞ、邪魔すんなよ」
アクア:
「アナタ、ホントに最強の戦士なの?」
ジン:
「『最強です』なんて自己PRは履歴書にだって書いちゃいないぞ。強さなんてパラメーターでしかないし、常に相対的なもんだろ」
アクア:
「フン。どっちにしても、単に死ぬのが怖いだけなのよね」
ジン:
「ハッ、ばっかじゃねーの? 死ぬのが怖くないのがなんの自慢になるんだよ。死ねば勇気があるってか? そんなもん、単によえーヤツの開き直りだろうがよ」
アクア:
「アナタがブツブツ言わなければ、私はなんでもいいのよ!」
高台から下りた3人は、なるべく村から外れた場所で戦闘を開始するつもりでいた。シュウトだけは先行させ、背後から攻撃できるように準備させておく。敵の戦闘圏内に入ると、相手を引き寄せる効果になってしまう場合もあるが、いちいち指示しなくてもシュウトなら巧くやるだろうという程度には、能力的に信頼している。
エリオ:
「お主達、何をしているでござるか? ここにいると危ないでござる!」
村の前で仁王立ちしているオリエンタル・スタイルの戦士が警告を発してきた。しっとりと落ち着いた色合いをしたオレンジの防具を身に纏い、腰には見事な拵えの刀を二振り。黒人ではないという程度に浅黒い肌は、この地域の住民の基本的な顔立ちを反映しているのだろう。誠実そうな青年である。アクアがステータスで確認した名前はエリオ。レベル90の〈武士〉だ。
エリオの存在をまるっきり気にしていないジンは、自分の話を一方的に続けていた。アクアの基準に照らせば、これは単なる現実逃避でしかない。
エリオ:
「お主達たち、聞いているでござるか!?」
ジン:
「高度な成功は失敗のそばにある。 限界を広げるために無茶やったり、失敗したりは必要なことだ。それは俺だって大好きだけどさ、だからって死ぬのだけは良くねぇよ」
エリオ:
「危ないとさっきから言ってるでござる!」
ジン:
「話してんだよ!邪魔すんなよ!」
アクア:
「聞こえてるわよ!しつこいわね!」
エリオ:
「無視は良くないでござる……」
ジン:
「だいたい、この世界だと痛覚が鈍すぎて判断材料にならないんだぜ? 死ぬギリギリでも体は平気で動き続けるから、残りHPを知る助けにもならない。死ぬまで気が付かないってことに成りかねないんだ」
アクア:
「それで?」
ジン:
「だからだ。この世界では、痛み以外のものからより多くを学ばなければならないんだよ。わかんだろ?」
二人はエリオを無視し、そのままベヒモスがやって来る方向へと近付いていった。なんとなく放置することもできない雰囲気で、そのまま後をついて来るエリオであった。
ジン:
「たぶん、この世界の死は『呆気ないもの』だろうよ。別に何回か死んだって、どうってことはないんだろうぜ。俺はそれが嫌なんだよ。それなら、死ぬことに怯えていた方が何倍かマシってもんだろ」
アクア:
「死んだことないんじゃ説得力に欠けるんじゃない?」
ジン:
「おい、そこのゴザル」
エリオ:
「せ、拙者のことでござるか?」
ジン:
「おまえ以外にいるかよ。どうせアレだろ? 村の前で死んで見せて、『ブシドーとは死ぬこととみつけたり!でゴザル』とかいうつもりだったんだろ?」
エリオ:
「……それは、その」
アクア:
「あっきれた。図星なわけ?」
エリオ:
「よいのでござる!それが武士道でござる。ロマンでござる!」
ジン:
「外人さんの武士道『あるある』ってか。おにーさん悲しくなっちゃうねー」
エリオ:
「……失礼でござるが、もしや日本の方でござるか?」
ジン:
「おうよ、なんか知らんけど巻き込まれてここにいんぜ。といっても、もはや武士も忍者もいなくなっちまって、サムライの魂は失われた国の出ですが、何か?」
アクア:
「卑屈なのに偉そうね」
ジン:
