34 ターニング・ポイント
石丸:
「ジンさんが戻ってこないっスね」
ニキータ:
「そうね」
シュウト:
「食事をしないなんて普段のジンさんじゃ考えられないんだけど」
ユフィリア:
「…………」
食事が終わってもジンが戻ってこない。心配しているというよりは、対処に困ってしまう状態だった。1人でもたぶん危険はないし、1人になりたいのであれば放っておくのが優しさかもしれず。シュウトは戻ってくるまで待っていればいいという方に心が傾いていた。
レイシン:
「おまたせ」
シュウト:
「レイシンさん、実はジンさんが……」
レイシン:
「うん。わかってるから」
食事の片付けが終わったらしいレイシンが天幕に戻って来る。相談しようとしたシュウトを遮ると、荷物から何やら包みを取り出している。
レイシン:
「ユフィさん。悪いんだけど、これを届けてもらえるかな?」
ユフィリア:
「えっと、中は何ですか?」
レイシン:
「お弁当だよ。おなかをすかしていると思うからね」
ユフィリア:
(こくり)
ジンの居場所か分かるのはミニマップ持ちのユフィリアだけなので、彼女に頼むことになるのだろう。すこしは大人の配慮らしきものもあるのかもしれない。ユフィリアが素直に頷いているのがシュウトには意外だった。
ユフィリア:
「行ってきます」
レイシン:
「よろしくね」
石丸:
「いってらっしゃいっス」
ニキータは軽く手で挨拶を送る。ユフィリアが天幕から出て行ってしまうと、シュウトの方に向き直って無茶な要求を始めた。
ニキータ:
「じゃあ、尾行して様子を見てきて」
シュウト:
「えぇ? いや、それって何かマズくないかな? 仲間の尾行って……」
ニキータ:
「私達だと気付かれちゃうでしょ? ここはシュウトしかいないのよ」
シュウト:
「だからって、気付かれたら後でどうなることか」
ジンとは別の意味で怒らせると恐ろしい相手だった。女性はどこまでやるか分からない部分が恐ろしい。
ニキータ:
「ユフィとジンさんは仲たがいみたいな状態なのよ? 気にならないの?」
シュウト:
「そりゃ気にはなるけど、僕がついていったからって何ができるわけでもないんだし」
ニキータ:
「シュウトが居るだけでも違うから。それとユフィに何かあったら助けてあげて」
シュウト:
「何かって、何?」
ニキータ:
「何か、よ」
義兄弟ならぬ、義姉妹の契りか何かは知らないが、少々過保護な姉貴役にせっつかれ、半ば無理矢理に天幕から追い出される。ユフィリアを心配してくれないのか?などと問われれば、言い返せる言葉の持ち合わせもない。ニキータが何の心配をしているのかは何となくわかったが、その手のシーンに居合わせたりした時の居心地の悪さを想像すると、そこにあるのが決して渡ってはいけない川であっても渡りたくなってしまうかもしれない。はたして手持ちの金貨は六文銭の代わりに使えるのであろうか?
シュウト:
(本当に、なんでこんなことをしているんだろう……?)
律儀にユフィリアの尾行をしてしまう。残念ながらシュウトの思考回路には『ブッチして適当なところで時間を潰しておく』といった考え方はない。生来の生真面目な性格ゆえ、頼み事をされると、なるべくちゃんとこなす方向に流されてしまうのだ。
相手はミニマップ持ちなので、特技の再使用規制時間などを考慮しながら、見失わない程度に距離をとって追いかけて行く。ジン相手では長時間の追跡行は厳しいのだが、ユフィリアが相手ならまだ誤魔化しようもある。
木立の中、坂道をユフィリアは楽々と登っていく。しばらくすると中腹の開けた場所に出た。その中心部に毛布を敷いたジンが寝そべっているのを発見する。彼女は変わらない調子で近付いて行った。シュウトは視力強化・聴力強化のアイテムを用意しながら、付近で隠れ易く、観察できそうなポジションを探すことにしていた。
鎧姿のまま、寝そべって目を瞑っていたジンの頭側にユフィリアが立つ。ヘルムは脇に置いてあるため、横になってはいても、表情が見えなくもない。
ジン:
「よっ」
ユフィリア:
「うん」
目を開け、普段と同じ挨拶をするジン。立ったまま返事を返すユフィリア。しばらくそのまま二人は無言だった。
唐突に、ゆったりめのボーダーチュニックを軽く持ち上げて、デニムのホットパンツを見せる。その裾にはレースがあしらわれていた。
ユフィリア:
「どう? 可愛いでしょ」
ジン:
「ああ。…………魅力的なフトモモだな」
ユフィリア:
「もぅ~、服を見ようよ!」
むくれるような言葉遣いだったが、笑顔の雰囲気が入り混じっていた。機嫌は悪くないらしい。
ジン:
「で、その手に持っているのは何かな?」
ユフィリア:
「んーと、レイシンさんからお弁当なんだけど」
ジン:
「さすが気が利くなぁ。サンキュ?」
ユフィリア:
「…………」
笑顔で手を伸ばすジン。黙殺するユフィリア。
ジン:
「あれ? いや、どしたの?」
ユフィリア:
「んー、今日のお洋服って、ジンさん的にどうかな?」 にこっ
ジン:
「…………もちろん、最高に可愛いです」 びしっ
ユフィリア:
「えへへ、そうでしょ~?」
身体を起こし、かしこまって弁当を受け取るジン。ユフィリアも毛布の上に座り、洋服のことをいろいろと話していた。ジンは食べながら話を聞いているようでたまに頷いている。
ユフィリア:
「でね、すっごく綺麗なレースだねって言ってたらくれるってことになって」
ジン:
「じゃあ、それが?」
ユフィリア:
「そう。お願いしてホットパンツの裾に縫ってもらったの。一緒にこのトップスの裾をナナメにカットしてもらって、そうするとこのレースが見えるでしょ?」
ジン:
「チラ見せか。ふーん、洋服の改造とかしてんだなぁ」
ユフィリア:
「アイテムが少ないからやり繰りしなきゃだし」
ジン:
「…………それって、もしかしてお金の問題?」
ユフィリア:
「ううん。種類の方」
なんとなく興味をそそられた様子のジンがいくつか質問を加えていく。
結論的には、普段着のアイテム数はそんなに多くないということだった。いろいろな種類はあるが、バリエーションは少ないのだろう。ローマ風のトーガはあっても、普段着で欲しいブラウスがあったり無かったりするようだ。
当然、今年のファスト・ファッション・アイテムがメニュー作成できるハズもない。ゲーム時代においてもキャラクターの外見に装備品を反映させるためには(ポリゴンなどで)データを作成し、拡張パックを導入した際に使用可能にするという手順が必要となるためだ。
最新の拡張パック〈ノウアスフィアの開墾〉で追加されているかもしれないメニュー作成アイテムは、どこかでクエストを行うなどして、まずレシピを見つけなければならない。〈妖精の輪〉の都合などによってそちらの進展はあまり見られていないことから、必然的に前回の拡張パックのメニュー作成アイテムが現状では最新のものとなる。……つまり、前回の拡張パックという時点で3年以上昔の話となり、しかもデータ作成に掛かる時間から、流行のアイテムなどは4~5年前に一般的に広く認知されていたものが春モノ・夏モノ・秋モノ・冬モノと何点かずつ同時に増えていくことになるのだ。