「ともかく、安易に死んでるだけの癖に『俺は死ぬのなんて怖くない、だから強い』みたいなことを言いだす勘違いしたガキが出てきちまうんだよ。その挙げ句、『一度も死んだことのない戦士は一人前じゃない』とか言い出すのがパターンですよ? ちゃんちゃらおかしいねっ。そういうのを負け犬根性ってんだ!」
アクア:
「貴方、誰と戦ってるのよ? でもまぁ、そっちの意見にだって一理あるかもしれないじゃない」
ジン:
「絶対に無い。死んだ悔しさを糧にするどころか、『勲章』にしちまう連中にセンスなんてあるわきゃねーっつの。『死が軽い』と一度でも実感しちまったら、命をゲームのリソースにし始めるだろう。頭の良いつもりの人間のバカさはこういうとこに出るんだ」
エリオ:
「ふむ……」
ジン:
「普段から命をリソースにしてたら、危険に対するセンスは絶対的に鈍る。現実では怪我ですぐに死んでしまうからこそ、一歩踏み込む方が難しいが、この世界では本当には死ねないから、踏ん張りを利かす方が難しくなるんだよ」
アクア:
「パーティ戦はそうかもしれないけど、レイドなら『ちゃんと死ねる仲間』もいないと統制が取れないでしょう? 生き残るためとかいって、勝手に逃げ出されたらかなわないわ」
ジン:
「それはどうかな? パーティやレイドを率いてるリーダーが、『死ぬのが平気』って感覚の野郎だったらどうなる? 死んでも大したことないんだから、ギリギリのところで生き残ろうとしなくなるに決まってんだよ。リーダーだけじゃない。死ぬのになれてるメンバーはちょっと歯応えがあると、途端に諦めムードが蔓延するようになる。『次で勝てばいい』『初見では誰だって勝てない』『準備が足りない』『今回は情報を集められればいい』ってな。……最後まで粘り強く勝ちを狙い続けるのは、『死ぬのが平気』だなんて言ってる奴らには無理だ。そんな奴について行きたいか? 俺はイヤだね。そんな連中にいざって時『負けられない戦い』を任せられるか? ありえねーだろ」
現実の戦闘であれば、先制攻撃が圧倒的に有利なのだ。なるべく五体が満足である内に、敵の戦闘力を先に削ぐ以外に方法はない。それに失敗した場合、被害が拡大する前に逃げるか、道連れの相打ちを狙うしかなくなる。ところが〈冒険者〉の体であれば、死ぬギリギリまでは体が動き続けることや、瞬間的な回復手段が複数存在していることで、粘り強く勝機を見出す戦い方も可能になっている。
アクア:
「そうよね~。 負ける前提で戦うのなんて論外だわ! だから今回もちゃんと勝つわよ!」
ジン:
「ぐぬぬ……」
エリオ:
「手厳しいでござる……」
言葉のブーメランを返して笑うアクアに、一本取られた形のジンであった。南米侍のエリオもついでに凹まされている。
エリオ:
「そも、おふた方は、どうやって勝つつもりでござるか?」
ジン:
「フルパワーでボッコボコにする」
アクア:
「そんなの適当に、よ」
エリオ:
「ムチャクチャでござる……」
ジン:
「なぁ、ゴザルの仲間にヒーラーとか居ないの? 大神殿のある街でもいいんだけど」
アクア:
「もうそんな時間ないわよ」
エリオ:
「確かに……」
地響きが話し声を邪魔するほどに強くなって来ている。距離はまだ100mはあるのだろうが、体に感じるプレッシャーはただごとではない。
巨体のベヒモスは、サイのような、カバのような、ゾウのような形をしていた。サーバーごとに微妙に造形が違うのだが、言ってしまえば、ベヒモスはベヒモスの形をしているというのが最も適切な表現だといえよう。
ここに現れたものは、1本角に加えて、口元にゾウのような牙が左右に生えているものだった。
ジン:
「よ~し、いい感じになってきた……」
アクアがおやっ?と思う。敵に近付くに連れて、段々とジンの態度に変化が出てきていた。(やっと覚悟を決めたのかしら?)と思う。ここに来て、肚が座り始めていた。
現状のジンは、望みうる範囲で最高の条件が整っていた。