〈エルダー・テイル〉には20年の歴史があるためにかなりの点数の被服アイテムがあるとはいっても、これでは服装にうるさい子たちのニーズとはマッチしにくい。
元からファンタジー系の戦闘ゲームであるため、防具としての『布鎧』の方が重要視されるのが普通であって、街中で着る普段着の必要性はそこまで高くない。最新の布鎧の強さやデザインがより多くのプレイヤー達の興味の中心に来ることになるため、低レベル防具などとして再現される街着・普段着の需要は趣味のラインを越えることはなかった。
ところが、現在ではこの世界に囚われたことによって『街で過ごす時間』が意識されるようになって来ている。ゲームであればログインしてさっさと冒険に出かけていたプレイヤー達が、ログアウトできないことによって生活着のようなものが必要になってしまうからだ。鎧で寝たり、くつろぐのは中々難しいため、柔らかな素材の寝間着などが欲しくなるのは自然の成り行きであろう。
現時点では新しいアイテム作成法によってある程度まで自由に洋服を作ることが出来るようになっているのだが、そこではまた別の問題が発生することになる。自分達でデザインしなければならないことと、全てをハンドメイドしなければならない点であった。前者は正解の保証が得られないこと、後者は大量生産が難しいことを、まず最初に意味することになる。
ジン:
「じゃあ、流行の服みたいなのは無いわけか?」
ユフィリア:
「んっと、あたらしい作り方だと手作りになっちゃうでしょ?」
ジン:
「ああ、数が出ないわけね」
ユフィリア:
「ちょっといいかもって思う服だとマーケットで早いもの勝ちになっちゃうし。 だからって張り付いているわけにもいかないから」
ジン:
「シブヤだとその辺でも不利だな……」
ユフィリア:
「大丈夫だよ、全然?」
少しすまなそうな顔のジンに笑顔で応える。
洋服などのアイテムを作るとそれぞれの作者がマーケットに流すことになる。センスも技術も持っている作り手は相対的に少ないことから、どうしても人気は集中することになる。しかし、それが流行を作るか?というと、商品としての絶対数が少なすぎることで流行というほどのブームは生まれない。ファッション雑誌などのメディア戦略うんぬん以前に、マーケットで人気の商品を大手の生産ギルドが作るような展開にならなければ、この世界独自の流行は生まれようがないものだった。
既製のアイテムもダメ、新しいアイテムもダメとなると、ユフィリアたちのようにファッションに関心を持つ女子は第三の道を模索することになる。その一つが『改造によるアレンジ』であった。といっても、改造するにも洋服を扱うためのスキルは必要になる。布を自分の好みのサイズにカットしてもそれはダメージとして認識されてしまい、時間が経てば元に戻ってしまうからだ。スキルを持っているプレイヤーが『折り返して縫い止める』などの処理を行うことで、新しい洋服として形成されている部分があった。
ユフィリア:
「首を長く見せる効果があるから、ニナはもうちょっとデコルテを開けたほうがいいっていつも言ってるんだけどね」
ジン:
「悪い、そのデコルテって何だ? オデコじゃないのは分かるんだが……」
ユフィリア:
「この辺のことだよ?」
ジン:
「ああ、胸元? 鎖骨まわりか。わっけわかんねーな」
ユフィリア:
「わたしだって、いつもそうなんだよ? ジンさんはいつも良く分からないこと言ってばっかりいるよね」
ジン:
「……なに、これってリベンジなん? だけどゲーム関連用語とかは知っとかないとまずいだろ」
ユフィリア:
「マンガとかアニメの話だっていっぱいしてるよ?」
ジン:
「ああ、そうでしたっけね(苦笑)」
ニキータの場合、デコルテを開いてしまうと胸元に視線を集め易くなる。このことを嫌っているらしく、鎧などでも胸を小さくみせる効果のあるものを選ぶ傾向があった。現在の男装ファッションもこれらを勘案した結果である。
現実世界でのニキータは『小さくみせるブラ(※)』系商品の愛好者であった。大きなバストには胸板が厚く見えたり、洋服のラインがすっきりと見えないなどの事情がある。一部の女性達は巨乳にコンプレックスを抱くこともあって、男性からはなかなか理解できないのだが、意図的に着ヤセさせるブラジャーには需要が存在していた。……これは残念ながらエルダー・テイルには同様の下着類は存在していない。そもそも下着自体がなかったため、現在のアキバでは下着そのもののブームが起こっているような段階だった。
一方のユフィリアはというと、フェミニンなものが似合い過ぎることから、「お前はそれ以上、まだモテたいのか?」といった同性からのツッコミを回避する意図もあって、デニム素材のものを使うなどしてスポーティな感じに見せていることが多い。元気な彼女のイメージとも似合っているため、フェミニン全開な白ワンピースでも上にデニムやミリタリーなジャケットを足すことで、可愛く成り過ぎないように工夫していたりする。そのことによって更に男子が話し掛け易い雰囲気になっていたりもするのだが、本人からすればご愛嬌ということなのだろう。
(※ 実在の商品です。ワコールから2010年4月頃に発売開始しています。作中は2018年の設定ですので、ニキータの場合で言えば、高校生時代に存在していたことになります。)
ジン:
「洋服に気を使っている割りに、鎧だのはいい加減な組み合わせじゃないか?」
ユフィリア:
「んー、貰い物だから使わないのは悪いだとかが色々あって。性能も良いみたいだったし」
ジン:
「…………あー、ミツグくんが沢山いらっしゃるようで、何よりです」
ユフィリア:
「ちがうの! あんまり違わないけど、違うの!」
ジン:
「いや、いいんじゃないスか? 別に」
ユフィリア:
「ムカつく」
ユフィリア達は以前に仕事の報酬を「ちょっと良い装備で支払う」というので受け取ったことがあった。それがどこで間違ったのか、裏で「俺のプレゼントした装備を使っている」といった自慢話みたいな誤解をされることになってしまった。それを切っ掛けにプレゼント競争が発生し、断りきれずに受け取るしかないような状況になったことがあった。
ゲーム男子の悪意の少なさはユフィリアにとっても救いではあったのだが、いかんせん悪意が無さすぎた。その大半が性的な見返りを要求しない親切心からの贈り物でもあったので、断るに断れない。ユフィリアよりも周囲への見栄のためであったり、年齢の上下もあるので、ウブであるが故に受け取らないと傷付いてしまう相手などもいた。そうして断りきれない人が1人いるだけで話がややこしくなり、全てをありがたく頂戴することになってしまったのだった。それ以降はニキータがお断りするようにしているのだが、装備品はその時の名残もあってそのまま使っていた。
〈大災害〉の直後の失望・絶望からすれば、ユフィリアの存在が周囲の人々に勇気などの感情を与えていたことも大きい。奥伝の巻物や装備品などのアイテムは所詮は『ゲームの中のもの』でしかない。ユフィリアを切っ掛けとして得られた「生きる意思」のようなものに比べてしまえば、その価値はなんでも無いものでしかなかったのだ。贈り物をする『純粋な喜び』を損なう様なことは、この当時はしてはならないことでもあった。
実は女の子からは「自分の作った洋服を着て欲しい」といったオファーが今でもあったりするのだが、ユフィリア達はこのタイミングで〈カトレヤ〉のギルド員になってシブヤに活動拠点を移していた。ユフィリアとニキータは究極的にはこれらのオファーを受ければ洋服に困らなくすることも可能かもしれない。しかし、それは自分たちを利用しようとする意図が強い提案でもあった。これに乗ってしまいファッションのオーソリティーになってしまうには、ユフィリアと2人きりという立場は弱く、不安定でもあったことから、ニキータは慎重に振舞っていたのだ。