敵が強ければ強いほど、ジンの戦闘能力は鋭く冴えていく。スポーツで言えば、周囲の応援や声援を自分のパワーにしたり、敵が強ければ強いほど燃えるといったタイプに近い。レイド×3もの強さを秘めたベヒモスの戦闘意気や潜在的な殺気の濃度は、ジンの活力を補強するものへと変換される。ベヒモスとの距離が近くなったため、自動的に恐怖は薄れ、闘志が生まれ始めていた。
また、シブヤに戻ろうとしていたことで1時間も掛けてゆるゆると走って身体を芯からあたためている。これで戦う前から、ベスト中のベストコンディションになっていた。
ここから、いつもよりも丁寧に意識を練り上げていく。
頭、胸、ヘソ下の3カ所に同時に丹田を入れ、それぞれに別々のクオリティを込める。絶対零度の如き時間を凍らせるほどの冷たさ、太陽フレアの如き超高温の光エネルギーの熱さ、地球の如き膨大な質量から生まれる重性のエネルギー。それらをピタリと正位置に収め、5重層の中心軸を入れていく。すかさず脱力を掛けて全てを融通無碍の自由さへと返す。入れていた意識をカラにして、呼吸によってそこに気を吸い入れた。
こうして作った意識を、全身の細胞活性への土台とする。この世界の〈冒険者〉のボディに、厳密な意味での『細胞』があるかどうかは分かっていない。しかし、人体の形式で物事を成立させている以上、最小単位を構成しているものが、物質なのか、情報なのかの違いは大きな意味を成さない。細胞に近い粒の単位を細胞意識として活性化させていくプロセスは、人間のそれと同一の処理が可能である。そうでなければ『人間が人間として動かない』からだ。
この細胞活性こそが、俗に『獣化』と呼ばれているものの本質である。怒りで本能を刺激するといったやり方はまったくの『手順』でしかない。細胞意識の活性化に限界は無いが、次第に獣性が高まっていくことになる。人間もまた、動物であることの証しとも言えよう。
全身が十分に活性化したところで、両手の掌を出し、胸の前で組んで印のようなものを作る。左手の親指を右手で軽く握るだけの簡単なものだ。それを騎士の剣に見立てて、裂帛の気合いと共に正面へと押し出せば、全身のエネルギーが中心軸へと集まり、やがて清廉な気配が周囲に満ちていくのである。獣から人へ。人間への進化を簡略化して儀式にしたものであった。
最後にフェイスガードを引き下ろす。この時点で、ジンは既にスイッチ化に成功していた。フェイスガードを意図的に下ろすことで自動的にオーバーライドが発動させるように作りこんでいたのだ。膨れ上がる気配が爆発して十倍以上になった。それらを纏め、更に引き上げて行く。
これがジンのオーバーライドの発動過程である。過剰にして多重の調律によって能力を引き上げる一連の儀式を『過重調律法』と呼ぶ。この手順を踏むと数十秒掛かってしまうため、普段はフェイスガードを引き下ろす行為をスイッチ化し、極めて短時間の内にオーバーライド化するようにしていた。
オーバーライドの実現は至難の業で、成立させたジン本人であっても練習時にはかなり失敗してしまう。ユフィリアのキスのような強い動機があるか、衛兵やベヒモスの様に敵が強いことで能力的に補強されなければ、巧く行かないことも多い。
ジンはこのオーバーライド状態から、疑似特技〈極意〉を発動させ、師範システムに介入し、レベルブーストを行う。師範システムからの直接的な介入で出力は増しているが、力としてはまだまだ軽い。ストレートにエネルギーを放出してしまうと、あっという間にガソリンが尽きてしまう。81レベルとしては出来すぎとは行っても、リソースの問題ばかりは、解決にはほど遠かった。
ジン:
「準備完了だ。始めようか」
目を奪われていたアクアとエリオが正気に戻る。ジンから放たれる強烈なプレッシャーは既にベヒモスとなんら遜色ないレベルにあった。放心中のエリオはともかく、アクアは愉悦を口元に滲ませると、傲然と宣言する。これは見事な胆力という他にない。
アクア:
「指揮は私が執るわ。貴方達は思う存分に戦いなさい。勝つわよ!」