こうして、気付くといつも通りの調子で話ていた。シュウトはもっと気まずい展開になるとばかり思っていたのだが、2人とも水に流してしまっているようだ。
ジン:
「うん、ごちそうさまでした。まんぞく」
ユフィリア:
「ね、ジンさんってココで何をしてたの?」
ジン:
「それを聞くからには、やはり膝枕をしていただきませんと」
ユフィリア:
「……私、ジンさんの彼女とかじゃなけど、そのぐらいならいいよ」
ジン:
「あ、縦だからな、縦」
ユフィリア:
「縦って、こう?」
ジン:
「そうそう。縦こそが本式ですよ。花の慶次ですよ」
ユフィリア:
「やっぱり、よく分からないこと言うよね?」
ユフィリアの膝側に身体を横たえ、ジンはその脚に頭を乗せた。なんとなく手持ち無沙汰なのか、彼女はジンの髪の毛をいじったりしている。しばらくしてからジンが切り出していた。
ジン:
「……帰るべきかどうかを考えてた」
ユフィリア:
「……そう、なんだ?」
ジンの真面目な様子に対して、ユフィリアは意外そうな口調での返事だった。
ジン:
「ああ。もうここで出来ることって、あんまり残っていないからな」
ユフィリア:
「そっか……」
ジン:
「ごめんな?」
ユフィリア:
「何が?」
ジン:
「んー、リーダーが悩んでたら、何していいのか、どうしていいかわかんなくなっちまうだろ?」
ユフィリア:
「そんなの、全然よかったのに」
ジン:
「そういうわけにもいかないんだよ」
疲れで薄くなった笑顔を見せるジンであった。いつも自信満々であっただけに、少しばかり弱そうな部分を見せられると反応に困ってしまう。
ユフィリア:
「じゃあ、帰るんだ?」
ジン:
「そうなるかな。もうさっちんにしてやれることも無いし……」チラッ
ユフィリア:
「…………そんなの引っ掛からないよ?」
ジン:
「ちぇ、可愛げねーの。ヤキモチ焼くフリぐらいしろよ」
ユフィリア:
「あははは」
ジン:
「後はそうだ、料理少年の仕上がり具合を見て決めるぐらいかなぁ」
ユフィリア:
「ラビくん、上手になって来てるよね」
ジン:
「師匠が鬼だからな」
ユフィリア:
「そんなこと言って、仲良しなのに」
ひとしきり笑うと、会話が途切れる。夏の日差しが段々と強まって来ていたが、風も吹いていて、それほど暑さを感じなかった。風に乱れる髪を、ユフィリアが背中側に流している。
ユフィリア:
「良い場所だね」
ジン:
「ああ。開けてる場所だから、中央付近にいれば襲われても戦いやすい」
ユフィリア:
「そうじゃなくて、ちょっと公園っぽいでしょ?」
ジン:
「そうか? この世界なんて、どこもかしこも自然だらけだろ」
ユフィリア:
「ジンさん、いじわる」
ジン:
「ははは。確かに、こういうのは理想のデートに近いけどな」
ユフィリア:
「ふーん、ジンさんの理想のデートって、どんなの?」
ジン:
「公園かなんかで、好きな女と毛布の上に転がってのんびり、みたいのだな。まぁ、もうちょっと日差しが柔らかくて、涼しい方が気持ちいいだろうけど」
ユフィリア:
「うん。いいね、そういうの」
ジン:
「だろ?」
ユフィリア:
「いつか、みんなで行こうね?」
ジン:
「いつか?……現実に戻ってからってことか?」
ユフィリア:
「うん。みんなでハイキングとか、バーベキューとかもいいよね?」
ジン:
「今だってさんざんやってるだろ? 冒険に出たら毎回バーベキューみたいなもんなんだし」
ユフィリア:
「だから、現実に戻ってからもやりたいなって……」
ジン:
「それも悪くない、か。全てが終わって、いい思い出になっていたら。だけど……」
ユフィリア:
「…………」
ジン:
「みんなとじゃなくて、2人で行かないか?」
ユフィリア:
「…………」
目には見えない境目を越えてしまったかのようだった。昼と夜の境目のような分かり易いものではなく、朝と昼の真ん中に境があるかのような、あるか無きかのもの。空の青色が地上に近付くに連れて自然と白さを帯びていくように、空のどこかに目に見えないが青から白へと決定的に変わっていく場所があるはずなのだ。そんな分水嶺が実は誰にも気付かれないようなささやかでちっぽけだったかのような。そして普段は絶対に感じ取れないような変化をいつしか見逃していて、気が付けば通り越していたみたいな気分になる。
ユフィリア:
「あのね、私…………付き合えない」
ジン:
「そうか」
ユフィリア:
「ごめんなさい」
ジン:
「別にいいさ。…………あー、念のために聞いておくんだけど、ギルドはどうする?」
ユフィリア:
「……辞めなきゃダメかな?」
ジン:
「そんなことはないさ。居てくれた方がありがたいとは思ってるし」
ユフィリア:
「うん。なら良かった」
ジン:
「まー、しょうがない。……また誰か、あたまナデさせてくれる子を探さなきゃな?」
ジンは起き上がって膝枕を終わりにしようとしたが、ユフィリアが肩に手を置いてそれを阻止したようにみえた。
ユフィリア:
「そのくらいなら、私にしてもいいよ?」
ジン:
「は? …………そのくらいで済ますわけないだろ?」
ユフィリア:
「そっか、じゃあ、ちゅーとかしちゃうんだ?」
ジン:
「ちゅーだけじゃねぇって、もっと凄いことだってするよ。俺だってもういい年のお兄さんですよ? 性欲だってそれなりにあるんだし」
ユフィリア:
「うーん、そうなんだけど、ちゅーまでにしておいて?」
ジン:
「……えっと? 何をおっしゃってますか、あーた?」
ユフィリア:
「他の子と付き合いたいんでしょ? ちゅーまでだったらいいよ」
ジン:
「ワケがわからん…………おまえ、それ、俺をキープしておきたいとかって意味なわけ?」
ユフィリア:
「んっと、そうなっちゃうのかな?」
あまりの展開に、ジンだけではなくシュウトのあいた口も塞がらない。ユフィリア本人はニコニコと笑っているのみだった。
ジン:
「えっと、なんなの、これ?」
ユフィリア:
「なんだろうね?」
ジン:
「笑うところなのか?…………えっと、もしかしてキスは浮気に入らない人?」
ユフィリア:
「ううん、キスは浮気だよ」
ジン:
「じゃあ、浮気はアリな人?」
ユフィリア:
「まさか。浮気なんて絶対にダメでしょ」
ジン:
「ダメだ、意味がわからん。…………キスはいいんだよな? じゃあニキータを口説くか」
ユフィリア:
「えっ?」
シュウト:
(えっ?)
流石にこれ以上、ギルド内部の人間関係を引っ掻き回すのはやめていただきたいと思うシュウトであった。
ジン:
「カワイイよな、なんかムキになって突っ掛かって来たりするトコとか。しっかりしてそうなのに内面よわそーなトコとか、おっぱいも大きいし」
ユフィリア:
「…………」
膝枕していた脚を引き抜き、落下するジンの頭の左右に手を着くと、ユフィリアはキスをしそうな距離でジンを睨みつけていた。
ユフィリア:
「ニナはダメ!絶対にダメだからね!ダメ!」
ジン:
「あれー? どうしちゃったのかな?」
ユフィリア:
「ニナには手を出さないって約束して」
ジン:
「んー、どうしよっかなー? やっぱそういうのって心がけ次第なんじゃないの?」 ニヤニヤ
ジンの反撃が始まっていた。イヤらしい声色で脅すようなことをいいながら、ユフィリアの頬に手を伸ばして撫でる。近すぎる距離に気が付いた様子でユフィリアが体を起こしたので、ジンも向き直るように座り直した。
ジン:
「ふむ、なんとなく分かってきた感じだけど……、まだ矛盾しててよく分からんな。てか、逆じゃねーの?」
ユフィリア:
「逆って何が?」
ジン:
「ニキータの相手って、俺じゃないの?」
ユフィリア:
「…………!」
動揺するユフィリアに対して追撃するジン。のし掛かるようにしてユフィリアをゆっくりと押し倒す。
ユフィリア:
「ダメだよ」
ジン:
「ちゅーまでならいいんだろ?」
ユフィリア:
「それは、違う話……」
ジン:
「ニキータには手を出さないって約束する」
ユフィリア:
「本当?」
ジン:
「ちゅーはするけど」
ユフィリア:
「じゃあ、今日だけ、だったら……」
ジン:
「あー、でも、ちゅーだけで我慢できっかな? こんなに可愛いと我慢できなくなるかも?」