剣をダラりと下げるジン。うなずくエリオ。
アクア:
「……戦闘、開始!!」
◆
アクアの宣言はシュウトにもハッキリと聞こえていた。大して大きな声というわけでも無いのだから、指向性音波か何かを使えるらしい。当然のように、この程度のことはこなせるということなのだろう。
開始の合図に従い、弓で攻撃をしかける。最初に〈アサシネイト〉を使いたいところだったが、HPの回復手段が限られるため、接近戦は行わない予定だった。
初撃が決まり、ベヒモスが雄叫びをあげる。『完全なる獣』が敵を認識したのだ。ベヒモスがシュウトの側に向き直ろうとする瞬間、眼の端に青い光が駆け抜けるのを見た。ジンの一撃目が入る。こうしてジンがターゲットを奪い返すのは予定通りだ。シュウトは一拍おいて次の攻撃を行うべく、油断しないように身を引き締める。
その瞬間、空が落ちて来た。
シュウト:
「なんっ、だっ!?」
攻撃かと思うほどの、全身を圧迫される衝撃の後に残ったのは、パワーが身体の底から漲ってくる充実感であった。
シュウト:
「これは、一体!?」
アクア:
「これが私の援護歌よ。ともかく、貴方は戦いなさい」
すぐ側に立って話しかけられているような奇妙な感覚に慣れることはできそうになかったが、それでもシュウトは素早くベヒモスとの戦いを再開させていった。
異様なスピードで身体が動き、特技に使用したMPがみるみる全快していく。一つ一つは確かに〈吟遊詩人〉の用いる『永続式援護歌』の効果ではあったが、掛かっている種類も多く、ひとつひとつが目を、耳をも疑うほどの効果を現していた。もはや、ちょっとした異常事態である。
アクアもまたオーバーライドの使い手であった。彼女は『音』に特化しており、聴き分け、発声、共振などの音楽的な能力を増幅・拡大させて操ることのできる天才であった。
個人戦闘力ではジンどころか、シュウトにも及ばないのだが、ひとたびレギオンレイドに加わったならば、彼女は全ての戦いで勝利を約束する『軍神の歌姫』となるのだ。
背後から攻撃しようとするシュウトに対して、ベヒモスからの攻撃が始まっていた。本人は予期していたことだったため、ダメージは最小限に抑えていた。
ヘイト自体はジンが一方的に集めているのだが、ベヒモスのサイズが大きすぎるため、ジンの仲間とみなされる範囲の外側で戦うことになってしまっているのが原因だ。
つまりベヒモスはシュウトを別のグループの邪魔な敵だと認識していることになる。
ベヒモスの攻撃は、その大半がAE化(エリアエフェクト化=範囲化)している。後ろ足で土砂を弾き飛ばす攻撃などは、避けるのがなかなかシビアになっている。
シュウトが弓で高いダメージを叩き出すには、敵の攻撃範囲に接近しなければならない。しかし、木の陰などに隠れたところで、飛んでくる土や石から守って貰えるわけではない。隠れた樹木ごとなぎ倒されてしまうためだ。ベヒモスの攻撃は、そのひとつひとつが環境破壊でもある。
それでもシュウトの見立ては、『背後からの攻撃を続行すべし』であった。側面よりも背後に対する攻撃の方が苛烈なのだ。これを逆に考えると、背面からのダメージが効果的であるからこそ、ベヒモスは防ごうとしているのだと思われる。
問題は、敵のベヒモスがシュウトの位置をかなり正確に把握しているらしいことだった。この巨体では背後が見えているはずがない。どうやら、ミニマップに近いものを使っているらしいとシュウトは考える。
シュウト:
(ならば……ッ)
ならば、気配を消せばいい。MPは幾らでも補充されるのだ。ここで可能なことをやり尽くしてやろうとシュウトは決意していた。
◆
エリオ:
「凄まじいでござる……」
先ほどから続くアクアの援護歌の異常な効力にもエリオは驚いていたが、ジンの戦士としての到達点にも驚嘆を禁じ得ない。