ユフィリア:
「嘘、だよね……?」
シュウトの方にも、にわかに緊張が走る。こういう状況を止める様に言われていたのだが、どうやって止めればいいのか全く考えてもいなかった。むしろ邪魔しない方が良いのではないか?馬に蹴られて死ぬべきなのは自分? いや、弓を準備してここから仕掛けてみるか? もうさっさと逃げ出すべきでは? 見ちゃ不味くないか? でもちょっと見てみたいような?などと混乱していた。
ジン:
「ユフィ、覚悟を決めろ」
ユフィリア:
「だ、だって…………」
ジン:
「ではっ、いただきまーす♪」
ユフィリア:
「せっ」
ジン:
「せ?」
ユフィリア:
「せきにん、とって……」
――瞬間、沈黙が訪れた。
ジン:
「ぶはははははは! それヤバっ! ばははははは!」
ユフィリア:
「何で、笑ってるの……?」
ジン:
「す、すまん。いやぁ、ユフィリアさんでもテンパるとそんなウブなセリフを言うもんなのな? 責任ってお前。ククク」
ユフィリア:
「もう、やだ!」
ジン:
「いやいや、可愛かったから。 しっかし、お前の責任なら取りたいヤツなんていくらでも……」
取り敢えず危機は回避されたようで、シュウトは浮かしかけていた腰を下ろしていた。顔を真っ赤にして下からジンをポコポコと叩いたりしていたユフィリアだったが、ジンの様子が変なのに気が付いて止める。何かを言いかけたジンの反応がなくなっていた。
ジン:
「そういう、ことか…………」
ユフィリア:
「今度はどうしたの……?」
ジン:
「もしかして、いや、でも」
ユフィリア:
「ジンさん?……ねぇ、ジンさん?」
ジン:
「まだ間に合うか?……ギリギリ、今だったら」
ユフィリア:
「もう! 私の上で考え事しないで!!」
ジン:
「ん? ああ、すまん」
素直にユフィリアの上から退くと、ジンは何やらブツブツと呟きながら考え事を始めてしまっていた。流石のシュウトも、その呟きまでは聞き取れない。
ユフィリア:
「ねぇ、本当にどうしちゃったの?」
ジン:
「うん、ここでやる事が出来た。…………ユフィのお陰だな」
ユフィリア:
「それって何? 教えて? 私のお陰なんでしょ?」
ジン:
「まだ確証はないんだ。教えるのはいいけど、お前ってギルドの仕事で役に立ちたいんだよな?」
ユフィリア:
「うん。そうだから教えて欲しい」
ジン:
「なら、どっちかを選ぶんだ。話を聞いて仕事なしか、話なしで仕事ありか」
ユフィリア:
「両方。ダメなら、仕事」
ジン:
「イイ子だ。……シュウト!!」
シュウト:
「はい!」
遠くから呼びかけられ、木陰で思わず返事をしていた。いつの間にかバレていたらしい。「来い」というジェスチャーをされたため、小走りでジンのところへ移動するのだが、その間にユフィリアの顔が驚愕からゆっくりと冷たいものに変わって行った。
シュウト:
「なんでしょうか?」
ユフィリア:
「へぇ~、シュウト、見てたんだぁ?」ゴゴゴゴゴ
シュウト:
「いえ、それは、えっと……?」
ジン:
「おいおい、許してやれよ、どうせニキータの策略だろ」
ユフィリア:
「ニナが?……どうして?」
毛布をはたいて荷物にしまいながら、ジンがシュウトの援護をする。
ジン:
「どうせシュウトが見てる前なら、俺がスケベな事をしないって読んだんだろ?」
ユフィリア:
「そっか……」
シュウト:
「それって、僕がジンさんにバレバレなのが前提ですよね……?」
ユフィリア:
「それじゃ、ジンさんっていつからシュウトに気付いてたの?」
ジン:
「そりゃあ、追跡で気配を消したトコだろ」
シュウト:
「最初っからじゃないですか」
ジン:
「おまえ、センスが良すぎて最適ルートを選ぶクセがあるからな。結構おもしろかったよ」
シュウト:
「そうですか……」
ジン:
「んじゃ、さっちんをイジメに行くぞ」
ユフィリア:
「…………えいっ」
ユフィリアがジンのお尻に軽くキックを入れていた。ジンは避けなかったが、なぜ蹴られたのか意味が分からない様子だった。