初手でダメージを加えて以降、ジンは慎重に探りを入れながら戦っていた。モンスターは攻撃側の振る舞いに対応して自分のパターンを変えることが大半である。一番分かり易いのは、HP残量の変化をトリガーとしたパターンの変化だろう。回復を始めたりするものもあれば、怒って大ダメージ攻撃を連発するパターンもある。それら大きな変化とは違い、ちょっとした立ち位置などでも微妙にモンスターの行動は変化する。モンスター側も、距離によって使う武器や技を変える必要があるのだ。
従って、ジンの戦力やスタイルから見て『戦いを有利にする立ち回り』を探って行くのは被ダメージを減らす観点からしても、重要な要素となってくる。特にベヒモスの攻撃は周囲を巻き込む範囲攻撃が大半で、通常であれば回避が不可能に見えるものばかりなのだ。
戦闘開始から一分と経たない内に『掴んだ』ようで、徐々に深く入り込み、ダメージを積み重ね始めていた。数秒ごとに青く光る斬撃が放たれ、ベヒモスの命を削り取っていく。
エリオ:
「むう、次の攻撃がどこか読めないでござる……」
エリオも遠距離から衝撃波を飛ばして攻撃を与えていた。幾つかの技を使えば、そこからは暫く再使用規制の解除を待つ間、ジンの観察をするつもりでいた。
◇
アクア:
(なるほどね……)
エリオの呟きを聴いていたアクアが、改めてジンを観察して納得していた。
数秒ごとに〈竜破斬〉を繰り出すジンは、その青く光るエフェクトと瞬間的な技後硬直によって止まって見えるため、見ている人間は自分がジンの動きを追えているつもりになってしまい易い。アクアも見えているつもりでいたのだ。
ところが、ジンが次にどこを攻撃するのか?ということを予測しようとすると、それが何処なのかはさっぱり分からないのである。(このミスリードは分身の効果に近い)エリオは何秒か見ただけでこの事に気付いたことになる。その戦闘センスは高く評価するべきものであった。
アクア:
(……分かった。非リズム運動なのよ)
音に関しては専門家であるアクアが、ジンの戦闘法の分かりにくさを独自の視点で解き明かしてみせていた。こちらもエリオに負けない慧眼の持ち主だった。
西洋の音楽は、五線譜と音符の登場によってリズム化がなされていった。楽譜によって音楽を完成させたのはベートーベンと言われているのだが、これらを総体的にみれば、世界規模での『デジタル化の潮流』と見て良いものになるだろう。現在のコンピューターもデジタル化の思考、技術体系の結晶のようなものと捉えることができる。
五線譜と音符という存在は、音楽を記録し、広めるために非常に強力な力があったわけだが、一方で失われたものも存在していた。それがメロディ的な感覚である。
たとえば、日本の芸事の大半は口伝えにて行われていた。それは何故かと言えば、メロディ型運動は、記述が出来なかったからである。長唄や清元節に合わせて踊る日本舞踊や歌舞伎などは、幼い時分より学ばなければ身に付かないと言われる。その理由は、習得にメロディ的な感覚を必要とすることが原因なのだ。リズム感を身に付けてから、これらの芸事を修めるのは並々ならぬセンスが要求されてしまう。
武道においても、『型』と呼ばれるものが登場しているのだが、これが五線譜や音符と同じ、武術のデジタル的側面に相当する。空手などで『型』を反復練習したから強くなれるかどうか?という議論が根強く行われるのは、デジタル化に対する生理的な嫌悪感や拒否感がその認識の背景に隠されているためなのだ。
このデジタル化は『技』という形をとってゲームにも入り込んで来ている。全ては滑らかに連続しているものなのに、〈特技〉などの形で区切ろうとしてしまっている。モーションや技後硬直などは全て、連続する一連の流れの中にある一部を、『技』として切り離して強調するという目的が隠されている。
これらは認識の根幹に関わる概念的な問題であり、原因になっているものでもあった。
デジタル化、記号化の流れは、リズム型運動との親和性が高すぎる。現代人はリズムに浸りきっているため、メロディに対する感覚をほぼ失ってしまっている。例えば、ゲーマーとしてその能力が高ければ高いほど、ジンの動きを捕らえられなくなる現象が生まれてしまうのである。
どんなに複雑なリズムであろうと、変則的なリズムであろうと、リズム運動ならば優秀なプレイヤーはきっちり対応してくる。……ところが、メロディ運動になった途端にその動きが追えなくなってしまう。
動作を認識するベースとして、リズム感が強固に根付いてしまっているため、ジンの動きを認識しようとすると、リズムとして『分かる部分』を探してリズム化して認識し、分からない部分は自ら盲点に入れてしまうことになる。
◇
現在のジンは、音声思考を身体の外に押し出してしまっていた。
音は遅い。がんばっても音速が限界であり、言葉ともなると一音ずつ順番に並べないと意味をなさない性質まである。これは1秒の何分の1以下の世界で戦っているジンにとっては、まるで使い物にならないほどの遅さになってしまう。何かを考えたい場合は、自分で喋って、それを聞いて間に合うものだけに限定させなければならない。身体の中は意識でいっぱいであり、音声思考に使う余裕はない。
伝達に光を使う視覚認識すら、遅すぎて役に立たないのである。ベヒモスの動く予兆をダイレクトに感知しないと回避など間に合う訳がない。いわゆる『先の先』や『後の先』と呼ばれているものを使って回避行動を高速化しなければならないのだ。悠長に動き始めるのを見てから回避するような贅沢は許されていない。
運動とは、『 意識の発生 → 気の活性化 → 動作 』の順で起こっている現象である。神経生理学的には、電気的な信号による刺激によって筋肉が動作しているのだが、その電気的な信号を発生させる何かはこれらの仕組みのどこかと関連していると考えられる。
ここで重要なのは、一般的に人間が自覚出来るのは『気』の部分からだ、ということである。
『先の先』の場合は、『意識の発生』を感知して対処するため、相手が動こうと思う『気の活性』が起こる前にこちらが動くことを意味する。気が活性する前であるため、本人にすれば「動こうと思っていなかった」と感じてしまい易い。この現象を『先の先』と呼ぶ。たいてい相手も武道を嗜むことで、動作の起こりを消そうとする意識が働くため、動こうとする強い気持ちを働かせていないことが、この認識の齟齬の一因となっている。
『後の先』であれば、『気の活性』を感知して、相手が動く前に対処することを言う。こちらであれば、相手も「動こうと思った」と感じることにはなるのだが、時間的な猶予はかなり小さくなってしまう。
視覚情報優位で対処しようとすれば、当然、意識や気を感知しようとはしなくなる。現実には意識や気はその存在を疑われている段階にあるため、人間がそれら存在の疑わしいものを感知できるかどうかは科学的な証明が難しく、疎かにされている分野でもある。
武道家たちでさえ、気の感知は実際に経験していても、その前段の意識の発生を感知する事は訓練の対象化さえされていない。(これは意識と気を混同していることも原因になっている)
ジンに意識を集中していたアクアは、もう一つ気が付いていたことがあった。その呼吸数の少なさである。かなり激しい戦闘を繰り広げているのにも関わらず、ほとんど安静時に近いペースで吸ったり吐いたりしているのだ。しかし、その意味までは理解できずスルーしてしまっていた。
これは『高密度呼吸法』とジンが命名したもので、深呼吸ならぬ神呼吸とでも言っておけば分かり易くなるだろう。
一般に呼吸法といえば、腹式の丹田呼吸法が有名だが、逆にいえばそれぐらいしか無かったりする。呼吸法の問題点は、その目的がハッキリしていないことにあるのだ。『高密度呼吸法』は、この呼吸法の目玉(の一つ)として考えられるものである。
簡単に言えば、密度の高い、濃い空気を吸うことで、ガス交換効率が非常に高まるという内容になる。これは長息呼吸の応用形として説明される。
長息呼吸法というものは、上達することによって、1呼吸が5分以上になるものを言う。極めると1呼吸が1時間にも達すると言われているのだが、この長息呼吸に何の意味があるか?といえば、実のところ『自慢できる』ぐらいの意味しかない。
構成要件としては、『代謝の減少』が主目的であり、『ガス交換効率の強化』が副次的に語られる程度だ。ロングブレスは安静の状態で、代謝を減少させることで長時間の呼吸を実現するものである。
これを応用できるものといえば、海女が海に潜って活動することや、フリーダイビング競技などの『潜水』になってしまう。これらの具体的な種目では、主に代謝の減少によって活動時間を高めることを目的としている。酸素使用量を減少させる運動法を習得する方向へ能力を高めてゆくのである。
これに対して、ジンの高密度呼吸法は、息苦しいと感じるほど高密度な呼吸をすることで、『ガス交換効率』を高めることを主眼とする。代謝を減少させることは、激しい戦闘中には動きを制限してしまい、あまり価値がないのだ。結果、心臓は血液中のガスを交換しようと激しく動き続けるが、呼吸数は少ないままにすることが出来た。
人間が呼吸する場合、1呼吸あたりの酸素交換はそれほど巧く行われてはいない。吐き出した息にはまだ多量の酸素が含まれているのである。激しい運動を行えば、酸素循環を必要とするために呼吸数は増加するが、実際にはその呼吸効率は特に良くなっているわけではないのだ。
だからといって、ジンの周囲にだけ特別に酸素濃度の高い空気が漂っているわけではないし、口をすぼめるなどすれば酸素量を増やした空気だけを取り込むことなどが可能になったりもしない。答えは、肺やその中にある肺胞の機能を活性化し、酸素交換効率を高めることで、酸素濃度や呼吸密度が高まっているように感じる、というものであった。
〈冒険者〉の身体は循環系の効率が人間を大きく上回ってはいるが、呼吸運動そのものは人間を基準としているし、簡単に息も荒くなる。ジンのようにオーバーライドを用いて体を酷使する際には、高密度呼吸法は必須の能力であった。
ちなみに、アクアも別の意味で呼吸能力が高い。彼女の場合は特に肺活量であったり、音を体内で響かせる能力がメインで駆使されている。
ジンはわずかな予兆を察知して、右足の前から左足側へと移動していった。リズム的には予兆などない、唐突の大変化である。そうしてベヒモスの攻撃を回避しながら、毎秒〈竜破斬〉を無理して使って行く。ブーストしていない〈竜破斬〉の合間に、ブーストされた一撃を加えていく。2.5秒に一度ブーストするのが今の限界であったが、毎秒となると自然と3秒ペースにならざるを得ない。それどころか4秒ペースにまで落ちてしまいそうだった。リソースが足りないのだ。あまり無理するとリソースが足りずにオーバーライド自体が止まってしまう。オーバーライドなしでべヒモスと戦えば、何秒と持たずに殺されてしまうことになる。
ジンの自意識では、自分はまだまだ弱すぎると考えていた。
胸に輝く意識光のフレアがズレそうだった。正位置にとどめておかなければ、途端にエネルギーは空回りしてしまう。思考が言葉になる手前の、雲の状態のまま、閃きのような形でチェックを行っていく。本人の意識はひたすら(死ぬように)と念じている。
言ってしまえば、戦っているのは上位戦闘モード『荒神』であって、ジンの自意識は身にゆだね切っているだけなのだ。ジンが同時に処理している要素が幾つなのか、本人にすら把握しきれていない。最適・最効率の運動を自意識で行うことなど、人間にはそもそも不可能なのだ。しかもオーバーライドの力は大きすぎるため、簡単に振り回され、空回りしてしまう。例えると、一歩、地面に触れる足の力加減を間違うと、途端にジャンプしてしまうようなものである。(この意味では人間も運動の大半を自動的に処理していることが分かるだろう)
この段階では〈特技〉使用すら全て自動的にモーション入力で行っている。これが可能であるから、上位の戦闘モードと呼ぶのだ。脳内からジンが自分でアイコン入力などしていたら、なに一つとして間に合いはしない。オーバーライド状態での戦闘を支えているのは、『荒神』というインターフェイスであり、これがジンの自意識をショートカットして、ダイレクトに身体をメタ制御している。
『荒神』の行動は目的にそって戦術的に行われているため、なんの不都合もない。ジンは普段の修練によって『荒神』をより高い段階へと導いているのだ。今も〈フローティング・スタンス〉の起動から、覚えたばかりのスライドステップ技『ムーンウォーク』が始まっている。瞬時にその姿がかき消え『縮地』からブーストされた〈竜破斬〉がベヒモスを大きく傷付けていた。……まるで教育型のコンピューターに戦い方をプログラムしていくような趣きであった。
毎秒の様に輝く青い光のエフェクトが発生し、ジンの鎧を照らして青く染め抜く。一瞬の技後硬直による残像が脳内にイメージとして刻まれ、それらを一つの言葉、概念へと押し上げていく。
――『青の守護戦士』
◇
アクア:
「美しいブルーだわ……」
自らの音にのみ共振するはずの身体や細胞が泡立ち、ゾクゾクと震えていた。
戦闘開始から約5分ほどで、ベヒモスの体力は半減していた。ほぼジンが1人で行ったと言ってよい。単体戦闘力がダブルレイドランクあるということは、パーティモンスターを倒す気楽さ・速度で、対軍モンスターのHPを削れるという意味なのだ。
ジン:
「これならそう時間は掛からないな……アクア! シュウトにEXPポッドを飲むように言ってくれ」
ジンは一息つくように戦闘のペースを落としていたが、ヘイトは一方的に集めているため、ベヒモスからの攻撃は休まることがない。
アクア:
「いいけど……それって余ってないの?」
ジン:
「あるぞ、やろうか?」
アクア:
「ひとつお願い。私も日本に寄って、レベル上限が解放されているはずだから」
ジン:
「やはり、そうか……」
海外サーバーでは、〈ノウアスフィアの開墾〉は適用されていないのだと分かったことになる。これで現実世界に帰還する鍵は日本が握っている可能性が高いと、確認できたことになる。
ジン:
「あれっ? ない、ない。うおっ、やべっ!」
『荒神』でマジックバッグからアイテムをサッと取り出すことまでは出来ず、もぞもぞと漁る羽目になっていた。ベヒモスが首を振ると、牙が周囲を大きく薙ぎ払うことになる。ギリギリのところで躱しはしたが、現実世界であったら、バッグから荷物が飛び出して散乱していたはずで、大惨事になるところだった。
アクア:
「……大丈夫なの?」
ジン:
「シュウトから貰った方が簡単かも?っと、あった。ホイっ」
アクア:
「ちょっと、投げないでよ!」
受け取ると素早く飲み干すアクアであった。ジンは回復薬を使っていた。
ジン:
「よし、もうひと踏ん張りっ!」
アクア:
「ねぇ、自分は飲まなくていいわけ?」
ジン:
「7レベル上の敵を、4人で相手してんだぞ? 軽く2つはレベルあがるだろ。それで十分っ!」
再び攻めようとしたところで、ベヒモスの動きに変化が現れていた。動きを止めると、叫び声を上げ始める。
ジン:
「なんだ? 何事だ?」
アクア:
「まさか、仲間を呼ぼうってんじゃないでしょうね?」
最悪の想像に戦慄が走る。同じサイズのものが1頭でも追加されれば勝ち目なんて簡単になくなってしまう。
エリオ:
「これは、……体力の回復でござる!」
ジン:
「助かっ、てねぇ! 回復が早い!」
アクア:
「エリオも攻撃に参加! 威力の高い技をお見舞いしてやりなさい!」
エリオ:
「承知!」
動作を停止して脈動回復を始めたベヒモスに対し、両手にそれぞれ刀を構えたエリオが向かっていくのであった。
対ベヒモス戦はもう少し続きます。
次こそはシュウトのターンでする<(_ _)>